戦国時代。そう呼ばれる時代がある。
古くは、古代中華帝国において、大国晋が、韓、魏、趙の三国に分裂してより、秦帝国が中華統一を果たすまでの期間――いわゆる春秋戦国時代、その後半を指す言葉であった。
秦による統一によって戦国の時代は終わりを告げる。それ以後、中華帝国は幾たびも戦乱の雲に覆われることになるが、戦国という言葉が現れることはなかった。
それは、一つの時代を象徴する言語として、歴史に刻まれることとなったのである。
その春秋戦国の世より幾星霜。
歴史に刻まれ、過去を表す言語となった戦国の名は、中華帝国ではなく、その東に浮かぶとある島国にて、再び歴史に現出する。
応仁の大乱に端を発し、明応の政変にて顕在化した、日本未曾有の激動の時代。後に戦国時代と呼ばれることになる、乱世を指す言葉として。
応仁の大乱、そして明応の政変を語れば、どれだけの言葉を費やすことになるか知れない。
言えることは、この二つの大乱において、足利幕府の威信が大きく損なわれたこと。決して喪失したわけではなかったが、大乱以前のそれと比べれば、その影響力の減退は目を覆わんばかりのものがあった。
そしてもう一つ。中央権力たる幕府の失墜と共に、幕府に拠らない新しい秩序を構築する動きが、各地に現れてきたことである。
中央権力たる幕府の衰退が、地方勢力の伸張を招くことは自明の理であった。それは同時に、幕府朝廷の無為無策により、旱魃による飢饉、野盗による略奪、幕府の威光を笠にきた領主による過酷な収奪等、苛政の下で喘ぐ民衆の切なる願いを背景としたものであり、またそれゆえにこそ、その願いを受けた者たちの力は、増大の一途をたどることになるのである。
曰く。英雄とは、ただ優れた力を持つ者に非ず。其は、民の願いを具現する者である。
時は戦国、常夜の時代。
血と死が転がり、涙、襟を濡らすが日常たる無情の世。
その闇の中を英雄たちは駆け抜ける。
熱く、激しく、猛々しく。それ以上に、華やかに。
戦国の名を、再び過去の時代へと押しやるために。
◆◆
越後国、春日山城。
先の越後守護代、長尾為景の時代に、元々、この地にあった山砦を大規模に改修して出来た城であり、以来、長尾氏の居城として、越後の政治の中枢ともなっている。
守護代とは、その名の如く越後守護の代理という意味である。そして、越後守護、上杉定実は、春日山城にほど近い館に居を構えている。
にも関わらず、どうして守護代の居城が政治の中枢になるのか。その答えは――
「これがいわゆる下克上の世というわけか」
城の一室。
眼下に広がる、初夏の春日山の光景に視線を向けながら、俺はひとりごちた。
下克上。戦国時代を語るには、もはや不可分の関係と言っても良い言葉であろう。
下の身分の者が、上の身分の者に歯向かい、ついには実力でその座を逐うことであり、その代名詞として、北条早雲や、斎藤道三らの名前が挙がる。
この二人は、ほとんど徒手空拳の身から、一国の主にまで成り上がった稀有な例だが、そこまで派手なものではなくても、似たような事例は、日本中いたるところに存在する。
各国守護の下にありながら、力を蓄え、ついには守護を放逐して、戦国の世に名乗りを挙げた者――それはたとえば出雲の尼子経久であり、尾張の織田信秀であり、そして越後の長尾為景である。
これらの人々の名前は、本やゲーム、映画やテレビなどで人々の耳に馴染んだ名前だと思う。少なくとも、俺はその名を良く知っているし、子供の頃には、彼らや、少し後の織田信長、徳川家康、武田信玄、上杉謙信らの本を読み漁ったものである。きっかけは、信長の野望というゲームだったかな。
そう。これらの人を俺は知っていた。知っていたが、それはあくまで本やゲームを媒介にしてのこと。決して、目の前で言葉をかわしたり、ましてや矛を交えたりするような意味ではありえなかった。
――ありえない筈であった、のだが。
「何故だか、こうして、矛を交えているわけだ」
人気のなくなった春日山城の天守閣にあって、俺はここ最近で癖になってしまったため息を再び吐いた。吐くたびに幸運が逃げていくというのなら、多分、今の俺の幸運値はゼロを通り過ぎてマイナスに達していることだろう。それも、地獄の上層に届きかねないレベルで。
だが、それも致し方ないことだろう。
俺の視線の先には、今、まさに城内に突入しようとしている敵軍の旗が見える。
その中でも、一際、高々と掲げられる旗に記されるは、ただ一文字『毘』。
言わずとしれた、戦国時代最強を謳われる越後の竜、上杉謙信の旗印である。
確認するが、城に篭る守り手は俺。攻め手は謙信である。まあ、まだ今の時点では長尾景虎だが、そこは大した問題ではない。若いとはいえ、その将略は、前年の黒田氏謀反の際にもはっきりと示されている。
問題なのは、あの謙信に攻められる立場になっている俺のことである。
城門から城内にかけて、もう守備兵は残っていない。さして時間をかけることなく、謙信はここまでやってくるだろう。
俺を殺しに。
「……ため息を吐くくらい、許されるよな、これ……」
言いながら、またしてもため息を吐く。
どうして、こんなことになったのか。すでにあらゆる準備を終え、することのなくなった俺の思いは、自然、過去へと遡っていった。
唐突だが、この俺、天城颯馬(あまぎ そうま)はこの世界の住人ではない。
このことを口にすると、十人中十人の人が、顔に笑みを浮かべて遠ざかっていってしまうのだが、事実だから他に言い様がない。
年齢は19。性別は男。特技はどこでも寝られること。趣味は歴史の文献を漁ること。
昨今、あちらこちらの大学で、文学部の予算が縮小されたり、廃止の憂き目を見ているが、うちの大学も、その例にもれず、文学部の肩身は狭い。
もっとも、俺にとっては、あまり関係がないことでもある。
別に就職の架け橋として大学を選んだわけではなく、好きな読書を、心行くまで堪能できる環境を求めて入った大学だ。俺が卒業するまでの間、文学部が存続してくれる以上のことは期待していない。
とはいえ、現実は世知辛いもので、苦労の末にようやく入試をパスしたものの、学費やら生活費やらを捻出し、同時に単位を取得するために最低限必要な講義も受けなければならない。
やれバイトだ、やれ講義だと駆け回っているうちに、最初の一年は過ぎてしまったような気がする。
さすがに二年目からは、一年目より要領が良くなりはしたが、それでも想像していたよりも大学生活というものは大変なんだなあ、などといささか当てが外れていたところだった。
それでも、サークルや合コンといったものに血道をあげる友人たちを尻目に、一人、のんびりとキャンパスライフを楽しんでいたおれは、大学二年の春、両親の墓参りをするために郷里の新潟に戻った。
墓参りといっても、実家はすでになく、親戚縁者も皆無であり、墓前に花を添え、無事の近況を報告するだけのものである。
その帰途、春日山城址に足を向けたのは、気まぐれに類するものだった。
冬の寒気は去り、しかし夏の暑熱が訪れていない、一年でもっとも過ごしやすい季節の一つ。春日山を包む緑は、朝日に照り映えるように輝き、青々とした煌きが山全体を包みこむようにみえた。
山の頂きから、緑萌えるその景色に、飽く事なく見入っていたおれの耳に、不意に、澄んだ鈴の音が聞こえてきた。
まだ朝早い時刻である。俺のような物好きが、他にもいるのかと周囲を見渡してみたが、俺以外の人影は見当たらない。
はて、と首を捻ったおれの耳に、再度、鈴の音が聞こえてきた。
何かに導かれるように、おれは鈴の音が響いてきたと思われる方向へと足を向ける。
そして、ほどなくして、おれは復元された毘沙門堂の前に立っていた。
簡素な造りの毘沙門堂の近くには、由来を記した立て札が設置されている。
名所旧跡には良くあることだが、しかし、本堂にも、その立て札にも、鈴らしき物は見当たらなかった。
あの音は、一体、どこから聞こえてきたのか。
おれがそう考えた時、シャリン、と一際強く、三度、鈴の音が鳴った。先の二回よりも、はるかにはっきりとしたそれは、間違いなく何者かが意志をもって鳴らした音であると思われた。
おれは、その音が聞こえてきた本堂に視線を向ける。本堂といっても、容易く全体を把握できる小ささであり、その内側を覗くことも出来るが、そこには当然のように人などいない。
後から思えば、ちょっとしたホラー体験だったのだが、その時は別にそういった恐怖は感じなかった。おれが鈍感だ、というわけではなく、その手の出来事に共通した寒気や不気味さが少しもなかったからである。
むしろ、朝靄けぶる毘沙門堂から鳴り響く鈴の音は、これから何か素敵なことが始まるのではないかという、いささか気恥ずかしい期待を、おれに抱かせたほどであった。
……まあ、それは単なる気のせいだったわけだが、ともあれ、おれは導かれるように本堂の中へ足を踏み入れ、そして。
――戦国の世に、やってきたのである。
◆◆
最初は、何が何だかわからなかった。
時間が経っても、やはり何が何だかわからなかった。
状況がある程度把握できたのは、一体、何日経ってからだっただろうか。
そこに到るまでのことは、涙なしには語れない。だが、男の苦労話なんぞ、語ってもあんまり面白くないだろうから割愛する。とりあえず、異世界に行った人間が、遭遇しそうな状況をそのまんま思い浮かべてくれれば、多分、現実に俺に起きたことと、そうそう大差はないと思う。
異世界。今、俺はそう言った。
繰り返すが、俺がやってきたのは戦国の世。それは、とある人物と、短い旅の道連れになった時、この地の守護が上杉氏であり、守護代の長尾氏が実権を握っていると聞いた時に知った事実である。
その一方で、この戦国時代は、俺の知る戦国時代とは、はっきりと異なる部分があった。それゆえ、ここは過去の世界ではなく、異世界であると俺は表現したのである。
端的に言うと、女性の地位が高いのである。聞けば、守護代の長尾晴景、景虎は姉妹であるというし、隣国の守護職、武田晴信もまた、年若き女性であるという。それ以外にも、色々と差異があることは、後になるに従って明らかになっていくのだが、それは後述しよう。
女性の大名の存在。それは、俺が知る戦国の世を変えてしまうに、十分すぎるファクターであろう。
そも、戦国時代、女性の地位はきわめて低く、その名前すら伝えられていない場合がほとんどであった。
だが、もし、女性が男性と同等とまでいかなくても、それに迫る立場を獲得していたとするならば。
単純に、男性と女性が同じ比率だとすると、俺の知る戦国時代は、全体の半分の人間が闇に埋もれていた計算になる。しかし、女性の地位に光があてられたと仮定すると、歴史を動かす人の力は二倍になる。政治、軍事、経済、芸術、思想、その他、おおよそ人間が関わる事象における可能性は、格段に伸びることになるのだ。その力は、容易く俺の知る歴史を変えるに足るものであるだろう。
もっとも、良いことばかりではないのも、また当然である。男のくせに。女のくせに。そういった感情的な対立は不可避であり、それが騒乱の引き金になることさえあるからだ。
そして、越後の国においても、それは例外ではなかった。先の守護代、長尾為景が没して後、後を継いだ長尾晴景の施政に反発する豪族の多くは、女性である晴景を侮り、その統制に服しようとはしなかったのである。
越後の政情は、いまだ発火には至っていなかったが、しかし、火種は確実に燻っていた。
そして、そんな不穏な空気が、民衆に影響を及ぼすことは必然であったのだろう。
農民たちの視線は険しく、旅人に対する扱いは極めて高圧的なものとなっていたのである。出処不明、目的地不明、おまけに(彼らの目から見れば)奇妙な衣服をまとい、わけのわからない言葉を口にする俺のような人間が現れるには、まさに最悪の時期であったといえる。
目を血走らせ、武器を持った農民たちに追われていた当初、おれの寝床は森の肥溜めであった。鼻の曲がるような異臭さえ我慢できれば、かなり安全だとわかったからである。誰も好き好んで、夜に肥溜めにやってきたりはしないのだ。どこでも寝られるという、非生産的な特技を、はじめて誇りに思えた瞬間であった。
それはさておき、農民とは話さえままならず、大きな街に行こうとしても、各所に設置された関所で足止めされる。それどころか、他国の密偵ではないかと疑われたことも、一度や二度ではない。
自分で言うのもいやらしいが、苦学生だったおれは、一日二日の絶食であれば何とかなる。幾度も経験したことだからだ。
しかし、まともな物が食べられない日が一週間以上続けば、さすがにつらかった。このままでは、本気で飢え死にしかねん、と一念発起した俺は、市が立つとの噂を耳にしたことを思い出し、財布にたまたま入っていた真新しい一〇円銅貨を試してみることにしたのである。
怪しまれたら、即逃げよう、と思っていたのだが、意外にも、これに高値がついた。実際、よく磨かれた銅貨は、光沢を放っており、貧しい農民の目には金銀と変わらぬ輝きを放っているように見えたのかもしれない。
言葉を飾るまでもなく詐欺みたいなものだったが、そこはもう目をつぶることにした。正直、空腹でお花畑が見える状況だったのだから、勘弁して下さい。
代価としてもらった銭で、市で売られていた果物を貪るように腹に入れ、ようやく人心地ついた俺だったが、同時に、周囲から注がれる奇妙にねとつく視線に気がついていた。すでに、服はこのあたりの農家の軒先から失敬した粗末なものに着替えており、見た目には不審に思われないだろう。肥溜めの匂いも、川で洗い流しておいたし。
となると、やはり先の銅貨が原因としか考えられなかった。気がつけば、見るからに人相の悪い男たちが、数人、徐々に俺との距離を詰めつつあった。これはまずい、と判断した俺は、食べかけの果物を二つ三つ懐に入れると、素早くその場を立ち去ろうとする。すでに逃げ足だけはかなりのものになっていた俺だったが、久しぶりの食事を終え、身体がこれまでの疲労に対する休養を強硬に要求して止まず、思うように足を動かすことさえ出来なかった。
結果。財布は渡すまいと抵抗した俺は、身包みはがされた挙句、抵抗の代償として、路上で殴打される羽目になる。
この時代、農民は兵士でもある。その腕力は、軟弱な現代人が及ぶものではない。ましてや複数の男たちに囲まれては、我が身を守ることさえ出来はしない。おれは頭といわず、身体といわず、小突かれ、蹴飛ばされ、泥だらけになって地面に倒れこんでしまった。
薄れかけた意識の外からは「殺す」「奴隷」「邪魔」「お宝」等、どう考えても暗い未来しか浮かばない単語ばかりが飛び込んでくる。
だが。俺が意識を手放そうとする、まさにその寸前、それらの声が一変し、何やら慌しい雰囲気が伝わってくる。
「無礼者」「守護代」「馬前」「下民」といった、さきほどとは別の意味で不穏な言葉が飛び交う。
それらの声を聞きながら、ついに意識を手放したおれの耳に、一際大きな声で、こんな言葉が響いた。
「長尾晴景」と。