七月十八日(3)
「風を正面から切って突き進むこの感触っ! もう最高だなぁー!」
「いや死ぬ死ぬ死ぬマジ死ぬって! 法定速度三倍超えてるってぇぇぇ!」
風力発電のプロペラが立ち並ぶ道路を二人乗りのバイクが異常な速度で走り抜ける。
車体の僅かな隙間を潜り抜けて牛蒡抜きし、急なカーブを曲がる度に少女の悲鳴が木霊するが、聞き届ける者は運転者の少年しかいない。
速度を示す針は一八〇を指し、今尚上がり続けている。
後ろで喚く少女、御坂美琴が確認する限り、運転者である赤坂悠樹は信じ難い事に唯一度もブレーキを踏んでいない。いつも以上に頭のネジが吹っ飛んでいた。
「舌噛むぞ? 学舎の園に到着してからの事だが、オレは外を探すからその点宜しく。多分、あのテロリスト風情もオレ達の分断が狙いだろうしね」
二手に別れさせて各個撃破という事は、前提として敵が二人以上という事になる。
美琴は体全体に掛かる重圧に耐えながら、何でコイツは敵戦力を冷静に分析出来るほど余裕があるのか、ある種の理不尽さに苛立ちを募らせていた。
「うぅぅっ、敢えて掌の上で踊るっての!?」
「今だけな。振り回されるのは趣味じゃないし」
何台目か解らない車を追い抜いたその瞬間、甲高いサイレンが鳴り響いた。
追い討ちを掛けるかの如く輝くは赤色灯であり、風紀委員と双璧をなす治安組織の警備員が運転する高速車両だった。
『――其処の暴走単車止まれぇ! 警備員の前で突っ走るたぁ良い度胸だぁ! しかも何の冗談か風紀委員の腕章付きじゃんよ!』
備え付けの拡張期から女性の声が喧しく鳴り響く。美琴が悠樹の腕章を見て今更「あ!?」と呟く中、悠樹はその事とは別に「チッ!」と忌々しげに舌打ちした。
「この奇妙な語尾は黄泉川かぁ!? おのれ、またしてもオレの覇道に立ち塞がるか……!」
「ちょっとどうすんのよぉ! 捕まったら間に合わないわよ!?」
驚異的な猛加速で追い上げてくる悪夢めいた高速車両を見ながら、美琴は焦りながら絶叫する。
もし、指定した時刻に間に合わなければ、その時は明日の一面に無差別テロ事件が大々的に載る事になる。
犯人側がどれだけ本気かは、前世代とは言え、まだまだ現役の軍用対物狙撃銃を調達した辺りから窺える。何が何でも遅れる訳にはいかないと意気込むのは当然だろう。
悠樹は首だけ振り返り、ヘルメット越しからでも解るように笑って見せた。
本来ならば「安心しろ」という心強いニュアンスなのだろうが、両頬が露骨に釣り上がって口元が三日月の如く歪んだ狂気が見え隠れする表情に、美琴は言い知れぬ悪寒を覚えた。
「決まってるだろ。カーチェイスってのはな、逃げ切れば無罪放免なのさぁ!」
「少しは法と秩序を守りやがれ不良風紀委員オォオオオオォ!」
美琴の切実なる言葉は虚空に掻き消え、エンジンが織り成す猛烈な加速音が轟いた。
斯くして風紀委員と警備員の異色のカーチェイスが開始されたが、初速では悠樹側のバイクが大幅に上回っているだけに、警備員の高速車両と言えども簡単には追いつくまい。
何だかんだ言って、悠樹の運転技術は良い意味で常軌を逸している。この馬鹿げた速度を完全に制御している。
(このままミス一つ無く走り続ければ、何とか逃げれるかな?)
美琴が速度に慣れて安心し始めた反面、悠樹は内心焦りを感じていた。
あの高速車両に乗っている警備員、黄泉川愛穂は相手が死ななければ何でもする女だ。
追いつかれたら最期、映画の如く壁際まで寄せられ急停止させられるか、悠樹でも考えられない手段を強行して来るだろう。何方かと言えば後者が恐ろしい。
(ったく、人が珍しく真剣(シリアス)に仕事しているのに滑稽(コミカル)に処理されて堪るかっ)
何度目かの急カーブを曲がり切り、橋に差し掛かる。
直線にして一〇〇メートル、前には不思議と邪魔な車は一切無く――橋を抜ける寸前の道路に、巨大な円筒形のバリケードロボットが黒いネットを路上に敷きながら転がる。
その傍に、他の警備員の高速車両が何台か急停止して待ち構えた。
「封鎖されてるわよ!? 路面に何か設置しているし! でも、あれぐらいの隙間なら突破出来なくも――」
「無理。あれは通過すると蜘蛛の巣の如くタイヤに巻きついて、中に張り巡らされたスパイクでパンクさせる優れ物だ――が、他に道があるのにご苦労なこった!」
「他? 何処にそんな道があんのよ!? どうみても一本道じゃない……!?」
前は獲物を待ち伏せる蜘蛛の巣状態、後ろには黄泉川愛穂の高速車両が追い上げて差を詰めつつある。
前門の虎、後門の狼。こんな切羽詰った状態でどんな活路があるのか、御坂美琴はパニックになる。
「もっと強く掴まれ、振り落とすぞ!」
「自発的に落とすんかい! って、一体何を――!?」
その瞬間、御坂美琴は奇妙な感覚に襲われた。今まで瞬く間に通り過ぎていた景色が驚くほど緩やかになる。
脳内物質の分泌による特異な現象の原理云々はともまく、今ならば赤坂悠樹の一挙一動まで見極められる。彼が選択した道は前でも後ろでもなく――在ろう事か、真横だった。
(――はいぃ!?)
角度にして綺麗なまでに九十度、今までで最高の曲がりに車体が限界まで地に近寄る。
路面に髪の毛が接地した感触に美琴は身震いし、後ろからその間々の速度で突っ込んできた高速車両を目の当たりにして全身が凍りつく。
――まずい。ぶつかる。バイクの後端の無駄に出っ張った部分がぎりぎり当たる。こんな馬鹿げた速度の中、掠りでもしたらバランスが完全に崩れて事故になる。
幾らなんでも、こんな速度で投げ出されたら生命は無い。他の超能力者ならいざ知らず、御坂美琴の発電能力ではどうにもならない。
(――っ!)
――バイクの後頭部と車両の先端が激突する寸前、車両の速度が僅かに遅くなり、擦れ違う。
最悪の結果だけは回避した。その間々突き進んだバイクの前タイヤが歩道の段差を勢い良く踏み越え――誇張無く飛んだ。歩道どころか橋の手摺さえ通り越して。
重力の束縛から解き放たれて眼下に映ったのは、広大な河川だった。疑いようの無いぐらい、落下コースに入っていた。
「いいぃぃやああああああぁぁぁぁ!? 飛んだ浮いた落ちてるぅぅぅ!?」
現状を的確に言い切る美琴の悲鳴に、意外と冷静なんだなぁと悠樹はのんびり思った。
慣性に従ってバイクは落下し、水面に苛烈に激突する。撒き散る水飛沫に、車両から飛び出してきた警備員達が「あーあ」と唖然とする。
だが、一人だけ慌てて駆け寄った黄泉川愛穂は「チィ、逃したぁ!」と悔しげに歯軋りした。
長点上機学園の風紀委員であんな暴走行為をする者には一人心当たりがあり、その問題児が水に沈没するという滑稽な結末を辿るとは決して思えず――実際に何とかなっていた。
「ブゥラボォオオオォ――!」
やたらハイテンションな叫び声と共に、爆発したように水飛沫が晴れる。
其処から猛加速で飛び出したのは二人乗りのバイクの車体であり、在り得ない事に水面の上を路面の如く走行していた。
後輪のタイヤから飛び散る水飛沫が酷く印象的であり、学園都市は遂に水陸両用の自動二輪車を開発したのかと、残された警備員達はぽかーんと口を開けた。
「ふふっ、はぁーっはっはっはっ! 水上に道路規制法は適用しまい! あーばよ、とっつぁん! そしてさらばだ明智君、また会おう!」
「アンタは何処の怪盗三世で怪盗二十面相だぁー!? 絶対寿命縮まった! 殴る、降りたら絶対殴るから覚えてやがれぇええぇ!」
暴走したように甲高い笑い声と怒りが籠った悲鳴が不協和音を奏でる中、高速船の如く突っ走る単車を警備員達は見届けるしかなかった。
「痛い痛い、あの程度で酔うとはお子様だなぁ。それに淑女としての嗜みも足りないと愚考するが?」
「事件終わったらもう一発ぶん殴るから覚悟してろ!」
右頬を痛々しげに押さえ、悠樹は笑顔で手を振りながら怒れる美琴を見送る。
連絡の為に携帯の電話番号を交換した直後に、本気の右ストレートで殴ってくるとは流石の悠樹も思わなかった。腰の入った良いパンチで、喰らった瞬間に電流が走ったような感触が走ったのは気のせいだと信じたい。
「さて、と」
巫戯山るのもさておき、悠樹は欠伸しながら背伸びする。
今回の敵は探すまでも無く、正面から隠れる事無く堂々と訪れた。
何の変哲も無い常盤台中学の少女であり、戦う前から息切れしているなど、その無防備な挙動に悠樹は目を細める。
「貴方が赤坂悠樹さんですよね? 風紀委員で超能力者の第八位の!」
「……ああ、そうだが?」
自分から敵ですと自白しているようなもので、悠樹は毒気を抜かれる。
多く見積もっても大能力者風情が『幻想御手』を使ったぐらいで超能力者を無策で正面から打ち破れるなど夢想しているなら、その思い上がりごと叩き潰す気概でいるのだが、目の前の少女は敵意が欠片も感じられない。
まさか関係無い一般人なのでは、いや、それを装って油断した隙を、などと悠樹があれこれ深読みする最中、常盤台の少女は眼を輝かせてこう言った。
「貴方も僕と同じオリ主なんですね! 良かった、心細かったんですよ!」
「……オリシュ?」
今まで一度も聞いた事の無い単語で、頭の中でも漢字に変換出来ない。
オリシュとは何かの暗号、それとも能力名、または極秘の組織名なのだろうか。同じ、という事は自分と何らかの共通点が無ければいけない訳で、目の前の少女を穴が開くほど凝視しても何一つ見出せない。
悠樹が浮かべた怪訝な表情を見て、少女は良く言えば親密そうに、悪く言えば妙に馴れ馴れしく笑いかけてきた。
「まぁた惚けちゃって。オリジナル主人公の略称ですよー。申し遅れました、僕の名前は山川幸平と言いまして、気づかぬ内に常盤台のこの娘に憑依しちゃったみたいなんですよ、今流行りのTSですね!」
この普通ぽい少女から発せられた言葉は異次元過ぎて悠樹は理解に苦しむ。
疑問その一、オリジナル主人公が何を示すのか、全く解らない。赤坂悠樹もそうだと断定しているが、演劇などに関わった記憶は欠片も無い。恐らく勝手な勘違いか何かだろう。
疑問その二、何で名乗った名前があからさまなまでに男性名なのか。山川幸平なる名乗りが自称で、性同一性障害なのだろうか。
疑問その三、憑依した事が今流行りのTS(ティエス)であるらしい。憑依という言葉を態々使う事から、幽霊なのだろうか。非科学的な、と悠樹は即座に切り捨てる。何か別の言葉の置き換えなのだろう。
TSにしても、自動車のナンバープレートで国際ナンバーにつけられる地名(徳島県)の略称なのか、イタリアの県名略記号なのだろうか、タイムストップとかトラックステーションの略称なのか、他に十以上の候補が立ち並ぶが答えは出ない。
内心混乱する悠樹を余所に、その少女は空気を読まずにマシンガンの如く喋り出した。
「いきなり禁書世界で一体どんな死亡フラグだぁと混乱しましたが、原作にいない第八位の超能力者がいるって事でぴーんと察しが付きましたよ。僕と同じような身の上なんだなぁって! でも、こっちがレベル3なのにレベル5なんてチートすぎて羨ましいっす! 最強系主人公って最高ですよね、はい! ところで自分は憑依系ですけど、赤坂さんも同じですか? それとも転生系?」
妙にハイテンションな少女を、悠樹は絶対零度の視線で見ていたが、生憎な事に気づかない。
いい加減、話に付き合うだけ無駄だと悠樹は気疲れしながら悟る。
現実と空想の区別が付かない電波娘という事で、そろそろ物理的に黙らせようかと思案した時、向かいからもう一人の少女が現れた。この少女もまた常盤台の制服を着ており、あの電波娘と同じように息切れしていた。
「――見つけたわ!」
「げげっ、また貴女ですか! しつこいですねー」
まさかコイツも同類じゃないだろうな、と悠樹は危惧する。
二人は学園に八人しかいない超能力者を無視して、白熱して盛り上がっていく。
「五月蝿い。明海を、明海を返せぇ!」
「いや、返せも何も無理なんじゃないかなぁと。僕も何故こうなったか解らないですし」
この後から来た少女の叫びから、悠樹は一つの推測を打ち立てる。それと同時に敵の能力者がこれほど悪辣極まる手口を用いた事に戦慄する。
悠樹は二人が口論している隙に電波娘の背後に忍び寄り、押し倒して手早く手錠を嵌めて拘束する。
「な、何をもががが……!?」
最後に、自害させない為にハンカチを押し込んで完成する。咽喉を詰まらせて窒息死しないよう、匙加減が大切である。
もう一人の少女が驚愕して色々と引いている中、悠樹は極めて冷静に、丁寧に尋ねた。流石に痴漢扱いや強姦魔扱いされるのは嫌である。
「質問するが、コイツが山川幸平と名乗る男で、または性同一性障害とかで、普段からこうラリって電波撒き散らしている奇怪な人格なのか?」
「い、いえ、断じて違います! 本名は美空明海で、昨日の夜は普通だったのに、今朝からおかしくなったんです! ああ、一体どうすれば……!?」
拘束されながらじたばた暴れる電波娘を抑えながら、悠樹は自分の推論が正しかったと納得する。
「落ち着け。状況から推測するに、極めて悪質な精神感応系の能力で異なる人格を埋め込められた可能性がある。話に統合性が無く、現実を架空の世界と誤認している雑で御粗末な具合がその証明だろう」
「そ、そんな……! 明海は元に戻るのですか!?」
人格一つ丸々埋め込めるような精神感応系の能力者には流石に心当たりは無いが、能力の強度を上げる『幻想御手』が氾濫する中、そういう能力者が生まれる可能性も無いとは言えない。
切実に詰め寄る少女に手応えを感じながら、悠樹は安心させるように柔らかな笑顔を浮かべる。
彼の実情を知っているものが見れば寒気が走るほど奇怪な顔だが、迷える子羊状態の少女には救いを差し伸べる神(詐欺師)に見えた。
「心配には及ばない。君は常盤台中学の生徒なのに忘れているのか? 学園都市の第五位『心理掌握(メンタルアウト)』の存在を。史上最強の精神系能力者と名高い彼女ならば乱造品の人格ぐらい跡形無く消去出来るだろう」
下に這い蹲る電波娘が「むーむー!」と必死に何かを訴えているが、悠樹と彼女は当然の如く無視する。
光明を得た少女は、何故か持ってきた縄で電波娘を更に縛り上げ、身動き一つ取れなくなった彼女を軽々背負う。
その細い体に何処に力があるのだろうか、という悠樹の疑問は面倒だから良いやと遥か彼方に放り投げられた。
「何から何までどうもありがとうございます! それでは私はこれでっ!」
眼にも止まらぬ速度で少女は立ち去った。途中、何処かの男子生徒が擦れ違い間際に当たって転んだが、少女は気づかずに行った。
外と学舎の園を隔てる場所に、自分以外の男が何故いるのか不審に思うと同時に、悠樹はその男のポケットから落ちた拳銃を見て、即座に敵と判断する。
あのテロリストと関係無くても取り締まる必要のある馬鹿である。
「……ど、どうも、こんにちわぎゃ――!?」
この男が異なる人格を埋め込んだ精神系の能力者の可能性があっただけに、悠樹は男の頭部を鷲掴み、容赦無く地面に叩きつけて潰した。
どうしようもないほどドジで馬鹿だったが、恐ろしい相手だった。悠樹は額に流れる冷や汗を拭った。
「もしもし。此方は片付けたが、其方は?」
『黒子と合流して探してるんだけど、出て来ないわ。深読みし過ぎたかしら?』
二手に分断したからには、と悠樹も美琴も思っていただけに意外な報告だった。
片方だけに戦力を集中させたのか、相手が常盤台のエースである御坂美琴だと知って戦意喪失したのか。
何方とも言い難いが、この場に戦力を残すのは得策じゃないだろう。
「先程奴から電話があった。次の場所は『セブンスミスト』、時刻は六時ジャスト。ご丁寧に爆破予告まで付けて来やがったぜ」
『……まさか振り出しに戻るとはね。佐天さん、もう帰っていれば良いんだけど』
「事前に止めりゃ問題無い。セブンスミストで合流しよう」
『ええ、解ったわ』
御坂美琴と通話終了後、悠樹はすぐさま違う相手に電話を掛ける。
その相手は律儀にも一コールで出た。
「オレだ、結果は?」
『今連絡しようとした処っすよ。該当者は一人、荒川重典だけっすね。で、居場所の方なんですけど第一五学区の北西端にある廃棄された放送施設で、詳しい地理はメールで確かめて下さい』
風紀委員の一人である彼は相手の声を聞くだけで対象の心理を解析し、読心能力に近い事を出来る強能力者である。その能力精度は携帯越しの声でも正確に読める。
その能力の使い勝手の良さから悠樹は重宝し、その能力から人に疎まれていた彼にとって、平然と自分を使いこなす赤坂悠樹の存在はまさに天恵だった。
「そうか、ご苦労だった。この件に関しては他言無用だ。どうせすぐ無かった事になる」
『あいさ、了解っす。またの電話をお待ちしてますぜー』
ぱたん、と携帯を閉じた悠樹は深々と溜息を吐いた。
第一五学区は第七学区の隣にあるが、北西端を目指すならばこのバイクがあっても遠すぎる。
「――間に合わないな、こりゃ」