「――オリ、ジナル? 嘘、でしょ?」
第九複写の震える声に答える者は誰もいない。
倒れ伏した赤坂悠樹から血が広がっていく。それを見下ろす麦野沈利は奥歯を砕けんばかりに食い縛り、溢れんばかりの怒りを込めて叫んだ。
「――今度は、今度はッ、勝ち逃げかァ……!」
――麦野沈利は潔癖なほどの完璧主義者だ。一つのミスも認めず、完璧でなければ納得しない類の人間である。
それ故に、超能力者である彼女を軽くあしらった赤坂悠樹の存在は許せなかった。自分より序列が低い分際で己を格下と見なすなど、絶対にあってはならない事だった。
この人生で最大の屈辱は己が手で赤坂悠樹を抹殺する事でしか晴らせない。この事に限り、他の代償行為など在り得なかった。
「退い、て! 今、アンタに構っている暇は……!」
御坂美琴は気合だけで立ち上がり、指先に乗せたコインを怒りで放心する麦野沈利に向ける。
先程のダメージが抜けず、指先が震えて照準が定まらない。仮に超電磁砲を撃ち出せたとしても見当外れの場所に飛んでいくだろう。
だが、今、麦野沈利を止められるのは御坂美琴だけだ。第九複写には超能力者への対抗手段が無く、白井黒子は気を失っている。
敵対して手酷くやられたと言えども、赤坂悠樹を見殺しには出来なかった。
――あれだけ頑張った奴が報われないのは、きっと間違っている。
無償の献身には然るべき報酬を、悲劇の先には喜劇を、それが御坂美琴が信仰する正しい物語の姿だった。
「……ぇ」
「え?」
「間に合わねぇよ……! 救急車呼んで来るまで今から五分か? 十分か? 其処まで持たねぇよッッ!」
まるで泣き出しそうな顔で、麦野沈利は感情の赴くままに絶叫する。
麦野沈利は学園都市の暗部の人間だ。人の死など見飽きるほど見てきた。倒れ伏した赤坂悠樹を一目見て、その直感が告げている。
――もう絶対に助からない、と。
恐らくは限界を度外視して能力を使用し、そして彼女の見立て通りに、逃れられぬ破滅を迎えたのだろう。
停滞させていた力場の制御を手放してしまい、赤坂悠樹の内部はミキサーで掻き混ぜたような凄惨な状況に至っている。
即死していない事がもはや奇跡であるが、一瞬で死ぬか数分後に死ぬかの違いしかない。
赤坂悠樹の死は、彼女の生涯最大の屈辱を晴らす機会が永遠に喪失する事を意味する。死んでしまっては殺せない。死体を幾ら壊しても、まるで意味が無い。
他の代償行為など存在せず、帳消しにも出来ない。この汚点は永遠に刻まれる事になる。
(クソ、クソクソクソクソクソクソクソォ――! 何か方法はッ!? ある訳ねぇだろ……! こんなの科学じゃどうにもなんねぇよ……!)
果たしてこの学園都市に、今の赤坂悠樹を救える能力者が存在するだろうか? もし、存在していたとしても、それが偶然通り掛かる可能性など在り得るだろうか?
学園都市で八人しかいない超能力者の頭脳をもってしても、赤坂悠樹が助かるには『奇跡か、魔法でも無い限り不可能』という滑稽な演算結果に至る。
科学の最先端を行く学園都市の住民が、常に否定して嘲笑する超常現象(オカルト)に頼らざるを得ないなど、諦めと同意語だった。
「――あっ。あの時の赤い人!」
――そしてこの日、科学と魔術の道は確かに交差した。
この日以前に、別の形で交差していたのならば、この奇跡は在り得なかったかもしれない。
「ちょい待ちっ! こんな真夜中に堂々と出歩くたぁいい度胸じゃんよ――って、赤坂!?」
「黄泉川先生、待ってくださいよ~! ……とと、一体何事ですか?」
・八月二日(1)
その日の早朝、垣根帝督はとある病院に足を踏み入れた。
病院に赴いた理由は自身の十日前の負傷からでは無い。学園都市の裏で暗躍する暗部組織『スクール』の同僚から齎された一報が原因だった。
(……暗部の連中を悉く蹴散らすのは予想通りだったが――)
その理由を思い返した瞬間、垣根帝督は苛立って憤り、冷静でいられなくなる。
ただでさえ普段から人を寄せ付けない危険極まる雰囲気を醸し出す彼だが、今日は「触れた瞬間に爆発するのでは?」という危惧を見知らぬ人達に抱かせるほど切羽詰っていた。
「すみません、赤坂悠樹様の病室は現在面会謝絶でして……」
「親友の危機に駆け付けずして、どうして友を名乗れようかっ!」
受付から騒がしい声が鳴り響く。そう、病院の受付嬢の口から出た『赤坂悠樹』だ。
学園都市に八人しかいない超能力者の一人で、序列こそ一番下の第八位だが、第二位の垣根帝督を特定の状況下で下した事のある、彼にとって因縁深き人物だった。
(あん? アイツはあの時の――)
受付で暑苦しく詰問している少年は旭日旗のTシャツに白い学ランを羽織っており、二日前に見た事ある面構えだった。
むさ苦しい熱血漢など関わりたい類の人間ではない。帝督は暫く静観する事にした。
(……コイツら、いつまで続けてやがるんだ……!)
受付と彼のやり取りは不毛で終わりが見えず、苛立ちが頂点に達した垣根帝督は遂には我慢出来ずに後ろから割って入った。
「――此処で無駄死にするか、部屋の号室を教えるか、好きな方を選ばせてやる」
脅迫された受付嬢は彼が第二位『未元物質(ダークマター)』である事を知っている。患者として通院していたから、当然と言えば当然である。
彼女は動揺する素振りさえ見えず、本当に仕方ないなぁという表情で部屋番号を伝えた。実に不貞不貞しい態度だった。
垣根帝督は「いい根性しているなぁ」と神経を逆撫でされながらも、一直線に病室に向かおうとする。その際、関わり合いたくなかった彼と目が合ってしまったのは不運以外何物でもない。
「むっ、お前はあの時の! ……誰だっけ?」
「……垣根帝督だ」
「オレはナンバーセブンこと削板軍覇だ! ……そうか。お前も悠樹の事を心配で来た性質か? うむうむ、アイツは良い友を持ったものだ」
「……は?」
削板軍覇と名乗った彼は、垣根帝督の理解の及ばない生物だった。
(ナンバーセブン? まさかコイツが第七位なのか?)
確かに二日前に受けた攻撃は普通では無かったが――こんなふざけた奴が自分と同じ超能力者なのかと今一度自分に問い詰め、垣根帝督は敢えて考えないようにした。
不本意ながらも一緒に病室に赴く形となり、帝督の内に溜まった鬱憤は更に積もるばかりである。
垣根帝督は「――くたばり損ないの赤坂悠樹を嘲笑いに来た」と、自分に言い聞かせるが、あの外道がそう簡単にくたばるとは到底思えない。
今回の一報も、不穏分子を炙り出して返り討ちにする類の意図的な誤報かもしれない。性根が完全に腐っている赤坂悠樹なら在り得る事だと垣根帝督は分析する。
程無くして、二人は赤坂悠樹の病室の前に辿り着いた。
「――どういう事よッ!?」
廊下にも鳴り響くほど甲高い女の声には聞き覚えがあった。
垣根帝督は『面会謝絶』という札が貼られた扉を構わず開ける。
一人専用の病室には彼もお世話になったカエル顔の医者と、声の主と思われる第三位『超電磁砲(レールガン)』の御坂美琴、取り巻きの風紀委員の少女、包帯だらけの第四位『原子崩し(メルトダウナー)』の麦野沈利、赤坂悠樹と瓜二つの少女、そして――死んだように眠っている第八位『時間暴走(オーバークロック)』の赤坂悠樹がベッドの上に居た。
「面会謝絶の筈だが、君達も彼の友人かね?」
「親友だっ!」
「……テメェは黙ってろ」
削板軍覇の暑苦しいノリについて行けず、頭痛を感じながらも、帝督はカエル顔の医者に無言で説明を要求する。
「検査の結果、腕の欠損以外の異常は見受けられなかった。原因不明の昏睡状態、現状ではそれしか言えない。――能力を暴走させたようだね」
カエル顔の医者が最後に付け出した一言で、垣根帝督は現状の深刻さを察する。
「彼がいつ目覚めるか、それは僕にも解らない。もしかしたら一日後かもしれないし、一年後かもしれないし――或いは、一生目覚めないかもしれない」
あれだけ強大な『悪』を誇った少年は、今はこんこんと眠り続けている。
――遣る瀬無かった。超能力者の中でも別格である第二位の垣根帝督に追随出来るのは、第一位の『一方通行(アクセラレータ)』と、第八位の彼のみだった。
「……甘ぇんだよ、テメェは。筋金入りの悪党の分際で、弱者守って善人気取りか? ハッ、だからこうなるんだよ」
「ッ! アンタ、そんな言い方は――!」
目元に涙を浮かべながら、御坂美琴が食いつく。風紀委員の少女も、彼と瓜二つの少女も涙を浮かべながら、果てには麦野沈利すら批難の視線を差し向ける。
唯一人だけ、背後に居た削板軍覇だけが彼の震える握り拳に気づき――
「――人の病室で喧しいわ。少しは快眠していたオレの迷惑を考えろよ」
心底不機嫌だと言わんばかりの表情で、昏睡状態と宣告された筈の赤坂悠樹は半分だけ目を開き、欠伸をしながらそんな事をのたまった。
「オリジナル……?」
「おはよう、諸君。お見舞いに来たからにはチョコレートの一つや二つぐらい用意しているよな? 人道的に考えて」
その傲慢な態度は確かに彼そのものであり、病室は暫くテンヤワンヤの大騒ぎとなった――。
「無意識の内に能力を行使したようだね? 目覚めるまで時間を進めたのか、未来の結果を過程を飛ばして持ってきたのかは判断出来ないがね?」
ベッドの端で眠る第九複写(ナインオーバー)の頭を残った左手で撫でながら、赤坂悠樹はカエル顔の医者から本当の診察を受ける。
今回の事件で消費した時間は計り知れない。赤坂悠樹に許された余命は、驚くほど僅かだった。
「……先生。もう少しだけ、生きてみようと思います。せめて、コイツが幸せに暮らせるようになるまでは――」
「――厳しい戦いなるぞ。君がやろうとしていた事よりも」
そんな事まで見抜かれていたのかと、悠樹は自嘲する。
そして真剣な表情の『冥土返し(ヘブンキャンセラー)』に顔を向け、悠樹は穏やかな表情で首を横に振った。
「そんな顔をしないで下さい。自分は自分の天寿を全うするだけです。人より遥かに短いというのは別問題ですよ」
――事実、彼には赤坂悠樹の絶望的な運命を解決する手段を持っている。
彼自身も禁忌とした研究の成果を使えば、赤坂悠樹の寿命問題を解決する事だって可能だろう。
それでも赤坂悠樹は頑なに拒否する。
彼の医者としての矜持を穢してまでそれを望もうとは思えないし、それは自分を自分として構成する要素に全く必要無いものだと、誇らしげに胸を張る。
生命は有限だからこそ輝ける。だからこそ、一瞬に満たない時間だとしても、全力で駆け抜けるだけだ。
「全く、君はどうしようもない患者だ」
「それは此処に運び込まれた当初から解っていた事でしょ?」
患者と医者は笑い合い、医者は次なる戦場に向かい、患者は眠り続ける二人目の妹に眼をやる。
そして、窓の外、遥か彼方に視線をやり、静かに独白した。
「――ごめんな。少しだけ、逝くのが遅くなる。代わりに土産話を沢山用意するからさ、それで勘弁してくれよ」