七月二十日(7)
――赤坂悠樹にとって、死んだ双子の妹という存在を一言で表現するなら『空気』だった。
それは存在感が薄いという意味では無い。
何処ヘ行くにしても一緒なのが当たり前、居て当然であり、自分という基盤を確立させる上で絶対に無くてはならない存在だった。
母の胎内で別れた半身を我が身以上に愛しく思い、悠樹は兄として相応しく振舞おうといつも背伸びし、妹はいつも無茶する兄を支え合った。
だから、あって当然である『空気』が無くなれば窒息死するのは当然の結末であり、そういう意味では、赤坂悠樹は十年前から死んでいる。
妹を目の前で殺されたその時から、悠樹の未来は鎖され、生きる目的を完全に失っていた。自分の生きる価値そのモノを見出せずにいた。
失意の内に学園都市に捨てられ、地獄のどん底にいた赤坂悠樹が自身の能力を把握した時、その身に渦巻く憎悪を糧に、一つの明確な目的を持って行動を始める。
ただそれは、果たせれば果たす程度のものであり、全身全霊を費やす理由には成り得なかった。
いつ死んでも構わない、というよりは、早く死んでしまいたい、というのが概ね正解だった。
自身の能力を限界まで行使する時、間近に迫った『死』は何よりも魅惑的だった。
自殺願望は余り無いが、生きたいという願望もまた限り無く薄かった事もある。十年前から続く、終わらない悪夢の日常に終止符を打てるのならば本望と言えよう。
――それでも『特力研』から抜け出した後の一年は、まるで夢のような日々だった。それだけは強く断言出来る。
自身の『時間暴走(オーバークロック)』の限界を軽く踏み外し、瀕死の重傷であの医者が待つ病院に送られたのが人生最大の転機だった。
患者に必要だという理由で何から何まで世話になり、長点上機学園の入学手続きと風紀委員(ジャッジメント)への志願書さえ用意された時には、カエル顔の医者が本当に能力開発を受けていない無能力者なのかと強い疑念を抱いたものだ。
警備員(アンチスキル)の黄泉川愛穂との腐れ縁もこの時期からだった。
長年悪い意味で世話になった『特力研』を解体して貰う際、猛烈に情報提供し過ぎたのが運の尽きであり、以後、頭が上がらなくなった。
風紀委員(ジャッジメント)として適当に活動しながら生きる目的を探し、それと同時に、憎悪を糧に抱き続けた一つの目的の為に更なる力を追い求めた。
普通の学園生活に違和感を覚えながらも、様々な事件に巻き込まれながら力尽くで解決したり、第七位の削板軍覇と馬鹿みたいに喧嘩したり、とにかく毎日が破茶滅茶だった。
風紀委員の事も面倒な事が沢山だったが、それなりに楽しかったと思う。
――結局、何も掴めぬまま、何も果たさぬまま、此処で朽ち果てる。
所詮、この程度が自分の器だったのだろう。赤坂悠樹は潔く諦めた。やれる事は全部やった、その果ての終焉ならば文句は無いだろう。
それなのに、何で今際の際に死んだ妹の顔ではなく、御坂美琴や白井黒子の顔を思い浮かべてしまったのだろうか――?
御坂美琴の方は大丈夫だろう。木山春生から『幻想御手』の支配権を奪うという最高のお膳立てをしてやったのだ。問題無く確保出来ただろうし、『スクール』のメンバーに妨害されても垣根帝督以外が相手なら簡単に蹴散らせるだろう。
――ふと、此処で心残りを一つ見つけてしまった。
彼女には風紀委員を名乗ろうが警備員を名乗ろうが、どんな奴にも木山春生の身柄を引き渡すな、と言ってしまっていた。
それら二つの治安組織は学園都市の上層部に抑えられ、暗部の何者かが警備員を装って木山春生の身柄を無条件で奪取する事への対策だったが、御坂美琴には本物かどうか見分ける手段が無い。
本物に対しても抵抗してしまっては本末転倒であり、協力してくれた彼女を犯罪者にしてしまう。笑えない話だった。
白井黒子にしても、朗報を期待しろと大口を叩いてしまい、それで自分が死んだと伝われば一生後悔するだろう。――誰かの死を背負うのがどんなに重いか、それを身を持って知っているだけに忍びない。
それに今回総動員した風紀委員にしても、トップに立っている自分が不審な死を遂げれば不用意に暗部を探る者が出るかもしれない。無駄に正義感が強いだけに、いずれも不慮な結果になるだろう。
ついでに言えば、削板軍覇との勝負は負け越しており、そのまま終わりという結果では非常に気に食わない。
――何も背負わないように生きてきたつもりだったが、いつの間にかこんなにも背負っていた。
その歪で巨大な胎児を見た瞬間、垣根帝督は自身の能力の本質を知った。
この世界の何処を探しても見つからなかった正体不明の素粒子、『未元物質(ダークマター)』が一体何だったのか、何処から引き出されたのか、そしてその意味を――。
「ははっ! ははははははははははははは!」
今まで体感した事の無い、途方も無いほどの力が暴走するように漲る。この神が住む天界の片鱗を、帝督は完全に掌握している自覚がある。
――最早、出来損ないの超能力者である第八位など敵では無かった。否、今この瞬間をもって第二位と第一位の順位は逆転したとさえ垣根帝督は確信する。
それは主観的な思い込みなどではなく、極めて冷静で客観的な感想だった。今なら第一位の『一方通行』を含む、学園都市の全ての能力者と敵対しても無傷で勝利し得る。それほどまでに偶然手にしたこの力は絶対的だった。
最初に眼に付いた悠樹に六枚の翼を叩きつけたのは、単に一番手頃な実験対象だったからであった。
もはや戦略兵器と化した六枚の翼は動くことすらままならない赤坂悠樹に殺到し、そして――。
「――今のお前になら殺されても良いと思ったんだがな。駄目だな、全然駄目だ」
溢れ出ていた力が幻夢の如く消え去り、数十メートルまで巨大化した六枚の翼は淡く散った。
神にも匹敵する力の片鱗は、帝督の掌からするりと何処かへ零れ落ちてしまった。
「……何を、何をしたァッ!?」
同様の異変は木山春生が『幻想猛獣(AIMバースト)』と名付けた胎児にも生じる。
『幻想猛獣』は飛び切りの悲鳴を上げる。急激に姿を保てなくなり、ノイズが走るように姿が時折霞む。
赤坂悠樹はゆらりと立ち上がる。
生きた心地が欠片もしない。その理由は二つあり、一つは既に自分が限界と定めた一線をとうに踏み越えている事、もう一つは垣根帝督の『未元物質』を通して把握した、全く理解の及ばぬ異世界の法則が、ただでさえ削られた思考の余白を塗り潰すように切迫していたからだ。
「……オレが名付けた能力名は『時間暴走(オーバークロック)』だがな、オレが無自覚に発するAIM拡散力場は、周囲の素粒子を『停止』させるものなんだよ」
垣根帝督から「……な、に?」と息を呑む音が生じる。
それこそ赤坂悠樹が正体不明の多重能力者を振る舞えた最大の要因、学園都市に五千万機ほど散布している最大の情報網『滞空回線(アンダーライン)』を無自覚の内に停止させ、自身の能力の情報を完全遮断したAIM拡散力場だった。
「勘違いさせて悪かったね、オレが一番得意とする領分は『加速』ではなく『停止』なんだよ。幾らテメェがAIM拡散力場を無茶苦茶に干渉しても、力の源を『停止』してしまえば意味が無い」
確信犯は誇るように嘲笑う。
今まで秘匿し続けた能力名『時間暴走(オーバークロック)』さえ、最後に騙し討つ為の布石に過ぎなかったのだ。
それでも二つの幸運が無ければ、今のこの奇跡的な状況は成り立たなかった。
一つは『幻想御手』のネットワークを乗っ取った得難い経験。あれのノウハウを生かして、今のAIM拡散力場を掌握して停止させた状況が実現したのだ。
もう一つは垣根帝督の『未元物質』を徹底的に解析した事。悠樹単体では『幻想猛獣』の仕組みを解明出来なかったが、『未元物質』を通して理論や過程を抜きに把握する事が出来たのは正に僥倖だった。
「それと二つほど参考になったよ。オレの時間操作の演算に狂いを生じさせていた正体がAIM拡散力場だったとはな。余りにも影響が薄いんで条件から除外していたが、存外侮れんものだった」
それが遠距離からの時間操作を妨げていた原因だった。周辺に漂っているAIM拡散力場も場所によって千差万別、能力者個人でAIM拡散力場が違うのは当然であり、今まで失敗していたのは必然だった。
こんな初歩的な事に気づくまで、酷く遠回りしたものだと悠樹は自嘲する。
「そしてAIM拡散力場に数値設定を入力、その発想は正直無かった。お陰様でオレも『自分だけの現実(パーソナルリアリティ)』に新たな『制御領域の拡大(クリアランス)』を取得出来たよ」
それが非科学的な理論をもって動くのならば、既存の演算能力は関係無かった。
赤坂悠樹の背中から紅い光が噴射する。それは鮮血の赤より紅い、片羽の翼だった。
――即座に垣根帝督は六枚の翼を再展開し、場の制御を奪おうとする。
停止を解いたなら干渉が可能である筈だが、圧倒的なまでに初動が遅かった。
赤坂悠樹にはその無限に湧き出る力の奔流を自身の眼下に集中させる。
垣根帝督と違い、この未知の力を完全に掌握出来ていない。いや、制御して安定させる気など最初から無かった。むしろ最終的に暴走させる気概で一点に圧縮していく。
弾丸は正体不明の力で、引き金は制御出来ずに暴走した一瞬、となればこの科学に完全に喧嘩売っているオカルトな現象も既存の銃の仕組みに過ぎない。
――轟音と共に撃ち放たれた紅の極光は垣根帝督の翼を貫く処か、背後に居た『幻想猛獣』の頭部を穿ち貫き、凄まじい破壊の余波を残して地平線の彼方に消えた。
(……何の音だ?)
言葉では説明出来ない、五感に働きかけるような不思議な音が聞こえる。
同時に『幻想御手』からの干渉が綺麗さっぱり消え去った。どうやら御坂美琴の方は上手くいったらしい。
安堵した直後、厄介な眠気が押し寄せてくる。
此処でこの心地良い眠気に身を委ねれば、そのまま楽に死ねる。まだ能力によって生じた負荷を処理している最中なので、何が何でも意識を失う訳にはいかない。
それまでは何とか意識を保たせられるが、その他に費やす余力は残されていない。現状の自分は指一本さえまともに動かせそうにない。
――あの真紅の光が直撃して尚、『幻想猛獣』は健在だった。
体の構成が九割九分崩壊しながら、露出した核と思われる三角柱のような物体は傷一つ無い。
逆にあれさえ破壊出来ていれば呆気無く終わっていただろうが、こればかりは運が悪かったとしか言い様がない。
『――ntst殺kgd』
異形の怪物は地面をゆっくり這い蹲りながら、仰向けに倒れ伏している赤坂悠樹の下を目指す。
見えているのが逆にもどかしかった。あの崩壊した化物の足取りは牛歩の如くのろいが、此方が動けないのなら、それは死刑執行までの僅かな猶予に過ぎない。
今は、何が何でも死ねない。意識があるのだから、諦める事など出来ない。それでも現実は非情であり、成す術など――刹那、甲高い音が耳に届いた。
つい最近、何処かで聞いたようなエンジン音だと思うが、霞がかった意識では答えを出せない。
(……目と鼻の先には形容し難い怪物の触手。で、遠くの崩壊した高層道路からはタクシーが減速すらせず飛び出しって、え?)
何か今おかしな光景が眼に入った。幻覚を見てしまうほど末期なのか、思わず疑ってしまうほどに。
第一、崩壊した道路から飛び降りたら十メートル以上落下する事になる。車体も中の人も無事では済むまい。
(……凄いな。崩壊して中途半端に落ちていた道路を次々に足場にして無事に済んだよ。映画の中でも見れそうにない迫力のワンシーンだ)
現実逃避する余裕など無いのだが、見えてしまうのだから仕方ない。
そのタクシーは土砂を巻き上げながら此方へ一直線に走り、鈍足の怪物を追い抜いてスピンするように停止しようとする。
車が止まる前に後部座席が開き、一人の少女が飛び出る。
彼女は地面を転がりながら、倒れ伏す悠樹の前に立ち、右手に持っていたコインを宙に弾き飛ばした。
――ああ、終わったな、と早くも悠樹は確信する。
相手が人間でなく、且つ射線上に遮蔽物が何もない以上、彼女が手加減する理由は何処にもない。
斯くして、彼女の放った本気の超電磁砲は露出していた三角柱の核を穿ち貫き、残りの構成要素を跡形も無く吹き飛ばし、容赦無く殲滅する。
こんな馬鹿げた一撃を何らリスクを背負わずに撃てるのだから、羨ましい限りだと悠樹は内心毒付く。
垣根帝督には強がったが、隣の芝生は蒼く見えるものだ。
「……遅い、ぞ」
「悪かったわね、こっちも手間取ったのよ」
美琴も悠樹も、お互い酷くボロボロになりながら笑い合った。
清々しいほど美味しい処取り過ぎて、逆に感心してしまう。
「……でも、まぁ、格好良かったぞ。オレが女なら、間違い無く惚れてる」
「……それ、どういう意味よ?」
――逆の立場だったら最高だったという意味さ、とヒーローになれない悪役は強すぎるお姫様に愚痴ったのだった。