七月十九日(5)
ぼやけた視界に映ったのは、白い天井。先程までの炎天下から打って変わって涼しく、耳が痛くなるような静謐さが保たれていた。
「……わたくしは、生きて――?」
呟いて、黒子は自分自身が死んでいない事実に驚く。
最後に見た光景が迫り来る悠樹の拳だっただけに、当たれば原形を留めないグロテスクな肉塊になる事は疑うまでも無かった。
――その疑問に答えたのは、指定されたブレザーとネクタイを着用せず、ワイシャツの襟元の校章で漸く出身校が解る不良風紀委員、赤坂悠樹その人だった。
「この馬鹿。自殺願望があるとは知らなんだぞ。てか、そんなボロボロな身体でオレの前に立ち塞がるってどういう魂胆? 馬鹿? オレが偶然止めなければ間違い無く死んでいたぞ、この馬鹿めが」
悠樹は見舞い用の椅子に腰掛け、不機嫌さを隠さずに黒子を睨む。
一度の会話に馬鹿という言葉を三回も使うほどご立腹な様子だったが、先程までの触れたモノ全てを壊しかねない危うさは消え失せていた。
「赤坂、さん? ……あの殿方は? それに……っ!」
「病院で騒ぐな、怪我に響くぞ。順を追って説明してやるから少しは落ち着け」
起き上がろうとする黒子を手で制して、悠樹は気怠げに溜息を吐く。
右頬に大きいガーゼが貼られている事以外は変化は無いが、何処か気疲れが見え隠れしている。
黒子は能力の多用と左腕の負傷で疲労が溜まっているものと解釈した。
「まず君の怪我だが、全身打撲及び二本ほど肋骨に罅入っている。普通なら全治三週間以上だが、詳しい事は医者に聞いてくれ」
黒子は自身の症状の重さに落胆する。よりによって幻想御手の事件で忙しい時期に、と悔やまざるを得ない。
「で、軍覇の野郎は軽症だ。あれだけやったのにピンピンしてやがるよ。もう人類じゃないな、アイツ。それと君に刃物を突きつけた蛸は、オレの配下が勝手に護送したからな、何処の病院にいるかも解らんわ。全く、トップの意向を知っていて背くとは使えない駒共だ」
悠樹は興味が失せたように退屈気に答え、「これで奴との勝負は負け越しだ」と、削板軍覇の勝負の方が大切な事だったかのように一人不貞腐れる。
何が何でも殺そうとしていた先程と比べて、信じられない対応であり、黒子はその不自然な方針の変化に戸惑いを抱いた。
それを知ってか知らずか、悠樹は一息ついた後、真剣な眼差しになる。
「――此方の事情に巻き込んでしまい、済まなかった」
彼の普段の人柄を考えれば、まず在り得ない謝罪の言葉が飛び出し、黒子は心底驚愕する。
ぶっちゃけ信じられず、まずは本当に本人なのか疑った。学園都市の脅威の科学力は、瓜二つのクローンを製造出来るのかと本気で勘繰るまでに。
「それに君の御陰で斉藤隆志……最初に襲われていた男子生徒だがね、ソイツの怪我も軽微で済んだ。率いる者として感謝するよ」
「え? い、いえ、結果的に助けたのは赤坂さんですし、わたくしは足を引っ張って……!」
らしくない悠樹の振る舞いに翻弄されながら、ふと、黒子はある事に気づく。
如何に悠樹と言えども、準備無しに完全武装した二十人以上の手勢をあの現場に連れて来れるだろうか?
事前に準備していたとすれば、左腕が著しく損傷して完全な状態じゃない悠樹が何故あの場所にいたのか、という疑問の答えにも繋がる。
(……赤坂さんが負傷したとなれば、それを好機と見て報復に来る者達が現れるのは火を見るより明らか。普段から人の恨みをダース単位で買ってますし……それを、あの場所で一網打尽にしようとしていたのでは――?)
通い続けていた第七学区にいなかった理由も、完全武装の手勢がすぐさま集ったのもそれで説明が付く。
――お見舞いと称して、地下の射撃場で出会った時の悠樹の顔が脳裏に過ぎる。
今思えば、自分が居ては都合が悪かったのだろう。能力発動の現場を見られる事も、また不良学生の襲来に関わる事を懸念して。
もしそうならば、自分は余りにも滑稽な道化だと黒子は呆然とする。自分の身勝手な理想を悠樹に押し付け、一方的に頬を打った挙句、足を引っ張ってこの様だ。
最低な初仕事に匹敵するほど惨めな気持ちになる。謝るのは、自分の方だった。
「……さて、文句も言い終えた事だし、オレは退散するよ。こんな腐れ外道が近くに居ては絶対安静にならんだろう」
一言断ってから席を立ち、悠樹は背中を向ける。
今はまだ近くに居るのに、その背中は遠かった。このまま二度と遭遇しないかもしれない、そんな予感を抱かせるほどに。
「っ、待って下さい!」
咄嗟に声を荒げてしまうが後の祭り、振り返った悠樹から不審な人物を見るような刺々しい視線を浴びる事になる。
羞恥心で顔が真っ赤になった事を自覚してしまい、ますます赤くなる。ごほんっ、と誤魔化すように咳払いし、黒子は気を取り直す事にする。
「少し、お話しませんか……?」
一瞬だけ、悠樹が微妙な表情で躊躇した後、また座っていた椅子に腰掛ける。
「構わないよ。これは独り言だが、赤坂悠樹は自分の失態を許せない完璧主義者でね。そのままにしていたら夜も眠れないから、精神安定の為に挽回の機会を心から望んでいる。――今なら、オレの能力の詳細だって口が滑るかもしれんぞ?」
赤坂悠樹は普段では絶対に提案しない事を言いながら、調子良く笑う。
随分とワザとらしく、そして魅力的な独り言だと黒子は内心思う。
だが、悠樹の捻じ曲がった性格を考慮すれば、その魅力的な提案は真に痛い腹を探られないようにする為の餌だと容易に推測出来る。
出遭ってから白井黒子の頭を悩ませ続けた彼の超能力『過剰速写(オーバークロッキー)』の正体が本人の口から語られるのは確かに魅力的だが、それ以上に問いたい事が黒子にはあった。
(でも、それは――)
されども、その問いは余りにも赤坂悠樹の核心を突く、否、刀身が焼き爛れた鋭利な刃物で抉り穿つようなものだった。
黒子は口に出す事を何度か躊躇う。焦りばかりが先行し、重苦しい沈黙が続く。
それでも悠樹は文句一つ言わずに待ち続ける。時間にして数分余り、黒子の体感時間では永遠に匹敵するほどの時間を経て、意を決して口にした。
「――人質を目の前で殺された、のは、本当、ですの?」
自分自身で嫌悪したくなるほど、心を踏み躙る最悪の問いだった。
黒子は恐る恐る悠樹の顔色を覗き込む。鬼が出るか蛇が出るか――だが、予想とは裏腹に、悠樹は生徒から困った質問をされた教師のように、淡く苦笑した。
「あ……すみません、このような事――!」
「――この学園都市に捨てられる前、オレが六歳の頃だったかな。ある娯楽施設に立て篭もった強盗犯に人質として選ばれたのがオレの妹で、警察の甲斐甲斐しい説得虚しく、激情した犯人に殺された。首筋に当てたナイフで頚動脈を掻き切られて、な」
悠樹は淡々と、特別な感情を籠める事無く語る。既に終わった物語を、関係無い語り部が観客に披露するように。
黒子は絶句するしか無かった。今の悠樹からは何も窺い知れない。あの禍々しい憎悪も激情も憤怒も、何一つ察せない。
その底無しの深淵を思わせるような無表情が今は恐ろしかった。
「母親は既に死んでいて、父親はその事件の機に失踪、唯一人残ったオレは母方の祖父母に引き取られた。だがこれも、地獄のどん底でのた打ち回る道中に過ぎなかった。彼等は母を早期に死に追いやった父を怨んでいたからな、その矛先は当時六歳だったオレに向けられたよ。母の面影を色濃く残していた妹と違って、父の面影を色濃く残すオレは酷く嫌われていたからな」
短い年月ながらも、一般的な家庭で育った黒子には信じ難い、悲惨な家庭状況だった。
当然の如く両親に愛されて育った黒子には、その境遇は言葉の上では理解出来ても真の意味では理解出来ない。
それをひしひしと思い知らされ、黒子は歯痒く思う。その反面、悠樹はまるで他人事のように何処か冷めていた。
「その時の生活は最悪だった、とだけ言っておこう。――程無くして学園都市に入学させられたよ。最初から捨てる事を目的にな。祖父母達は何処で知ったのか、嬉々と喋ったよ。学園都市における置き去り(チャイルドエラー)の現状と、暗部によって有効活用されて処理される結末をな」
黒子は今の気持ちを言葉に出来なかった。
報われず救われない、まるで出来の悪い御伽噺のような――それが、そんな夢想だに出来ない悪夢の非日常が、彼の日常だった。
「ま、その頃にはオレは今のオレだったがな。最初の地獄が最上級だっただけに、後の地獄なんざ生温かった。オレの中の『正義』は妹が殺された時に死んで、『悪』が真理となった。――守りたかったモノも、守るべきモノも、疾うの昔に失っていた」
地獄の底に突き落とされ、のた打ち回りながら磨耗して、最後に残ったのが憎悪だけだと、彼はあの時言った。
……垣根帝督と一戦交えた時、悠樹は自身の怪我に何の頓着も示さなかった。その時覚えた違和感と恐怖の正体を、黒子は漸く掴めた。
この人は――自身の命なんて、どうでも良いのだ。
「後は先程話した通りだが……そうだな、風紀委員になった理由の一つは、意趣返し、なのかな。特力研に居た〝置き去り〟は揃いも揃って馬鹿みたいに正義を信じていた。いもしない正義の味方が絶体絶命の窮地から助けてくれるとか、いないなら自分こそがその正義の味方――風紀委員(ジャッジメント)になって救いたいだとか」
興が乗ったのか、悠樹は心底馬鹿にするように嘲笑する。
無根拠で有りもしない『正義』を信じず、手段を選ぶ必要の無い『悪』に殉じたからこそ、あの地獄の底から這い上がれたのだと自負するように。
「だから死ぬんだよ、救いようの無いほど愚かで馬鹿馬鹿しいにも程がある――そんな存在が本当に実在しているのなら、実際にこの目にしてみたいものだ」
悠樹は遠い眼で、怨むように、憎しむように、妬むように、羨むように、憧れるように、複雑な感情を入り混ぜる
――もしかしたら、そんな正義の味方による救済を誰よりも求めたのは、他ならぬ彼自身だったのかも知れない。
此処まで来れば、理由の一つに述べた〝意趣返し〟の意味も察せる。
正義の味方がいないから、赤坂悠樹は『悪』をもって事件の解決に当たる。
彼自身の優れた能力なら完璧に立ち回れるものを、いつも力で強引に解決する様はいもしない正義の味方に対する、子供じみた当てつけとも思える。
「オレは正義の味方なんてものには絶対になれない。そもそも、なろうとも思わない。だから、風紀委員をするに当たって、一つの賭けを自分の中でした」
「……一つの賭け、ですの?」
「オレが学園都市最強の超能力者『一方通行(アクセラレータ)』を打倒するまでに〝他の理由〟を得られたのならばそれで良し。何も変わらなければ――オレは風紀委員(きみたち)にとって史上最悪の存在に成り果てる、いや、戻るのだろうな、元の鞘に」
彼という空っぽの器には、悍ましい憎悪が無限に湧き出ている。
今は堅牢な構造で外部に漏れないが、性質が悪い事に時限爆弾が取り付けられている。
一度解き放たれれば如何程の災厄を齎すか、幾ら想像してもそれを遥かに凌駕するだろう。
「一般常識や道徳が欠如している社会不適合者が、羊達の群れで違和感無く暮らせるようにと作り上げた幾十のルールに縛られず、完全無欠なまでに『悪』だったあの頃に――」
彼が普段遵守する妙な矜持の数々も、自らを戒める鎖に過ぎなかったのだろうか。
それでも――それらのルールが、彼の歯車が狂う前のものではないかと思うのは、単なる勘違いなのだろうか?
「どうだ? 即興で考えたにしては良い出来だろ。如何にも悲劇的な主人公って感じでさ――この学園都市では在り来たりなのが難点だがな」
悠樹は誰も信じない嘘を態々口にし、「そもそも悲惨さが馬鹿みたいに重なり過ぎて、現実味が欠片も無いな」と場違いなほど明るく笑う。笑い声は病室に虚しく響いた。
そんな事が在り来たりだと言えるほど、学園都市の暗部は悲惨なのだと否応無しに伝わる。
(あ……)
今、彼と同じように笑い飛ばせば、今までの話全てが冗談として片付けられ、単なる与太話として終わる。そういう逃げ道を、悠樹は敢えて作った。
此処がこれまで通りの日常と非常の境界線であると無言で告げている。
「……妹さんを、殺めた犯人は――」
「無期懲役、最長でも三十年程度だね。日本の司法は人一人殺しても命で償わなくて良いらしいよ。素晴らしく慈悲深いものだ」
黒子は苦渋に満ちた表情で退路を断ち、悠樹は退屈気な表情で語る。一瞬だけ、眼の中に陽炎の如く殺意が燈ったのを、黒子は見逃さなかった。
無慈悲な裏の現状を直視して、当たり前だと思っていた平和な幻想は脆くも崩れ去り、黒子は自分自身を見失ってしまった。
その事を知った自分が何をするべきか、どう立ち向かうべきか、その答えを、学園都市の暗部を深く知る赤坂悠樹に求めた。
――結局、そんなのは甘えだったのだと黒子は痛烈に悟る。目の前に居る彼もまた答えを追い求めているのだ。
守りたかったモノなど最初に喪い、年相応の夢も希望も抱けず、自分の命にすら何とも思わない。それでも自らが確立した強靭な意思に基づいて行動している。
地獄に転げ落ちて、奈落のどん底から這い上がった那由他の果てに――赤坂悠樹は立っている。
黒子には守りたいモノがちゃんとある。街の平和を、親しき友人を、敬愛し尊敬する少女の笑顔を――己の信念に従い、正しいと感じた行動をとるべし。まるで一歩も前進していない結論なれども、その一歩から進んでいくしかない。その後に結果がついていくのだから。
「――きっと、いえ、絶対見つかります。今は見えずとも、必ず」
――悠樹にとって、自分の過去を話す事に何ら意味を見出していなかった。
下らぬ同情などされても癇に障るだけだし、自分がそうでないという前提の憐憫もまた同様である。
それだけに、この反応は完全に予想外だった。
「赤坂さんは御自分の事を『悪』だと思い込んでいるだけです。わたくしには、そんなに悪い人だとは思えませんの」
「同じ境遇の〝置き去り〟を全員見殺して平然としているオレが『悪』じゃないとでも?」
「そんな彼等がなりたくてなれなかった風紀委員(ジャッジメント)をやっているのが何よりの証拠なのでは? 確かに貴方の素行は『善』とは到底掛け離れたものですが、それだけでは無いのは短い付き合いのわたくしにも解りますわ」
かつての調子を取り戻したように、自信に満ち溢れた黒子の様子が、悠樹にはこの上無く不可解だった。
黒子が裏の事情関連で――悠樹からしてみれば無駄に――深刻に思い悩んでいた事は薄々悟っていたが、何が解決の糸口になったのかが掴めない。
「……妄念を抱くのは君の勝手だがね。それじゃ万が一、一方通行を打倒するまでに目的や理由を見出せなかったら、どうする?」
悠樹は意地悪そうに笑う。「その前に垣根帝督に返り討ちに遭う可能性が高いがな」と割と在り得る末路の一つを付け加える。
露ほどもない可能性を綱渡りし、奇跡の果てに一方通行の打倒を成した処で、何か掴めるのかと自問すれば、ほぼ間違い無く否だろう。
真偽は定かではないが、学園都市はいもしない神の問題を解く為に超能力者(レベル5)を超越した前人未到の境地、絶対能力(レベル6)を目指している。
例え自分がその領域に達したとしても答えなど出ないだろうと、悠樹は半ば諦めている。だからこそ、答えが出なかった先を想定している。
恐らくその後の自分は学園都市の根本を揺るがす大事件を引き起こす。学園都市最強を凌ぐ力を持って、立ち塞がる障害を悉く排除して成し遂げるだろう。
「その時は、わたくしが頬を叩いて修正してあげますわ」
その言葉は頬を叩かれた時以上に、悠樹の心に響いた。
確かに彼女の能力、空間移動(テレポート)なら或いは――赤坂悠樹を殺す事も不可能ではない。手段を選ばず、反撃の余地が無い奇襲で一撃で仕留めれば、の話であるが。
それとは別に――悠樹は気の迷いだと断じ、思考の片隅からも消す。
「……何それ。新手の告白?」
「なな、何を言いやがりますかっ! わたくしはお姉様一筋ですぅ!」
面白いほど顔が赤く茹で上がった黒子を、悠樹は楽しげに眺める。
「さて、そろそろ帰るぜ。君が抜けた御陰で忙しくなるしな」
「これしきの怪我、すぐにでも――」
「少しは体を愛えよ。それに満身創痍の怪我人が現場に居ても邪魔なだけだ」
「同じ言葉を返しますわ。……その左腕は、決して軽い怪我では無いですの」
「それなら安心しろ。全治二日になったから明後日には完治だ」
そんな筈は――と言いかけ、悠樹の能力は治癒を促進出来るような応用も可能であるのでは、と推測を立てる。
ただ、それを負傷した当初にしていなかった事を鑑みると、何らかのリスクがあるのではと勘繰り、黒子は再び意気消沈する。
「二、三日中に朗報を届けてやる。期待して待っているが良いさ、黒井白子」
そんな黒子の一喜一憂の様子を、悠樹はその一言でぶち割った。主に悪い意味で。
「んな、わたくしの名前は白井黒子です! 何でよりによって黒井白子なのですか! わざとですか、わざとですねっ!?」
「おいおい、何言ってるんだ。黒白だから黒が先だろ?」
黒子は「ムキー!」と怒りを全身で表現し、悠樹は心底不思議そうに首を傾げ、「そんな単純な引っ掛けに騙される訳無いだろ、ハハハ」と大笑いする。
愉快に荒れる黒子を背に病室を出て行き、無表情に戻った悠樹は扉の外側に背を掛けていた御坂美琴に遭遇する。その時の彼女の顔は言いたい事を言わないような、複雑さを醸し出していた。
悠樹は顔に驚き一つも出さない。元より彼女を携帯で呼んだのは悠樹自身であり、二度目に病室から抜けようとした直前に訪れていた事も気づいていた。
擦れ違う最中、悠樹は美琴の耳元で「一階の待合室で待っている」とだけ言い残し、振り返らずに去る。その足取りは極めて重かった。
御坂美琴が白井黒子のお見舞いを終えて一階の待合室に足を運んだ時、待っていた赤坂悠樹は携帯電話で通話中だった。
悠樹は椅子にも腰掛けず、少し苛立った素振りで慌しく歩き回っていた。
「――そうですか。解りました、何か判明しましたら随時連絡下さい――待たせてすまんな、御坂美琴」
通話が終了したと同時に慣れない敬語を取り止め、悠樹は美琴を正面から見据える。
世間話をする間柄でもあるまい。悠樹は直球で本題に乗り出した。
「白井黒子の怪我は全面的にオレの責任だ。弁解の余地も無い。……風紀委員の活動に支障が出ない範囲なら、煮るなり焼くなり好きにしろ」
「もう支障が出ている腕で言われてもねぇ……なら一つ言わせて貰うけど、あの子だって風紀委員よ。それを無視して語るなら――それは黒子に対する侮辱よ」
言い訳一つしない悠樹に対し、「私だけ悪役にする気?」と美琴はジト目で睨んだ。
悠樹から黒子が事件中に怪我したという一報が入った時、その場に居たのに守れなかった悠樹の不甲斐無さに憤怒を抱いた。それこそ、一発全力で殴らないと気が済まないぐらいに。
実際に病室に駆けつけてみれば、黒子の負傷は事前に説明された以上に酷く、見るに耐えない状況だった。
しかしその反面、朝から張り付いていた異常なほどの深刻さが綺麗に無くなっており、オマケに黒子が悠樹を必死に弁明して庇うなどという在り得ない事態が起きた。
これで見苦しい言い訳を一つでもしたら、無視して殴ろうと美琴は思っていたが、左腕の怪我が治るまで保留する事にした。あくまでも保留である。
「……全く、厳しい奴だ」
形のある罰が下ればそれだけで心が晴れるが、と悠樹は内心毒付く。
「アンタでも、自分のミスを認めるぐらいの殊勝さがあるのね?」
「自分の失敗や過ちを認められない奴に未来は無いよ」
その点、結論が間違っていたとしても前進し続ける自身には望めないだろうと、悠樹は表情に出さずに自嘲する。
「こんな事言えた義理じゃないし、一般人の君に頼むのは筋違いだが、恥を忍んで言う――この事件はオレ一人では手に余る。君の手を、学園都市第三位の力を、貸してくれないだろうか?」
悠樹は混じりけ無しの真剣な表情で問う。美琴は迷わず答えた。
「良いわ。私もこの事件に少なからず関わっているし、乗り掛かった船だしね」
「……感謝する、ありがとう」
そんな悠樹の素直な反応に、美琴は逆に戸惑う。まさか軍用に開発された良く似た偽者では、と知らずに黒子と同じような疑問を抱いたりした。
「……何か調子狂うなぁ。いつもと違って綺麗過ぎて気色悪いし――」
「そうかそうか、話の解る奴で助かったぜ。いやはや君なら喜んで首を突っ込んでくれると思っていたよ。あれか、今流行りの『俺は俺より強い奴に会いに行ってぶん殴る!』的なノリで」
「私は何処かの路上で戦う格闘家かっ! てかそれアンタでしょアンタ!」
十七日の決闘もどきの事を「まだ根に持っていたのか」と悠樹は荒れる子供の扱いに困ったように笑う。
そのいつも通りの舐めた仕草に、美琴は「いつも通りだけどむかつく!」とムキになって怒りを顕わにした。
「さて、明日から忙しくなるし、英気を養う為にも晩飯を食いに行くか。無論、オレの奢りだ」
「……それは良いけど、今日はする事無いの?」
「本腰を入れる為の下準備はオレが今日中に済ませるよ。――そもそもこの程度の事件で梃子摺るのは論外だ。二、三日中に終わらせるからそのつもりでな」
「……それだけ聞くと、今までどれだけ手抜きしていたか気になるんだけど?」
如何にも胡散臭いものを見るような眼で美琴は悠樹を睨む。
コイツなら、手抜きの一つや十つぐらいやりかねない。そんな疑いの視線を送るが、悠樹は平然と居直る。
「個人としては最善の一歩手前を尽くしているが、此処で言う本領はそういう事ではない。発想が貧相になっているぞ、御坂美琴」
「……今、人の胸ちらりと見て言った? 言ったでしょ!」
自身の胸を隠すように覆い、美琴は若干顔を赤めながらキツく睨みつける。
やはり手抜きしているのかという突っ込みはその混乱の中で消える。
「ホントこれだけはやりたくなかったんだが、まぁ仕方ない」
「一人納得している処悪いんだけど、結局どうすんのよ? 私達二人でも二、三日中で如何にかなるとは思えないわよ?」
「その前提が根本的にズレている。簡単に言えば、君に助力を求めた事と同じさ」
「私に……? アンタ、他にも超能力者(レベル5)の知り合いいたの?」
確かに悠樹は他の超能力者と大体は顔見知りだが、一人の根性馬鹿を除いて特別親しい訳じゃない。
悠樹は楽しげに否定する。その程度で済ますものかと、言い張るように。
「違う違う。幾らオレと君が超能力者(レベル5)でも数の上では二人前だ。個人の力がどれだけ優れていても出来る事など高が知れている。ならばこそ、足りないなら補えば良い。――さて、問題だ。この学園都市に風紀委員(ジャッジメント)は何人いたかな?」