「――何故、彼が第八位かって?」
パソコンの画面だけが光明となっている暗い部屋にて、彼は妙な来訪者と話し合った。
前任者である自分に『赤坂悠樹』について尋ねてくるのは良くある事だが、彼は事有る毎に機密扱いだとあしらった。彼にとって、それは思い出したくもない忌まわしき記憶の一つだった。
だが、今回、話そうと決断した理由は気紛れでも、この少女からの得体の知れぬ能力からではなく、その質問の内容ゆえだった。
「削板軍覇が『原石』で、他の超能力者とは関係無く第七位だから、という前提の疑問かね。簡単な話だよ、彼もまた例外だからだ」
萎びれたタバコに火をつけ、一気に吸い込む。酒もあれば完璧だったが、生憎な事に残っていなかった。
「唯一人の多重能力者だから? いやいや、微妙に違うな。――これは彼が十五歳、つまりは去年の身体検査の結果だ。見れば一目瞭然だと思うがね」
引き出しの奥からある書類を抜き取り、少女に手渡す。
実地の能力測定で、彼は例外的にほぼあらゆる種類の測定を行った。そしてその全てにおいて優秀な結果を残している。だが――。
「どの能力も測定では大能力の域でしかない。公式の記録では、彼は一度足りても超能力者としての本領を発揮していない事になるな。あれは学園都市の監視網を掻い潜るのが病的なまでに上手い」
風紀委員として精力的に活動しているのに関わらず、誰も超能力者としての彼を見た者はいない。
その限られた情報から推測する事は出来ても、真実には辿り着かない。その巧妙過ぎる手口は、あの化け物じみた学園都市総括理事長をも連想させ、背筋を冷やす。
「学園都市には正体不明の能力者など山ほどいる。強大な力の持ち主ゆえに誰も本気を出している姿を見た事無い能力者もな。末恐ろしい事に、超能力者である彼もその一人だ」
今にも崩れそうなタバコの灰を灰皿に落とす。まるで赤坂悠樹の能力で燃やし尽くされたみたいだと回想し、嫌悪感が先立つ。
飲みかけのコーヒーがあった事を思い出し、平常心を心がけながら口にする。その時の手の震えはこの暗闇の中で少女からもはっきり見えるほど、大きいものだった。
「……何を脅えているか、とな。――私の先任は有能な男だったよ。特力研の無能と違って、確実に多重能力の原理を解明出来ると豪語出来るほどにな」
長点上機学園で、赤坂悠樹の最初の担任に当たる彼はあらゆる分野において自分より優れており、学生時代から憧れると共に妬み、憎んだ。
その彼の事など、皮肉な事に誰よりも知り尽くしている。今回の多重能力の解明も、栄光は彼の手に納まる筈だった。
「それが交通事故などで急死し、私に担当が回って来た時は狂喜したよ。彼の成果をそのまま引き継ぎ、自分が多重能力を解明出来るとな。それも、あれの本性を知るまでだ」
その交通事故が偶発的なものなのか、意図的なものなのかは如何でも良かった。転がり込んで来た栄光を掴み取り、全てを見返してやれると喜んだ。
そして運命の日、赤坂悠樹と最初に出会った時の事は今でも思い出せる。
底無しなまでに暗く淀んだ眼で我が目を射抜き、そして一瞬だけ、悪魔の如く嘲笑った。
……その意味に気づくのに、余りにも時間を掛け過ぎた。
「……恐らく、あれは一目で見抜いたのだろうな。私では、自身の能力を絶対に暴けないと。それに気づいた私は、翌日、辞表を出したよ」
その時の絶望と虚脱感は言葉に出来ない。
何故、特力研という地獄の底で何ら成果をあげられなかったのか。
簡単な話だ。能力ではなく、人格の時点で非人道的な研究者達を圧倒的に凌駕しているのだ、あの悪魔は。
「生徒の君に言うのは不謹慎な表現だが、実験素材(モルモット)に飼い殺しにされていた研究者は、一体何と表現すべきかね――?」
七月十九日(3)
――信じてみたかった。不条理なまでの理不尽さを体現する彼の中にも、黄金の輝きを放つ尊い正義があるのだと。
親に見捨てられて〝置き去り〟になっただけでも悲惨なのに、人を人と思わぬ違法研究所に放り込まれ――それでも風紀委員に身を置く理由が何なのか、黒子は知りたかった。
その答えが今自分が思い悩んでいる事への解決の糸口になるかもしれない。そんな淡い想いは木っ端微塵に打ち砕かれた。他ならぬ悠樹自身の答えによって。
「……最低、ですわ」
最初の出会いから赤坂悠樹の印象は悪かった。
暴れるだけ暴れて、自身の仕出かした後始末を他の風紀委員に押し付けるなど言語道断であるし、更には風紀委員としての立場を顧みずに御坂美琴に喧嘩を売る始末。まさに頂上に立つ超能力者の傲慢さを体現する男だった。
それでも、風紀委員として最低限の矜持はあると信じていた。
不真面目で、それなのに意欲的に管轄外での活動を平然と行って、周囲の建造物への被害を余計に拡大したり、犯人への過剰暴力は酷かったりするが、大能力者の暴走に巻き込まれそうになった少年達を代償を覚悟の上で助けるなど、一般人の安否を第一にしていた。そうだと思っていた。
(……それすらも、あの人にとっては単なる余興に過ぎなかったのでは――?)
赤坂悠樹は擁護すら出来ない、完璧なまでに悪だった。
己が保身の為だけに多重能力者を装い、誤った研究対象故に被験者の悉くが無駄死にになり、それでも一欠けらの罪悪感すら抱いていない
白井黒子が遭遇した中で最悪と言って良い類の極悪人だろう。
この学園都市の正義と治安を司る風紀委員の彼女にとって、彼こそは怨敵であり、その吐き気さえ覚える所業は憎むべきものである。
――だからこそ、脳裏にちらつく。
では何故、赤坂悠樹は垣根帝督から、自分を命懸けで助けたのだろうか――?
本当に完全なまでに悪だったら、何の疑問も抱かず、嫌悪の対象として憎めた。
あの時、赤坂悠樹には黒子を見捨てるという選択肢があっただろう。それこそ特力研の他の被験者と同じように。それと同じ次元の話だろう。
――でも、彼は自分を見捨てず、傷ついて尚、自身の安否を優先した。同じ超能力者との戦闘を風紀委員の役割より優先していた彼がである。
(……っ、益々解らないですの)
頭の中がごちゃごちゃしすぎて、何も考えられない。考える度に深みに嵌る感覚に陥る。その悪循環を断とうと、黒子は一度深呼吸する。
落ち着いて最初に気づいた事は、此処が何処だか解らない事だった。
(うっ、何も考えずに走ってきましたから帰り道が――)
近くの建物屋上まで空間移動し、居場所を確認しようとした時、黒子は背後から何者かの気配を感じる。
確かに、他の裏路地に比べて治安は良さそうだが、素行の悪い不良なんてゴキブリの如く何処でもいる。半ば戦闘態勢に入って振り向いた先に居たのは、先程の童顔の少年だった。
「あ、いたいた。此処は道が入り組んで迷い易いですから、第七学区まで案内しますよ。と、赤坂さんからの有難い配慮です。……あ、自分が言ったのは伏せておいて下さいね」
「……結構です。一人で帰れますわ」
赤坂悠樹の名を聞いた途端、黒子は感情的になって童顔の少年の有り難い申し出を拒否する。
今はその要らぬ御節介が苛立たしかった。
「いえいえ、余所者の風紀委員がうろついていると少々困るんですよ。他の裏路地と違って治安は良い方ですけど、赤坂さん以外の風紀委員は基本的に受け付けませんから」
「……何故、彼だけは例外なのですか?」
カエル顔の医者から居場所を知らされた時からの疑問が蘇る。
風紀委員なのに武装無能力者集団の顔役をやっている経緯そのものが最大の謎である。
「知っての通り、此処は三つの学区の境界上です。管轄の違いから風紀委員は手出しし難く、警備員の介入だけ気をつければ良い場所ですから、他よりならず者が集まり易く、同時に縄張り争いが絶えませんでしたね。人の命は金より軽く、鉛玉一つで片付きますから」
童顔の少年は笑いながらポケットから取り出した銃弾を宙に弾いて見せる。
その笑顔は余りにも自然すぎて、日常茶飯事の会話にしか聞こえず、黒子は逆に自身の耳を疑ってしまった。
「終わり無い抗争、氾濫する麻薬など、諸々の問題を一挙に解決したのが赤坂さんです。管轄の違いなど完全に無視して武力介入し、制圧したグループを留置場送りにせず、自身の傘下に次々と加えながらあっという間に天下統一といった流れです。――今はグループの元リーダー達の上に赤坂さんがいる、という形ですね」
童顔の少年は懐かしむように、お祭りの顛末を語るように楽しげだった。
「は……? ちょっと待って下さい。それはどう考えても風紀委員の領分では――」
「今考えても風紀委員の所業とは思えませんよ。それほど常識外れで常軌を逸してからこそ、普通の風紀委員や警備員が解決出来ない問題を簡単に解決出来たんでしょうね」
その時の決め台詞が「此処はオレがいるから第一八学区だ、何一つ問題無いぜ」だった事や、本当に悠樹の始末書を専門に書く苦労人の風紀委員が居た事も、童顔の少年は笑いながら語る。
「……一体、何を考えているのでしょうね」
「さぁ? あの人の真意なんてあの人以外解る筈も無いですよ。無言実行でいつも結果だけを示す。他人の評価なんて眼中に無い感じですね」
黒子からの視点で、赤坂悠樹は良い意味でも悪い意味でも何時如何なる時も揺るがず、またぶれない。善悪の方向性はさておき、一貫している人間だ。
だからこそ、『特力研』での出来事を知れば知るほど違和感が湧き出てくる。
所詮、人伝えの自分では本当の意味での悲惨さを理解出来ないだろうが、其処での出来事を良しとし、悔いる事の無い人間が風紀委員(ジャッジメント)なんて面倒な無料奉仕をやるだろうか?
(……ですが、彼は――)
彼は自己保身の為と断言した。この学園都市の暗部は、超能力者でさえ飲み込まれるほど深い。言われた当初は納得しかけたが――今では理由が弱いと感じる。
昨日、風紀委員である自分が簡単に消され掛けたのだ。そんないつ吹き飛んでも可笑しくない不安定な保身なぞ、いつもの彼を考えるならば何時でも斬り捨てれる保険の一つ程度としか思ってないだろう。
それに彼が恐れから保身に走るような小物には見えない。むしろ、恐れても尚、立ち向かって挑む類の人間だ。
それが勇敢なのか、無謀なのかは問題ではない。垣根帝督との超えられない壁を実感して尚笑ったのだ、赤坂悠樹という男は。
(……我ながら女々しいですわね。信じていて、つい先程裏切られたばかりなのに……)
黒子は頭をぶんぶん振るって雑念を払おうとする。
「先程の口論の内容は聞き及んでいませんが、気に病む必要は無いですよ。それだけ距離を縮められた証拠ですから、あれ」
突如、童顔の少年から放たれた言葉に、黒子は目を丸くする。
「……え?」
「いつもそうなんですよ。一定以上踏み込まれると、徹底的に突き放して拒絶するのは」
童顔の少年は苦笑いしながら、少し悲しげに遠くを見た。
「何処かのお偉い学者さんが唱えた心理的距離(パーソナル・スペース)みたいなもので、一定の距離なら何とも無いんですが、その一定以上のラインを超えると非常に攻撃的になって排他してしまう。一人で何でもこなせる完璧超人の赤坂さんでも自覚していて尚且つ矯正出来ない、唯一の欠点ですね」
普段の彼からは想像すらも出来ない。けれども、過去の事で何らかの心的外傷を受けていたのなら――考えられなくもない。
――ただ、親しくなった者を片っ端から排他してしまうのは、どんな心境にしろ、悲しい事だと黒子は思う。
いつまで経っても一人なんて、そんな救いようの無い孤独は常人の神経では耐えられない。八人しかいない超能力者という立場も、その悪循環を更に酷くしているだろう。
「ま、こんだけ話してなんですけど、自分の話は余り参考になりませんから話半分でお願いしますね。どう贔屓しても自分は赤坂さんの事を絶対的に、盲目なまでに信仰してますから」
童顔の少年は胸を張って、誇らしげにそんな事を言う。
「一つ、良いですか? 何故其処まで赤坂さんの事を……?」
「少し話が長くなりますし、余り面白い話ではありませんが――知っての通り、第一八学区は能力開発関連のトップ校が集う学区でして、昔の自分はそれなり優秀でそれなりの学校に通ってました」
童顔の少年は目を細め、自身の過去に思う事があるのか、何処か憂鬱な色を浮かべて語る。
「当時の自分は思い出しただけで恥ずかしくなるほど傲慢で世間知らずでした。能力を使えない人間を無条件で見下し、自分が優れているという的外れな優越感に浸っていた最低野郎です」
と言うものの、その謙虚な様からは全く想像出来ないと黒子は訝しく思う。
そんな黒子を目の当たりにし、童顔の少年は苦笑いする。
「きっかけは唐突でしたね。訓練中に能力暴発が起きまして、その事故の後遺症で能力が全然使えなくなったんですよ、自分。そんな足手纏いの在学が許されるほど、あそこは優しくありませんでした」
そういう事例は少なからずある。
例えば空間移動に失敗して地面にめり込んでしまい、トラウマになって能力使用が困難になってしまった者や、脳髄に深刻な障害を受けて演算自体出来なくなった者などが該当する。
普通の学校ならば、そうなってもまだ道はあるが、第一八学区には特別な奨学金制度がある為、無情にも取り下げになるケースがある。
「学校にも通えず、寮にも戻れず、自暴自棄のまま此処に辿り着き――今度は高位能力者による無能力者狩りに遭いました。いつの間にか、自分が見下していた無能力者まで転落していたのは皮肉以外何物でもありませんね。流石にあの時は死ぬかと思いましたよ」
童顔の少年は自身の長袖を捲くって見せる。
其処には夥しい火傷痕が生々しく残っており、真夏に関わらず暑苦しい長袖を着用する理由が痛いほど窺えた。
「――そんなこれ以上無い絶望のどん底で、自分は赤坂さんに助けて貰ったんです。格好良かったですよ、押し寄せる炎を振り払って、同じ発火能力で仕留めちゃいましたから」
何処かで聞いたような、という奇妙な既視感に黒子は頭を傾げたが、思い当たらないので大した事無いだろうと思考の隅に放り投げる。
「あの人にとっては、意識にも留まらない、大した事無い日常の出来事の一つでしたが、僕にとっては人生を変えるに値するほどの救いだったんです。……その時からあの人の為に役立ちたい、それが最大の目的になりましたね。基本的に何でも出来る人ですから、機会が中々巡ってきませんが」
少し残念そうに、童顔の少年は寂しげに笑った。
其処で黒子の脳裏に疑念が過ぎる。目の前の彼は、特力研での出来事を知っているのだろうか、と。
知らないのならば何も問題無い。無知ゆえの表面上の憧憬で済む。だが、知っているならば――。
「貴方は、赤坂さんの過去をご存知で……?」
「自分の事を語らない人ですから、そういうのは全然です。ですが――ちょっと待って下さい。何か、音が聞こえませんでした?」
童顔の少年は口元に人差し指を一本立て、しぃと声を潜めるようにとジェスチャーをする。
黒子も不審に思い、耳に神経を集中させてみると遠くから何者かの喧騒が聞こえる。それは普通のやり取りではなく、悲鳴に近いものだった。
黒子は即座に駆け出し、一瞬遅れて童顔の少年も後を追った。
音は次第に大きくなる。複数の奇声と癇に障る笑い声と、一人の悲鳴。一体何が起こっているのか、想像させるには十分過ぎる材料だった。
(――っ、これは……!)
現場らしき地点に辿り着き、黒子は物音を立てないように物陰から覗き込む。
其処には十数人の人相の悪い不良達と、それに取り囲まれて地べたに膝を付く一人の少年がいた。
「おいおい、寝るにはまだ早いだろ。もう一度聞くぜ? 赤坂の野郎は何処にいる?」
「……知っていても、誰が言うか……がぁっ!?」
腹に靴の爪先を叩き込まれ、少年はくの字に横たわる。既に幾度無く殴る蹴るの暴行を受けたのか、顔は腫れ、切れた唇からの流血が痛々しい。
すぐさま黒子が飛び出そうとした瞬間、後ろから肩を掴まれ、阻まれる。背後を慌てて振り向けば、息切れした童顔の少年が必死な形相を浮かべていた。
(待って下さい……! 幾ら貴女が風紀委員でもあの人数の前に出て行くのは無謀です。それに僕の仕事は貴女を無傷で第七学区に届ける事です)
(あの人を見捨てろと言うのですか!)
(間もなく赤坂さん達が来ます。それまで――)
一際、鈍い音が鳴る。頭を蹴られ、少年は力無く地面に激突する。更には追い討ちを掛けるが如く、他の者達も面白がって彼の腹を蹴り、または頭を踏みつける。
「オウ、ソイツ立たせろ。――お前等のレベルがどれくらい上がったか、ソイツで試してみろ」
リーダー格の非情さに慄きながらも、彼等は熱に浮かされたように倒れ伏す少年を無理矢理起こし、拘束する。これから起こる惨劇は火を見るより明らかだった。
湧き上がった怒りが黒子の理性を吹き飛ばす。童顔の少年の制止を振り切り、黒子は不良達の眼下に立ち塞がった。
「――風紀委員(ジャッジメント)です! 今すぐ暴行を止めなさいっ!」
不良達の視線が倒れて蹲る少年から反れ、黒子に集中する。
数は十七人、如何に大能力の空間移動能力者でも、同時に相手出来る数ではない。だが、此処で足を止めているようでは、風紀委員など務まらない。
「その女、見覚えありますぜ。最近、あの野郎と一緒に行動していた風紀委員ですよ!」
「ほう、こりゃ丁度良いな。ガキ、赤坂の居場所を教えて貰いたいんだが。何でも骨折したらしいからな、見舞いついでにお礼参りしないとなぁ!」
前歯を抜歯し、爬虫類じみたギョロ眼に趣味の悪い派手なピアスを付けたリーダー格の男は凶悪な笑みで顔を歪ます。
「怪我人相手にしか強気になれないなんて情けない人ですわね。その前歯は赤坂さんに抜かれたものですか?」
数の上では圧倒的に不利だが、目の前のリーダー格の男さえ何とかすれば後は烏合の衆、勝手に散るだろう。黒子は不敵に微笑み、小馬鹿にするように挑発する。
後半の指摘が本当に図星だったのか、リーダー格の男は目に見えて怒りを露にし、黒子を睨みつける。
「良い度胸だ。テメェ等は手ぇ出すなよ」
「あら、後悔しますわよ?」
誘いに乗ったと、黒子は内心ほくそ笑む。
一対一ならば、相手が超能力者という例外でもなければ遅れを取るまい。
先手必勝、一人のこのこと出てきたリーダー格の背後に空間移動し、手を逆手に極めて拘束する――刹那、掴もうとした手が空を切った。それ処か、一瞬前までいた男が視界にいない。
消えた? まさか同じ空間移動能力者、などと思考した直後、脇腹に強烈な衝撃を受け、黒子は地面に叩きつけられた。
「ぐぁ……!」
一瞬呼吸が出来ず、苦痛と息苦しさで激しく咳き込む中、黒子は後方から蹴られた事実に驚きを隠せずにいた。
「ほう、空間移動(テレポート)って奴か。初めて見たぜ」
舐めているのか、リーダー格の男は追撃すらせず、余裕を持って見下す。
一体どんな能力を――否、それを考える場合ではない。黒子は太股に取り付けている金属矢に手を伸ばし、空間移動で相手の左肩に撃ち込む。
この距離で、止まっている的ならばミリ単位の制度で命中出来ると自負する回避不可能の射撃は、されども大幅にズレて地に落下する。
(外した? そんな、この距離で摩擦指定を誤る筈が――!?)
黒子が呆然とする中、リーダー格の男は無造作に飛び掛かる。
慌てて飛び退き、その鈍重な蹴りを躱し――躱したと思った刹那、足が在り得ない方向に伸び、黒子の小さな身体を痛烈に蹴り飛ばした。
「がっ!?」
黒子はサッカーボールのように転がり、何かにぶつかって止まる。
それは建物の壁などではなく、不良達の足元だった。彼等の黒子を見下ろす顔が不気味なほど歪んだ。
「っっ!? ぁ――」
蹴り、踏むなどの原始的な暴行を、黒子が空間移動を行う間無く加え続ける。
空間移動を行う為の演算が理不尽な暴力での痛みで掻き消される。こうなってしまっては立て直す事が困難であり、黒子と言えども年相応の少女同然だった。
「手は出すなと言ったが、足なら仕方ないな」
不良達の下卑な笑い声が五月蝿く発せられる。
その間も彼等の暴行は止まらず、黒子は悲鳴すらあげれずにいた。
「もっと徹底的に痛めつけろよ。空間移動で逃げられちゃ話にならんからな」
「コイツ、良く見ると中々の上物ですぜ? 痛めつけるついでにヤッちまっても良いですかねぇ?」
「おいおい、ロリコンかよおまえ。でもまぁ風紀委員様の初体験に貢献出来るなんて、俺達、絵に描いたような模範的な優等生じゃね?」
一際強く頭を地面に叩きつけられ、黒子の意識は途絶える寸前まで朦朧となる。
此処に至って暴行は漸く収まったが、空間移動を使うには程遠い状態にあった。
複数の男達に組み伏せられ、腕も掴み取られて動かせられない。何も出来ない事への絶望と、これから起こる事への恐怖が、黒子の心を更に乱す。
「そうだな。あの野郎の反応も楽しそうだ。手短に済ませろ」
「へへっ、待ってました! オレが一番だっ!」
「あ、ずりぃなぁ! さっさと済ませろよ――」
「――去勢が必要のようだな、盛り付いた駄犬ども」
恐ろしく冷たい声が彼等の背後から発せられると同時に、聞き慣れない機械的な音が全周囲から複数鳴った。
即座に振り向けば、不良達を取り囲むように、警備員が如く完全武装した正体不明の何者達が小型機関銃じみた銃器を構えて立っており、その中心に――今現在は腕章を着けていないが――噂通り左腕を骨折した超能力者の風紀委員、赤坂悠樹がいた。
「な、何だテメェら!?」
その数は確認出来るだけでも二十名以上、何れも強化ヘルメットを装備している為、表情どころか顔すら見えない。
その微動だにしない銃身は、一人残らず、かつ迷わず彼等に向けられていた。
「何って、何処から如何見ても武装無能力集団(スキルアウト)だろ。テメェ等のその眼は節穴か?」
心底馬鹿にするように嘲る刹那、悠樹は組み伏せられた黒子に視線を送り、瞬時にもう一人の被害者に送り、また黒子に戻す。
それだけで彼の意図は伝わった。伝わったが、先程の事は横に置いといて、余力があったなら文句の一つや二つ言いたくなる。
(……全く、相変わらず人使いの、荒い人ですわね。此方とてボロボロなのに――)
オマケに最後のニュアンスは「出来るか?」などではなく、問答無用で「やれ」と来た。
黒子は折れかかった心を奮い立たせ、最後の力を振り絞って空間転移を発動させる。座標は自分以上にボロボロな少年のすぐ傍であり、瞬時に彼の手を取って一緒に空間移動して離れる。距離にして五メートル余り、それが今の黒子の限界であり、それで十分だった。
「な、しまっ――」
悠樹達の登場に呆気に取られ、黒子の逃走を阻止出来なかった彼等に待っていたのは、無慈悲な指揮官からの死刑宣告だった。
フルオート射撃による絶え間無い面制圧が十秒余り持続し、一方的な殲滅が繰り広げられる。銃声が途絶えた後に残っていたのは死屍累々と言った有様だった
「ゴム弾だから死にはしないが、死ぬほど痛いらしいぞ」
自業自得だと、特に感情の色を籠めずに悠樹は吐き捨てる。
一、二発で意識を失った者は運が良い方であり、意識がまだある者は悲惨な事に撃たれた激痛に悶え苦しんでいる。
ゴム弾と言えども、当たり所が悪ければ簡単に骨に損傷が出る。
非殺傷兵器だからと言って対象の安全を完全に確保する訳ではないのは学園都市の科学力をもってしても一緒である。
(……!? リーダー格の男は何処に――っ!?)
黒子が気づいた最中、背後から唐突に首に腕を回され、絞め上げられた形でナイフが頚動脈の近くに当てられる。
「っ、ぁ……!」
「はぁ、はぁっ、動くなっ! 全員銃を捨てろ! コイツがどうなっても知らんぞォ!」
血走った眼でリーダー格の男は怒鳴り散らす。
息が出来ず、黒子は必死に振り解こうと男の腕に爪を立てるが、夏に似合わぬ長袖が邪魔して無意味に終わる。
能力も、こんな切羽詰った状況では発動すらままならない。こんな時ばかりは、平常時じゃなければ使用不能になる、自身の能力の使い勝手の悪さを呪った。
また、垣根帝督の時と同じように自分が重しとなり、足手纏いになってしまうのか――薄れる意識で黒子は悔しく思う。
だが、それは目の前で立ち止まった赤坂悠樹の表情を見るまでだった。
「――よりによって」
地獄の淵から轟いたような、あらゆる恐怖を孕んだ声だった。
憤怒すら凌駕する憎悪を滾りに滾らせた赤坂悠樹の貌を、黒子を初めて見た。垣根帝督と対峙した時も、その後も、こんな恐ろしい表情はしていなかった。
そんな今までに無い恐怖を感じさせる悠樹を見て、背後の男は何を勘違いしたのか、勝ち誇ったように口元を歪ませた。
「へへっ、動くなよぉ赤坂。ちぃっとでも動いたら手元が狂って頚動脈を――」
その男の言葉を聞いていたのか、聞いていなかったのか、恐らくは逆上し過ぎて耳に届いてすらいなかったのだろう。
黒子が気づいた時には悠樹は背後の男を正面から殴り抜いていた。十メートルの距離を空間移動したが如く零にし、鼻っ面を殴り抜いた。
その拍子に黒子への拘束が解け、リーダー格の男は唯一の勝因を手離し、最大の敗因だけが手元に残った。
「ぐぉ、て、テメェ……!」
鼻血が出て痛む鼻を押さえながら、彼は全力で蹴りを放つ。
無論、これはただの蹴りではない。幻想御手で増強した彼の能力、自身の周囲の光を捻じ曲げて、誤った位置に像を結ばせて視覚を欺かせる偏光能力(トリックアート)を用いたものである。
方向感覚と距離感を狂わす彼の能力は、例え手の内が知られても対処出来ない類の能力である。赤坂悠樹によって捕縛された時にある程度能力を知られているが、此処まで強度が向上しているとは思うまい。
斯くして赤坂悠樹は誤った像の蹴りを右手で掴みに行って見事に空振りする。
(その折れた左腕を粉砕すりゃ、超能力者とて只では済むまい!)
完全に決まった。そう確信した刹那、悠樹は在り得ない反応で何も無い虚空を掴み掛かり、一発で本物の足を掴み取ってしまった。
男は驚愕する。幾ら多重能力者と言えども、前回の戦闘から視覚系の能力は無かった筈だ。
それなのに何故、あんなにも正確に掴み取れたのか――その謎を思索する余裕は、秒単位で倍増する握力によって文字通り潰された。
「がぁああああああぁあああぁ!?」
怪力、などという次元ではなかった。男の右足はぐしゃりと握り潰された。ただの素手でだ。
手を放した悠樹の右掌は真っ赤に染まり、地に尻餅付いた男の右足は酷く流血しながら、在り得ない方向に九十度曲がっていた。
カラン、と。余りの激痛で唯一の武器であるナイフを落としてしまう。錯乱しながら反射的に拾おうとする。ナイフの柄に手を伸ばし、握った手を悠樹は踏み抜いた。
「いいい痛っ、待て待ってくれ、折れる、手、手がぁ、ぁああああああああ~~~~!」
手を踏み抜いた後から加重が殺人的なまでに強くなり、地面のアスファルトすら陥没させて、その手諸共打ち砕く。
足を退けば、ナイフの柄が三つに砕け、握っていた手が面白いぐらいバラバラに折れ曲がっていた。
「……っっ、ま、参った。もう、止してくれぇっ! この様じゃ抵抗すら出来ねぇよぉお……!」
男は泣き叫びながら、見下ろす悠樹に許しを請う。
見上げられた悠樹は凄惨に笑い、丁寧に拳を握り込んで、裁きの鉄槌を下す神が如く、頭上に掲げる。
(まずい――!)
黒子は我が身を顧みずに駆ける。
――嘗て、悠樹から繰り出される不可解な超打撃を受けた者は、二十メートル以上吹き飛ばされ、胃の中の内容物全てを吐き出す羽目となった。
手加減出来なかったとぼやいた一撃でも――死なない程度には手加減しているのだ。
今の悠樹は見ての通り、手加減という言葉は完全に消失している。その本気の一撃が、超能力者の全力が、過剰殺傷にならぬ筈も無い。
(ッ――!)
止めに掛かろうとした黒子だが、よろめいて転び、悠樹の血塗れの拳は無情にも振り下ろされた。
誰もが最悪の結果を想像した。頭蓋陥没して即死するか、原型すら留めずに肉塊になるか――否、その前に謎の衝撃波が直撃し、彼は遥か彼方に高速回転しながら吹っ飛んで意識を失った。
(え、え? 一体何が……?)
唐突過ぎる展開に、黒子の理解が追い付かない。
その不慮の事態に悠樹は逸早く反応し、遠くに離れた殺害対象を猟犬の如く追い回そうとする。
その機械的なれども執拗な追撃の足を一歩目で止めざるを得なかったのは、目の前に立ち塞がった障害が余りにも脅威だったからだ。
「ちぃとばかり、やりすぎだぜ。悠樹」
白い鉢巻に、旭日旗を模した奇抜なシャツに学ランを羽織った少年の名は削板軍覇――学園都市に八人しかいない超能力者の第七位だった。