七月十九日(2)
「此処は第一八学区ですよ。第七学区の風紀委員さんは管轄外なのでは?」
「おいおい、冗談きついぜ。此処は第五学区だ。まぁ何方にしろ管轄外だぜ、嬢ちゃん」
三つの地区の境界が集う路地裏に入った途端、白井黒子の前に眼鏡を掛け、夏にも関わらず長袖を着た童顔の少年と暑苦しいまでに筋肉質な半袖の少年が立ち塞がる。
彼等は恐らく武装無能力集団(スキルアウト)と呼ばれる類の人間だろう。
無論、額面通りの物騒な者は一万程度いる中の極一部であり、大半は学校に通わない者や夜出歩く者など素行が悪い者――つまりは不良かチンピラ風情というのが的確だろう。
「此処に赤坂悠樹さんがいると聞きましたが、取り次いで貰えませんか?」
赤坂悠樹の名前を聞いた途端、二人は互いの顔を見合わせ、驚いたように黒子を見た。
「赤坂さんの知り合い? それを早く言って下さいよ。余所者かと思いましたよ」
「へぇ~。あの人、別の処で本命がいたのか。隅に置けねぇなぁ」
童顔の少年は今までの上辺だけの笑顔から親密なものに変わり、半袖の少年は物珍しいものを眺めるような顔になる。
黒子は半袖の少年から妙な勘違いされて不本意だったが、ぐっと堪える。
「ちょっと待ってね、今連絡するから――あれ……うーん、電波の届かない場所に居るみたいだね」
「って事は多分、あそこか。お前、会員証持ってる?」
「ええ、自分は常連ですから」
二人に案内された店の入り口は巧妙なまでに目立たず、入る前から怪しい雰囲気を醸し出していた。
昼でも暗い階段を降り、ID式の扉を開いて黒子の眼下に広がったのは、部屋中に銃器を展示する異様な空間だった。
何処を如何見ても完全に真っ黒な違法経営であり、黒子は余りの堂々振りに思わず絶句する。
「お久しぶりです、爺さん。お邪魔しますねー」
「……部外者を入れるなとあれほど口を酸っぱくして言った筈じゃが?」
店主である老人は黒子の風紀委員の腕章を見て、あからさまに嫌そうな顔をしたが、それだけで読んでいた新聞にまた眼を向けた。
「いやまぁ急用なんですよ。此処に赤坂さんは――」
童顔の少年が言いかけた時、地から唸り出る轟音と共に誇張無しに店全体が揺れた。黒子は驚愕しながら地震かと疑ったが、震動はそれだけで治まった。
「……どうやら来ているみたいですね」
童顔の少年は呆れたような顔で呟いた。どうやらこの局地的な地震の震源は赤坂悠樹らしい。超能力者の非常識さを身近で思い知っている黒子もまた、超能力者ならやれても不思議じゃないと納得する。
「地下の射撃場じゃ。入る際は気をつけるのじゃな。怪我されても責任取れんよ。……全く、どれだけ壊されているか検討も付かん」
目の前の客に見向きもせず、店主は新聞を流し読みしながら素っ気無く言い捨てた。
黒子は螺旋状の階段を一人で降りて行く。時折激しく震動するが、もう慣れたものである。
ビルにして十階分ぐらい降りた処で、ようやく射撃場の扉に辿り着く。
強固で堅牢な扉はまるで核シェルターに備え付けてあるような代物であり、普通の射撃場の施設にこんなものが必要なのかと黒子は疑問符を浮かべる。
回転式の取っ手を力一杯回し、開封されたその先には広大な空間が広がっていた。
常盤台の体育館以上の大部屋には飾り気というものが欠片も無く、硝煙と火薬の臭いが充満していた。
遥か彼方、目測で三○○メートルはあるだろうか、其処には対衝撃を意識した緩急材じみた的が配置されており、軍用でとんでもない強度を誇るものだったと容易に想像出来るが、今は罅割れていて無惨にも半壊状態にある。
そんな惨状を引き起こした張本人は銃身を脇で抱え、右手だけで器用に銃弾を補充していた。
「黒白? 何故此処に?」
「……それは此方の台詞です。絶対安静の身で病院から抜け出して、銃を違法に扱っている店で射撃の訓練ですの? そういえば何故あの時も銃器を所持していたか、問い詰めていませんでしたね」
軽口を叩く黒子を一瞥した悠樹は構わず銃弾を詰め、シンプルな銃を備え付けのテーブルに置いた。
「用件は? 見ての通り忙しいんだけど」
悠樹はさも面倒臭げに眼を細める。人目があっては邪魔だと言いたげな様子だった。
黒子はデパートの地下で買った、適当に高そうなチョコの入った袋を眼下に見せる。途端、臭いだけで何が入っているか解ったのか、悠樹は露骨なまでに破顔する。
「お見舞いです。それと――話が、ありますの」
「……おい、何でイチゴなんだよ。チョコレートに不純物を混ぜるなんて外道だ邪道だ! カカオ分35%以上、ココアバター18%以上、糖分55%以下でレシチン0,5%以下、レシチンとバニラ系香料以外の食品添加物無添加でココアバター・乳脂肪分以外の脂肪分を使用していない事、尚且つ水分3%以下、この純チョコレート生地に分類される規格こそ王道にして至高、単純にして最強のチョコレートだろうがぁ!」
「……チョコレートなら何でも良いって訳じゃありませんのね」
地下射撃場に備え付けられた休憩室に入り、我先にチョコレートに手を伸ばした悠樹だが、それがイチゴチョコレートだと知った途端、悠樹は失望を露にし、激しく憤った。
悠樹の変な拘りを適当に聞き流しつつ、買ってきたチョコレートを再び袋に仕舞おうとした時、黒子の指が触れる寸前の所で悠樹はチョコレートを引っ手繰った。
「待て。誰が食わないと言った」
乱雑に箱を開き、無駄に装飾の凝ったピンク色のチョコレートを悠樹は嫌々口に放り込んだ。
味わう最中、眉間に皺が寄り、目元がぴくぴくと痙攣する。いつもの幸せ全開の表情とは異なり、込み上がる嘔吐感を必死に堪えるような最低最悪の状態だった。
「……やっぱり不味い。泣けるほど不味い。何で此処まで不味くなるんだ、発案者に殺意が芽生えるわ」
「苦手でしたら食べなければ良いでしょうに」
「見舞いの品を粗末には出来ないだろ。全くもって己が矜持だけは度し難い」
この偏った律儀さを何故別の処に活用しないのか、黒子の胸の内に文句の一つや二つぐらい浮かんでくる。
既存のルールを完全に無視し、自分の決めたルールだけを絶対に遵守するだけに性質が悪い。
「で、話とやらは? 昨日の事か?」
「……それもあります。どうか、真剣に答えて下さいまし。――赤坂さんは、どうして風紀委員に志願したのですの?」
「前にも言わなかったか? 詳しく教えて欲しいとしても私利私欲の四文字で語り尽くせるが?」
そんな事の為に態々訪れたのかと悠樹は眉を顰めながら呆れる。
時間の無駄だと即座に判断して席を立ったが、普段とは異なる黒子の思い詰めた表情を改めて見て、悠樹は立ち掛けた席を座り直して無言で話を催促する。
「……わたくしはこの街の平和と皆の生活を守りたいから、その為に自身の能力が役立てればと思いまして、風紀委員に志願しました」
いつもなら「そいつはご立派な事で」と興醒めしながら茶化す処だが、黒子の顔から色濃く滲み出る焦燥から軽口を叩く気分になれず、悠樹はただ沈黙をもって聞き続ける。
「だからと言って、犯罪に手を染め、許し難い惨状を生み出す者でも……昨日のような事になるのは絶対に許せません。彼等にも更生する機会があった筈です。それさえ一切合財奪ってしまうなんて――」
「駆逐される側まで救おうなんて物語の正義の味方でも不可能だよ。無駄に思い悩みすぎだ、切り捨てられる犠牲を直視しても碌な事無いぜ?」
――何処かで割り切れ、と赤坂悠樹は無表情で告げる。
黒子が抱いている葛藤など、悠樹にしては悩むまでも無いものだった。
『――アイツは同じ被験者の置き去り(チャイルドエラー)を見殺して、唯一人だけ表の世界でのうのうと正義の味方気取りだ。外道の俺が言えた義理じゃないが、あのクソ野郎の前では霞むな』
ふと、黒子の脳裏に垣根帝督の言葉が鮮やかに蘇る。彼の言葉を全部が全部、真実だと信じ切った訳ではない。だが――。
「……赤坂さんは、昨日のような人達を救う為に風紀委員をやっているのでは……?」
いつも不真面目で、とことん風紀委員に向いていない傍若無人な性格の彼だからこそ――学園都市の暗部の所業を知って尚、風紀委員をやり続ける、その行動原理を知りたかった。
ほんの一瞬だけ、悠樹の表情が揺らいだ気がした。
「おいおい。何処をどう思考すればそんな爆笑必須の結論になるんだ?」
だが、次に見せた表情は嘲笑そのものであり、心底馬鹿馬鹿しいと鼻で笑った。
「――『特力研』の事、聞きましたの」
ぴたりと、悠樹から感情が消え失せる。
無感情な眼で黒子を射抜くように睨んだ後、前にもこの不快な話題を出した人物がいたなと思い出し、一人納得する。
「……意外と親切でお喋りで御節介なんだな、あのクソ野郎は。その今にも吐き出しそうな顔を見るからに、補足説明する必要は無いようだな」
心底愉しげに、悠樹は身震いするほど禍々しく笑った。
まるで深淵を覗き込んで、想像を遥かに超える何かを目の当たりにしてしまったような、そんな危機感が黒子の中に生じた。
「数え切れないぐらいの〝置き去り〟が脳を弄ばれ、犠牲になった『特力研』から抜け出したオレは、裏の事情で犠牲になる者を食い止める為に正義の風紀委員になって、手段を選ばず奔走しているってか。何それ、虫唾が走るほど美談だな!」
悠樹は腹を抱えて哄笑した。感情の栓が壊れ、狂ったように笑い続けた。
「――お前さ、まさかこのオレを善人だと勘違いしてない?」
滑稽過ぎて笑いが止まらないと、悠樹は眼に涙を溜めながら邪悪に笑う。
黒子に寒気が走った。動悸が激しくなり、背筋から震えが全身に駆け巡る。其処に居るだけで危機感を覚えずにいられないほど、今の赤坂悠樹は尋常ではなかった。
「学園都市で唯一の多重能力者で更には超能力者のオレだが、都合の良い事に〝置き去り〟だったからな、研究者達にとっては簡単に使い潰せる格好の実験体だったろうよ。身寄りの無いからいつ死んでも殺されても壊れても、穴だらけの書類一枚で何の問題無く片付く訳だし」
脅える黒子の反応を愉しむように、舞台の語り手を演じるように悠樹は大袈裟な仕草を混ぜながら語る。
――垣根帝督の話を聞くまで、白井黒子は〝置き去り〟が学園都市の制度に保護されている程度の認識しかなかった。彼の話を聞いていなかったら、そんな非人道的な事が許される筈が無いと反論しただろう。
『――『自分だけの現実(パーソナルリアリティ)』は脳の何処に宿るのかを調べる為に脳を徹底的に解剖した『プロデュース』、一方通行の演算パターンを参考に各能力者のパーソナルリアリティを最適化しようとした『暗闇の五月計画』、最近じゃ暴走能力の法則解析用誘爆実験なんてのもあったな。被験者は一生植物人間だな、ありゃ』
全部が全部ではないと信じたいが、中には制度を逆さにとって、違法的な実験の検体にされるケースが多々あると垣根帝督は喜々と語った。
特に『特力研』、正式名称は特例能力者多重調整技術研究所で一体何が行われたかを詳しく――。
「それでも『特力研』での待遇は破格だったがね。他の何一つ抵抗出来ない哀れな被験者と違って、オレはあの当時から研究者の連中を皆殺しに出来たからな」
そんな地獄のような環境に放り込まれ、何故彼はこんなにも愉しそうに笑っていられるのだろうか。
何もかも理解出来ない未知の怪物と対峙したかの如く、恐ろしくなる。
「あの糞の肥溜めの中で一生のたうち回って過ごすのは流石に御免だった。オレはいつか来るであろう千載一遇の機会を虎視眈々と待ったよ。他の被験者が死んだ方がマシだと思えるようになる凄惨な光景を、鼻歌混じりで眺めながらな」
「そんなの、嘘です……! そんなの出来る筈がありません!」
幾ら他の被験者と面識が薄かったとしても、同じ境遇の者に想う処が必ずある筈である。そう縋るように直視したが、悠樹は歪に口元を曲げる。
「端的に事の成り行きを言うなら、わざと入院が必要なほどの怪我を負って『特力研』から脱出し、無能な研究者達が責任問題で揉めている内にオレは悠々と長点上機学園に転校したという訳だ。めでたしめでたし」
「……施設に残っていた〝置き去り〟は、どうなったのですか……?」
「――『特力研』はその後、警備員に制圧され、解体された。それだけだ。後の事をオレに聞くのはお門違いだぜ。縁切りした俺は当たり前だが一切関与してないし」
欠片も興味無さそうに、赤坂悠樹は退屈気に語る。
「オレが何故、風紀委員をやっているのか。そんなの至極単純な理由だ。派手に活動して学園都市中に名が知れ渡れば、上層部もそう簡単に消せなくなるだろ? また日陰の世界に引き摺りこまれないようにする為だ。そう、完全に自己保身の為なのさ」
悠樹は畳み掛けるように捲くし立て、全ては自分一人の為であると断言する。
「……後悔は、していないのですか……?」
日々壊されていく〝置き去り〟を助ける事が出来なくて、沢山の死を見届け続けて。
結果的に何も出来ずに見殺す事になって、何処かに罪悪感があるのでは無いだろうか?
そういう無念が、風紀委員として結果的に沢山の人々を救う彼に繋がっているのでは無いだろうか?
黒子の切望に似た問い掛けを前に、悠樹は数秒間だけ両目を瞑る。
「――後悔など在り得ないし、罪悪感など最初から存在していない。哀れな弱者が強者の糧になった、それだけの話だ」
再び開かれた眼は微塵も揺らぎ無く、赤坂悠樹は完全否定する。
彼の世界は彼一人だけで自己完結していた。他人の存在など一切必要とせず、ただ己の為だけに利用する――その在り方は、完全無欠なまでに悪だった。
『――アイツの一番の悪行はな、自分が多重能力者だと、研究者さえ騙し抜いて偽装した事だ。目指すべき完成形が間違っていたのなら、多重能力の研究が失敗するのは当然だろ?』
――嘘だと、即座に否定した言葉が脳裏に過ぎる。
もし、本当にそうならば実験の為に犠牲になった被験者は――。
「……今でも、第十学区の何処かで多重能力の研究が続けられていると、聞きました」
「へぇ、そいつは初耳だ。で、それがどうしたんだ? また哀れな被験者を量産するなんて非生産的だな」
まるで他人事のように、赤坂悠樹は興味を示さなかった。自分以外の者が犠牲になっても何も感じないのか、それとも――。
「……多重能力の研究が成果を出さないと確信しているのは――貴方自身が、多重能力者では無いから、ですか?」
煮え滾るような怒りで黒子の唇が震えた。
まるで親の仇を射殺さんばかりに睨まれた悠樹は、身震いするほど凄惨な笑みで顔を歪ませた。
「それは面白い仮定だな。もしそうだとすれば――今まで犠牲になった被験者は全員、完全なまでに犬死だった訳だ。こりゃ傑作だね。あはははっ!」
「――ッ、貴方という人は……!」
ばしんっと、小気味良い音が響いた。
右頬を叩かれた悠樹は意に関してないのか、ただ眼を細めるだけで、渦巻く激情に駆られて立ち去る黒子を眺めるのみだった。
少し時間を置いてから、赤坂悠樹は気怠げに階段を登り切る。
銃器を飾る店先に白井黒子の姿は当然の如く無く、新聞を読み続ける店主の他に見知った顔が二人いるだけだった。
二人の視線は叩かれて赤くなっている右頬に集中していた。
「……どっちでも良いから、追いかけて第七学区まで案内してやれ。多分迷うだろうから」
「それなら自分が行きます。……そういう配慮は御本人の前で見せた方が良いですよ?」
悠樹は事在る毎にいらぬ御節介を焼く少年の忠言を聞こえなかったように無視する。
そんな悠樹の様子に仕方ないなと溜息一つ零し、童顔の少年は走って後を追う。
(……さて、どうするか)
本来なら悩むまでも無い疑問だった。今日の予定は地下の射撃場に一日中籠る処だったが、白井黒子とのやり取りで興が削がれてしまった。
かと言って、対垣根帝督を想定した演算を行うには、思考に無駄な雑音が多すぎてやる気が出ない。
悠樹は帰って飯食って寝ようと結論付ける。
「……もう何人目っすか? 来る者拒まず、去る者追わずなのに深入りする者に対しては相変わらずっすよね」
悠樹が不愉快そうに無言を貫く中、筋肉質な少年は「勿体無いなぁ、可愛い子なのに」とぼやいた。
性格は最悪なまでに歪んでいる無慈悲な暴君だが、学園都市の第八位の名は伊達ではなく、性質の悪い事に悪魔じみたほど頭脳明晰だった。
その気になれば相手を一方的に盲信させ、無償で利用出来る駒に仕立て上げる事だって容易だろう。
それを敢えてしないのか、また何らかの理由で出来ないのかは不明であるが、などと考えている内に少年は携帯の着信音に気づく。
「あいあい、一体何の用で――あん? 何だって……そりゃ本当かって赤坂さん!?」
話している最中に、悠樹はさも当然のように彼の携帯を奪って耳に当てる。
それが緊急を要するものであり、尚且つ自分に関わりがあるものだと薄々勘付いていた。腕一本負傷したぐらいで好機と捉える愚者は、残念ながら山ほどいるだろう。
「電話代わって赤坂だ、何があった?」
『え、赤坂さん? 丁度良い処に……! 第七学区からスキルアウトらしき連中が大量に押し寄せて好き勝手暴れてるんですよ! 能力の強度も無駄に高いし、俺達じゃ対処出来ませんよ……!』
凡そ十数人の不良集団が学園都市で一番平和な裏路地に向かっていく。
その様子を、旭日旗を模した奇抜なシャツに学ランを羽織った少年は遠巻きから眺めていた。
「どうやら噂は本当らしいな。だが、怪我を理由に攻め込むなんざ根性が足りねぇな」
――同じ超能力者(レベル5)の道が交わる時、物語は急速に廻り出す。