雨をいつの間にやら止んでいた。 自分の首筋に細く冷たい指を沿わせている少女の幼い身体は雨水に濡れ、着ている服が透けて色白の肌が露わになっている。 ネギは悪戯っぽい笑みを浮かべると首筋から手を離した。そのまま、小太郎の胸に凭れ掛かった。 細いうなじが目前に晒され、小太郎は生唾を飲み込んだ。「小太郎」 小太郎の名前をネギはため息混じりに呼んだ。 甘く悩ましい声が湿った空気を満たした。まるで果てたばかりのような頭のクラクラする感覚を覚えた。 ネギは痺れたように動けないでいる小太郎の学生服のボタンをゆっくりと外した。 ワイシャツのボタンも外して服の前をはだけさせるとネギは手を擡げて、掌を小太郎の胸にソッと沿わせた。 触れている場所から伝わってくる熱が、まるで焼印のように胸を焦がした。「ねえ、私がどれほど貴方を愛しているか知ってる? ――ねえ、小太郎」 小太郎の胸に置いた手をゆっくりと下へと滑らせて、ネギは小太郎の胸から腹へと灼熱の道筋を残した。 小太郎は喉下に何かが詰まってしまったかのように息が出来なくなった。 ネギは妖艶な眼差しで小太郎の顔を見上げ、鮮血の如く赤い舌の先端で唇を濡らした。「ネギ――」 小太郎はなんとか声を押し出して、ネギの名を呼んだ。自分でも驚く程切羽詰っていたらしい、酷く掠れた声だった。 ネギは小太郎が自分の名を呼んだ事に悦び、今度は首を抱き締める様に腕を回した。 ネギの顔がその甘い吐息を唇に感じる程に近づく。その唇を貪りたい。それは甘美な誘惑だった。 意図しての事なのか、ネギの服は僅かに肌蹴、可愛らしい彼女の髪色に似たピンク色のブラジャーが見えた。下腹部から広がる情欲を抑えるのは極めて困難な試練だった。「って、人に心配掛けといて、何やってるのよ!」 小太郎を押し留めたのはいつの間にか眼と鼻の先に立っていたアスナの声だった。 アスナは顔を真っ赤に染め上げながらわなわなと怒りと羞恥に身体を震わせていた。 ネギはお構いなしらしい。瑞々しい唇を小太郎の唇に押し当てた。 小太郎は抗おうとしたが、己の内なる獣は鋭い爪をもって胸を内側から引き裂いて出て来ようとする。 辛うじて正気を保ち、自らに唇を押し付けている小柄な少女を押し倒さないで居られるのはアスナの存在があるからだった。 アスナの視線が厳しくなるのを感じて、小太郎は慌てた様子でネギの双肩を掴んで引き離した。 小太郎の唇に夢中になっていたネギは引き剥がされたショックで瞳を潤ませた。ネギの哀しげな表情に深い罪悪感を感じた小太郎は咄嗟に謝ろうとした。それをアスナが遮った。「ネギ、アンタ、人に心配掛けといて何してんのよ!」 苛々した口調だった。アスナは自分でも抑えきれない怒りに身体を支配されていた。 幾度と無く抑えてきたネギに対する苛立ちが不意に爆発したのだ。 本当ならば、ネギの無事に安堵し、小太郎との逢瀬を存分に楽しませてあげる為に気を使うべきだと理性が告げているのに、アスナはその選択が出来なかった。「みんな、心配してたのよ? アンタに何かあったんじゃないかって!」 アスナはネギに対していつもいくつかの我慢をしていた。 事件が起こる度に自分を責める事、なにより、真のパートナーである筈の自分の存在を軽んじている事だ。 ネギがアスナを軽んじるつもりなど無いだろう事は分かっている。アスナを大切に思うからこそなのだろうと十分分かっている。 アスナが言いたいのはそれでも自分を頼って欲しいという事だ。 ネギを護りたい、そう思ってエヴァンジェリンがネギに挑戦して来たあの夜にアスナはネギと契約を交わしたのだ。 どんな危機的な状況だろうと、ならばこそ、自分をネギ自身の剣として使って欲しかったのだ。 悪魔使いがエヴァンジェリンを狙った日、ネギもまた悪魔使いの放った伯爵クラスの悪魔と遭遇した。確かに、アスナ自身も只ならぬ状況に身を置いていたが、ネギから助けを求める声は終始掛けられなかった。 修学旅行の日、ネギは敵の強者を相手に一人囮となった。余裕があると思って任せたというのに絶体絶命の危機に陥った。自分を呼べば状況を打開出来るとネギは分かっていた筈だ。結局、ネギはアスナを召喚ばなかった。 少し前のネギを襲った襲撃者の襲来の際もネギは一度としてアスナに助けを求めようと行動をしなかった。あの時、ネギが仮契約のカードを使ってくれていたら事態は変わっていたかもしれないのにだ。 今回の事もそうだった。今のネギの様子がおかしい事は気付いている。 小太郎にあんな風に大胆な態度を取れる子ではないとこの学園の誰よりも一緒に居る自分が一番よく知っている。 つまり、敵に遭遇したのだ。そして、何らかの呪いを受けたに違い無い。それが自分(アスナ)を召喚していれば、もしかしたら回避出来たかもしれないじゃないかとアスナの怒りに油を注いだ。「エヴァちゃんなんて、麻帆良から去らないといけないかもしれないって泣いてたんだよ? それなのに、こんな風に心配させて――何してるのよ、アンタは!」 俯きながら、感情を吐き出す様に言った。 直ぐに激しい後悔の波がアスナを襲った。こんな事を言うつもりは無かった。ネギにこんなにも酷い言葉を浴びせかける自分自身が信じられなかった。「え……?」 謝ろうと顔を上げたアスナはポカンとした表情を浮かべた。 ネギはアスナを見ていなかった。小太郎の腰に手を回して顔を小太郎の胸に押し付けてまどろむような表情を浮かべている。 一瞬、何が起きているのか理解出来ず、立ち尽くしていたアスナは自分がネギに無視された事に気付いた。 カッと頭の中が怒りで真っ白に染まった。 アスナは我を忘れて走り寄り、ネギの――小太郎の腰に回している――手首を掴み上げると、乱暴に小太郎から引き剥がした。「私を無視するなんて――どういうつもりよ、ネギ!」 アスナはネギを厳しい目で睨みつけ、歯を食い縛るように怒鳴りつけた。 ネギは驚いた表情を僅かに浮かべたが、すぐにその表情は溶けて消え、変わりに憎しみに満ちた表情に変わった。 ネギにそのような顔を向けられるとは思っていなかったアスナは更に怒りを強めた。「私の邪魔をしないで」 ネギは怒りを露わにして唸るように言った。 睨み合い、怒りをぶつけ合う二人に小太郎は慌てて声を荒げた。「ちょっと落ち着けや、二人とも!」 今にも杖と剣を抜き放ちそうな空気を発する二人の間に小太郎は割って入った。「そこどきなさい、小太郎!」「小太郎に怒鳴らないで!」「いい加減にやめや、二人とも!」 二人を落ち着かせようと、小太郎は両腕を二人の間に広げて威圧的な声色で怒鳴った。 アスナは興奮で頬を上気させ、瞳は憤怒を映した光を放っていた。「どないしたんや、アス――」「駄目!」 アスナに声を掛けようとすると、ネギが小太郎の伸ばした腕を掴んで自分の所に引き摺り込んだ。 不意の事に意識が混乱してバランスを崩した。小太郎はネギの胸に倒れこみ、ネギは小太郎の重さを支えきれずに一緒に倒れこんでしまった。 小太郎が何事か言おうと口を開く前にネギは小太郎の顔を自分の胸に埋めた。 顔面に押し当てられたネギの胸は特有の柔らかさがあり、素晴らしく気持ちが良かった。鼻腔をくすぐるネギの発する甘い臭いに頭の中が蕩けてしまいそうだった。「私以外を見ないで」 小太郎はネギの言葉に思わず頬を緩ませたが、直後にアスナが憤然と地面を踏みつけるのを視界の隅で捉えて慌ててネギの胸から顔を引き剥がした。 動揺しきった心を落ち着かせるために目を瞑り、大きく息を吸い込んで再び目を開けた。仄かに頬を染めるネギの可愛らしさに、折角鎮めた心が再び大きく揺れ動いた。耳を駆け巡る血流の音が煩いくらいに激しくなった。 この肌に舌を滑らせたい。アスナが直ぐ近くに居るというのに、今この場で組み敷いて情欲のままに服を脱がせてしまいたいと小太郎は本気で思った。 ネギの全てを味わいたい。女の身体だけではなく、男の身体も愛すれば、自分がどれだけネギを愛しているかを分かって貰えるのではないか、そんな危険な方向に思考がずれ始めた時、アスナが低く唸り、一歩一歩近づいて来た。 アスナが地面を踏み締める度に石畳の地面が砕けて皹が広がった。「なんでよ」 アスナは吐き捨てる様に言った。「なんで、小太郎(ソイツ)ばっかり」 怒りの矛先がどういうわけか自分に向いているのを感じて小太郎は困惑した顔でアスナを見るとギョッとした表情になった。 アスナは両目から涙を流していた。悔しさや哀しさや怒りや羨望、様々な感情の入り混じった表情を浮かべ、アスナはポケットに手を突っ込むと、仮契約のカードを取り出した。「お、おい!?」「アデアット」 小太郎が静止する暇も無く、アスナはカードからアーティファクトを出現させた。 アスナの心が乱れている為か、顕現したのは両刃の決着をつける女王の剣(エクスカリバー)では無く、片刃の破魔之剣(ハマノツルギ)だった。 破魔之剣はアスナの怒りに呼応するかの様に刺々しい光を放っていた。「私の事を――――」 アスナは顔を歪めて破魔之剣を振り被った。あまりの驚きに口が利けなくなった。「本気か……」 小太郎は恐怖に顔を引き攣らせて、喉の奥から声をなんとか絞り出した。「――――無視するな!」 小太郎は阿呆のように口を開け放して振り下ろされる破魔之剣の刀身を見ていた。どうしてこんな事になったんだろう、小太郎は迫り来る刀身を前に目を瞑った。「アデアット」 本気で死を覚悟していた小太郎はいつまでも痛みが来ない事に疑問を抱いた。もしかすると、痛みのあまりに脳が咄嗟に痛覚を遮断してしまったのかもしれない。 恐る恐る目を開けた。小太郎は呆気に取られた表情になった。アスナの手に握られていた破魔之剣が霞のように消えていた。 剣を振り下ろした体勢のままアスナ自身も信じられないという目付きをしながらネギを見ていた。アスナの破魔之剣がネギの手に収まっていたのだ。「そうか、千の絆(ミッレ・ヴィンクラ)……」 従者の使うアーティファクトを召喚可能なネギのアーティファクト。 従者の召喚中のアーティファクトまで自分の手元に召喚出来るとは思っていなかった。「どうして邪魔をするの?」 ネギは彼女に似合わない刺々しい声色で言った。「邪魔って何よ」 アスナは歯を軋らせながら言った。「どうして――、どうして、私の気持ちを分かってくれないのよ!」 アスナの身体から黄金の光が湯気のように噴出した。 耳鳴りのような音が響き、ネギの手に握られていた破魔之剣の形が奇妙に歪み始めた。 ネギの目が見開かれた。破魔之剣がまるで空気に溶けるように消滅した。 送還呪文(アベアット)を唱えたわけではない。アスナがネギの手から破魔之剣を奪い返したのだ。 アスナの手の中で破魔之剣に生じた歪みが徐々に収まっていく。完全に破魔之剣が元の形を取り戻した瞬間、アスナはネギを睨みつけた。 アスナは感情を発露するように雄叫びを上げ、破魔之剣を振上げ、ネギに向かって振り下ろした。振り下ろされる中、破魔之剣は強烈な光を放った。その姿は片刃から両刃に変貌した。 ネギは一直線に迫るエクスカリバーを真横に避けた。その瞳はアスナと同様に怒りに満ちていた。 広げた掌をアスナに向けると、強烈な光を伴う魔弾が飛び出した。「お、おい、二人共!」 互いに本気で戦っている事を悟ると、小太郎は慌てて二人の間に割って入ろうとした。 その瞬間、ネギの放った光はアスナの――正確にはエクスカリバーの――完全魔法無効化場の範囲に入る寸前で破裂した。眼に突き刺さる様な閃光にアスナと小太郎は咄嗟に目を瞑った。 目を瞑ったまま、小太郎は連続する破壊音を聞いた。 ゆっくりと回復した視界に入ったのはネギがサギタ・マギカをアスナに向けて放つ光景だった。 無論、アスナには一撃たりとも魔弾は当っていない。よく見ると、アスナが無効化しているわけでは無かった。全ての魔弾がアスナの周囲の地面に向かっているのだ。 何をしているのかという疑問は直ぐに晴れた。 破壊された地面に向かってネギは風を操った。地面の欠片が浮き上がり、そこに風の魔弾が衝突した。 浮き上がらせる時に同時に欠片一つ一つに強化の呪文を掛けたらしい、魔弾のぶつかった欠片は破砕する事無く、アスナに向かって一直線に飛んでいく。 ネギはアスナとの戦い方を熟知した戦い方をしている。 アスナの完全魔法無効化能力は強力だ。あらゆる攻撃魔法が無効化されてしまい、召喚魔法は強制送還され、操作魔法も解除される。 ネギの放った風の魔弾によって吹き飛ばされる地面の欠片は強化は無効化されるが操作しているわけでもない為に勢いは止まらずアスナに向かって飛んで行く。 アスナは飛来する地面の欠片を咸卦の力で受け止めて勢いを殺し、殺しきれなかった欠片は僅かな動きで躱した。 小太郎は早々に止めなければまずいと思った。ネギとアスナではアスナの方が圧倒的に強い。 完全魔法無効化能力だけでなく、前衛と後衛という面でも相性が悪い。身体能力(スペック)も比べる以前の問題だ。更にアスナは咸卦法という究極技法を身に付けている。戦い方が分かっていてもネギがアスナに勝つのは絶対に無理だ。 とはいえ、ネギが弱いわけでは断じて無い。完全魔法無効化能力などという反則が無ければネギの圧倒的な火力を前にアスナは満足に動く事も出来ずに敗北するだろう。 その二人の間に割ってはいるのがどれだけ自殺行為なのか、小太郎は一瞬顔を青褪めさせた。「って、怖がっとる場合やない」 息を深く吸った。戦況は大きく様変わりしていた。ネギはいつの間にか呼んでいたらしい『杖』に乗り、弾幕を張りながら高度を上げている。「そうか、アスナの姉ちゃんは空を飛べない」 飛行能力の有無は持つ方に圧倒的なアドバンテージを与える。距離感が掴み辛く、死角が大きくなる。なによりも近接武装や接近技が意味をなさなくなる。 アスナは修学旅行の時に編み出した、咸卦の力を刀身に集中させ、斬撃に乗せて放つ『竜王斬(カリバーン)』を上空で縦横無尽に飛び回るネギに向けて放つが全て躱されている。 アスナはまだ咸卦の力を完全にコントロールする事が出来ず、竜王斬は一直線にしか飛ばないのだ。 夜空に向かって黄金の光が幾筋も伸びるがネギには一撃も当らない。四度目に斬撃を放ったアスナは竜王斬でネギを撃ち落とす事を諦めたらしく、咸卦の力を刀身に集中させずに上空から冷気の魔弾を放つネギを見上げた。 今がチャンスだ、小太郎は二人を止める為に動こうと構えた。 冷気の魔弾が地面を氷結させ、周囲の温度を急激に低下させていく。吐く息が白くなった。エヴァンジェリン直伝のネギの氷の魔法は強力だ。直撃すれば凍傷では済まないだろう。「獣化すれば……」「まあ、待て」 突然、背後から細く白い手が小太郎の肩に伸びた。ギョッとしたが、直ぐにその声の主が誰だかを思い出した。「なんで止めるんや?」 振り返るとエヴァンジェリンが立っていた。その隣には茶々丸の姿もある。「私が本気を出せば一瞬で二人を止められる――――今はまだな。だから、今の内にあいつらをぶつかり合わせておきたい。互いを殺そうとするくらい本気でな」 小太郎はエヴァンジェリンの言葉が理解出来なかった。 エヴァンジェリンは間違いなくアスナとネギを大切に思っている筈だ。互いを殺し合わせる事になんの意味があるというのか。「小太郎、お前がネギと出会う前、私はネギを殺そうとしたんだ」 自分でも驚く程の手際で片腕だけを真っ黒な毛皮の獣の前脚に変化させてエヴァンジェリンの心臓に向けて振るった。 茶々丸が咄嗟に抑えようと小太郎の変化した腕をエヴァンジェリンの首に到達する寸前に捕らえたが、茶々丸の腕は何の抵抗にもならなかった。 直後、甲高い金属がぶつかり合うような音が響いた。鋼鉄をも容易く切り裂くように変化した小太郎の獣の爪をエヴァンジェリンの細い指が止めていた。 小太郎が眼を細めると、エヴァンジェリンは空いた方の手で小太郎のおでこを目にも止まらぬ速さで――小太郎の眼や茶々丸のセンサーすら捉えきれぬ速度で――小太郎のおでこにデコピンをした。「いつっ!」「土御門の言うとおりだな」 おでこを抑えて悶えている小太郎を見てエヴァンジェリンは言った。小太郎もエヴァンジェリンの言葉の意味が分かっているらしく、気まずそうな顔をした。「多分、小次郎が近くに居ると自覚したからだろうな。探そうと思えば探せるだろう――探すなよ?」 エヴァンジェリンは念を押すように言った。小太郎は青褪めた顔をしていた。 エヴァンジェリンがネギを殺そうとした。その言葉を聞いた瞬間、驚くより先に勝手に身体が動いていた。 ゾッとするのは途中で自分が止めようと欠片も思わなかった事だ。「さっきの続きだが」 エヴァンジェリンはそんな小太郎の様子を無視して話を続けた。「あの時は未だ、ただの――と言っても常識外の身体能力(スペック)と完全魔法無効化能力を持っていたが――女子中学生だった神楽坂明日菜はネギと仮契約を交わした。ただ、あの馬鹿娘を護りたいと何の損得勘定もせずに命懸けの戦いだと理解した上で戦場に立った」 小太郎はアスナや木乃香、刹那と仮契約をしているのは知っていたが、自分がネギと出会う前に彼女達とどのような経験をして来たのかを聞いた事が無かった事を今更思い出した。「お前や刹那は元々心構えは出来ていただろう。木乃香は刹那に対する愛情があったから。和美だって、長い間一緒のクラスでそれなりに仲が良かったから、修学旅行の日、友の為に命を投げ出すような真似をした。アスナだけは違うんだよ。出会ってからほんとに僅かな時間を過ごしただけの、本当に赤の他人と言っていい間柄だったネギの為に命を懸けたんだ」 確かにそれは賞賛すべき事だし、少し異常じゃないかとも思った。 だが、小太郎にはそれが今二人の戦いを止めない事と何の関係があるのかが分からなかった。「私が言いたいのはな、戦場に立つ為の覚悟の度合いさ。初めての命を懸けた戦場。それも、前準備も無し、それまで平凡な日々を送っていた人間が突然そんな中に叩き込まれて、出会ったばかりの他人の為に戦う決意をする。それがどれくらい凄い覚悟か分かるか? ただの馬鹿と片付けて良い事だと思うか?」 小太郎は段々とエヴァンジェリンの言いたい事が分かってきた気がする。「で、何でネギに喧嘩なんか売ったんや?」 小太郎は視線をネギとアスナの戦いに戻しながら問い掛けた。「ネギにでも聞いてみろ。それより、動くぞ。見逃すには惜しい戦いだ、よく見ておけ」「一つ聞かせてくれへんか?」 二人の対決から視線を微塵も動かさずに小太郎が口を開いた。「なんだ?」「アンタの口臭、それどういう事や?」「人の口が臭いみたいに言うな! タカミチに吸血させてもらったんだ」 それまで冷気の魔弾を両足に咸卦の力を集中させ、アスナは跳んだ。迫り来るアスナから逃れようとネギが移動するとアスナは虚空瞬動を使い追って来る。「マークシマ・アクケレラティオー」 杖に最大加速の呪文を使う。一気に加速する杖の進行方向にアスナは竜王斬を放つ。「ラピデー・スプシスタット!」 間一髪で停止の呪文を唱え、目の前を過ぎる竜王斬の黄金の軌跡を回避した。だが、アスナが目の前まで迫って来ていた。「マークシマ・アクケレラティオー」 エクスカリバーが振り下される寸前にネギは地面に向かって最大加速した。「ウエンテ!」 地面に激突する寸前に風を操り、風をクッションにして地面に降り立つとネギは杖を振り被った。「コンフィルマーティオー・フルミナーンス!」 ネギの呪文によって雷霆を迸らせた杖が一直線にアスナに向かって飛んだ。「な、何しとんねん!」 いつの間にか二人の戦いに見入っていた小太郎はネギの突然の愚行に声を荒げた。アスナの魔法無効化能力の前ではあんな攻撃は意味をなさない。 アスナもそう考えたのか杖を弾き返そうとエクスカリバーで薙ぎ払おうとした、その瞬間だった。杖に篭められた雷が突如破裂し、轟くような音と凄まじい光がアスナを襲った。 意識を乱されたアスナは虚空瞬動で体勢を整える間も無く地面に落下した。 咸卦の護りのおかげでかなり高い場所から落下したにも関らず無傷で立ち上がったアスナは直ぐに立ち上がり杖を呼び戻しているネギの姿を視界に捉えた。 間一髪で杖を最大加速させてアスナの剣から逃れたネギはニヤリと笑みを浮かべ、直ぐに距離を詰めるべくアスナに向かって最大加速した。「くあっ!?」 アスナは剣が空を切った事でよろめいた。体勢を整え直そうと前に足を踏み出すと、突然足場が消滅してしまった。 その場所は最初にネギが魔弾で破壊した地面を氷の魔弾で埋めた場所だった。アスナが無意識に無効化させてしまい、氷が一瞬にして空気に戻り足場があると思っていたアスナの身体は完全にバランスを失い倒れそうになった。 ネギがアスナの腹部に拳を叩き込んだ瞬間、ガラスの割れる様な音が響いた。「あ、ああ……」 アスナはネギの顔を見た途端にそれまで抱いていた怒りが吹き飛んでしまった。よろよろと首を振りながら後ずさるネギのその顔はまるで悪い事をしてしまったのを親に見つかった子供の様だった。「私の負けか……」 アスナは吐き出す様に呟いた。「アスナ……さん?」 ネギが瞳を揺らしながらアスナの顔を見上げるとアスナはつかつかとネギに歩み寄った。 ネギは怒られると思って身を竦ませ、目を瞑った。だが、打たれる痛みも怒鳴られる衝撃も訪れなかった。ただ、柔らかい何かが自分を包み込むのを感じた。 恐る恐る眼を開くと、アスナがネギを抱き締めていた。「ごめん、酷い事して」 ネギは咄嗟に違うと叫んだ。謝るべきはアスナでは無いと。何故か記憶が曖昧だったが、アスナの目の前で非常識な行動をしたり、アスナを無視してしまった事は覚えていた。「アスナさんは悪くないです。わた、私が……私の方こそアスナさんに酷い事――」「そんな事はいいの!」 アスナの悲痛な叫びにネギは言葉を飲み込んだ。アスナはギュッときつくネギを抱き締めた。その身体は弱々しく震えていた。「ねえ、聞いて。私は……、私はね、心配なのよ。ネギの事が」 頭の上から冷たい雫が流れ落ちて来た。ネギはアスナが泣いている事に気が付いた。何かを言わないと、そう思うのに、声が全く出ない。「私、不安なのよ。ネギ……あんたが、私の見てないところで大ケガしてるんじゃないか、死んじゃうんじゃないかって」 ネギはアスナの言いたい事が分かった。どうして怒ったのかも。今まで何度も言われてきたではないか、アスナ自身にも、エヴァンジェリンにも。「――あんたの事、守らせてよ。私を……あんたのちゃんとしたパートナーとして見てよ」 そう、何度も言われてきた。自分でも分かっているつもりだった。自分がアスナをちゃんと見ていない事を――――。