魔法生徒ネギま! 第十五話『西からやって来た少年』 アーニャがベアトリスと修行を開始する頃、ネギ達は始業式に出席していた。始業式が終わると、ネギは学園長に呼び出された。その肩には、帰って来て“オコジョ煎餅”という謎のお土産を持って来たカモが乗っている。学園長室の扉をノックすると、中から老人の声が響いた。「失礼します」 中に入ると、そこには目を見張る存在が座っていた。頭が常人よりかなり長く、ネギは驚いて一瞬目を見開くと、傍に居たタカミチが咳払いをしてネギは正気に戻った。「まずは、はじめましてじゃネギ・スプリングフィールド君。儂がこの麻帆良学園の学園長、近衛近右衛門じゃ」「は、はい! えっと、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。ネギ・スプリングフィールドです」 ネギは緊張して舌が痺れている様な感覚を覚えた。近右衛門の労いの言葉が耳に届く度に変な声にならない様に気をつけねばならなかった。「さて、色々と大変じゃろうが本題に入ろうかの」 近右衛門の言葉にネギは背筋を正した。近右衛門は緊張しているネギに微笑みかける。「そう緊張せんでよい」 そうは言われても困るとネギは思った。目の前に居るのは、全盛期のエヴァンジェリンとすら比肩する魔法使いであり、否が応にも緊張を強いられてしまう。「――ふむ。さて、君がこの学園に派遣された理由は分かっておるな?」「ハ、ハイ!」 近右衛門はネギの返事に近右衛門は満足気に笑みを浮べた。「一応確認するぞ?」 そう言いながら、近右衛門は学園長室の立派な木製のデスクの引き出しから一枚の紙を取り出した。紙に目を通しながら、近右衛門は口を開いた。「『日本の女子校に潜入し、悪い組織に狙われている少女(複数)を影から護る事』。これで相違無いな?」「はい」「よろしい。では、詳細に移ろうか。もう理解しているじゃろうが、この学園は少し特殊じゃ」 ネギは理解していた。そもそも、知っていれば魔法使いが教職に就き、真祖の吸血鬼が棲むこの学園が普通の学校などとは誰も思わないだろう。「よろしい。まず、君がどうして麻帆良学園本校女子中等学校の二年A組に配属されたか。君の任務にある護るべき対象がA組に集まっておるからじゃ」 それも理解っていた。明日菜と木乃香、エヴァンジェリン、茶々丸、刹那、既に魔法使いだとバレた面々は皆一様に狙われる理由が存在した。明日菜は異能を打ち消す異能を持ち、木乃香は極東最強の魔力を保有し、エヴァンジェリンは真祖であり、茶々丸は真祖の従者、刹那も半妖だ。アキラだけは特に狙われそうな要因は無いが、少なくとも六人中五人が異端の中でも更に異端なのだ。これをおかしいと思わない程、ネギも子供ではない。「理解っているようじゃな―――結構。さて、君が護るべき対象は神楽坂明日菜君、近衛木乃香君、そしてエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル君じゃ。既に君達が接触し情報を共有しておるのは知っておる」 どこまで? そう聞きそうになった。カモは無言で何を考えているのか判らないが、気になる事があった。「学園長先生、少し聞いてもいいですか?」 ネギが恐る恐る声を発すると、近右衛門は目を細めた。「なんじゃね?」 小さく深呼吸をする。「学園長先生、情報を共有していると仰いましたが、もしかして……貴方は前に木乃香さんが天ヶ崎千草という女性が木乃香さんを攫おうとした事を知っているんですか?」 ネギは睨む様に近右衛門を見ていた。もし、自分が考えている通りだとしたらそれはどういう事なのかを問い詰めるつもりだった。「知っておった」「へ?」 あまりにもアッサリと返され、ネギは一瞬ポカンと口を開けて放心してしまった。壁際に立つタカミチを見ると、険しい顔をしている。カモは表情が読み取れない。「当然じゃが、この麻帆良学園には特別な防護策が打たれておる。例えば、学園結界がその最たるモノじゃ」「学園結界?」 聞いた事のない言葉に首を傾げると、タカミチが口を開いた。「君は生徒達が世界樹と呼んでいる樹を知っているかい?」 知っている。初日に和美が案内してくれた最後の場所、それが世界樹だ。「真名は“神木・蟠桃”。麻帆良学園は龍脈の上に建造されている。龍脈に流れる魔力を溜め込んでいる魔法の樹。それが世界樹の正体だ。学園結界とは――この世界樹が龍脈から汲み上げた魔力によって編まれた学園全体を覆う結界術式の事なんだよ」「納得だな。前から妙だとは思ってたんだ――」「カモ君?」 突然喋り始めたカモにネギは驚いた。「最初に違和感があったのはエヴァンジェリンだったッスが、天ヶ崎千草の時に思い当たったんスよ。天ヶ崎千草の実力に出力や防御力が噛み合っていないって――」「どういう事?」「姉貴、天ヶ崎千草の実力は間違いなく上位のレベルだ。あれだけ多彩な術式を使いこなす術師が作り出した術式が、幾ら膨大な力を持つからって木乃香の姉さんの魔力放出だけで破壊される筈が無いんスよ」 ネギは思い出した。あの時の戦い、勝てた最大の要因は木乃香が自分の魔力を放出して天ヶ崎千草の魔法を使った拘束を打ち破ったからだ。よく考えてみればおかしい話だ。魔法のマの字すら知らない素人が、初めて感じた魔力を使って方向性を示せる筈が無い。むしろ、下手をすれば天ヶ崎千草の術式を強化するだけの結果に陥る可能性すらあったのだ。「そんで、エヴァンジェリンに感じた違和感が強まった」「どういう事?」「どうして“登校地獄”っつう学校に登校しないといけない呪いが魔力を封じる事が出来るかって事でさ」「――――ッ!」 言われてみればその通りだった。“登校”地獄なのだ。魔力があっても別に登校は出来る。なら何故? そう考えて話の繋がりが見えた。「世界樹?」 ネギが恐る恐る言うと、カモは頷いた。どうやら正解のようで、学園長とタカミチも頷いている。「正解じゃよ。とはいえ、術式を作り出したのはナギじゃ。彼奴め、魔法など手で数えられる程しか覚えていないというのに、全く新しい魔法を数日で完成させおったんじゃよ。世界樹の魔力や学園結界と組み合わせてのう」 どこか愉快そうに近右衛門は嗤った。「解除は出来ないんですか?」 ネギが躊躇いがちに言うと、近右衛門は目を細め、タカミチは険しい表情を浮べた。「出来るか出来ないか……そう聞くならば前者じゃ」「え?」 予想外の回答にネギは目を丸くした。「確かに、エヴァンジェリンの呪いは解除出来る。じゃが、それは事実上可能というだけじゃ。可能か不可能でならば不可能と答える他ない」 近右衛門の言葉の意味がよく分からなかった。すると、カモが口を開いた。「姉貴、少し考えれば解除法は三つありやす」 カモの言葉に、近右衛門やタカミチが目を丸くした。少しだけネギは得意になった。カモの優秀さを見せ付けられるのが嬉しかったのだ。だが、今はそれよりもカモの話を聞かなければいけない。「まず、一つ目はナギ・スプリングフィールドによる解除。術者なら当然解除法を知ってる筈なんス。でも、ナギ・スプリングフィールドは現在行方不明。だからこの案は最終的にナギを見つけ出す事が出来るか否かであり、現状ではまず無理ッス」 カモの言葉に、ネギはシュンとなった。父親の事を話すと、ネギはしばしばこうなってしまう。だが、それが分かっていてもカモは口にした。実はこれは一種のカードだった。今の発言で、一瞬だがタカミチが反応したのを確認した。逆に、近右衛門は眉一つ動かさなかった。だが、それで満足だった。「二つ目、術式を解析する事。つまりは天才魔法使いであるナギ・スプリングフィールド考案の術式を逆算して解除術式を構築する。とはいえ、こんな事は最強の魔法使いであるエヴァンジェリンがやろうとしない筈が無い。エヴァンジェリンレベルの魔法使いで解析が出来ないなら、これも無理って事でさ」「そっか……。最後は?」 落胆するネギに苦笑しながらカモは言った。「最後の手段は、学園結界の解除ッス。まあ、無理な理由は言わなくても分かりやすね?」 それは簡単に理解出来る。天ヶ崎千草という敵が来た。つまり、敵が来る場所なのだ。それを護るのが学園結界。なら、それを解除など出来る筈も無い。「そういえば、エヴァンジェリンさんは私の血を吸って解除しようとしてたけど……」 思い出すように言うと、カモは首を振った。「確かに、普通、他人の魔力は特別な事が無い限りは自分の魔力と上手く混ざらないんスけど、吸血鬼ならまぁ、術師の血を身に取り込めば、術師の魔力を血から抽出し、術師の魔法に対してワクチンを作る事が出来やす」 カモはどこからか煙草を取り出して一本口に咥えて火をつけた。煙を吐き出しながら言った。「だけど、恐らくはエヴァンジェリンの野郎も分かってる筈ッスよ。魔法に対するワクチンを作るのは並じゃありやせん。少なくとも、実際は10歳の姉貴の血じゃ、死ぬまで吸い尽くしたとしてもワクチンを生成する事は不可能だ。量が足りない」 ネギは肩を落とした。カモは内心でネギに謝罪していた。本当はもう一つ、解除する方法がある事を教えない事を。「まあ、もう一つ解除出来ない理由があるんだろうけどな」「解除出来ない理由……?」 カモは近右衛門を見た。近右衛門は頷き口を開いた。「エヴァンジェリンは過去に賞金を懸けられておった」 知っている。それがどうして解除できない理由になるのだろうか……。「つまりのう、エヴァンジェリンが今は無力な少女じゃから、賞金を取り下げられておるんじゃ」 ネギはそれだけで理解した。何とも不愉快な話だが、600万ドルもの賞金が取り下げられるにはそれだけの理由があるのだろう。ネギは近右衛門の言葉を待った。「魔法協会も教会も、どちらもがエヴァンジェリンを疎んでおる。少しの切欠で今の状況が壊れるか分からぬ。少なくとも、ナギの居ない現状でエヴァンジェリンを開放すれば、間違い無く両者が爆発し、エヴァンジェリン討伐に力を注ぐじろう。教会と魔法協会、両方が一斉に襲い掛かり、加えて賞金稼ぎや個人的な復讐者までもが参戦する最中に儂達魔法使いは協会の定めで助太刀も出来ぬ。さすがに、一人でその様な渦中に放り込むなど出来ぬよ……」 真に思うなら、協会の決め事など無視してエヴァンジェリンを助ければいい。そう思っても、ネギは口にしなかった。出来る筈も無い。それが、枠におさまる魔法使いという種族なのだから。枠(ルール)が無ければ、世界は混乱する。護らないといけないモノがある。吸血鬼一体と、世界など、秤にも乗せる事が出来ないのは理解している。それでも、気分が重くなった。「ともかく、指令を遂行するのは結局はお主自身じゃ。じゃから、お主の思うままに進むが良い」 幾らなんでもいい加減じゃないか、ネギはそんな風に視線を送っていると、近右衛門はふむと視線を泳がせた。「不服そうじゃな。まあ、当然じゃろうて」 小さく息を吐く近右衛門にネギは慌ててしまった。「あっ! いえ、そんなんじゃ……」 頭を下げるネギに近右衛門は目を細めた。「よいよい。それくらいの気構えがある方がいいんじゃよ」 さて、と言って近右衛門は居住まいを正した。「本日、2003年4月8日午後3時54分をもって正式に、ネギ・スプリングフィールド君の修行を開始とする」「は、はい!」 近右衛門の引き締まった表情と声に、ネギは再び緊張を取り戻し、背筋を伸ばして言った。 未だ空が茜色に染まり始めたばかりの頃、麻帆良学園の外と内の境界で一人の少年が走っていた。「ったく、なんなんやこの学校は!?」 黒い瞳に黒い眼、黒い学ランに黒いズボンという全身真っ黒の少年は、シャツだけが白かった。一際目を引くのは少年の頭部にある二つの少し大きめの犬の耳。黒い毛皮の耳が少年を只のヒトでは無いと証明している。少年の背後からは殺気を撒き散らし怒声を上げる麻帆良学園の魔法使い達が少年を追っていた。さっきから背後で色とりどりの魔法の光が爆発しているのを感じる。追っ手は二人。一人はかなりの実力者であり、もう一人の実力も並ではない。「クソッ!」 何度も撒こうとしているのだが、追っ手の二人は見事な連携で少年は撒く事が出来なかった。怖気が走った。少年は走る事に専念すべきこの場面であるにも関らず、チラリと背後に視線を送ってしまった。 絶句する。有能な方、金髪の少女の手には物騒極まりない大剣が顕現している。その大きさは10歳前後の少女の身長の約三倍。向こうが透けて見える巨大な大剣は少年に不吉さを感じさせた。「ちょっ!? エヴァンジェリンさん、それはやり過ぎではぁ!?」「ハッ! 安心しろ瀬流彦。両手両足をもぐだけだ!」「安心出来ませんよ!」 瀬流彦は顔を引き攣らせながら叫ぶがエヴァンジェリンは鼻で笑い飛ばすと、その両手を掲げた先に顕現している“断罪の剣(エクスキューショナーソード)”を振り上げた。後ろで不吉すぎる言葉を発する自分よりも年下にしか見えない少女に少年は頭を抱えたくなった。 里が滅ぼされてから世話してくれていた女性がこの学園で行方不明になったと聞き、その原因らしい、彼女が狙っていたという英雄の息子に会いに来たというのに、全く関係無い魔法使いに襲われ、下手を打てば殺されかねない状況だ。 そもそも、自分より年下なのにあの実力は不釣合い過ぎる。超がつくほどの大天才が超のつくほどの英才教育を受けて超がつくほど努力しまくってもあそこまであの歳で強くなれるとは到底思えなかった。振り下ろされた断罪の剣は木々や地面の土、草、石を粉砕する。「んな物騒なもん振り回すなや!」 少年が思わず叫ぶ。「当ったら死ぬで!?」 横ギリギリの場所を断罪の剣が通過し、その地面が抉られるのを見ながら絶叫すると、エヴァンジェリンは悦の入った笑みを浮べた。「ああ、悪く無いぞ化生。その顔、その声! だが、興もこの辺にしておこう。潔く倒れろ、侵入者!」「誰が化生や!!」 叫び返すが、少年はどうすればいいか迷った。「こうなったら……一か八かやな!」 少年の瞳が光る。断罪の剣を振り落とそうとするエヴァンジェリンに向けて、右手に気を篭めて放った。「犬上流・狗音噛鹿尖!」「そんなもの毛ほども感じんぞ!」 そのまま一瞬すらも停止せずに振り落とされる断罪の剣。少年は舌打ちしながら笑みを浮かべ、大きく横に転がった。すぐに立ち上がりながら、気を篭めた拳をエヴァンジェリンと瀬流彦の方向の地面に向けて放った。土煙が上がり、エヴァンジェリンは忌々しげに魔法で土煙を吹き飛ばした。その先に駆けている少年の姿がある。「おい、瀬流彦! 貴様、整備中の茶々丸の代わりに私と組んでいるのだからもう少し役に立て!」「すみません!」 エヴァンジェリンの怒鳴り声に恐縮しながら、瀬流彦は視界に捉えた少年に杖を向けた。風の魔力を集中する。「サギタ・マギカ、戒めの風矢!」 瀬流彦の杖から噴出した風の魔力を纏った矢が少年に激突した。「やった!」 思わず歓喜すると、エヴァンジェリンはその姿に若干呆れながら捕らえられた少年の下に行き、瞬間――。「痛っ!?」 瀬流彦を叩いた。「な、何するんですかエヴァンジェリンさん!?」 いきなり叩かれて理不尽を感じた瀬流彦は思わず抗議の声を上げるが、エヴァンジェリンが拳で木を殴り、そのまま成人男性よりも太いくらいの木を薙ぎ倒したのを見て黙った。「あの小僧、やってくれる」「え?」 瀬流彦はエヴァンジェリンの言葉の意味が分からずに少年を見た。「あっ!」 瞬間、少年の姿が煙になり、その場に一枚の人型の紙が舞い落ちた。「東洋魔術か……」 舌打ちし、忌々しげに呟くと、脳裏に声が響いた。硬直したエヴァンジェリンに首を傾げつつ瀬流彦は少年を追いかけようとすると、エヴァンジェリンが呼び止めた。「何ですかエヴァンジェリンさん! 早く追いかけないと!」「必要ない」「え?」「タカミチが向かった」 遠くの場所で巨大な爆音が鳴り響いた。エヴァンジェリンに念話を送ったのはタカミチだった。タカミチの念話の内容は、少年を捕捉したという事だった。「なら応援に!」「いらん! それより飲みに行くぞ! あんな小僧にコケにされるとは、ああムシャクシャする! 奢れ瀬流彦!!」「ええ!? 僕そんなにお金無いですよ!?」「知らん!」「酷い!?」 そのまま、エヴァンジェリンと瀬流彦は戦線を離脱した。自分達の仕事は終了だと判断したエヴァンジェリンに連れられていく瀬流彦は自分の財布を見ながら震えていた。 エヴァンジェリンと瀬流彦が居た場所から数百メートル離れた場所に巨大なクレーターが幾つも出来上がっていた。クレーター郡の中で、少年は学ランがボロボロに破れ、所々から血を流している状態で立っていた。右腕を左手で押えている。 タカミチは本心から驚嘆していた。“居合い拳”――魔法の詠唱が行えないタカミチが師匠から伝授されて極めたとまで自負する奥技。捕獲しようと加減した事は認めるが、間違いなく動けなくするつもりで放った。少年が立ち上がるとは思わなかったタカミチは思わず笑みを浮かべた。無駄な戦闘を避ける為に死角から不意打ちした。躱したとは思えない。「なかなかの防御力だ」 タカミチの心からの称賛を受け、少年は唇の端を吊り上げた。「効いたで……」 爛々と瞳に戦意の炎を灯らせながらタカミチを睨む少年を見ながら、タカミチは冷静に少年を分析していた。「君の名前は?」「犬上や……、犬上小太郎。アンタは?」 答えた。タカミチは眼を細めた。「僕は高畑.T.タカミチ。質問してもいいかい?」「質問?」「どうしてここに侵入したのか、その目的を知りたいな」 普通なら答えが返って来る筈の無い質問。タカミチは敢えて質問した。「ワイの目的、知りたいんか?」 タカミチは内心で冷笑しながらも表面は穏やかな笑みを浮かべた。「ああ、君の目的を教えてくれないかい?」「ええで。ただし……」 その瞬間、犬上はニヤリと笑みを浮かべた。タカミチはすぐさま両手をズボンのポケットに入れた。タカミチは確信した。「戦闘に悦びを覚えるタイプか、一途で、愚かな性質。やはり子供だな」 犬上が右手に気を集中しているのを理解し、タカミチは威力を抑えた居合い拳を放った。その一撃で体勢を崩し、一気に決めるつもりだった。 タカミチは眼を見開いた。「馬鹿な……」 タカミチの居合い拳は不可視の攻撃だ。一直線な攻撃とはいえ、未だ直接目の前で居合い拳を放った事は無い。加えて犬上は既にボロボロの筈であり、その証拠に服はズタズタだ。血も流している。速度も威力を抑えたとはいえ、この距離なら一ミリ秒以下の速度で犬上に命中する筈だった。 犬上は居合い拳が放たれた瞬間に身を捻っていた。それだけで、居合い拳を躱した。まるで、見切っているかのように。そのまま、犬上は右手に集中していた気を地面に叩きつけた。「なに!?」 一瞬、予想外の犬上の行動に戸惑ったタカミチは、逃走した犬上を見失ってしまった。読み間違えていた。相手が少年だからと侮った。少年が熱くなっていると踏んだ。戦闘狂の気があると思い込んだ。少年の言動や在り方。つまりは“第一印象”で犬上の像を自分の中で縛り過ぎてしまった。犬上は熱くなっていないし、冷静に戦況を見つめる事が出来る戦闘者だったのだ。「まだまだ未熟だな……僕は」 自省しながら、タカミチは犬上の走り去った方へ駈け出した。 タカミチが去った後、数十メートル離れた(タカミチが駈け出した方向とは反対の)場所で、木が動いた。「巧く……いったみたいやな」 犬上は安堵の息を吐くと、木から飛び降りた。「ともかく、もうすぐ夜になってまうな……」 茜色に染まり始めた空を見上げながら、犬上は呟いた。人ごみに紛れて侵入しようと思っていたのだが、生徒や学園内の“住人”でない者は神木・蟠桃によって力を封じられてしまうという情報を得ている。つまり、少なくとも神木・蟠桃は犬上を学園にとっての異端であると判別出来てしまうという事に他ならない。 麻帆良への入口には例外なく魔法使いが配備されている。仕方なく、一番警戒が薄いと思われた場所から入り込んだが予想外に強い魔法使いの少女が居て、その上に見た瞬間に否応無く負けると確信させる実力を持つ男が居た。「さすがは、麻帆良学園ってとこかいな……」 自分は運が良かった。犬上はそう感じていた。最初の死角からの怒涛の攻撃が来た瞬間に、犬上は攻撃が来ている方向を確認した。それ自体は簡単だった。攻撃の着弾地点の抉れ方を見れば一目瞭然だ。敵の方向がわかった瞬間に、攻撃を受けてヘロヘロになりながら敵の方向からは見えないだろう木の陰で式紙を用いて自分の写し身を作り出して入れ替わった。そのまま、木の上に登ると木の上から式紙を操作してタカミチを騙したのだ。 運が良かったのは、タカミチが一人だった事。犬上が式紙を使う事をタカミチが知らなかった事。タカミチが子供だと侮った事。タカミチがポケットに手を入れた瞬間に、咄嗟に式紙に回避行動を取らせるという判断を下せた事。そのどれもが幸運だった。式紙は逃がす途中で元の紙に戻した。犬上は隠密の修行も受けた事があり、気配を隠す技能は高い。それでも、ここでモタモタしていればタカミチが戻ってきたり、他の魔法使いに発見される可能性もある。犬上はボロボロの体を引き摺りながら人の臭いのする方へ歩き出した。森の中よりも、学園都市内に入ってしまった方がいいと判断したからだ。 元々、学園都市に潜入する為に学園都市内の学生服を着ていたのだが、ボロボロになってしまっているのが頂けなかった。舌打ちするが、それだけで全身に激痛が走り、苦悶の声が漏れるが、必死に我慢して犬上は歩き出した。ゆっくりと……。 ネギは学園長室からタカミチと一緒に出ると、タカミチが突然急用が出来たと言って駆け出してしまったから一人で寮に向かって歩いていた。カモは未だ学園長室で用があると残ってしまった。 途中でパフェ・バーがあり、思わず衝動買いをしてしまった。明日菜と木乃香、刹那の分も買い、早く帰って一緒に食べようとウキウキしながら歩いていると、突然、道の脇にある森の中から一人の少年が現れた。「――――ッ!?」 驚いたネギは目を見張った。少年は全身から血を流し、瀕死の重傷だったのだ。「だ、大丈夫!?」 思わず駆け寄ると、少年の姿にネギは絶句した。頭部の犬耳は間違いなく本物で、少年の発する気配は間違いなく人の物とは異質だった。「妖怪……?」「グゥッ」 一瞬呆けてしまったネギは、少年の苦悶の声に我に返った。「き、君大丈夫!? どうしたの、その怪我!」 ネギの声に、少年は苦悶の表情を浮べたまま、薄っすらと開いた瞳で睨む様にネギを見た。「別に……」 それだけ言うと、少年はフラフラと歩き出した。「ちょ、ちょっと!」 慌てて追いかけるが、少年はネギを無視した。「待ってよ! すぐに救急車を……」 ポケットから、さっき任務の為に必要になるだろうと近右衛門に渡されたシンプルなデザインのピンクの折り畳み式携帯電話を取り出すネギに、少年は目を見開き、ネギの持っている携帯電話を殴った。「ニャ!? なにするの!」 粉々に粉砕した携帯電話に呆然としながらネギが抗議すると、少年は苦しげに息をしながら頭を下げた。「すまん……。せやけど、救急車……呼ばんといてや」 ゴフッと少年は血の塊を吐き出した。ネギは目を見開き、少年を見た。「で、でも!」 今にも死にそうな少年の姿に、ネギは心配気に声を掛けるが、少年は首を振った。「携帯、壊してすまん……。てか、見ての通りや。ちょっと、俺かなりやばい事してんのや。一緒に居るとお前まで巻き込まれる……。だからほっといてや」 ネギは戸惑いながら、去ろうとする少年を見つめた。自分と同い年くらいか少し年上。ネギは少年が魔法関係者なのだろうと悟っていた。キュッと唇を一文字に閉めると、ネギは決断した。「大気よ、水よ、白霧となれ、彼の者等に一時の安息を。『眠りの霧』」「なにっ!?」 ネギの詠唱に、少年は目を見開き警戒するが、直後に少年の意識は闇に落ちた。「ごめんね――でも、放ってはおけないよ……」 ネギはそう呟きながら、気を失った少年が倒れる前に体を支えた。「ん、ちょっと重いな。――どこか寝かせて上げられる場所に行かないと。寮は、駄目だよね」 一人呟きながら、夕闇から漆黒の闇に変ろうとしている空を見上げ、周りに人が居ない事を確認してからネギは少年を抱えて少し離れた場所に見える公園に向かった。公園内は人気が無かった。公園の時計で確認すると、時刻は5時を少し過ぎていた。一番星が光り、公園内の電灯が灯った。 広大な高い木が多く並ぶ森林公園の一角にあるベンチにネギは少年を寝かせた。肩で息をしながら自分もベンチに座り込む。「血、出てる……」 少年の頭の先に座っているネギは、ソッと少年の体を見渡した。学生服は所々が破れていて、シャルの先の皮膚が破けているのまで見て取れた。ネギは立ち上がると、ポケットからハンカチを取り出してベンチから少し離れた場所にある水飲み場に向かった。蛇口を捻ると、もう春だというのに冷たい水が流れてきた。手が痛くなるが、気にせずにハンカチに水を含ませると、きつく絞って少年の下に戻った。額から流れている血を拭うと、傷は殆ど塞がりかかっていた。血がまだ固まりきっていないのに傷が治りかけていた。「そう言えば、刹那さんが言ってたっけ――」 妖怪の血が流れている者は怪我の治りが早い。「やっぱり、妖怪なのかな?」 顔に付いていた血をあらかた拭き終わると、ネギは少しだけ躊躇った。「こ、この分なら体の方も治ってそうだけど――」 体力が低下しているのに体中が血で湿っていては風邪を引くかもしれない。「っていうか、血の流しすぎで死んじゃうっていう映画があったっけ……」 少し前に木乃香と明日菜と一緒にポテトチップスとコーラを飲みながらテレビで鑑賞した映画を思い出してネギは顔を青褪めさせた。「か、回復魔法は苦手なんだけどな……って、杖……」 今、手元には杖を持っていなかった。「今度から持ち歩こうかな?」 カモに目立つからあまり外では持ち歩かない方がいいと言われたが、緊急時に一々杖を呼ぶのもどうかと思う。「今、杖を呼んだら寮に木乃香さんや明日菜さんも帰ってるだろうし……」 杖が飛び出したら、きっと二人はネギに何かが起きたと思うだろう。自分の勝手で拒否した手を取って助けてしまったのだ。他人は頼れない。そもそも、こんな大怪我をするような事態に巻き込むわけにもいかない。「護衛対象に護衛されたら本末転倒だしね……」 エヴァンジェリン戦では明日菜に助けられてしまった。千草戦でも力不足から木乃香を危険に曝し、刹那や明日菜まで戦わせて仕舞った挙句に千草が襲ってきた理由が自分が居るからだったのだ。これ以上迷惑を掛けるなど出来る筈も無い。確かに、彼女達には狙われる理由があるが、態々関係無い危険にまで巻き込む事など在り得ない。「うう……。どうすればいいんだろう」 ネギは頭を抱えた。段々と息は整ってきているが、このまままだ風の冷たい中にベンチで寝たらどうなるかは明白だった。失血死の他にも凍死の危険もある。「うう……、ぐす……、どうすれば……」 段々堪らなくなり、ネギは涙が溢れてきた。誰に頼る訳にもいかない。そもそも、連絡しようにも携帯電話は少年に破壊されてしまった。 八方塞だ。ネギがベソをかいていると、突然女性の声が響いた。「ふえ!?」 驚いて視線を泳がせると、ネギが入って来た入口とは違う方向の少し離れた場所に一人の少女が歩いてきていた。「千鶴……さん」 人通りが少ないと思って少年を抱えてきた場所に、思い掛けない人物が出現し、ネギは呆然とした。千鶴は心配そうにしながらネギの下にやって来た。「大丈夫? 何だか泣いていた様だけど」「あ、その……」 千鶴は買い物帰りだったのか、手には大きなビニール袋がある。腰まで伸びるカジュアルフェザーウェーブの茶髪が風に揺れている。ネギが何かを言いよどんでいると、千鶴は少年を見つけた。「ッ!? どうしたの、この子?」 一瞬目を見開いたが、千鶴は冷静にネギに問い掛けた。「あえっと、あの……」 未だに言い淀むネギに、千鶴は少し眼差しを強くした。「いい? 何か言い淀む理由があるのかもしれないけど。この子をよく見て」 千鶴に言われ、ネギはハッとなって少年を見た。「息が!?」 少年の息がかなり細くなっていた。「分かるわね? このままだと、この子は死んでしまうわ」 千鶴は敢えて言葉をオブラートに包まずにそのまま告げた。ネギがどうしてこの少年と居るのか、他にも聞きたい事は山ほどあるが、今は緊急事態なので全てを却下してネギの瞳をジッと見つめた。「どうしたのか教えて。知ってる限りでいいわ。もしも、あまり人に言えない事なら誰にも言わない。約束するわ。信じて」 少年が血だらけで、服の破れ方など見ても、普通の怪我とは思えなかった。何かある。そう確信して、ネギに告げた。千鶴の瞳に見つめられ、ネギは怯えるが視線をずらす事も逃げる事も出来なかった。 ネカネはネギ自身があの村での惨劇以降、ネカネに迷惑を掛けない様に良い子であろうとし続けた事もあって、ネギを怒る事は殆ど無かった。だからこそ、千鶴の不思議な威圧感に逆らう気力を奪われた。 ネギはぼそりと呟いた。「私も……詳しくは分かりません。ただ……」「教えて、決して誰にも言わないわ。勿論、貴女が望むなら今後絶対に蒸し返したりしない」 本当は、こんな話をせずに怪我の治療をすべきだろう。だが、何か事情があるなら対応を変えねばならない。治療をしても、その為に少年やネギの立場が悪くなるならば、それは避けるべきだからだ。「この子……襲われたんだと思います。誰か……ナニカからは分かりません」「襲われた……?」「ココは、そういう事が起こる可能性があるんです。その、この子は多分――この学園の裏の部分に関ってると思うんです」「裏の……部分?」 千鶴の言葉に、ネギは首を振った。「すみません。言えるのはココまでで……」「そう……」 ネギの話は短かったが、情報は十分に得られた。千鶴はネギの言葉を少しも疑わなかった。別に、この学園に疑問を抱いていたりした訳ではない。ただ、ネギが自分を信じて話してくれたなら、自分も信じるべきだと思ったからだ。ありのままに話を受け入れて、千鶴はビニール袋をベンチに置いて、少年の体の下に手を入れた。「千鶴さん!?」「まずは治療が先決。寮は……、ちょっと拙いかもしれないわ。反対方向だけど、ここからなら寮までとあまり変らない。学校の方に行きましょう。まだ部活動をやっている生徒も居るだろうし、開いてる筈。保健室に行けば、治療が行えるわ」「――――ッ!」 ネギは千鶴の素早い判断に目を丸くしながらも、頷いて立ち上がった。「ありがとうございます……千鶴さん」「どういたしまして」 クスッと笑うと、千鶴はネギと協力して少年を背負った。ネギが千鶴の荷物を持ち、二人は人に見つからない様にしながら学園へと戻って行った。校舎には人気は殆ど無かったが、校庭などには部活動をこなしている少女達の姿がある。 薄暗い道を通りながら校舎の中に入ると、見回りをしている新田先生に危うく見つかりそうになったが、なんとか保健室に入ることが出来た。保健室には不思議な香りが漂っていた。「先生は……もう帰ってるみたいね」 千鶴は入口の扉に貼り付けられたボードの“帰宅”の場所に磁石が張られているのを見て言った。他にも、職員会議や見回りなどの項目がある。先生の居場所を示す物だ。 ネギは初めて来た保健室にドキドキしながら、千鶴が保健室の中に入ってベッドに少年を下すのを見ていた。「鍵を閉めて」「あ、はい!」 千鶴の指示を受けてネギは鍵を閉めた。「あれ?」「どうしたの?」「いえ……鍵、開いてたなって……」 先生が帰宅している筈なのに鍵が開いていたのが不思議だった。「確か、部活動が終わるまでは鍵は開いてる筈なの。完全下校時間の7時に見回りの先生が鍵を閉めに来るから、それまでに治療しないといけないわね」 ネギさん、と千鶴はネギに声をかけた。「私は包帯と傷薬を探すから、あの子の服を脱がしておいて貰えるかしら?」「わかりました!」 テキパキと動く千鶴に気圧されながら、ネギは慌てて少年の眠るベッドに行くと、少年の血がベットリとついた学生服に手を掛けた。ふと、千鶴は傷薬を出しながら不信に思った。 自分も血だらけの少年を前にしてそこまでうろたえる事は無かった。見慣れているから。真っ赤な鮮血も、鉄錆の様な臭いも――。 だからといって、全く嫌悪感を感じない訳ではない。なのに、ネギは躊躇いもせずに少年の血がベットリと付着した服に手を伸ばした。自分で指示を出しておいてなんだが、異性の……それも体格的に近い者の体に触れるのは意外と勇気がいる。自分なら、あれだけ背丈に差があれば問題無く脱がす事も出来るが、ネギは少年に異性を感じていないかの様に、手に血が付くのも気にせずに服を脱がしている。 慣れてる? 何に? 血に? 異性に? ――両方に? 千鶴は目を細めた。蒸し返さないと宣言したが、ネギの話は気になった。学園の裏。あんな幼い少年が怪我をしても、ネギは在り得ない事じゃない……ココではと言った。信じたからこそ、邪推してしまう。「違う……、それはないわね」「何か言いましたか?」 包帯と傷薬を運びながらつい呟いてしまった千鶴にネギは首を傾げた。その姿に、千鶴は確信して笑みを浮べた。「何でもないわ。さぁ、手当てしなくちゃいけないわね」 少年の体は驚いた事に血を拭うと殆どが塞がりかけていたが、塞がった場所はどこも皮膚が薄く、元の傷がどれほど大きなモノだったのかが容易に想定できてしまった。「酷い……」 呟いて、ネギに視線を送ると、ネギはキュッと唇を結んでいた。千鶴は、ネギの様子を静かに観察していた。 本当に心配そうにしている。だからこそ、千鶴は自分の考えを破却できた。 彼女は犯された事は無い。異性の裸体に動じず、血を見ても恐れない。それでも、少年を……男性を心配出来るならば、そういう“男性”の恐怖を知らないのだろう。勿論、自分も知らないが。 なら、どうしてこの娘は血に動じないんだろう? 異性の裸体を見ても動じないのは、精神的に幼さがあるからだろう。それは在り得ない事では無い。それでも、どうしてこれだけの血に動じずにいられる? 少年の体から流れた血はかなりのものだ。独特な匂いが保健室に充満し、気を抜けば気分が悪くなりそうだ。 別に大人ぶっている訳では無いが、自分はどちらかと言えば大人びている方だと思う。少なくともクラスの中では。これは別に奢っている訳でも、周りを見下している訳でもない。その自分ですらこうなのだ。悪く言うつもりはないが、見かけ同様に精神的に幼いと思える少女が、どうしてこれほどに動じずに居られるのか――。 学園の裏。千鶴は前言を撤回して聞き出したいという欲求に駆られるのを抑えるのに多大な労力を割いた。考えながらも、千鶴は丁寧に傷薬を塗って包帯を巻いていった。血流を圧迫させないように巧みに包帯を巻いていく千鶴に、ネギは感嘆の声を上げる。「凄いですね、千鶴さん」「練習すれば何でもない事よ? それよりも、体力を回復させないといけないわ……」 手当てが終わっても尚、苦しげな声を上げる少年に、千鶴とネギは心配気な視線を送った。「私は家庭科室に行って簡単なスープを作ってくるから、ネギさんはここでこの子を見ててもらえるかしら? 見回りの先生が来たら――」 千鶴は四つのベッドのカーテンを全て閉めた。「こうして全部のベッドのカーテンを閉めておけば、後は声を漏らさなければ大丈夫だと思うわ」「木を隠すなら……という奴ですね」「ええ、それじゃあその子の事、お願いね」「はい!」 千鶴が去った後、ネギは少年の寝顔を見つめていた。穏やかとは言えない苦しそうな表情に苦悶の声。「そうだ……」 ネギは立ち上がると、戸棚を開いた。中にはタオルが入っていて、保険室内にある水道から水を出して、タオルに水を含ませる。きつく絞り、少年の汗を拭った。「やっぱり……、本物だ」 少年の頭部にヒョッコリと出ている二つのネギの掌程もある耳にネギは唾を飲み込んだ。「って、駄目駄目」 触りたくなる欲求を抑え込んで、ネギは近くの花瓶に一輪の花が差してある事に気がついた。「これ……」 ネギは目を見開いた。花――といっても、美しいと表現するのは難しい。シダ植物に真っ赤な花がささくれの様に咲いている。「もしかして……“クパーラの火の花”?」 クパーラの火の花――、スラブ圏で自然の生命力の象徴とされているシダの花の事だ。年に一度のクパーラの夜。つまり、聖ヨハネ祭の夜である7月7日にのみ咲くと謳われ、悪魔に護られていると言われている。「確か、クパーラの夜が始まる前に花の咲くシダの周りに魔法円を描いて一晩中悪魔と戦い続ける事で得られる魔法花(マジックフラワー)だっけ。少しなら使っても大丈夫かな……」 ネギは魔法使いの居る学校だからかな? と思いながら、どうしてこんなレアな魔法花があるのかをあまり深く考えなかった。ネギは花瓶ごとクパーラの火の花を持ち上げると、ソッと少年の所に戻り、鼻元に花を近づけた。 クパーラの火の花の香りには回復魔法と似た効果があると聞いた事があったのだ。本来は7月7日にしか咲かず、すぐに枯れてしまう筈なのだが、花瓶の中に特殊な魔法薬が入っているらしい事にネギは気がついた。「最初に嗅いだ香りはこの花の香りだったんだ」 ネギは保健室に入った時に嗅いだ保健室に充満していた不思議な香りを思い出した。「血の匂いで薄れちゃったんだ……」 血の匂いを嗅ぐと思い出すのは惨劇の夜だった。あの日以来、ネギは血に慣れてしまっていた。怪我を見れば慌てるが、血自体には嫌悪感は沸かない。むしろ、あの日の事を忘れていない事を実感させてくれるのが、逆に愛しく感じる。 おかしいと思われるから、アーニャやネカネ、カモには絶対に言わないネギだけの秘密だった。少年の瞼が動き、ネギは花瓶をそばの机に置いた。少年の体はもう殆ど治っていた。「ん、ここ……どこや?」 薄っすらと目を開いた少年はそう呟いた。「ここは麻帆良学園の保健室だよ」「は?」 少年は目を見開いて変な声を発した。「って、どわあああああ!?」 少年は上半身を起すと、ネギの姿に慌ててベッドから落ちてしまった。「だ、大丈夫!? 怪我が治ったばかりなんだから無理しちゃ駄目だよ!」 歳が離れていないからか、ネギは少年に自然と声を掛けられた。「だ、誰やアンタ!?」 少年は目を丸くしながら叫んだ。起き抜けで頭が混乱しているのか、立ち上がろうとしては力が足に入らずに転んでしまう。「と、とにかくベッドで寝ててよ。もう直ぐ千鶴さんがスープを持ってきてくれるから」「誰やねん!?」「…………そうだったね、殆ど誘拐だったもんね」 ネギは自分の行動を思い出して溜息を吐いた。「誘拐!? 誘拐されたんかワイ!?」「ワイ? ううん、別に誘拐したんじゃなくて……」「じゃあ何やねん! 何でワイこんな所おんねん!?」 ネギはだんだんイライラし始めた。「あのねぇ! 君がいきなり森の中から血塗れで現れるから放っておく訳にもいかず……」「血塗れ? どこが血塗れやねん?」 少年は自分の体を眺めてから胡散臭い通信販売を見るような目でネギを見た。「治療したからでしょ! まあ、私がしたんじゃないけど……」 少年の視線が辛くてネギは怒鳴った。「治療っても、そもそもアンタ誰やねん」「私は――」 ネギが名乗ろうとした時、保健室の扉が開いた。「どう? さっきの子は起きたかしら?」 入って来た千鶴の手には大きなカップがあった。「千鶴さん」「千鶴……えっと、アンタが治療してくれたんか?」 少年は立ち上がって千鶴を見た。「あらあら、もう起き上がって大丈夫なの? 大きな怪我だったみたいだから無理はしちゃ駄目よ?」 心配そうに見つめる千鶴に少年は戸惑った。「こ、こんくらい平気や!」「あらあら、元気一杯ね。でも、折角作って来たからこれを飲んで。きっと、もっと元気が出るわ」「さ、サンキュな。えっと……」「千鶴よ。那波千鶴、よろしくね」 ニッコリと微笑えむ千鶴に少年は照れた様な仕草をした。「俺は犬上小太郎や。よろしくな、えっと……千鶴さん」「ええ」 千鶴に手渡されたカップに入ったスープに口をつけると、犬上は顔を綻ばせた。「うまっ! めっちゃうまいわ!」「あらあら、そんなに慌てなくても大丈夫よ?」 穏やかな空気が流れる。「えっと……犬上君?」「ん? なんや……」 ネギが話しかけると、犬上はおいしいスープを飲むのを中断させられて不機嫌そうな顔をした。「な、なんで私の時ばっかりそんな態度悪いの!?」 千鶴に対しての態度と違い過ぎる犬上の態度にムッとしたネギが叫ぶと、犬上は露骨に嫌そうな顔をした。「うっさいわボケ。大体、治療してくれたんは千鶴さんやろ? お前に恩義感じる理由もない。大体、お前結局誰やねん」「さ、さっき言おうとしたら……」「言おうとしたら?」 ネギは黙ってしまった。まさか、犬上の治療をしてくれて迷惑を掛けた千鶴が居る前で千鶴が入って来たせいで自己紹介出来なかったなど言えなかった。「なんやねんお前……」 突然黙ってしまったネギに不審気な視線を送りながらスープを飲み始めた犬上に、ネギは口をパクパクさせながら何を言えばいいのか分からなくなった。「しっかし美味いなぁ。千鶴さんは料理上手いんやな」「あらそう? 未だ家庭科室の鍋の中にお代わりが残っているわよ?」「欲しい!」「はいはい」 余程お腹が空いていたのか、犬上は目を輝かせながら言った。苦笑いを浮べながら千鶴はカップを受け取ると、ジッと犬上の頭上でピコピコ動いている犬耳を見た。「な、なんや?」「ちょっと……触ってみてもいいかしら? 実はずっと気になってて……」 頬に手を当てながら恐る恐るといった調子で言うと、犬上はなんだそんな事かと頷いた。「ええで、助けてもろうた上に美味いスープも飲ませてもらったんや。こんな耳で良かったらいくらでも触ってええで」「本当!? 柔らかい……」 ウットリした様子で犬上の耳を触ると、犬上は擽ったそうにしていた。「フフ、ありがとう。それじゃあお代わりを持って来るわね」 そう言うと、千鶴はどこか満足そうに保健室を出て行った。ちなみに、家庭科室は保健室から二教室離れた場所にある。ネギはドキドキしながら犬上に尋ねた。「あ、あの……」「ん? なんや?」「わ、私も……その……触っていいかな? 耳を……」 ワクワクしながら言うと、犬上は、鼻で笑った。「は? ざけんな。何で触らせなあかんねん」 ネギは絶句してしまった。別にお礼が欲しかった訳では勿論無かった。無かったが、傷ついた犬上を公園のベンチに寝かせて顔を拭ったり、クパーラの火の花の香りを嗅がせたり、汗を拭いたりしてあげた。 寝ていて知らなかったとはいえ、寝起きに一番最初に会ったのだから、看護していた事くらいは察してくれてもいいのではないか? 幾らなんでも扱いが酷くはないか? ネギは不満が募ったが、病み上がりという事もあり、大きく深呼吸をして気を静めた。「い、いきなり失礼だったよね……。ご、ごめんね。あ、それより私の名前は……」「どうでもええ」「名前……名前は……」 耳をほじりながら心底どうでもいいといった感じの顔をして、ほじった耳粕をフッと吹き飛ばしながら言う犬上に、ネギは震えた。「私の名前はね……ネ――」「だからええって言ってんやないか! しつこいでほんまに。大体、千鶴姉ちゃんには礼せなあかんけど、俺はすぐ出てかなあかんねん。どうせ、お前とは二度と会わへんのやから、名前なんか聞いたってしゃぁないって――」 そこで、犬上は何かが切れる音を聞いた。「ん?」「ウ……」「ウ?」 犬上は段々様子がおかしい事に気がつき、恐る恐るネギに顔を向けた。「うえええええええええん!」「何や!?」 いきなり泣き始めてしまったネギに、犬上はえ? え? え? と戸惑いを隠せなかった。「な、なんで泣くんや!? え? ワイのせいなんか!?」 犬上は自分の行動を思い返した。「あ、ちょっと酷かったかな?」「うえっ……ひぐ……なんで……私……だって……うぐっ……色々頑張った……のに……うぐっ……うええええん」「な、なにも泣く事ないやん!? ちょ、ちょっと酷かったかもとは思わん事も無かったけど……。せやけどな、ワイかてその……戸惑ったりしとったから」「色々……ひぐっ……私だって……してあげたのに……うぐっ……千鶴さんには……触らせてあげた……くせに……ひぐっ……このスケベ!」「そっち!? え? お前、何で泣いてん? 俺が耳触らせんからなん!? てか、スケベってなんやねん!」「最初に……私が……ひぐっ……名乗ろうとしたのに……私の名前……うぐっ……どうでもいいみたいに……うええええええん!!」「ワイかて泣きたいわ!」 犬上は頭を掻き毟っていると、保健室の扉が開いた。「ちづ……ッ!?」 千鶴かと思い振り向いた犬上は、慌ててネギの口を押えて抱き締めるように拘束した。窓を開き、花瓶を窓の外に放ると、気配を消してベッドの影に潜んだ。 窓の外でカシャンと音が響く。放り投げた花瓶が割れた音だ。「クッ、逃がしたか……」 渋い男の声が聞こえ、足音が保健室から去っていく。胸の中でもがこうとするネギに犬上は舌打ちした。 まだだ。戻って来る可能性を考慮し、そのまましばらく息を潜めた。しばらく待ち、戻って来ない事を確認すると、漸く犬上は安堵の息を吐いた。「行ったみたいやな……」 ネギから手を離すと、犬上は眉を顰めた。ネギは全く動こうとしなかったのだ。それどころか、拳を握り締めてプルプルと震えている。「あ、やばい……」 さすがに今年から中学に上がる犬上にも理解出来た。「すまん!」 犬上は覚悟を決めて目を瞑り謝った。殴られると、ほぼ確信を持って予測していた。男が来た事で急激に頭が冷えたのだ。幾らなんでも女の子に言い過ぎだろうという言葉の数々、挙句に口を塞いで抱き締めるように拘束してしまった。他にやりようも無かったが、男として……というよりも人として間違った行動をしてしまったと理解したのだ。 そもそも、何であんな言い方をしてしまったんだろう……。犬上は涙が出そうだった。何だか逆上せている様な感覚だった。 実は、クパーラの火の花は、その名を冠する様に“クパーラ(歓喜の神)”の伝承に似通った部分がある。回復の力の副作用として、使用者を高揚な気分に、つまり使った者は酒に酔ったのに似た症状が出る事があるのだが、犬上は知らない。顔を青褪めさせながら待つが、何時まで経っても衝撃は来なかった。恐る恐る薄目を開けると、犬上は声が出なかった。「うう……」 ネギは唇を一文字に結んでポロポロと涙を流していた。「えっと、せや! な、名前聞いてもええかな?」 犬上はつとめて優しく声を掛けたが、ネギは首を振るだけで動かなかった。「と、とにかくベッド座ろうや。な?」 なんで自分はこんな事してるんだろう。冷静になってくると凄く馬鹿みたいだった。目的も達せずにいつ追っ手が来るかも分からない状況で何やってんだろうと、犬上は倦怠感にも似た感覚を覚えた。何とかベッドに座らせると、犬上もネギの隣に座って溜息を吐いた。「ったく、千草の姉ちゃんの行方を調べに来たってのに……」「え?」「ん?」 犬上の言葉に、ネギは目を見開いて犬上を見た。犬上が怪訝な顔をしていると、再び保健室の扉が開いた。咄嗟に、視線を向けると、今度は千鶴だった。「あらあら、すっかり仲良くなったみたいね」 クスクスと笑いながら手にカップを持った千鶴が入って来た。「なんでやねん!?」 犬上は思わず怒鳴るように叫んだが、千鶴は楽しそうに笑うだけだった。「えっと、千鶴さん遅かったみたいですけど……」 ネギは特に気にした風も無く、千鶴に話しかけた。「実は……」「実は……?」「鍋の中にその、アレが入ってて……」 千鶴は思い出すのも嫌なのか、若干顔を青褪めさせながら言った。「アレってなんや?」 犬上が聞くと、千鶴は苦い表情で言った。「ゴキブリが……」 思わずネギと犬上は噴出してしまった。「え? まさか、そのカップの中身……」 ネギが顔を真っ青にしながら言うと、千鶴は慌てて訂正した。「ち、違うのよ。その……ゴキブリが入って……溺れてたのは捨てて、新しいお鍋で新しく作ったの。お鍋を何度も何度も何度も何度も洗ってから火に掛けて滅菌してたりしたから、それで遅くなったのよ」 余程嫌だったのか、いつも余裕たっぷりの千鶴が珍しく早口でさっさと言い終えたいかの様に喋った。「とにかく、これには何も変な物は侵入していないわ。その……またナニカ入ったら嫌だからそれだけしか作らなかったからお代わりはないんだけど……」「構へんよ。俺もすぐ出なあかんから」「え? でも、その怪我じゃ……」 千鶴の言葉に、犬上は片目を閉じて「平気や」と言って、包帯を取った。傷は一つも残っていなかった。「俺の体は特別製やからな。んな事より、あんまり礼になるようなもんが無えんやけど……」 頭を搔きながら申し訳なさそうに言う犬上に、千鶴はクスッと笑った。「いいのよ。それにね、確かに貴方に包帯を巻いたのは私だけど、貴方を見つけて最初に看病をしていたのも、血を拭ったり、汗を拭って看病したのもネギさんなのよ? だから、お礼を言うならネギさんに言って頂戴」「え?」 犬上は目を丸くした。漸く思い出した。気を失う前に、この少女に会っている事を――そして。「あれ? そういえばあの時」「ほらほら、冷めてしまうわ。熱い方が美味しいから」「あ、すまへん」 千鶴に言われて慌ててスープを飲むと、スープはとても美味しかった。色は白っぽくてコーンポタージュかと思ったのだが、どちらか言えばジャガイモの味に近かった。元気の沸くスープを飲みながら、あの時の事を思い出そうとすると、ネギが口を開いた。「あの……」「ん?」 犬上が視線をネギに向けると、ネギは真剣な表情を浮べていた。「さっき……千草って言ってたよね? それって――天ヶ崎千草の事?」 思わず、犬上はスープを噴出してしまった。「何でお前が知って――ッ!? お前……」 犬上はさっきまでとは違い、見る見る内に殺気を纏い始めた。「そう言えば……未だ聞いてへんかったな。お前、名前何て言うんや?」 千鶴が何度か名前を呼んでいたが、犬上はあまり気にしていなかった為に聞き逃していた。ネギは表情を堅くして言った。「私はネギ。――――ネギ・スプリングフィールド」「ネギ・スプリングフィールド……。そうか、お前が……そっか」 犬上はベッドから立ち上がると、カップを千鶴に手渡した。「すまへんけど、ちょいコイツと二人にさせてもろうてええかな?」 様子の変った犬上に、千鶴は目を細めた。「私が一緒では駄目?」 千鶴は犬上の殺気にも動じずに尋ねた。「私も一緒にお話しては駄目かしら?」 優しい笑みを浮べながら千鶴は言った。「それは……」 犬上は千鶴の言い知れぬナニカに気圧される様に言葉を濁した。「ごめんなさい千鶴さん……」「え?」「あ?」 ネギが割り込んだ。「私も、犬上君と話がしたいんです。でも、多分ソレを千鶴さんに聞かせてしまうと、千鶴さんが危ない目にあってしまうかもしれないんです。だから……」 ネギは、正直に言った。言葉を言い換えても良かったのだが、千鶴に対しては本当の事を言わなければいけないと思ったのだ。そうでなければ、引いてくれないと思ったのだ。「――分かったわ。でもね」 小さく溜息を吐くと、千鶴はネギと犬上の頭に手を置いた。ネギと犬上は目を丸くした。千鶴は優しい笑みを浮べていた。「話が終わったら、また私に会いに来て」 そう言うと、千鶴は後ろを向いた。直後に、風が吹き抜けた様な音がして、振り返ると、そこに二人の姿は無かった。同い年の友人や、中学生の制服を着ていた。恐らくはそんなに歳は変らないだろう少年にどうしてあんな事をしたんだろう? 時々、可愛いルームメイトの反応が面白くてする事はあっても、無意識にあんな真似はしないのに。 その理由は分かっていた。あの公園で泣いていたのに直ぐに自分を頼ってくれなかったネギ。ほんの少しの優しさを喜んでいた犬上。気がついた。「二人共、甘えられる人が居ないのかしら……」 エヴァンジェリンや鳴滝姉妹とは違う。本当に自分よりも年下なんじゃないかと思える少女。幼い容姿の少女がクラスに数人居る為にあまり気にしたりしないが、それでも時々感じるのだ。勘と言ってもいいかもしれない。 ネギ・スプリングフィールドという少女に、時々違和感を感じてしまうのだ。だからなのかもしれない。兄弟も姉妹も居ないのに、子供だって居る筈も無いのに、思ってしまったのだ。 甘えて欲しい――と。自分でなくとも、誰かに。 犬上とネギは学校の屋上に立っていた。犬上は厳しい目付きでネギを睨んでいる。「お前が英雄の息子……。いや、娘かいな?」 ネギは頷いた。犬上の視線を受けながら、眼を逸らさずに口を開いた。「どうして、天ヶ崎千草を知ってるの?」「千草さんはワイの故郷の里が裏切りもんのせいで滅ぼされて、その後ずっと俺に戦術を教えてくれとった先生や!」「――――ッ!?」「しゃぁけど、やっぱり千草さんはお前に会いに来たんやな……。千草さんはどこや!」「知らない……」「何やと?」 犬上の声が苛立ちの篭った不機嫌なモノになる。「知らない!」「嘘つくなや!」「嘘じゃないよ! いきなり木乃香さんを襲って、戦争を仕掛けるって言って私が死ぬか、木乃香さんを道連れにして自殺するかなんて言い出して……。それでも頑張って倒したら、気がついたら居なくなってたの!」「嘘や! 千草さんは並みの術師やない。お前みたいなチビに負ける筈が無いんや! どうせ卑怯な真似しやがったんやろ! 西洋魔法使いは卑怯者の集まりやからな!!」「なッ!?」 ネギはあまりの暴言に絶句した。人数的には卑怯だったのかもしれない。だが、先に卑怯な真似をしたのは千草であり、自分達は必死の思いで戦ったのだ。それを侮辱され、挙句に西洋魔法使いを卑怯者呼ばわりされて、ネギは怒りを覚えた。「いきなり不意打ちで木乃香さんを捕まえて、その上木乃香さんを人質にしたのは天ヶ崎千草の方じゃない!」「と、とにかく! 千草さんはどこや!?」「知らないっていってるじゃない!!」「ほ、ほんまに知らねえんか?」「う、うん。だって、戦いが終わったらカモ君が逃がしちゃってて……」「カモ……君?」「私の……友達。人を殺すのは早いって。逃がしても逃げられないだろうからって……。でも、その後の事は知らないの……」 ネギが言うと、犬上は膝をついた。盛大な溜息を吐き、地面に手をついた。「えっと、犬上君……?」「すまん」「え?」「ほんまは……分かってるんや。コッチが悪いってな。でも、俺を育ててくれた人やったから、どうしても無事を確かめたかったんや……。行方不明になってもうて、最後に目撃されたんがココで、標的であるネギ・スプリングフィールドに会えれば、なんや分かるかと思って……。でも、なんや血が上ってもうて」 途中からは独り言になっていた。ゆっくりと立ち上がり、鼻を鳴らして服の袖で眼を拭った。「えっと、ネギ……だったよな?」「う、うん」「すまんかったな。なんや酷い事ばっか言ってもうて……。なんや、気が昂ぶってまった言うか……」「気が昂ぶる……? あっ!」「ん? どないしたん?」 口元を押えて叫ぶネギに犬上は首を傾げた。「えっと……」 ネギは前に読んだ魔法薬の本を思い出していた。クパーラの火の花の項目を思い出した。「もしかしたら……」「ん?」「その、犬上君の怪我が早く治るようにって……保健室に飾ってあった“クパーラの火の花”を……」「クパーラ?」「あ、えっとね――」 ネギがクパーラの火の花の話をすると、犬上は疲れた様に溜息を吐いた。「せやったんか……」「その……ごめんね?」「あ、いや、花のせいで気分が盛り上がっとっても、お前に酷い事言ったんは事実やし……その……ごめんな」「ネギだよ」「は?」 犬上は目を丸くした。「お前って言われるのあんまり好きじゃないから……」「あ、ああ! なら……ネギ、すまへんかったな」「ううん、それより犬上君が怪我したのって……」「ストップ! ワイの事は小太郎でええ」「あ、えっと……小太郎君」「小太郎だけでええって」「――小太郎」「せやせや。小太郎や。やっぱ、ダチ同士は呼び捨てが基本や」「ダチ?」 聞き慣れない単語に首を傾げるネギに、小太郎は噴出しそうになった。「つまり友達や」 頭の後ろで両手を組んで言う小太郎に、ネギは戸惑った。「と、友達?」「えっと……やっぱり嫌か?」「え? あ、ううん。嫌な訳じゃなくて……。ちょっと驚いただけ」 ネギと小太郎は屋上から校舎内に戻って階段を降り始めた。「せやけど、最初はまぁうっとしい奴やと思うたけど、意外と面白い奴やなネギは」「――それさ、友達だとしても普通に失礼だよね?」「ちっちゃい事気にすんなや。んなこったから、ちっこいんやで?」「もうちょっと優しい事言ってくれてもいいんじゃないかな……」 溜息混じりに言いながらネギは保健室の扉を開いた。「おやおや、まさか――標的から御出座し願えるとは行幸ですな」「――――ッ!? 千鶴さん!」 入った途端に目に入ったのは、黒い外套に唾の広い黒い帽子を被った白髪の老人だった。丁寧に整えられたカストロ鬚に覆われた口に笑みを浮かべ、その腕には気を失っている千鶴の姿があった。「千鶴さん! お前、その人に何したんや!?」 小太郎の怒鳴り声にも老人は口元の笑みを絶やさなかった。 時刻は少し遡る。保健室を施錠する為に先生が来る時間が迫り、待つ場所を少し変えようと千鶴が立ち上がった時だった。「おや、ふむ、強い魔力の残滓を追跡し、血の香りと魔法の香りに誘われたのだが……ネギ・スプリングフィールドはここには居なかったか」 千鶴が振り向くと、そこには紳士然とした老人の姿が在った。「お嬢さん、少しお話を聞かせて貰えませんか? いや、時間は取らせません。人を探しておりまして」「はぁ、どちらさまでしょうか?」「いや、失礼しましたレディー。私、名をヴィルヘルムヨーゼフ・フォンへルマンと申します。以後お見知りおき下さい」 帽子を取り、人の良さそうな笑みを浮べながら挨拶をするヘルマンに千鶴は戸惑いがちにヘルマンの顔を見た。カストロ鬚に高い鷲鼻、白髪ではなく銀髪で、瞳の色は透き通るような黄金色だった。微かに香るコロンの香りは主張しすぎずに老人の魅力を一層引き立てている。「えっと、ヴァルヘルムさんは……」「おっと、私の事はヘルマンで構いませんよ」「でも……いえ、ではヘルマンさん。貴方の探し人というのは……?」 千鶴が努めて冷静に尋ねると、ヘルマンは穏やかな笑みを浮べて答えた。「ネギ・スプリングフィールドという名の子供ですよ」 その単語は引き金だった。千鶴はおや? と思った。どうして、この男は扉が一度も開いていない状況でこの部屋に居るのだろうか――と。 今更だが、扉が開くとき、どんなに慎重に開いても音が鳴る。レールを擦る以上はそれは避けようも無い事実であり、窓は自分が自分の目でずっと見ていた。 なら、どうして、この男性(ヒト)はここに立っている? 最初から居た? そんな馬鹿な話は無い。そもそもネギがここに居たのだから居場所を尋ねる必要は無い。 なら、いつココに現れたのか。分からない。このヒトは……一体? 千鶴は目を細めて改めてヘルマンの様子を観察し始めると、ヘルマンは笑みを浮べていた。「どうしましたかな、お嬢さん?」「ヘルマンさん、ネギさんに一体どういったご用件ですか?」「これは参りましたな。至極個人的な用件でして、貴女にお教えする事は……」「でしたら、お教えする事は出来ません。そもそも、もう夜ですよ? 寮に行けばそう待たずにネギさんを尋ねる事が出来る筈ですが?」 千鶴の言葉に、ヘルマンは目を見開くと、楽しそうな笑みを浮べた。「なんでしょうか?」 千鶴は警戒心を露わにしながら強い眼差しをヘルマンにぶつけた。「いえねぇ、貴女は実に強い女性だと感心してしまったのですよ。私を不信に思ったなら、普通の女性なら逃げようとする。貴女は裏の人間では無いのでしょうに……。ああ、貴女の魂に興味が湧いてしまう……。いけませんな、私のいけない所なのですよ。つい、気高い魂というモノに惹かれてしまう」「なにを……?」 千鶴は突然豹変したヘルマンに目を丸くした。ヘルマンは穏やかな笑みを浮べたまま話を続けた。「寮に行けばいい――ですか。そうですね、普通ならそうなのでしょうが、今宵は拙い。我が主の目的は二つ。それ以外の命は主も刈り取るつもりは無いのですよ」「何を言って……」「簡単ですよ。私や主が寮を尋ねれば、間違い無く寮が戦場になる。今宵は特にココの魔法使い達の警戒も凄まじいモノですしね。どこかの――外法使いの少年が暴れまわったおかげでね……」 今度こそ、千鶴はヘルマンを本気で睨みつけた。魔法使いという単語や、外法使いという単語に疑問を抱いたが、それ以上に、戦場になるという言葉と、少年が暴れまわったという言葉で分かった事がある。目の前の男はネギと戦う事が目的であり、暴れまわった少年とは、間違い無く小太郎の事だろうと。「そう、ですか。一つ質問をよろしいですか?」「ええ――構いませんよ、誉れ高き人」「二つの目的……一つはネギさんなら、もう一つは何なのですか?」 千鶴が尋ねると、ヘルマンは笑みを深めた。「この状況で尚も単語一つ一つを吟味するとは、ますます素晴らしい。いいでしょう。お教えいたしましょう。もう一つの目的、それは――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルですよ」「――――ッ!?」 予想外だった。ここでエヴァンジェリン……クラスメイトのネギと同じくらい小さな背の少女の名前が出るとは予想出来る筈も無かった。「さてさて、私がどうしてこんな事を教えて差し上げるか……疑問に思いませんでしたかな?」「え?」 千鶴はヘルマンを見て言葉を失った。ヘルマンは猛獣の様なギラついた目を千鶴に向けていた。「やはり欲しい」 唾を飲み込む音がどちらのモノだったのかは分からなかった。膨れ上がる存在感に千鶴は指の一本に至るまでの己の体の全ての自由を奪い去られていた。「我が主は高潔が過ぎる御仁でしてね。私を召喚してからというもの、一度も食事を与えてはくれないのですよ。私クラスの者を使役しておきながら生贄を用意していないのは実に珍しいのですが――。生贄なしで私を御するあの方の実力は尋常では無いのかもしれませんがね」「何を……言ってるんですか?」「これは失礼。長々と自分の事を女性に……それもとびっきり魅力的な女性にお話するのは何とも言えぬ快楽でしてな」「――――」「おや、どうやら人が来たようだ」「駄目……来ちゃッ!」 千鶴が外に向かって叫ぼうとした瞬間、ヘルマンは千鶴の意識を落とした。千鶴を抱き抱えながら、その顔に深い凄惨ともいえる笑みを刻んでいた。保健室の扉が開き、中に入って来た人物を見て視線を向ける。「おやおや、まさか――標的から御出座し願えるとは行幸ですな」「――――ッ!? 千鶴さん!」 赤毛の少女と黒髪の少年を視界に収め、ヘルマンは満足気に笑みを浮べた。