赤い月の晩。深い森の中、幼子は血まみれで立っていた。
雪のように白い髪も、同じく白い烏族の服も、自身の赤眼のような赤い血に染まっている。だがそれは子供自身の血ではない。目の前で一刀両断された異形の化け物の返り血だ。
「赤い月の夜は魑魅魍魎どもがよく騒ぐ」
その惨劇を引き起こした張本人が呟く。
長身の男だった。白い外套を羽織り、内からははち切れんばかりの鍛え上げられた肉体が覗いている。彫りの深い整った顔立をさらに際立たせるその刃の如く鋭い眼光が幼子を見据えていた。
「不思議な餓鬼だ。返り血を浴びても眉一つ動かさんとはな」
未だ血が滴る長刀を和紙で拭い、刃を白木の柄へと収めると幼子の前まで歩み寄った。
近付いてみると、改めてその体躯の巨大さが分かる。五つ程度の幼子から巨人に等しいほどであった。
だが、その巨躯の男が目の前に来ても幼子の表情は動かない。ただガラス球のような瞳が男を見上げるだけであった。
「白い髪に赤い瞳、そして烏族の装束……なるほど、≪凶鳥≫か」
「!」
男のその言葉に幼子は初めて瞳に感情の色を写した。怒り、悲しみ、不安、恐怖、様々な感情が流れては通り過ぎていく。
しかし男は構わず言葉を続ける。
「烏族において白き翼は禁忌の証と聞く。捨てられたか、自分から出てきたか……どちらにせよ、行く当ても無く山を彷徨っていたってところか」
男はただ淡々と思ったことを述べた。そこに哀れみや同情といった感情は無い。
この時代、平和の世となって多少は少なくなったが、それでも親の居ない子供など珍しくも無い。どこの街でも、どこの国でもいる。哀れに思い同情などしたところで、現状が変わるわけでもない。
だから―――
「………」
幼子は答えず男をキッと睨み付けた。しかしその瞳には先ほどまで感じ取れなかった感情が、ハッキリと写っている。どうやら≪凶鳥≫という言葉が癇に障ったようだ。
「フッ、良い眼だ。先ほどより大分マシになったな」
感情が戻ってきた幼子の様子に男は口を僅かに歪める。
―――それは単なる気紛れだったのかもしれない。
「通り合わせたのも何かの縁か……俺は比古清十郎、剣を少々やる」
「剣?」
幼子の脳裏に先の惨劇の光景が過ぎった。
異形の怪物―――山犬を数倍の大きさにしたような物の怪が幼子をその牙が噛み砕こうとした瞬間、閃が走ったのだ。物の怪の顔の中央をなぞる様にほんの一瞬だけ。
そして気付けば、物の怪が左右に両断されていた。
実際に剣を振るったところを見ることができたわけではないが、誰が何をやったかなど一目瞭然。どう控えめに見ても少々などというレベルではない。
だが男はそんな少女の内心を知ってか知らずか、構わずに言葉を続ける。
「お前、名は?」
男の言葉に幼子はフルフルと首を横に振るった。それ即ち名前が無いということだろう。元より与えられなかったのか、それとも名付けられる前に親が死んだか、どちらにしろ男には些細なことだであった。
名前が無いのなら、与えてやればいいだけなのだから。
「ふむ。では、お前は今より“刹那”と名乗れ」
「せつ……な?」
「そう“刹那”だ。一瞬よりもなお速い、という意味だ」
そう言うと男は幼子に背を向け、歩き出した。
「行くぞ刹那」
そう一言言い残して。
「……え?」
幼子は一瞬何を言われたのか理解でず、眼を丸くして呆けた声を上げた。
「里を抜けたお前に、どうせ行くところなどあるまい」
一度立ち止まると、男は肩越しに振り返きハッキリと言う。
「お前には……俺が、生きるすべってやつを教えてやる」
振り返った男の顔は、これでもかというくらいに人の悪そうな笑みを浮かべていた。
☆☆☆
「でやぁぁぁ!!!」
気合の入った叫びと共に刹那は竹刀を振り下ろした。
その一撃を清十郎はあえて受け止めず、軽く受け流して刹那のバランスを崩す。そして即座にその隙を横薙ぎで打ち込んだ。
だがその瞬間、刹那の姿が一瞬にして掻き消える。
「ほう……」
清十郎は少し感心したように声を漏らすと、視線を上へと向けた。
そこには天高く舞い上がり、透くような青空を背に竹刀を上段に掲げる刹那の姿。
「飛天御剣流―――」
刹那の呟きと同時にそれまでの浮遊感が一瞬で消え、重力に従って下方、即ち比古清十郎の上へと一気に自然落下を開始する。
狙うは人間の死角の一つ、頭上。落下する刹那と待ち受ける清十郎の視線が交差する。
「龍槌せぇぇぇんん!!」
全身全霊を籠めた声と同時に落下の勢いと自身の体重を全て竹刀に乗せ、一気に振り下ろした。
「多少は考えたか」
清十郎は不適な笑みを浮かべると、刹那の龍槌閃を僅かに半身を反らしてかわし―――
「だが……」
「! 外した!?」
―――旋風が渦巻いた。
「浅はかなんだよ」
飛天御剣流“龍巻閃”
「がはっ……!」
回避した時の遠心力をそのままに、回転を加えた薙ぎの一撃が刹那の背中を打ち付ける。その衝撃は凄まじく、刹那の身体を大きくその場から吹き飛ばした。
「今のが龍巻閃だ。単発で放つことも出来なくも無いが、返し技として使って最も威力を発揮する。さらにこの技から派生する技も幾つか―――って、聞こえてねぇか」
「きゅう~」
清十郎の一撃で目を回した刹那に呆れたようにため息を吐くと、手頃な岩の上にどっかりと腰を下ろした。腰に吊るした酒瓶の詮を抜き、常備している杯に注いで一口だけ口を付ける。
「―――で、一体何の用だ?」
「おや、気付きはりましたか」
清十郎の後ろに、いつの間にか一人の女性が佇んでいた。先ほどまで姿はおろか気配すら無かったというのに。
「俺のような天才になると、近付いてくる奴は気配消してようが何しようが分かるもんなんだよ」
「……一体どこからその自信がくるのか、知りたいもんやわ」
清十郎はその女性の方へと振り返る。
一言で言えば大和撫子。艶のある長い黒髪に整端な顔、抜群のプロポーションを誇る体は紅白の清楚な袴によって包まれている。どこへ出しても恥ずかしくない、和の美しさの模範のような女性だった。
「ちょい近くまで来たさかい、顔出そ思いまして。お土産もちゃんとありますえ」
大和撫子の美女、青山鶴子は人の良い笑みをニッコリ浮かべながら手にした酒瓶を顔の横に掲げる。
「それにしても、相変わらず子供かて容赦あらへんどすなぁ」
先ほどの修行場から僅かに離れた小屋の中、鶴子は持参したお猪口に口を付けながら呆れたように呟いた。鶴子が言っているのは言わずもがな、刹那との修行風景のことである。
彼女自身も流派は違うが、師範という身分故に門下生を持つ身。そんな彼女からしても、さすがに同じ年頃の子供に同じ真似はできない。もっとも、ある程度以上のの年齢の者たちはその限りではないが。
「手取り足取り教えられた技は身に付かない。一度喰らって、そこから学び取った技こそいざって時に役に立つ。俺も昔はそうやって教わった。ま、飛天御剣流の伝統みたいなもんだ」
鶴子が持ってきた酒を杯に注ぎながら清十郎は言う。
実際、刹那が放った龍槌閃も清十郎が初めに身体に叩き込んだのだ。もちろん物理的な意味で。
「……よう無事どしたね、この子」
清十郎の言葉に鶴子は浮かべた笑みを引き攣らせながら、哀れみを含んだ視線を横に向ける。
彼女の横には未だ目を回している刹那が寝かされていた。額には水で浸した手拭が頭を冷やしている。無論、ここまで運んできたのも、額に手拭を乗せたのも全て鶴子である。あの薄情な師匠は放っておけと先に行ってしまったが、さすがにそのまま子供を放置しておけるほど彼女は薄情ではない。
「そこはひとえに、俺の巧みな力加減の賜物だ」
フッと笑みを浮かべながら清十郎は髪を手で払った。
そんな清十郎に鶴子はため息を一つ。自信家ぶりもここまで来るとある意味尊敬に値する。しかもそれが過信では無く実力も伴っているというのだから、なお性質が悪い。
「それで、本題は何だ?」
杯の酒を飲み干すと、清十郎は何の突拍子もなく唐突に言った。
「―――はて、何のことどすか?」
その一言に、鶴子のお猪口を口に運ぶ腕の動きがピタリと静止する。
清十郎は杯を床に置くと、ただでさえ鋭い瞳をさらに細めて刺すような視線を鶴子に向けた。
「はぐらかすなよ。ただ顔を見に来たにしては、持ってきた酒が随分な上物だ」
鶴子が持ってきた酒瓶をトンっと彼女の目の前に置く。陶器製の酒瓶の表面には『万寿』と描かれている。新潟清酒の本流、朝日山の最高峰の酒だ。出来が良い分、当然値が張る代物だ。そんなものをただ顔を見に来たという理由だけで持ってくる物好きなどそういない。
「貴様、何か言い辛い事を話に来たな?」
「………」
沈黙する鶴子を尻目に清十郎は不敵な笑みを浮かべ、丸太のように鍛え抜かれた両腕を組んだ。
「俺とお前、一体何年の付き合いだと思ってる? お前の考えなんてお見通しなんだよ」
「……敵いまへんなぁ、あんたはんには」
鶴子は大きく嘆息すると背筋を正して清十郎に向き直った。そこに先ほどまで浮かべていた柔和な笑みは無い。ただ恐ろしいほどに真剣な空気が鶴子から発せられていた。気迫といっても良い。気の弱い者なら内容如何に関わらず、頷いてしまいそうなほどだ。
もっとも、そんなものに気圧されるほど可愛らしい神経を清十郎がしてる訳もないが。
「刹那をウチに、いや神鳴流に預けてくれまへんか?」
「断る」
真摯な態度で言った言葉を、清十郎は迷うことはおろか考える素振りさえ破片もみせずに即座に斬って捨てる。さすがの鶴子もその即答の早さに思わず言葉を詰まらせ、目を白黒させた。
「その餓鬼を拾ってきたのは俺だぜ? 育て方は俺が決める」
「……その結果がどうなるか、気付いてないあんたやないやろ?」
飛天御剣流は戦国の昔より続く古流剣術であり、他流派のように既に形骸化したものではなく、多対一を得意とする実戦本位の殺人剣である。その力は凄まじく、御剣流を振るう者はその超人的な技の数々によってかつては『丘の黒船』と比喩されたほどだ。
だが、弊害が無いわけではない。
飛天御剣流は神鳴流などの流派とは違い、『魔力』や『気』などといった特殊な力を一切使わず、己の肉体のみで技を放つ。そのため、非常に体に負担が掛かるのだ。最初は使い手が気付かないほど微量なものだが、剣を振り続けるたびに肉体は蝕まれていく。
それに肉体の防御力も『気』の恩赦が無いために常人と変わらない。極端な話、一撃で死ぬ可能性すらある。
「せめて、≪気≫だけでも覚えさせるべきどす。でなければ、この子の体はいずれ―――」
「それもまた飛天御剣流の背負うべき業だ」
鶴子の言葉を遮って清十郎は言い切った。
「大体お前も分かってんだろ? 武芸者にとって≪気≫なんてもんは邪道だ」
「それは……」
鶴子は言いよどむ。それは一人の剣士として彼女も思っていたことだ。たとえ大前提として≪気≫を扱わなければならない神鳴流という特異な剣術であったとしても。
勿論、神鳴流にも≪気≫を扱うようになったのにはそれなりの理由があるし、己が神鳴流剣士であることにも誇りを持っている。後悔は無い。
だがそれでも思わずにいられないこともある。自分達は戦う者であるが、武芸者ではないと。
「いくつか例外はあるが、殆どの武技ってのは己の肉体や武器を扱う純粋な技術にすぎん。武術に≪気≫を取り入れているところもあるが、それだって肉体を内から高めているだけだぜ。中国武術の硬気功が良い例だな」
実際このような考えを持つのは比古清十郎だけではない。世界に数多存在する達人の多くは、彼と同様の考えを持っている。一種のプライドといえるものだ。
「多くの武術家は長年鍛え上げた肉体、積み上げた技術に大なり小なり誇りを持っているもんだ。だが≪気≫はそんな努力を簡単に否定する。たとえ半人前であったとしても、その拳は岩を砕き、その肉体はあらゆる衝撃を緩和する。時間を掛けて手に入れた物を軽く越えられる様は、見ていて気持ちの良いものではないだろうぜ」
清十郎の言葉は正しい。≪気≫はある意味、反則技のようなもの。純粋な武人から見れば嫌われて当然だろう。だが正しくない面もある。
「あんたがそれを言うか……」
清十郎の言葉に鶴子は呆れを含んだため息を付いた。
「並の武人なら、あんたのいう通りや。返す言葉も無い。せやけど、ほんまもんの達人―――真に境地に至った者にとって、≪気≫の有る無しなんて関係ない。あんだが、そうやったように」
かつて青山鶴子が比古清十郎と剣を合わせた時、思った。ただの人間がここまで高みに昇れるのかと。≪気≫など一切使っていないというのに、その力も速さも技も、全て常人を遥かに凌駕していた。達人などという言葉ではとても足りない。言うなれば超人だ。
「確かに俺ともなれば≪気≫の有無なんて関係ねぇ。だが嫌いなものは嫌いだ」
言い終わると清十郎はその場から立ち上がった。
「しかしお前の言い分も分からんわけでもない。俺は刹那に≪気≫を教えるつもりは全く無いが、奴が自分から教わりたいと言うのならお前に任せる。話は終わりだ。ソイツが起きたら、修練場にいると伝えておけ」
鶴子の返答を待つことなく、清十郎は白い外套をなびかせて小屋から出て行った。その手には鶴子が持ってきた酒瓶をぶら下げているのだから、しっかりしている。
小屋の中に刹那と二人きりになった鶴子は、一度深く息を吐いた。それが安堵か苦労によるものかは、区別が付かない。
「あんたも、難儀な子やなぁ」
呟いて、鶴子は刹那の頭を軽く撫でた。
この子はいずれ戦いに巻き込まれるだろう。その身に宿る異端の血によって。
力を持つ者は決してその力から逃れることはできない。どんなに逃げても、どんなに隠れても最後には追い着かれる。運命という名の絶対的な敵に。
「ほんに、難儀やわ……」
その呟きは誰にも聞こえることなく、宙へと消えていった。
あとがき
幼少時の刹那が白髪赤目だということ、達人たちの大半が気を邪道だと考えて嫌っているということは完璧に当方オリジナルで、原作に全く関係ないです。ご了承ください。
後、比古師匠は剣心の師匠と同じような人だと思ってください。子孫とか生まれ変わりとかそんな感じの人です。いやまぁ、比古清十郎があの人以外想像できないってのが理由なんですけどね。
しばらくは幼少時代のせっちゃんを書こうと思います。原作までは少しかかりますね。
それでは、また次回お会いしましょう。