人の痛みなんて結局理解なんて出来ないのだろう。
痛みなんて分からない。
人を殴っても分からない。
人に殴られてもそれは己のみの痛み。
他者ではない。
他人ではない。
己の痛み。己の苦痛。己の憎悪。己の憤怒。
嗚呼、嗚呼、痛い、痛い、痛い。
心から痛いのだ。
苦しいのだ。
悪夢のように心を蝕み、体を痛みが犯し、魂すらも朽ち折れそうになる。
砂の花弁のようにざらざらと触れるだけで壊れてきそうな己。
「テメエは、なんだ!」
絶叫。
誰も来ない、冷たいアスファルトの上に這いつくばりながら俺は上を見上げた。
そこにそいつはいた。
一人の従者を連れて、ケラケラと嗤っていた。
「私か?」
月を仰ぐように手を伸ばし、絹糸のように伸ばした金色の髪を月光に輝かせて、ただ口元のみを鈍く照らし出し嗤う。
その犬歯は人間とは思えないほどに伸びていた。
黒衣を纏い、圧倒的に俺を打ちのめしていた。
「私は悪い魔法使いさ」
ゲタゲタとそいつは俺を見て、嗤っていた。
楽しそうに。
楽しそうに。
ただいたぶるネズミを見て嗤う猫だったのだ。
なんでこうなったのだろうか?
俺は思い出す。
俺は何も変わらない日常を送っていたはずだった。
今一調子が悪くて、寝て起きたら昼前だった俺は学校をサボることに決めて、ついでに短崎の見舞いにいくことにしただけだった。
一応連絡で命には別状はないことを知っていたけれど、顔を合わせたアイツはとりあえず元気そうだったので安心した。
行く途中に買った果物セットを一緒に喰いつつ、適当に雑談をして、俺は病院から引き上げた。
病院から出て、空になっていた食料を近くの業務用スーパーで買い込んで、俺は一度学生寮に戻った。
それまでは何の問題もなかった。
問題はそれから気に入っている漫画雑誌を買ってなかったことに気付いて、コンビニに買いに行ったことだった。
「……今日は涼しいなぁ」
夜道をブラブラと歩く。
既に日は暮れて、空は暗くなっているが、小学生の時ならいざ知らずこの歳でビビることすらない。
記憶に頼るどころか完全に脚が覚えていて、迷いもせずに十分程度でコンビニに辿り着く。
「なんかここ寒いんだよなぁ」
まだ冬の残滓が残っているのか、ここに来るたびに背筋が寒くなる。
おかげで夜にも関わらず不良が集ることが少ないので重宝するコンビニだった。
自動ドアを開いて、いつもどおり無愛想な店員に雑誌と栄養ドリンク、あと適当な菓子を差し出し、購入。
適当に立ち読みをして時間を潰してから、俺は学生寮に帰るべくコンビニを出た。
そして。
そして?
俺はそこを歩いていた。
足に任せて、栄養ドリンクを飲んで、歩きながら適当に菓子を食って。
部屋で雑誌でも読むかと考えながら歩いて、歩いて、何故か――俺は桜通りを歩いていた。
「あ?」
夜闇に舞う夜桜の花吹雪を見ながら、ようやく俺は桜通りを歩いていることに気が付いた。
なんで俺はこんなところに?
意識散漫ゆえの注意不足? ありえない。何度コンビニと学生寮を往復したと思っている、ぼけていなければこんな遠くまで来たりなんかしない。
「かしいな」
どこかぼやけているような気がする頭を振って、俺は道を戻ろうと振り返ろうとした瞬間だった。
「ふん。引っかかったのはこいつか」
「は?」
声がした。
幼い少女の声。
見上げる、そこには――ありえない光景があった。
空に人が浮かんでいた。
ワイヤーで吊るされているわけでもなく、重力を忘れたかのような自然に、されど吐き気がするほど不自然にそいつは空中に浮かんでいた。
そして、その下にはかしずくような体勢で立っている女――いや、女じゃない。女の顔に、普通の少女が身に付けるような格好をしているが、それは人間ですらなかった。
ロボットだろう。
ありえない。なんだこれは。
「寝ぼけてん、のか?」
そう考えた瞬間、顔面に激痛が走った。
「がっ!!」
吹っ飛ぶ。転がる。勢いよくぶっ飛んで、転がりながら反射的に受身を取った。
アスファルトの硬さに手の皮がすり抜ける、痛い。
慌てて起き上がると、そこには拳を突き出した体勢で佇むロボット女の姿があった。
「ふむ。それなりに鍛えてはいるようだな」
声を上げるのは先ほどから宙に浮かび上がる少女。
俺は夢でも見ているのか、人が空を飛ぶ、ありえない、現実味が無さ過ぎる。
夢ならばいい。
だけど、この痛みはなんだ。
そして、俺を殴ったあの人間とは思えないロボットはなんだ。
無感情な顔、耳には確実に人間では無い部品、現代科学では絶対に作れないだろうもの。
コスプレだと言ってくれたほうが信じそうな姿。緑色の髪をなびかせて、そいつは俺をぶん殴った。
「訳が分からなさそうだな? ふむ、どうやら誘導操作を掛けすぎたか」
「マスター。今のうちに傀儡にするべきでは?」
「まあまて。他の連中とは違って、こいつの運動能力はよく分かってない。少し試させろ、茶々丸」
「はい。一日二日で治る怪我に納めますので、ご了承下さい」
何を?
何を言ってるんだ。
意味が――ぶん殴られた――わかんねえ。
「がほっ!」
距離にして五メートル、それを一瞬で縮められた。瞬間移動のような速度、しかもバーニア付き。
拳は硬い、鉄のようだ、いや人間じゃないから鉄なのか。
鉄パイプで殴られたよりも重い一撃、鼻血が出る。
「防げますか?」
膝が上がる、震脚、ロボットの癖に武術を真似た動作。
繰り上がる膝、それに俺は――手を乗せた。
化剄。
手首を捻り、体を捻り、ギリギリ受け流す。けれども、腕が千切れそうなほどに痛い。破れた手の皮から血が流れる。
飛び上がる、そいつ――茶々丸とか呼ばれていた存在。そいつが俺の横を駆け抜ける。俺は腰を廻す、膝を曲げる、足首を返し、手の平を背中に叩きつける。
発勁。
イメージするのは竹筒の中を流れる水銀が先端から噴き出す光景。
吹き飛ぶ勢いに勁を乗せて、叩き込んだ。
「っ!?」
吹っ飛ぶ、元々そいつの動きがよ過ぎるから。
空中に飛び上がるように吹っ飛んで、阿呆みたいなことにそいつは空中で回転――バーニアを吹かして、回る。
ありえねえ。
「発勁使いですか。中国武術を納めているようですね」
「だから、どうした!」
「いえ、データに入力しただけです」
そいつは声色一つ変えずに答える。
なんなんだ。そして、俺は何故こいつと戦っているんだ。
わけが、わからねえ!
「おぉ」
鼻血の詰まった鼻で空気を吹き出し、血を吐き出し、喉を鳴らす。
両手は動く。足も動く。だから、殴る。
それしか思いつかなかった。
「ざ、けんなぁ!」
「データ補正修正――発勁の動作を確認、しかし気の使用は見られない」
機械のような、いや機械なのだろう淡々とした口調で告げると、茶々丸が俺の突進に合わせて両手を広げた。
舐めているのか。
脚を踏み込む、腰を捻り、震脚からの体重移動。肘は柔らかく、されど手の平は強く、槍のように突き出す。
――掌底。
顔面に手の平を叩きつけて、衝撃を打ち込む。
大の大人でも悶絶する手加減抜きの一撃、試し割りでブロック塀を砕いたことすらもある俺の一撃。
だがしかし。
「防御の必要なし。十二分に防ぎきれます」
それは直撃を受けたのにも関わらず微動だにしなかった。
まるで古菲のように。
「なっ!」
間合いを広げようと飛び下がるよりも早く、俺の腕が掴まれた。
肉が潰れて、皮膚がめり込んで、骨が軋む激痛というよりも血の流れが止まるような感覚。
そして、そのまま俺は上へと――投げ飛ばされた。
肩の関節が悲鳴を上げる、無造作な動作に心の準備も無く宙へと浮かび上がった俺の血管が収縮したような気がした。
如何なる出力なのか、その片腕で体重七十キロを超える俺の体を手で投げ飛ばす。
常識外の光景、空中で頼るもののない俺は何も出来ない、一瞬でありながら長い時間。バタバタして。
バシンと背中からアスファルトの上に叩きつけられた。
「ぁ、あああ――!!」
背骨が悲鳴を上げた。
咄嗟に手を地面にぶつけて、受身は取った。
だけど、体は痛みすらも超越して、痺れのようなものが流れ込んでくる。
どこを傷めた。神経がいかれていないか、起き上がろうとする、だけど痛い、痛い、痛い。
痛みに悶えながら、俺はそれでも手を伸ばし、体勢を立て直し、体をゴロリと横に回す、それだけ悲鳴を上げる肉体。
「テメエは、なんだ!」
這い蹲りながら叫ぶ。
理不尽な光景。なんでこんな目に合うのか理解が出来なくて。
圧倒的過ぎる悪夢を見せた化け物は嗤う。
「私か? 私は悪い魔法使いさ」
……ふざけているのか。
信じられるわけが無い。夢なら醒めてくれ。
まほうつかい。
まほう、つかい。
信じられるものか。ふざけんな。ふざけんな!
「ふざけん、なぁああああああああああ!!」
ビキビキと悲鳴を上げる体を起こし、絶叫を上げながら、俺は立ち上がろうとして。
「――眠ってください」
ドンッという炸裂音と共に顔面にめり込んだ鉄の塊――ワイヤーに繋がれて射出された腕部、ロケットパンチと呼ぶべきそれが俺を殴り飛ばしていた。
脳が揺れる。
起き上がろうとするのに、膝が勝手に崩れて、後ろに倒れていく。
嫌だ。倒れるな、倒れるな! まだ、まだ――終われないのに。
「……根性が無いな。常人ではこの程度か?」
ケラケラと嗤う声が聞こえた。
けれども、声が遠くなる。
背中が何かとぶつかる。多分地面、痛みが走ったような気がしたけれどもう感じない。
空が暗い、月すらも暗い。
「さて、少し使えるようにしてやろう」
声がする。
白い何かが見える。
それはゾッとするほど美しい顔、しかし吐き気が込み上げる恐怖の光景。
――ザクリ。
何かが首に突き刺さったような気がした。
そして。
そして。
俺は夢を見る。
誰かを殴る夢を、誰かと戦う夢を。
ずっと、ずっと、ずっと――