大切なものは失ってからようやく気付ける。
目が覚めた印象は体が痛いだった。
そして、目に飛び込んできたのは真っ白い天井。
窓から差し込むのは日光の輝き、昼過ぎだろうか。
「……多分知らない天井だ」
消毒薬の臭い、不自然さすら感じられる清潔な雰囲気。
病院だ。
人生二度目の入院行きになったらしい。
「あ、目が覚めたかしら?」
「え?」
声がして、目を向けるとそこには隣のベットのシーツを換えていた看護婦――いや、今は看護師がいた。
柔らかい微笑み。
入院患者の不満や痛み、苛立ちを押さえ込むために勤めるものは皆不満を顔に出さずに笑みを浮かべる、立派だと思える。
――と、そこまで考えてようやく僕は自分の状況に疑問を抱いた。
「あれ? なんで、僕はこんなところに」
「大変だったわね。貴方、“車に撥ねられたのよ”」
「え?」
車?
そうだっただろうか?
記憶を思い返す。そうだ、そういえば通い稽古の帰りに確か車のライトが見えて――僕は撥ねられたのだろうか?
いや、撥ねられたのだろう。
記憶がゴチャゴチャにぼやけているが、頭を打ったのかもしれない。木剣での稽古でも頭にいいものを受ければ記憶が飛ぶなんてたまにあることだ。
僕はそう納得すると、口を開いた。
「えっと、体がかなり痛いんですが、骨とか折れてます?」
「あ、そんなに大したことはないわよ。精々打ち身と打撲ぐらいらしくてね。後で検査するらしいから、それが終わったら無事退院ね」
単なる検査入院だろうか。
しかし、車に撥ねられて打撲と打ち身だけで済んでいるとは随分と自分の体は頑丈だったらしい。
「先生も驚いてたわよ? 何かスポーツでもやっているのかしら?」
「え、ええ。ちょっと剣じゅ……じゃなくて、剣道を」
常識的に考えて、剣術やってますというのはどうかと思ったので慌てて言い直した。
「そう。なら、受身とかだっけ? 車に撥ねられた時よりもね、その後地面とかに体をぶつけて怪我ってひどくなるの。貴方の場合体を鍛えていたし、無意識に受身を取って怪我を抑えていたらしいわ」
すらすらと看護師さんは僕の疑問に答えてくれる。
まるでそれが正しいと教えこむように。
だから、僕は素直に頷いて、自分の強運と技術を教えてくれた先生に感謝の念を飛ばした。
「とりあえず目が覚めたなら担当医の先生に教えてくるわね、夕方からCTスキャンが空くから一応脳に問題がないか検査をするわね」
「分かりました」
僕は了承して、看護師さんが去るのを見届けてゆっくりと息を吐き出した。
体はジクジクと痛いが、痛い部分には包帯を巻かれているし、呼吸をするだけなら問題はない。
そして、僕は自分の迂闊さに怒りを覚えた。
記憶は曖昧だが、何で車なんかに撥ねられるのだろうか。
信号は守っていたか? 道路の傍を歩かなかったか? ハイブリットカーでもない限り、車の走る音には十二分に気をつければ気付けるのに。
具体的な撥ねられる前の場所も状況も記憶が混濁しているせいかまったく覚えていないけれど、撥ねられたという事実だけは心に強く残っている。
僕は運がよかったのだろう。
年間数万人以上が交通事故で負傷をしているし、その内の数百人が死亡している。
その内の数百人と比べれば、死ぬことも無く、そして特に後遺症も残りそうにない程度の怪我は奇跡的だった。
肩に巻かれた包帯にそっと触れながら、そこに宿る熱を感じる。
指は動く、痛みを覚えるが手も動く、軽く動かした程度だが神経には異常もないようだ。
「よかったぁ」
安堵の吐息。
それは自分の人生が狂わなくて済んだこと、まだ剣術は出来るという二重の安堵。
そうして、安心して検査に呼ばれるまで目を瞑り、ベットでうとうとと眠りに入ろうとした時だった。
「おーい、短崎~。起きてるか?」
コツコツとした足音と共に聞き覚えのある声がした。
目を開く、顔を廊下方向に向ける。
そこには私服姿に、がっしりとした体格、後ろに伸ばした髪を軽く尻尾のように束ねた髪型をした見覚えのある男子。
長渡 光世(ながと こうせい)。
僕のルームメイトの姿があった。
「長渡?」
「お、起きてたか。ふぅ、死んでないようで安心したぜ」
左手に持っていた紙袋を床に置き、右手に持っていたおそらく見舞い用の果物セットを備え付けのテーブルに置くと、長渡は安堵の息を吐きながらパイプイスに腰掛けた。
「長渡、風邪治ったの?」
確か自分の記憶――ところどころ吹っ飛んでいるが、日曜の朝まで風邪を引いてうんうん唸っていたはずなのだが、完治したのだろうか?
僕がそう尋ねると、持ち込んだ皿の上にさらさらと林檎の皮を果物ナイフで剥きながら。
「お前が帰ってこない間に治った。ほら、林檎食うか、林檎」
ものの数分で林檎を剥き終わり、ざっくりと分割されたそれにフォークを突き刺し――放置。
どうやら渡してくれる優しさはないらしい。
「食べるけど、渡してくれないんだね」
じっと長渡の冷たさに抗議するように視線を送るが、にべも無く撥ね退けられた。
「お前男に渡してどうするんだ。ていうか、あーんとかやるの嫌だぞ。そんな腐向けの行為など虫唾が走るわ」
同意である。
僕はなんとか右手を動かすと、林檎の刺さったフォークを握って、しゃくしゃくと齧った。
む。美味しい。どうやら結構いいものを使っているらしい。
前に入院した時は果物の差し入れなどなかったから知らなかったが、入院患者は美味しい果物を食べていたのか。新事実だった。
そして、長渡も果物を剥きながら自分も食べてしばらく二人でしゃくしゃくしていた。
「んで、今更だけどよ。お前大丈夫なのか?」
林檎を食べ終わり、バナナを貪りながら長渡が今更のように尋ねてくる。
「本当に今更だね。大丈夫、検査入院みたいなもんだから今日の夕方には退院出来ると思うよ」
「そうか」
「そういえば、長渡はなんだここに? 今まだ昼だよね、学校は?」
今日は月曜日である。
時計はパッと見当たらないが、太陽の角度から大体昼ぐらいだろうと検討は付いた。
「あー、サボった」
「おいおい」
「まだ風邪のせいか不調だし、単位には余裕はあるから問題はねえよ」
むきむき、二本目のバナナを食べる長渡。僕もバナナは欲しいのだが、くれないのだろうか。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、長渡は二本目のバナナを美味そうに食べつくすと、僕に目を向けた。
「あ、そうだ。短崎」
「何?」
「お前の日本刀だけどよ。一応警察署の方に俺が受け取っておいたから、お前の部屋に入れてある」
「え?」
「轢き逃げだってな。一応お前の名前とか学生証とかで刀剣所持の資格保持者だってことは照会出来たからいいけどよ、没収されるところだったぜ」
「あ、そうか。そうだよね」
普通に考えたら現場遺留品に太刀なんて凶器があったら押収されるに決まっている。
ルームメイトとはいえ、代理で受け取ってくれた長渡には感謝してもし切れないだろう。
「ありがと。あとそうだ、僕の太刀大丈夫だった? 撥ねられた時に曲がってたりとかしてたら大変なんだけど……」
「んー? 確か鞘がぶっ壊れてたけど、刀身は素人目だけど多分平気じゃね?」
「鞘が?」
鞘が壊れただけで済んだのだろうか。
「とりあえず新聞紙で梱包して運んだけどよ。警察官のおっちゃんからしっかりと厳重注意を受けてきました、まる」
「ありがとうございます」
ペコリと長渡に感謝の頭下げ。
ほれほれもっと敬うといい、と長渡は心なしか威張っていたのがむかついた。
けれど、随分と体調はよくなったな。と僕は思った。
金曜日、びしょ濡れで帰ってきたときには幽鬼のような表情で言葉も聞かずにシャワーを浴びて、ベットに入っていった。
何があったのか僕は聞いていない。
そこまで踏み込む資格もなければ、踏み込んではいけないことだと思ったからだ。
「ま、いずれにしても無事でよかったわ。昨日の夜中に電話があったときには、生姜焼きも喉に通らなかったからな」
「ご心配かけました」
「心配させんなよ。まったく、一応俺とお前は友達なんだからな」
軽く苦笑しながら、長渡は少しだけ照れくさそうにそう告げてくれた。
僕はそれに感謝をするしかなかったし、気をつけるよと返事を返すのが精一杯だった。
友人に恵まれた、ただそれだけは確信できた。
「んじゃ、俺はそろそろ行くわ。買い物もあるしな」
「ん? もう食料切れてたっけ? あ、そういえば僕が担当だったね」
迂闊。
来週というか、今週分の食料を買っておくのは僕の担当だったのに。
「ま、気にすんな。病院送りなら仕方が無い、俺が買っておくからよ。あ、なんか喰いたいのあるか?」
「んー。肉じゃがでも食べたいかな」
「安い奴だな。OK、今日は退院祝いに肉じゃがでも作るか」
そんじゃ検査がんばれよ、と手を振って長渡は病室から出て行った。
僕はそれを見送ると、再びベットに身を横たえて、目を閉じた。
その後、CTスキャンや医師の診断を受けたが、結果は良好。
特に異常なしというお墨付きを貰って、病院から出たのは夕方頃だった。
病院から出された湿布をベタベタと痛い場所に張り、なんとか痛みを抑えておく。
「はぁー、ひどい目にあった」
長渡が持って来てくれていた着替えの私服に身を包み、僕は手に紙袋と食いきれなかった――というか明らかに一日で食べきることを想定していない果物セットの残りを持って、僕はようやく学生寮にまで辿り着いていた。
財布や定期は撥ねられた状態でもポケットに入っていたらしく、病院の看護師さんから返してもらえた。
カンカンと階段を鬱屈な気持ちで登り、ヒリヒリと痛む体に悲鳴を上げながら、僕は自分の寮室前まで辿り着き、ノブに手をかけた。
ガチン。
「ん?」
おかしい、長渡はまだ帰ってないのだろうか?
僕と長渡の間に自然と決めたルール。
片方がいなくて自分だけがいる場合、鍵を開けておく。誰もいない場合、両方共いる場合、鍵はかけておくということ。
そして、僕が部屋にいない以上、長渡は寮室にいても鍵を閉めないはずだが。
「買い物に時間でもかけているのかな?」
ポケットの中の財布に取り付けてある鍵を使い、ドアを開く。
中は真っ暗、やはりいないようだ。
「ただいまー」
意味は無いが、習慣的に声を出して、靴を脱いで玄関に上がる。
台所にまで出歩き、片手に持っていた果物セットを置くと、僕は冷蔵庫を開けた。
その中には沢山の食料が入っており、その中にはジャガイモ、豚肉、玉ねぎ、ニンジンなど、一見カレーの材料に見えるが肉じゃがの材料でもある食料が入っている。
長渡は一度帰ってきてはいるようだ。
「出かけてるのかな?」
コンビニに漫画雑誌でも買いに行っているのかもしれないと、結論付けて僕は冷蔵庫の扉を閉じた。
自分の割り当てられた部屋に戻ると、長渡の言うとおり僕の太刀らしきものが新聞紙でグルグル巻きに包装されて置かれていた。
「ひどいな」
少し苦笑。
紙袋を部屋の隅に置き、僕は新聞紙の包装を解く。
そして、中にあったのはひび割れた鞘に納められた僕の太刀だった。
「……この鞘はもう駄目だな」
後で新しいのを手に入れるしかない。
知り合いの刀工の人に頼めば貰えるかな? と暢気に考えながら、一応太刀が曲がっていないかどうか鞘から慎重に引き抜いた。
刃は上に、鞘を払う。
引き抜かれた太刀、それは一見曲がっているようもないし、汚れも無いように思えたけれど。
「ん?」
波紋がどこか歪んでいるというか曇っているような気がした。
刀身を指でなぞると、どこか粘ついている、湿っているような感覚。
「……こんな状態だったっけ?」
昨日の道場帰りに一度太刀の状態を確認したが、こんな状態じゃなかったと思う。
僅かに違和感を覚えて、鼻を近づけたのだが……臭い。
鉄の香りだけではなく、どこか異臭がした。腐ったような臭い、汚水をかぶったような胃がむかむかする臭い。
「泥水でも浴びたのかな」
その割には一度拭われたように綺麗である。
太刀が転がっていたのだろう場所を思い出そうとするが、そもそもどこで撥ねられたのかも覚えていない自分に気が付いた。
違和感を感じるが、まあそれどころではないと首を振る。
今のところ錆びは見られないが、放置すればあっという間に刀身が錆びに覆われるだろう。
手入れの必要があると考えて、手入れ道具を取り出す。
僕は抜いた太刀を左手で持つと、ティッシュペーパーで棟の方から切先にかけて丁寧に拭い出す。
古い刀剣油を拭い去るつもりで拭うと、手入れ道具から打ち粉を取り出し、ぽんぽんと下から上へと優しく打ち付けていく。
手入れの時にこそ慎重にやらないといけない、しっかりとそれを教わっている。
全体に打ち粉をまぶすと、新しいティッシュペーパーで打ち粉を拭い去る。それを数度繰り返し、行い続ける。
汚れを拭い去るように、穢れを払うように、命を吹き込むように行う。
そうして何度か鑑賞を行い、刀身の波紋が浮かび上がったのと確認して、柔らかい布に刀身油を数滴垂らし、仕上げに太刀を拭う。
電灯の光を浴びて、刀身の波紋が漣のように煌めく。
「よし」
後は鞘に納めるだけなのだが、ひび割れた鞘に入れるのはむしろ危険だから真新しい布団シーツを優しく太刀を巻きつけて簡易性の鞘を作った。
紐糸で軽く固定し、鍔から抜け落ちないように固定。
明日にでも知り合いに訊ねて、鞘を作ってもらうことにする。
「こんなものかな?」
僕は軽く伸びをして、緊張に固まった筋肉をほぐした。
そして、リビングに戻り、お茶を入れながら帰ってくるだろう長渡の帰りを待つことにした。
けれど。
けれど、けれど、けれど。
長渡は帰ってくることはなかった。
次の日の朝になっても。