不思議な少女だった。
麻帆良祭前夜祭、そのチケットの売出し締め切りが迫っている声が鳴り響く。
ごみごみした人ごみの中で、僕は歩いていた。
理由は簡単。
――暇だから。
片腕が使えない、その事情を汲んでクラスの皆が気を使ってくれたのだ。
幸い準備はもう殆ど終えているし、僕がことさらやることもないのだけど……少し寂しいものがある。
「さすがに騒がしくなってきたなぁ」
肩には背負った竹刀袋――中には新しく購入した鉄心入りの木刀。
制服の裾を揺らしながら、右手に掴んだホットドッグを齧る。
視界一杯に広がる生徒、学園関係者、麻帆良祭の噂を聞きつけてやってきた外部の人たち。
毎年のことだが、この季節は学園と言うよりもテーマパークに近い気がする。
さて、どうするかと考える。
長渡は部活で演舞会のリハーサルをするといって夜まで帰ってこない。既に前夜祭のチケットは手に入れてあるし、そこで食事も取ってくるだろう。
「今日は暇になるかな」
タマオカさんのところにいって、新しい太刀の注文でもしようか。
それとも寮に帰って、素振りでもしようか。
――ようやくまともに木刀を触れるようになった程度、昔ほどの技は使えない。斬鉄すらも出来ない、少し前の僕には到底届かない。
明日には桜咲に挑むための武道会がある、少しでも修練をしておくべきか。
「……帰ろうか」
練習でもしよう。
そう決め付けて、僕が踵を返した。
そこに――どんっと胸にぶつかる衝撃があった。
「あいたっ!?」
「あ、ごめん」
結構強い衝撃に、少しだけたたらを踏んだ。
女の子の声、僕は咄嗟に謝って。
「いきなり止まらんといてぇ……って、あれ?」
「ん? どこかであったかな?」
見覚えの無い髪の長い少女。
人形のように可愛い顔、腰まで伸びた黒い髪に、少しだけ驚いた表情を浮かべている少女の格好は女子中学生の制服。
脚にはローラースケートを履いていて、ああ咄嗟には止まれないわけだ。
「あ、あの……もしかして短崎先輩ですか?」
女子中学生が、僕の名前を呟いて。
僕は眉を上げて、首を傾げた。
「そうだけど、君は?」
そう告げた瞬間、少女が――バッと動いた。
大きく頭を下げた。
「へ?」
「せっちゃんがいつもお世話になってます! ウチ近衛 木乃香いいます!」
ビシッと背筋を伸ばした綺麗なお辞儀――なのは結構なんだけど。
「え、いや、あの! 人目集めるからやめてくれないかな」
突然の挨拶にに、人目が集まっている。
「あ」
「と、取り合えず場所を変えようか」
慌てて僕は近衛と名乗った少女を連れて、場所を変えることにした。
世界樹の広場は話にはうってつけだけど三森の話によると危険この上ないので、近くの公園に向かうことにする。
丁度この間桜咲と話した公園だ。
人ごみが多いけれど幸いベンチは空いていたので、そこに座ることにした。
「あ、そっち座ってください」
一応ポケットに入れておいたハンカチを右手で取り出し、適当に振って広げておいてやる。
そして、僕はそれから離れた位置に腰掛けた。
「……先輩、紳士なんやね」
なのだが、近衛さんは顔に手を当てて笑った。
「おかしいかな? あまり君たちの年頃には慣れてないから、そこらへんは勘弁してください」
昔読んだ漫画とかだと女の子に対するマナーとして書いてあったような気がしたんだけど……古いかな。
「ううん、ありがたく使わせてもらいますわぁ」
ストンとハンカチをお尻の下に敷いて、近衛さんがベンチに腰掛けた。
僕は軽く何を話そうか考えながら空を仰いで、空が晴れていることを実感する。
青い空には薄い雲しかなくて、麻帆良祭の間はずっと晴れていそうな気がした。
「いい天気やねえ」
と、近衛さんが僕と同じように空を仰いで呟いたので。
「そうだね、麻帆良祭の間はずっと晴れているといいんですけど」
相槌を打ってそう言うと、近衛さんはクスクスとおかしそうに笑って。
「あ、短崎先輩。そっちが年上やし、敬語はいいですわぁ」
「え、あ、そうだね。じゃあちょっとだけタメ口で」
どうにも調子が崩される。
桜咲みたいに礼儀優先で話してくれる子だとやりやすいんだけど、僕は閉じた口の中で軽く唾を飲み込む。
「近衛 木乃香、さんだっけ? もしかして学園長のご親戚?」
それなりに珍しい苗字だし、思い当たるところがあって尋ねてみる。
どことなくお嬢様的な雰囲気がするし、もしかしたら程度だったのだが。
「学園長はウチの爺ちゃんやで」
ニッコリと微笑んで、近衛さんが肯定する。
なるほど、やっぱりあの学園長の孫か。
とはいえ。
「――遺伝子が違う気がするなぁ」
頭の形があまりにも違うので、僕は他人事ながら胸を撫で下ろした。
思わず呟いた僕の言葉に「よく言われるやわー」と近衛さんがカラカラと笑った。
いいのか、それで。
「で、話を戻すけど。さっき言ってたせっちゃんって、もしかして桜咲刹那のこと?」
「そうやよー。せっちゃんとはウチ、クラスメイトで幼馴染なんやよ」
あーなるほど、大体話が読めた。
「桜咲さんから僕の名前とか聞いてたの? あまり好かれてない気がするから、良い事言われてなさそうだね」
印象は悪そうだ。
と、僕が諦めのため息を吐き出すと、近衛さんが何故かこちらを見て。
「せっちゃんから多少話を聞いてるのは事実やけど、ウチが先輩のこと知ってるのはまったく違うことなんよ」
違う?
「憶えてないんかな? ウチと先輩、一度会ってるわ」
そう告げる近衛さんは先ほどまでの笑みを消して、どこか怯えているようだった。
まるで腫れ物を触るような態度。
甘酸っぱいことなど期待など出来そうにない表情。
「会ってる?」
記憶を探る。
麻帆良に越してから二年、長渡を含めて数人の友人ぐらいしかいない。
刀剣屋を巡ってタマオカさんに知り合い、ミサオさんとも仲良くなったこと。
剣道部に入って、他に友人が出来たこと。
……そこまで思い返すが、目の前の少女の顔に心当たりが無い。
それ以前の過去?
故郷での出来事を思い出そうとした時、近衛さんはもっと近い時期に会っていたことを告げた。
「一ヶ月ぐらい前、雨降ってた夜なんやけど……覚えてへんかな?」
ざわりと記憶が蘇る。
憶えていること、月詠との対峙、左腕が切られた、長渡が叫んでいた、桜咲が泣いていた、僕が月詠を斬った。
夢心地のようなうろ覚え、だけど未だに感覚の無い左腕が事実だと知らせてくる。
「あの時か。君もいたの?」
長渡から聞いた、何名かの女生徒があの時居たのだと。
その時の一人だろうか。
其処まで告げたとき、彼女が僕の“左手”を見た。
「先輩、左手……大丈夫やの?」
そこまで知ってるか。
いや、あの時いたって事は僕の左腕が斬り飛ばされたことも見ていたのだろう。
だから、僕は竹刀袋に添えていた右手を外し、軽く左袖を叩いて。
「まあこの様だけど、無事繋がってるよ。リハビリはしてるから、筋肉も固まってないし」
安心させるように笑みを作って見せたけど、近衛さんはむしろ心配そうに眉間に皺を寄せるだけだった。
「ごめんなぁ。ウチがもっと治せてれば……」
後悔と共にそう呟こうとした近衛さん。
それに僕は――
「はい、そこまで」
手を突き出して、ストップをかけた。
「え?」
「謝罪とかはもう桜咲さんで十分貰ったから」
いらないよ、と僕は言った。
傷を抉られるように、内腑を這うようなドロドロとした不快感で焼けるように痛むが、押し隠す。
誰かに一々責任を押し付けないと生きていけないほど弱いつもりは無い。
あの時長渡に、そして桜咲に告げた言葉を肯定し続けるためには怒るのは無様過ぎる。
それに。
「あまり気に病まれて、腫れ物を触るような態度の方がちょっと傷つくから」
治る可能性があるのに障害者扱いされるのは、本当に取り返しの付かない人たちに失礼だと思う。
それに片腕を失っても立派に生きている人を知っているから。
片腕を失いながらも元気に笑っているタマオカさん。
そして、“利き腕を失いながらも、刀を捨てなかった兄弟子”。
あの人たちほど僕は強くないけど、見習いたい。だからこその痩せ我慢。
「まあ、どうせならジュースとか奢ってくれると嬉しいかな」
そういって僕は笑ってやった。
財布は寂しいのだと少しだけアピールすると、近衛さんは笑みを作って。
「短崎先輩、年下にたかるん?」
「財布の中身とかは年齢に関係なく平等だからね。無い人はないし、有る人はあるからさ」
まあ三割ぐらい冗談だけど、と付け加えると。
近衛さんが本当におかしそうに笑った。
「七割本気やんかぁ」
「貰えたら喜んで貰うつもりだからね」
「あー、おかしいわ。まったくもう、ウチ結構バシバシ怒られる覚悟決めたのにな~」
先輩、いい人過ぎるわ。と少しだけ目の端に浮かんでいた水気を払う近衛さんの顔は見ないようにした。
「先輩知らないんやろうけど、結構ウチらの中でも先輩たちのこと気に病んでる人たち多いんよ? ……本当に死に掛けた人とか、見たことなかったやもん」
近衛さんの真剣な言葉に、僕は頷く。
それはそうだ。
今の日本社会に生きている限り、人が死ぬなんて近親の病死か老衰ぐらいしかない。
自殺や事故で見ることもあるかもしれないけど、体験する確率なんて二十年も生きてない子なら滅多に無い。
「まあ僕も死に掛けるつもりなんてなかったんだけどね……はぁ」
まさかの三度目、いや“四度目”だろうか。
命を賭けたことなんて一生に一回あれば多すぎるぐらいだと思うのに。
どうなってるんだろうか、僕の運は。
「桜咲さんにも言ったつもりだったんだけどね、あまり気にしないでって伝えてくれる? どうせ他校だし、顔を合わせることなんて殆どないんだろうしさ」
顔も知らない子がずっと自分のことで気にされても正直困る。
僕らと彼女たちの領域は違うのだ。
桜咲だって、剣道部という接点でしか顔を合わせない。
一応はここの付属大学に進学するつもりだが、いつ両親が日本に帰国するのかも確定事項じゃない。
長渡たちは大切な友達だが、少女たちに関してはあまり僕が接点を持ち続けるとは思えなかった。
なのだが。
「駄目やよ。そういう考え方は!」
僕の言葉を聞いた近衛さんが、唐突にビシッと指を突き出した。
黒く澄んだ瞳が、一点に僕の目を睨んでいた。
「え?」
目と鼻の先にある指先に意味が分からない。
それに畳み掛けるように近衛さんが言葉を吐き出す。
「他校だとか、年下だとか、そういうのはあまり関係ないわぁ! 偶然でも、偶々でも、一度会ったんならもっと深く知ろうとするのは悪いことやの?」
「……そういうわけじゃないけど」
「袖触れ合うも他生の縁、って言うやない。場所とか、年月とか、そんなので縁は絶対に千切れんの!」
近衛さんがどこか怒りすらも含ませる口調でそう言い切った。
ただの説教っていうわりにはどこか感情を含み過ぎている気がする。
なにかあったのだろうか?
「……ごめんなさい」
とはいえ、僕の分が悪い。
素直に謝っておく。
「うん、よろしい! って、ちょっと調子に乗ってゴメンなさい」
赤らんだ顔を押さえて、近衛さんが恥ずかしそうに俯いて、慌てて手を振っていた。
まあ年上に対する態度ではないだろうね。
「いや、別にいいよ。僕も言いすぎたと思うから」
僕の言い方も、少し冷たかったかと思う。
だから互いに反省。
「でも……」
不意に思いついた言葉がある。
「でも?」
「――近衛さんは人間が出来てるね」
桜咲もそうだったけど、意思というか信念があるというか、考え方がしっかりしている。
僕らから見ればまだ子供だと思うところもあるけれど、昔の僕と比べればずっと立派だろう。
三年前の、中学生だった頃の僕はずっとずっと無様だった。
ただ強ければ、目の前の障害を切り倒せばなんでも解決すると考える馬鹿だった。
恐れを知らない故の無謀で、誰かを傷つけるしかなかった。
それと比べれば、ずっといい子だと思う。
「……ふふ、普通そこは優しいとか言わんの?」
近衛さんが口元に手を当てて、明るく笑っていた。
桜色に染まった頬、少し言い方がおかしかったかと反省しつつ。
「いや、それは幾らなんでも――ちょっとくさくない?」
そこまでいって、お互いに笑った。
適当な雑談をして、話が進む。
優しいとか、温かいとか、綺麗だとか、目の前の少女には色々当てはまるけど。
真正面から言うほど馬鹿じゃないし、それじゃあまるで口説いているみたいだ。
初対面で褒めちぎれるほど、僕の神経は太くない。
彼女はただの顔見知りに過ぎない。
だから。
「と、こんな時間か」
いつの間にか昼の三時を過ぎていた。
公園の時計を眺めて、そう呟くと。
「あ、教室の手伝い忘れてたわー!」
近衛さんが慌てて口に手を当てた。
「それはやばいね。そろそろいこうか」
僕が立ち上がり、降ろしていた竹刀袋を肩に担ぎ直す。
近衛さんも立ち上がり、下に敷いていたハンカチがひらりと落下して。
「あ」
僕は慌てて手を伸ばそうとしたんだけど、近衛さんが先に拾ってしまった。
目の前で綺麗に畳むと。
「これはウチが洗濯して返しますわ」
「いや、いいよ。安物だし、自分で洗うから」
「ええの! こういうのは、洗って返すのが女の子の礼儀なんやから」
ニコリと微笑んで、近衛さんはスカートのポケットにハンカチを仕舞ってしまった。
到底取り戻せそうに無い。
「んー、まあいいや。今度会った時にでも返してくれればいいから、桜咲さんに預けてもらってもいいし」
と、言うのだが。
近衛さんは首を横に振って。
「エヘー。ちゃんと会って返すから安心してな~」
「……了解」
素敵な笑顔でそう言われたら反論する術が無い。
僕は竹刀袋を背負い直すと、公園から出るべく歩き出そうとして――
「お嬢様!?」
聞き覚えのある声がした。
「んー? せっちゃん!」
「え?」
振り向いた先に居たのは、一人の少女と二人の少年。
結んだ黒髪に、驚いた顔の女生徒――桜咲刹那。
相変わらずの学生服の少年、犬上小太郎君。
それに――赤髪の少年。
「貴方は……」
僕は一瞬だけ膨らみかけた感情を、唇を閉じて抑えた。
「ネギ、先生か」
そこに居たのはまぎれもなく、ネギ・スプリングフィールド。
未だにどこか仲良くなれそうになかった少年だった。
**********
このか登場!
しかし、華麗にフラグを躱す!
次回は多分閑話です。
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