さあ、涙を止めよう。
怨嗟、怨嗟、怨嗟。
苦痛、苦痛、苦痛。
寒さだけが其処にある。
熱さだけが其処にある。
涙は止まらない。
涙腺から零れる熱ではなく、顔を打つ雨水の滴りが血に染まる。
呼吸が出来ない。
血の味がして痺れるようで、不快。
腐ったかのように、臓腑の一片までもが腐り果てたように不愉快。
何一つ笑えることなんてなく。
何一つ救えることなんてなく。
何一つ達成出来ない絶望からの鼓動はただ生温く、ぬめる。
空から降り注ぐのは誰かの涙だろうか。
空は泣き虫で。
一生分の悲しみに嘆き散らす。
声が響く。
風の吹く音かもしれない。
痺れて、焦がれて、凍り付いて、指先の果てまでもがドロリと溶けたように力が入らない。
焼けた網膜は外を濁った川底のように曖昧に写して、何一つ鮮明にならない。
夢のようだ。
悪夢のようだ。
地獄のように冷たく、冥府のように誰も知らない、煉獄のような熱さ。
だけど、それでも。
指を動かそう。
流れるぬめぬめとした感覚を無視して、指を動かそう。
「 」
誰にも届かない息吹を漏らす。
だらだらと口に溜まった雨水を吐き出す、舌で掻き出す、泥の味、雨の味、血の味。
鼻腔を開く、鼻水が溜まっているけれど、なんとか息を吸う。雨の臭い、こびり付いた血の腐感。
全ては呼吸を遮る障害。
全身が鉛のように重く、硬く、固まっていて。
心臓を動かすことにも時間を掛ける必要があると思った。
ドクリ、ドクリと血液ポンプが稼働する。血が溢れ出る、痛み――は不思議と感じない。
濁った視界の中で、何も見えず、川底に溺れるような気がした。
黒いうねり、黄昏よりも暗く、闇のようにおぞましい。
「 ……!」
どこかで何かが聞こえた。
眼球は動かない、濁った視界の中に見えるのはしぶく雨、揺ら揺らと体が揺さぶられる。
眠くなる。
意識が一種落ちかける。
「 アアアアアアアア!!」
たった一つ聞こえた叫び、それに再び目を見開き。
鼓動を上げる。
指を動かす。
血を流す。
誰かが呼んでいた。
何の根拠もないけれど、呼んでいた。
彼岸の闇の果てから誰かが叫んでいた。
雨の音にも負けず、雷鳴にも負けず、ただ声が響いていた。
だから。
「キャハハハ!」
耳に届いた笑い声と。
「この、ちゃんっ!」
届く悲鳴にも似た哀願に。
――“僕”は手を握り締めることに成功した。
「 !!」
感覚が戻った刹那、僕は見えぬ視界のままに体を起こす。
誰かが驚いている気配がした、影が揺らめき、ぼやけて見えない。
だけど、それでもそれが親しい人だと気付いて。
「 ぁ」
笑いかけながら、体を動かす。
手を動かし、聞こえた悲鳴に飛び出した。
あらゆる場所が悲鳴を上げて、あらゆる箇所が嗚咽を漏らして、あらゆる肉と皮が軋みを響かせていたけれど。
四肢は軽くてたまらず。
血は流れ続けるだけで。
されど骨だけは変わらずに重みのままに動かせる。肉と皮など骨の添え物。
瞬く、眼球に溜まった雨水と泥水を削ぎ払い、たった一度だけの呼吸を行い、筋肉に頼らぬ重心移動で体を運ぶ。
濡れた雨海の中を泳ぐ。
今までの生涯でもっとも上出来で。
「とどめですー」
無様な動作で。
「え?」
悲鳴の持ち主を押し倒し。
――ブツンと何かが断たれた音がした。
左の腕が妙に軽くなる。大切なものがごそりと抜け落ちた気がしたけれど、停まれない。
夢の如く、現実の如く、眠っている気がして。
「ぁ」
声がした。
驚く声がして、僕は一瞬だけ悲しみと驚愕に揺らいだ彼女の顔を見た気がした。
桜咲 刹那。
忘れもせぬ少女の顔を見て、僕は息を停める。
肺の動きは邪魔だ、全て止める。
そして、ただ右手を以って。
「」
――ただ斬った。
空を仰ぐ必要も無く。
地を駆ける必要すらも無く。
人の弱さを嘆く必要すらも無く。
天地人和合の幻想を紡ぎ生み出し。
間境いを踏み越え、其処に佇む者を斬る。
刹那の時を持って肉体の位置を運び、六徳のズレもなく四肢を繰り出し、虚空の刻を捉えて穿つ。
力は要らない。
無意識裡に放った脇差の剣尖は愚直に直進しながらめり込み、衣を、皮を、肉を、骨を抉りて、逆袈裟に裂いた。
女子を犯すような蕩ける手ごたえと快感。
斬響感覚の恍惚とした瞬間、消え去る刹那の蝋燭の火の如く、一瞬だけ精気が湧く。
肉と骨と皮と21グラムの魂の重みを乗せて、振り抜いた鋼刃は空を指していた。
天への一刀。
雨粒が一瞬だけ停止する。
「一の太刀」
嗚呼。
冷たい雨が止む。
代わりに今日は紅い雨が降る。
咲き誇るように裂いた白い肌から血の雨が吹き出し、空を、地を、人を染め上げる。
真っ赤な真っ赤な雨が降り。
べちゃりと落ちた“左手”に、僕は笑った。
笑って、倒れた。
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一の太刀は(ひとつのたち)と読んでください。
というわけで、散々皆さんを焦らせた短崎君の結果でした。
唐突に思われる方が多いでしょうが。
四十一話の最後の行文をよくお読み下さい。
心臓停止状態ではおかしいことがあります。
では、次回はネギ閑話後編です。