嘆きは天には届かない。
死んだ。
そう思ったのは一生にも匹敵する時間で、実際は一瞬以下だった。
風がうねる。
音が肌を震わせるよりも速く、僕の体が地面を離れていた。
斬り飛ばされた。
弾き上げられた。
ただの一撃で。
ただの剣撃で。
体がバラバラになったかと錯覚する激痛に、滑稽なまでに舞い踊る。
ゴムボールよりも情けなく、放物線すら描けずに滑空し――
「がっ!」
背中から伝わる硬い物質の衝撃と折れ砕けた木々の欠片の中で僕は前のめりに崩れ落ちた。
バシャリと泥水の感触を顔に感じる。
冷たかった。
凍えそうなぐらいに冷たくて、僕は泥に埋まる。
泥水が口に入る、ジャリジャリと硬い歯ごたえ。砂の味。埃が舌に絡みつき、小石が喉を嚥下して息苦しかった。
「んん? 殺してた思うたんですがー」
声がする。
「生きてますなー?」
バチャバチャと水溜りを踏みつけて、ゆったりと嗤う狂人が其処に要る。
僕は泥を啜りながら、震える手をゆっくりと動かす。
手の指は痺れて、骨まで軋んで、肉は焼け爛れたように熱くなっていた。
濡れる。
べちゃべちゃに濡れた視界の中で、僕は未だに顕在する白刃を見た。
――太刀が守ってくれた。
あの瞬間、放たれた衝撃を僕は体に染み付いた動作のままに受け止めていた。
普通なら刀身は砕け散り、僕も寸断されていただろう斬撃。
だけど、これは受け止めてくれた。
ブルブルと指は衝撃で痺れて、腕の筋がどこか狂ったように痛むけれど、まだ生きている。
体は分かれていない。脇腹の傷口が開いたのか、熱を感じるが、まだ生きている。内臓もはみ出してない。
(タマオカさんに感謝だな)
生きて帰れればお礼を言おう。
生きて帰れればお酒でもこっそり買って渡しに行こう。
生きて帰れればお茶のお礼を言おう。
嗚呼、嗚呼。
(……死にたくない、なぁ)
未練が生まれる。
次々と生まれながら、僕は髪から顔に、背中から腹に、どこまでも冷たく流れていく水流の流れを感じながら泥を飲む。
不味かった。
だけど、それが生きているということで。
血と肉と骨の軋みと共に、僕は指を動かす。
泥をゆっくりと掴んで――
「ん?」
跳ね上がりながら、僕は声と足音から把握していた月詠に泥を放っていた。
泥の飛沫が雨を切り裂いて飛ぶ。
「こりん人どすなぁ」
それを月詠は汚れるのを嫌って、軽く横に飛び退いた。
軽やかに体重を感じさせないステップ、槍のように叩きつけられる雨に泡立つ泥水が月詠の足元で静かに揺れる。
僕はそれを見るまでもなく、体を起こすと、間合いを開くべく前を向きながら後ろに走る。
――のと同時に、僕は脇腹に手を差し込む。
翻すコート、泥の染み込んだその内側に手元を隠し、僕はぬかるんだ泥の下にある地面を踏み締めながら旋転。
「らぁ!」
ナイフを打つ。
コートの内ポケットに仕舞いこんでいた手製のナイフ、それを数本引き抜いて打ち出した。
狙いは牽制程度。投げるための技術、投擲術の憶えはある。
そもそもそのためのスローイングナイフではなく、使い慣れている棒手裏剣ですらないが、精々五メートル程度。刺さるかどうかを度外視すれば外す道理は無い。
だが、暗く、判別しにくいはずの暗闇の中で月詠は嘲笑うかのように。
「あや?」
小太刀を一閃。
水花散らし、金属音を響かせて、投擲したナイフが粉砕される光景を見た。
砕け散った刃片が、銀色の雨のように周囲に降り落ちる。
「――神鳴流に飛び道具は効きまへんえー」
微笑む。悪鬼の笑い方。
馬鹿にする。まるで愚かな子供を眺める超越者の表情。
僕は注意を払いながらも、足を止めずに移動し続ける。ズボンまでぐっしょりと濡れて、重い足を動かして、グルグルと月詠の周りを回る。
だけど、月詠は軽やかに微笑みながら、無数の切り込みと千切れた跡、さらに重たげに濡れた歪なスカートの裾を翻し。
「舞踏ですかー? なら、楽しく」
シャリンと二本の刃が掲げられる。
小太刀と打ち刀。
キリキリと大小異なる長さの刀身が擦れあい、降り注ぐ雨がまるで涙のように刀身を伝って、鍔から滴り落ちる。
こびり付いていたはずの血と肉と皮下油は雨に混じり合い、其の隙間から垣間見えるのは絶対零度を感じさせる銀光。
不可思議なことに刃は輝いていた。
水化粧の如く艶かしく刀身がうっすらと光を纏い、手元から零れる水を弾く、払う、粉砕する。
「ヤりあいましょかー」
満月を思わせる笑み。
漆黒の眼球が、雨に曇った眼鏡の奥からギョロリとこちらを睨んだ。
僕はさらに取り出そうとしていたナイフ入りの内ポケットから手を引き抜き、太刀を掴み直した。
構えは正眼――否、中段脇構え。
僕が信じる構えの一つ。刀身を隠して、太刀筋を知らせない、そのための動作。
そして、僕は息を吸い。
「やろうか」
アドレナリンの加熱を持って、熱く声を洩らし。
刹那。
月詠が掻き消えた。
水が弾ける、視認――残像だけ。
その飛沫具合からみて、僕は前に体を倒した。
「あら?」
前転。
構えの意味もなく、体を転がす。轟っと背中から斬響音。
泥の中で、僕は旋転し、泥を巻き上げながら太刀を振るった。
――背後に回りこんだ月詠に。
金属音。
小太刀に防がれる。返す手で振り下ろされる斬撃が、手首を襲う――反発を利用して、僕は手元を返す。裁断の刃を躱す。
息は止めていた。
眼球の上を舐める雨水すら気にも留めず、僕は目を見開いたまま。
(跳ねる)
月詠の二刀。
それが孤を描き、全てを裁断する斬殺必至の連斬であることを理解しながら、僕は泥の中に片膝を埋めて――
跳んだ。
後方に、跳ね上がる。腿の筋肉がはち切れそうなほどに叩きつけて、斬撃を避けた。
叩き付けられた剣撃の跡地、爆風と泥が噴き上がる。
「あや」
着地。
コートの前面と足を浅く切られて、ジワリと血が零れるけれど痛みは感じない。
動作に支障なし。
健は無事で、僕は手に持つ太刀を握り直して、靴底で泥を踏み締める。
時間は取れない。
一撃一撃で既に爆弾並。やられる前に首を刎ねる、手首を斬る、胴を貫く。
中身が、人体が鉄よりも硬い筈がない。
斬れぬ道理など何処にもない!
「すぅ」
息を吸い込む。
月詠が飛沫を撒き散らしながら、洋服の裾を揺らし、右手の太刀を振り被る。
「ざんがん」
雨が切り裂かれる。
槍の如く、世界全てが水槽になったかのような密度の水のカーテン。
それを引き裂き、撥ねる斬撃疾走。
「けーん」
僕はそれを“視て、避ける”。
体を傾けて、斜めに疾走。大地を滑り、斬風で揺れながらも駈ける。
全身が重い。水を含んだコート、泥まみれのジーンズ、靴下の中までずぶ濡れの靴。
だけど、それが有り難い。
彼女の刀が巻き起こす衝撃波に揺らがずに済む。へばりつくような泥の楔が、僕を地面に繋ぎ止める。
距離にして三メートル。それを一息も経たせずに詰めて、僕は太刀を滑らせるように奔らせた。
指を絡める。されど、雨に流れぬように、調整し、弧を描いて駆け抜ける片手打ち。
月詠が体を後ろに傾ける。
回避、刃が空を切る。無防備になった僕の体に向けて、目にも止まらない速度で剣尖が飛び込んでくる。
だが。
「らぁあ!」
僕は大地を蹴り飛ばした。
そして、旋転。立ち高飛びのように跳躍し、繰り出された刀身を躱す。
雨に濡れた体が重いけれど、僕は一瞬だけ月詠の上を取り。
「っ!?」
蹴り込んだ。
月詠の側頭部に全力で足先を叩き込んで、“それが揺るがないことに驚愕した”。
まるで大樹でも蹴ったような感触。否、純粋に威力が通じてないという感覚に、僕は弾かれながら転がり落ちて。
「――驚きましたわ」
うっすらと愉しげに瞳のギラつきを増した月詠を見た。
ゾクリと背筋に震えが走る。
僕は反撃してこない月詠の動きに戸惑いを覚えながらも、その足を斬ろうと太刀を横薙ぎに払って――
軽やかに月詠が跳んだ。
重力を振り切るような飛翔。重たげな濡れ切ったはずの洋服の裾をふわりと膨らませて、月詠の振り上げた脚が僕の胸板を踏みつけた。
「がぼぅ!」
鉄槌で殴られたかのような衝撃。
僕は強制的に吹き飛ばされる。
転がることもなく、ぬかるんだ泥の上を滑っていった。
「つ、く、ぁあ!」
咳き込む。
激痛が胸を襲って、僕は咳き込み。
「休むのはなしですわー」
襲い掛かる剣閃に、僕はさらに転がった。
斬。斬。斬。
ギロチンの刃よりも重く、迅く、鋭い斬撃が地面を両断する。
僕は転がりながら逃げ惑い、豪雨と衝撃の合唱に何も見えなくなる。
泥まみれになりながらも、僕は不意に弱まった音の間隙を縫って。
「ぶっ!!」
口の中に混じった泥を吐き出しながら、汚れた太刀を跳ね上げた。
見下す月詠が小太刀で刃を受け止める。
さらに捌こうとする刀身に、僕は捻りを加えながら受け流し。
水花が散る。
閃く刀を、跳ね上げた太刀で弾いた。
手が痺れる、指が折れそうなほどに馬鹿げた威力。されど動きは軽やか、どう考えても理不尽。
月詠が嗤う。
地面を蹴り飛ばし、炸裂弾でも使用したかのように大地が波紋を広げる。
水飛沫が上がる、土が混じる、視界が埋まる。
それを引き裂き駆け抜けてくる銀閃二刀――その軌道は胴と頭部の三分割。
それが見えたから、僕は覚悟を決めた。
コートの裾で視界を隠し、体を倒す。軸足一本で、体を支えるような阿呆なスウェー。
それでいて、独楽のように回転し、僕は地面に太刀を押し付けて。
――一閃。
泥を切り裂き、地面を抉り、刀身の損傷を覚悟で跳ね上げる刃。
跳躍に使う筋肉と力を流用した全身全霊をかけた逆袈裟の一撃。
音すらも置き去りにする。
僕が納めた剣術の最高峰の一角。
だけど。
「あらー」
その刃は。
「いたいですわー」
防御に回る小太刀をすり抜けて、振り下ろされるだろう打ち刀も狙い通りにすり抜けて。
――月詠の手首で停止していた。
否、正確にはその皮膚一枚を切り裂いて、停止していた。
ぷっつりと刃になぞって血の珠が浮かび、白く艶かしい肌から刀身に零れ落ち、叩き付ける雨に混じって消えた。
それだけだった。
それ以上は斬れない。
人の肉など手ごたえもなく両断できるはずなのに。
まるで合金で出来たような手ごたえと絶望感が内腑から湧き上がって。
(諦めるなぁ!)
絶望に崩れそうになる自分を震え立たせた。
手首で切れぬのならば首を断つ。
それが出来なければ眼球を穿ち、乳房を貫いて心臓を壊すだけだ。
月詠の手が閃く。
僕の太刀に右手の打ち刀を振り上げて。
「気も出せんのにー」
地面を蹴り飛ばす。
折られる前に、僕は体ごと月詠を押し倒していた。
「あらっ?」
体が堅く、頑強であっても、その体重だけは変わらない。
容易に月詠を地面に叩きつけて、僕はその刀を持つ右手を押さえつけ、右膝で左肩を押さえつけ、彼女の体を見下ろしながら、その首に右手を打ち付けた。
白く艶かしい首の皮膚、それに乱暴に指を掛けて、喉を掴む。
首が折れなくても、せめて呼吸だけでも止めて――
「あのな」
見上げる月詠の絶対零度の視線が僕の眼球を貫いた。
ガシッと喉を押さえていた僕の手首が掴まれる。
月詠は手から刀を離していた。
そして、空いた手で僕の手を掴んでいた。
(ん、な!?)
骨が軋んだ、肉がひしゃげる、圧搾機のように指が強制的に引き剥がされて。
不快そうに目を細める月詠が侮蔑の意思を篭めて言葉を告げる。
「触らないでほしいわ」
色付きそうな負の感情が囁き、降り注ぐ雨音の中でも鼓膜にへばり付くような声。
興奮と恐怖に激しく、恋のように高鳴っていた心臓の鼓動が一瞬止まるかと思えるほどに冷たい。
背筋に恐怖。
僕は腹筋に力を入れて、跳び離れようとした。
だけど、握られた小さな指がそれを許さずに。
「死んでわびぃー」
衝撃だった。
肉が貫かれるほどの衝撃とはこういうのだろう。
僕は振り上がる少女の兆候を見たと一瞬考えて――
何故か僕は地面を見上げていた。
「あ?」
空が廻る。
雨が舞う。
体が回る。
自分が踊る。
浮遊感に、内腑から込み上げる激痛、嘔吐物を吐き散らしながら、ようやく気付いた。
僕は上空にまで蹴り飛ばされたのだと。
「喜んでやー」
頭上――否、眼前で少女が立ち上がっていた。
逆さまの視点、奇妙なちぐはぐ。
少女の薄汚れた洋服が舞い躍り、銀剣が掲げられて――発光した。
「しんめいりゅうおうぎ」
紫電が迸る。
降り注ぐ雨の中でそれは激しく綺麗に見えて――
「らいめいけん」
吐き気がした。
閃光が一瞬で視界を埋め尽くし。
「 !!!!」
僕は声すらも忘れレレレレレレレレレレレレレレレレ
レレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレ
レレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレ
レレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレ
なにも。
かも。
沸騰して。
叩き付けられた着地の衝撃もいつあったのか。
分からない。
「気の防御能力もなくー」
僕の目は。
見えない。
痛みすらも。
感じない。
「濡れた状態やからー」
手は動かない。
全身が痛みすらもなく。
ただあつくて。
僕の鼓動が、聞こえず。
「死にましたなー」
ただ白い視界が黒くなった。
それだけだった。
僕の心臓は動かない。