終わることを知らなかった。
全身が冷たかった。
全身が寒さにかじかんで、手を握り締めることすらも出来そうになかった。
ジンジンと脇腹が痛んで、泥に濡れた靴がグショリと歩く度に不快で、雨に湿った学生服が嘘みたいに重かった。
何時もは軽い階段が嘘みたいに遠くて、僕は手すりに掴まりながら何度も何度も足を上げる。
一段登るごとに息が切れる。
全身に震えが走って、痛くてたまらなくて、汗が吹き出して、呼吸するのも苦痛だった。
涙が零れていた。
鼻水も出ていた。
ぜーぜーとうるさいぐらいに呼吸音が耳に届いて、邪魔臭くてたまらない。
なのに、雨音だけははっきりと聞こえるんだ。
ザーザーと。
ポツポツと。
水滴が落ちる音が鼓膜に響いて、赤く濡れた雨水が裾から零れて、コンクリートの床を濡らす。
「い……たい、よぉ」
かすれるような声しか出てこなかった。
涙が止まらなかった。
痛みが終わらなかった。
死んでしまいそうだった。
誰も居ない。
誰にも届かない。
静寂の学生寮の廊下で、僕はゆっくりと、脇腹を押さえつけながら自室の前に辿り付く。
ポケットから財布を取り出す。
かじかんだ右手で取り出した鍵は震えて、何度も何度も鍵穴に差し込むのを失敗して、その度にガチャガチャと不快な音を立てる。
ようやく鍵穴に刺さった時には、足元に幾つも水滴の水溜りが出来ていて、僕の足は震えていた。
鍵を捻り、ロックを解除し、僕は鍵を引き抜くことも忘れて、ノブを捻って開ける。
「なが、と!」
開けた先に友人が居ると思って、声を上げた。
けれど、部屋の中は真っ暗で。
「っ、まだ帰ってないのか?」
僕は舌打ちをして、玄関で乱暴に靴を脱ぎ、わき腹の痛みに耐えながらリビングに急ぐ。
何度も転びそうになりながら、リビングに入り、僕は部屋の隅に常備してある救急箱を取り出すと、片手で蓋を開けて、中から包帯、ガーゼ、マキロソと止血剤を取り出して、さらに冷蔵庫から未開封のミネラルウォーターを掴んでバスルームに向かった。
「くそったれ」
乱暴に上着だけ脱ぎ捨てると、バスルームに飛び込み、Yシャツを破り捨てた。中の肌着も乱暴に千切って、放り捨てる。
どうせ血まみれに泥だらけ。もう着れないし、治療の邪魔だった。
シャワーの蛇口を捻って、お湯を出し、温度を調整すると、僕は脇腹を押さえたまま頭からぬるま湯を浴びる。
軽く泥を洗い流しながら、僕はさらに片手で、持ってきたミネラルウォーターの蓋を当てて、体を起こした。
脇腹から手を離して、患部をミネラルウォーターで洗い流す。
清潔な水で洗浄しないと、感染症の危険性があったから。
「あぐっ!」
ダラダラと血が洗い流されて、傷口が露になる。
良かった。切れたのは皮と表面肉だけで、内臓までは達してないようだった。何針か縫う必要もあろうだろう。
頭のどこかでそんなことを考えながらも、僕は痛みに声を洩らした。
僅かな刺激だけでも痛くてたまらなくて、僕は綺麗に洗い流されるまでただひたすら耐えるしかなかった。
おそるおそる指先で触れて泥の塊を拭い去ると、僕は空になったペットボトルを投げ捨てて、シャワーの蛇口を締める。
僕はスプレータイプのマキュロソを掴んだ。
「っ」
どれだけ痛いのだろうか。
想像するのも怖いけれど、死ぬよりはマシだ。
バスルーム横に転がっていたタオルを口に咥えて、僕は恐る恐るマキュロソの噴射口を傷口に向けて――
「うぅぅう!!!?」
痛さに目が飛び出るかと思った。
シュッと霧吹きのように傷口に浴びせた消毒薬は馬鹿みたいな激痛と焼けるような熱さを伝えてきた。
それを三吹きぐらい繰り返して、僕はタオルに残らない歯形を作りながら、ガーゼで傷口の消毒薬と血を拭い、軟膏状の止血剤を傷口に練りこみ、清潔なガーゼを当てて包帯を巻きつける。
包帯を巻きつけるたびに焼けるような痛みが走ったけれど、僕は構わずにきつく巻きつけた。
時間にして十分も掛からない作業だったけれど、バスルームは僕の流した血で血まみれだった。
長渡が帰ってきたらどう言えばいいだろうか。
そんなことを考える。
「はぁ……はぁ」
びしょびしょとの学生ズボンのまま立ち上がり、僕はシャワーの蛇口を再び開けて、バスルームに溜まっていた血を洗い流していく。
白いタイルの上を赤い水が流れて、いまさらのように鉄臭い臭いが鼻に突いた。
血は臭い。
血はしつこい。
人間の感情のようにしつこく、鮮明で、毒々しい。
嗚呼、嗚呼、くそ。
「僕はぁ……」
止めていたはずの涙がまた零れ落ちた。
痛みで流れる涙よりももっと多くの涙が零れ出て、僕は歯を噛み締める。
悔しかった。
心底情けなかった。
負けたのが。
殺されそうになったのが。
ただ逃げるだけだったのが。
「ちく、しょぉ……」
武器が壊れたなんて言い訳にもならない。
恐怖に怯えて。
無様に竦んで。
殺されるのを待っていただけだったんだ。
ただの負け犬で、助けられる価値もなくて。
「僕は、ぼくはぁ!」
こんなことにならないために強くなろうとしていたんじゃないのか!
こんなはずじゃないことに抗うために剣を憶えているんじゃないのか!
それがなんだ。
それが、それが、ただいきなり襲われたぐらいで。
「にげ、だじ、でぇ……」
涙が止まらなかった。
鼻水が出てきて、声にならなかった。
両手で顔を覆って、僕は涙を止めようとした。
けれど、それは血の臭いが染み付いていて、余計に息苦しかった。
「ぁあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
バスルームの中は声が響いて。
けれど、僕の出せる声は頼りなくて。
ただ自分の声と自分の血が、僕を嘲笑っているような気がしてならなかった。
痛みがある。
悲しさもあった。
悔しくてたまらなかった。
怒りも込み上げた。
だけど、僕は安易に飛び出すことも、死ぬことも出来なくて。
タオルで頭を拭いて、リビングで息を吐いていた。
長渡は帰ってこない。
まだ長渡は帰ってこない。
それだけが救いだった。
こんなにも無様な姿は誰にも見せたなかったから。
ズキズキと焼けた鉄棒でも押し付けられたかのように痛む脇腹に、そっと触れながら僕は考える。
「あれは、なんだ」
脳裏に浮かぶのは眼鏡を掛けた辻斬り少女。
笑ったまま人を殺そうとした異常者。
何の呵責もなく、無造作に殺しにかかってきた狂人。
――神鳴流剣士 月詠言います。
神鳴流。
タマオカさんが言っていた流派。
――桜咲 刹那先輩知ってはります?
桜咲刹那と同門。
つまり同類。
「あの子も、やっぱり、同類なのか?」
痛みから生まれる熱を口から吐き出しながら、僕は頭を抱える。
信じたくなかった。
同じ部活に所属してまだ数週間程度だけど、善人だとどこかで信じていた。
あんなにも簡単に人間を殺せるような【力】を。
あんなにも容易く人を死なせる【心】を持っているのだろうか。
……神鳴流とはそれほどまでに狂っているのだろうか。
僕は詳細を知らない。
知りたくもない。
だけど、対峙するはめになっている。
逃げ出したけれど、このまま終わるのだろうか。
月詠と名乗った少女はあと何人殺せば止まるのだろうか。
――僕を助けてくれた男の人は……生きているのだろうか。
「……はぁッ」
それを考えるだけで息が詰まる。
喉奥から込み上げてくる血の臭いが内臓を腐らせているようで、僕は息苦しくなった。
痛い。
痛い、痛い、傷が痛いけれど、それ以上に苦しい。
息が詰まりそうだった。
心が折れそうだった。
止まらない涙と鼻水を拭いながら、僕は目を瞑る。
どうするべきか。
煮え滾りそうな頭で考える。一生懸命。
ただ隠れているべきか。
――いつまで?
警察に連絡するべきだろうか。
――信じてくれるのか?
日本の警察機構は優秀だ。
連絡すれば直ぐに対応してくれるだろう。
そう考えて、僕は立ち上がり、電話を手にしたとところで気付いた。
「けい、さつ」
警察で信じてくれるだろうか?
いや、信じてくれてもすぐに機動隊を出してくれるだろうか。
あれは警察官の一人か二人かで取り押さえられるとは思えない。
それまでにどれぐらいの被害が出るだろうか。
「くっ、そ」
あえて連絡するのは誰かを犠牲にすることになる。
けれど、連絡しなくても誰かが死ぬ。
どれを選んでも誰かが死ぬ。誰かが傷つく。救いが無い。
だから。
僕はタウンページを引っ張り出し、麻帆良警察署の電話番号を見ながら、番号を押し込んだ。
110番よりは近くの警察署に直接電話したほうが伝わるのが早いと聞いたことがあった。
ハンカチを受話器に当てて、口を開く。
「もしもし、警察ですか?」
逆探知される前に、手短に必要事項を伝えた。
刀を持った少女がいる。
格好はゴスロリ。
場所は麻帆良女子中の近く。
男の人が一人斬られた。
「以上です」
『あ、もし――』
返事が返ってくるよりも早く、僕は通話を切った。
回線が切れて、ツーツーツーという無機質な機械音が受話器の向こうから聞こえる。
吐き気がする。
僕は受話器を戻す。
頭痛がする。
体を拭いても血の臭いが取れない。口の中が不味くて、唾液を飲むたびにえづく。
体が震えた。
警察に連絡するのは何故こんなにも緊張するのだろうか。
「ぁ……」
僕は頭に掛けていたタオルを顔に当てる。
雨の臭いがした。
血の臭いがした。
涙の臭いがした。
結局のところ後悔の香りしかしなかった。
「くそったれ!」
僕はタオルを投げ捨てる。
フローリングの床にタオルが叩き付けられて、零れていた血の雫を吸い込んで、赤く染まっていた。
それを踏みつけて、足で吹いた。どうせ血の付いたタオルなんてもう使えないから。
「ごほっ」
咳き込む。
喉が渇いて、まだ使っていなかったミネラルウォーターの残りを飲んだ。
血の臭いが篭る水が喉を通って、食道を通過して、胃に入ってくる感覚があった。
満たされる。
喉の渇きを忘れそうになって、けれど血の味だけは忘れない。忘れられそうに無い。
まるで体臭が血のようだった。
後悔しろと囁いているようだった。
「僕は、どうすればいいんだよ」
息を吐き出す。
ミネラルウォーターを飲んだばかりで湿った息を吐き出して、僕は自問する。
きっとこのまま居たら後悔し続けるだけだろう。
だから。
僕の選択肢は二つしかない。
ずっと後悔しながら、怯えながら、やり過ごすか。
後悔しないために、恐怖に怯えながら、あの狂人に挑むのか。
――二番目の選択肢は愚かだろう。
僕が闘う理由なんてない。
友達が危険に晒されているわけでも、僕が狙われていたわけでもない。
ただ知り合いの名前が出ていて。
僕を助けるために……"知らない誰か"が身を挺してくれただけ、だ。
「あぁ」
畜生。
其処まで考えて、僕は気付いた。
誰かが危険に迫っていて、そして誰かが僕を救うために頑張ってくれたのだ。
なのに。
僕は、それを、見過ごすのか。
「でき、ねぇ、だろ……」
僕は自室に向かう。
深く息を吸い込みながら、深く息を吐き出しながら。
「でき、ねぇ」
部屋の奥で仕舞いこんでいた二振りの刀剣を取り出した。
タマオカさんから貰った一振りの太刀と脇差。
僕はその太刀を掴んで、刃を上に、柄を握った。
スラリと刀身を引き抜く。
「……」
刀身はどこまでも綺麗で、波紋に濁りの欠片も見えなかった。
だから、思う。
人なんて簡単に斬れる。
何だってぶった切れるだろう。
僕の後悔も僕の絶望も。
――カシャンッ。
鍔鳴りの音が心地よかった。
脇腹の痛みも、ジクジクと体に染み込む冷気も、頭から感じる熱も、心に圧し掛かる重い感情も何もかも断ち切れるようだった。
例えそれが錯覚でも。
どうやったって現実逃避だとしても。
「僕は……」
後悔したくない。
悔やみ続ける日々は嫌なんだ。
かつての自分を思い出す。
兄弟子を斬ったこと。
――ただ共に修練をしたかった。あの人は僕の憧れだったから。
得体の知れない化け物を斬ったこと。
――闘いたくなんてなかった。ただ強制された。
拳銃で撃たれたこと。
――泣き叫びたかった。体に食い込む銃弾の痛みはマグマのように熱くて、死にたかった。
許せない人間を斬ったこと。
――後悔したくなかった。ただ許せなかった。罵倒されて、呪われて、操られて、僕はそれを断ち切りたかった。
過去は現在への延長。
変わらないのだろうか。
進めてないのだろうか。
だけど、それでも。
「僕は」
守りたいものが在る。
自分の心でも。
自分の友人でも。
誰でもいいから、ただ守りたかった。
太刀と脇差をつかみ鳥、さらに僕は部屋の隅に転がしておいた古いバックの中から隠しておいたものを取り出した。
鉄板から作った自作ナイフを十数本。
それを掴んで一まとめにしておくと、僕は着替える。
Tシャツを着て、着古した柔らかいジーンズを履いた。何度も何度も着ていて、運動しても動作の邪魔にならない柔らかいもの。
サラシを巻くべきかと一瞬考えたけれど、腰の動作の阻害になるし、どうせあの威力で斬られたら意味が無い。だからやめた。
さらに、僕は革のベルトを二本着けて、ジーンズの穴と腹に一本ずつ巻き付けた。ジーンズはきつめに、腹の方には緩やかに。
その隙間に僕は太刀と脇差を差込み、僕はその上から薄手の蒼いコートを羽織った。
ポケットの多いそれにナイフを入れて、裏側にも何本かナイフを隠しておく。
靴下は厚手の指付き靴下に履き替えた。
そうして、僕は準備を整えて、ベルトに佩いた太刀と脇差が綺麗に引き抜けるか確認する。
指をかけて、何度か抜刀。
手首は回る。空中を切る。
脇腹が痛むけれど、理解していればある程度は我慢出来る。
だから。
「もう、引き返せない」
意味を知ろう。
警察に連絡して、それでもなお刀を持って立ち向かうのは自殺行為だった。
月詠に斬られて死ぬか。
月詠を斬って逮捕されるか。
そもそも辿り付く前に逮捕されるか。
墓場に行くか、刑務所に行くか。
どちらにしろろくでもない結果。
だけど、それでも、やらなければ一生後悔する。
泣き続けることになる。
それが嫌だ。という身勝手な考えで僕は動く。
そして、僕は濡れた靴を玄関で履き、靴紐を解けなくなるぐらいにきつく結んで。
「いってきます」
鍵も掛けずに飛び出した。
二度と戻れない覚悟を決めて。
結局、学生服に入れたままの携帯を一度も僕は確認しなかった。
雨が降り注ぐ。
傘も差さずに走れば視界が埋まるぐらいに強い雨だった。
肌を濡らしているのが雨なのか、汗なのか、涙なのか。
それすらも分からなくなるぐらいに強い雨で、僕はどこか幸いに感じていた。
こんなにも強い雨音ならば恐怖に怯える声も掻き消されて。
泣き叫ぶ声でも雨と共にどこかに流れてくれるだろうから。
だから、走って、走って、ひたすらに走って。
僕は月詠の居た場所から、女子寮へと繋がる道を走り続けて。
――追いついた。
「あら~?」
黒い傘を差す少女の背中に。
血塗られた小太刀を振り下げた狂人に。
大量に“その場に残り続ける血溜まり”を睨みながら、僕は叫んだ。
「借りを返させてもらう」
涙を流しながら、僕は抜刀した。