災害としか言いようがない。
記憶に思い返すも二年前だ。
奴が、古菲が中国武術研究会の門を開いて、やってきた時のことだ。
「入部したいアルー!」
第一声がこれだった。
誰かが言った。
「なんてテンプレ的似非中国人だ!」
俺も同意だった。
しかも、まだ中学一年生で成長期に入っているとはいえ、言うなれば小学生に卵の殻が付いたままのような年齢だった。
「んー? 入部希望者か、女子は珍しいなぁ」
「あ、部長~」
当時の部長、もはや名前もロクに覚えていないけど、大学生の彼は180を越える高身長とよく鍛えられていた巨人のような体格とは裏腹に温和な性格で、部員からはよく慕われていた。
彼は入部届けを手に持った古菲を困ったように見ると、少ししゃがみこんで彼女に問いかけた。
「えっと……コレはなんて読むんだ?」
入部届けに書かれた彼女の名前を見て、困ったように部長は首を傾げる。
「クーフェイアルー」
「なるほど。クーフェイか。んで、嬢ちゃんは一応訊ねるけど、経験者かな?」
武術経験者かどうか部長は彼女に尋ねた。
すると、アイツはバンと胸を叩いて。
「八卦掌と形意拳は習得してるアル」
「ほぉ」
部長は目を見開き、近くで鍛錬をしていた俺もその言葉に目を向けていた。
中学一年生で二つも拳法を齧っているというか精通しているのは普通じゃない。
さすが本場の中国人だ、とこの時は能天気に感心していた。
「んー、素人じゃないんなら指導はいらないか。よし、ちょっと手合わせをしてくれ。それで君への扱いを決めよう」
この時部長は中国拳法研究会だと一番強い人間だった。
八極拳を鍛錬し、体躯を生かした剛直な一撃を叩き込むシンプルな戦い方。
頑強な肉体を生かすには一番向いていてしっかりと足腰と重心移動の鍛錬を積んでいる人だった。
部員の指導を顧問の代わりに行うことも多い。
最適な人選だとこの時は思っていた。
「ぬ、貴方がやるアルか?」
「ははは、お手柔らかに頼むよ」
そういうと手を叩いて、他の部員達に「新入部員だ。しかも経験者、組み手を行うからよく見ているように」と声を掛けて、組み手用のスペースに古菲を連れて部長は入った。
そして、開始線に互いに佇むと、部長は笑顔を浮かべて告げる。
「とりあえずそうだな。まずは俺に一撃入れてみてくれ」
「? それで良いアルカ?」
「一応俺も防御はするがそれが一番分かりやすいかな。あ、出来れば関節を折るようなところまではしないでくれ」
当たり前の常識だが、一応念のためと部長は考えて告げたのだろう。
分かったアルと軽く頷き、その時の古菲は軽く礼をして、部長も礼をした。
そして、彼女は腰を落とし、部長も同じように腰を落としながら彼女の攻めを待ち受けて――数秒と立たずに吹き飛んだ。
『え?』
それは俺の言葉でもあり、部長の言葉でもあり、見ている全員の言葉だった。
見えたのは古菲が腰を落としたまま滑るような速度で踏み込んだこと。
八卦掌の動き、優雅にして重みのある舞踊の如き動作、全身の四肢まで制御しきったが故の滑らかな流れ。
古菲の手が鋭く伸ばされて、それを防ぐために部長は手を伸ばし、その手を古菲が掴み、理解するのも難しい重心移動の動作で部長の腕を肘から折り畳んで、そのまま部長の腹に押し付けるように押し込んだ。
ここまではいい。
しかし、その後が理解出来なかった。
ドンッという轟音と共に人間が十数メートルも吹き飛ぶなんて誰が想像しただろうか。
自分の腕ごと胸を打ち込まれた部長はそのまま壁に激突し、泡を吹いて気絶した。
俺たちは呆然としていた。
そして、それをやった張本人である古菲ですら目を丸くして驚いていた。
なんでそんなに脆いのかと理解出来ないように。
その後、部長は慌てて保健室に運ばれたが、一応ただ気絶しているだけだと診断された。
古菲はあまりにも苛烈なデビューを果たし、怖がるもの、好奇心に満ち溢れたもの、命知らずにも挑戦するものなどに部内の人間は分かれて、挑んだ奴は次々とぶっ飛ばされることになった。
当然のように俺も挑んだが、一秒も持たずに宙を舞うことになった。
部長の二の舞は踏まないと化剄に挑んだのだが、掠めただけで脚が地面から離れるというバズーカ砲のような威力の拳打に悶絶し、受身も取れない空中で追撃の掌底を胸部に受けて俺は血反吐を吐き、肋骨を見事に折って入院することになった。
当たり前だが、俺が一番重傷だったというのは病院に運ばれて目が覚めてから聞かされた話だ。
身長と体重とは比例しないどころか常識を凌駕する古菲の存在に、部員の多くが辞めて、その強さに惹かれた馬鹿という名の新入部員が多く入った。
彼女が入る前から続けていた部員で今も残っているのはおそらく二割以下だろう。
最初にぶっ飛ばされた部長はショックを受けたのか、それとも他の事情でもあったのか部活をやめて、新入部員だがもっとも実力のある彼女が部長となった。
まあ部の運営は高等部や大学部の先輩方が大体仕切っているので、実際はお飾りのようなもんだ。一番強い奴が部長という原始的な風習だったに過ぎない。
けれど、どうやらアイツは真面目だったらしい。
二年も経っているが、いつまでも似非臭い中国人口調は変わらなかったけれども、あれこれ部員の指導は一生懸命するし、相変わらず組み手相手は宙を舞うが、湿布が必要な程度で殆ど済んでいる。
年に一度行われるウルティマホラで優勝を果たし、彼女を知らないものはいないほどだった。
そして、彼女の熱意と可愛らしさと強さに、彼女を嫌うものはいなくなった。
ただ一人俺を除いて。
俺は彼女が嫌いだった。好きになれなかった。
何故? と問われたことがある。
その度に俺はこう答える事にしている。
――納得が出来ないから。
言っておくが、敗北が納得出来ないわけじゃない。そこまで見苦しいわけじゃない。
自分の弱さが納得出来ないわけでもない。弱いのは承知の上だ。
ただ、自分が信じていた技術が、武術が、戦い方が、どうしょうもなく惨めに思ってしまった。
だってそうだろう?
ウェイトも違う、筋力も違うはず、同じ人間なのに、性差別ではないが男子と女子の筋肉の質とそこから発せられる威力をどうシミュレートしても――強すぎる。
強すぎるのだ。
世の中術理も理屈も通じないような達人はいるだろうが、それでも彼らは人体の範疇に入る。
技巧を凝らし、鍛錬を積み、肉体を鍛え、術理を酷使し、人体を極限まで効率よく稼働させている。
何回も何回も見て、動体視力を超える速度で動くような奴でもなんとか理屈ではなく、血肉で感じる。
ああ凄い、と。
けれど、俺は彼女に恐怖を感じても、凄さを感じたことは無い。
感動は覚えない。
ひねくれているだけの結論かもしれないが、何故か俺は彼女を自分とは違う世界の人間のように感じていた……
走る、朝の冷たい空気を肺一杯に吸い込みながら走る。
頭には骨盤の位置を前に押し出すようなイメージ。
毎朝朝錬の前にジョギングをするのは俺の習慣だった。
「……ハッ……ハッ……ハッ……」
擦り切れたランニングシューズはクッションの意味をなさずに、直接衝撃を脚に伝えてくる。
そろそろ換え時かもしれない。
靴による負担は走行距離を短くする、足を強くするならいいのかもしれないが、足腰を鍛えるのが目的だから長く走りたい。
ペースは自分にあった形で、タイムウォッチ機能のある腕時計でペース配分を確認しながら、馬鹿みたいに広い麻帆良都市内を俺は走っていた。
これも鍛錬だった。
師匠曰く殆どの人間は走るのが下手らしい。
例えば歩くことは足に異常が無い限り誰でも出来る。
歩き方を意識するまでも無く、歩くという行動が出来るからだ。
走ると決めれば走れる。それが人間だ。
歩き方を、走り方が分からない人間なんていない。
だけど、歩くときにどの足から出して、どうやって踏み込んで、どう足を上げるか考えると途端に難しくなる。
誰しも意識なんてしていない。
本能に植え付けられた歩き方、マニュアル通りの走り方、誰しも従いながら使っている歩法。けどそれでは駄目だ。
意識すると次第に分かってくるのだが、踏み出す歩幅やテンポなどはよほど疲れているか地形に差が無い限り意識しないと変わらないのだ。例え効率が悪くても勝手に体は直してなどくれない。
そして、意識すると同じようなペースを保とうとしてもかなり難しい。
人間は間違える生き物だし、例えば小豆を箸で摘んで縦に並べて移すという作業を繰り返したとしよう。
十回ぐらいなら丁寧にやればそこそこ綺麗に並べられるかもしれない。まあ不器用な人間なら無理だろうが。
けれど、それが三十回なら? 五十とか、百回とか、そんな数ならば驚異的な集中力と根気でもないと無理だ。必ず乱れるし、集中力も切れる。
間違えずに繰り返し続けるにはもはや体に染み込ませるしかない。
反復。
練習。
何十、何百、何千回と拳を突き出して正しい打ち方を覚えるように、歩き方もまた繰り返し、体に刻み付けていく。
本能による歩き方に頼らず、理屈と経験によって効率の良い歩き方を覚え込ませていく。
あらゆる武術、剣道などの武器を使った武術でも一番最初に教わるのは歩法だろう。
人は動く、人は進む、人は引く、あらゆる動作に歩くことが必須なのだから。
俺は息を吸いながら、踏み出す一歩一歩の動作をイメージして追順し、どの筋肉が動いているのか、どの骨がどういう風に曲がっているのか、踏み出した衝撃はどの程度大きいのか。
味わいながら、実感し、感じ取る。
最初こそ難しかったけれども、十年近くも続けたそれらの動作にもはや息するように簡単で、改めて意識しないと上達出来ないほど当たり前になってしまっていた。
「……ハッ……ハッ……ハッ……」
体は痛い。
疲労による乳酸漬けの体は重いし、肺が長距離の有酸素運動で悲鳴を上げているが、それ以上に打ち身になっている体が痛かった。
痛みを堪えながらも、走る、多少の痛みに気にしないように頑張る。
そうして30分ほど走った頃だろうか、川原の横を走っていたとき声をかけられた。
「お、長渡じゃん」
「ん?」
声に気が付いて目を向けると、そこには首にタオルを掛けて、ジャージ姿で手にスポーツドリンクを持った美丈夫の姿。
顔に見覚えがあった。
「山下か」
染め上げた金髪に、甘いマスク。
黙っていれば女に持てるだろうそいつは山下慶一。
部活は違うが、同年代の武道系の男。
「久しぶりだな、元気にしてたか?」
嬉しそうな笑み。
額にはうっすらと汗が浮かんでいて、多分同じように走りこみでもしていたのだろうか。
俺は笑みを浮かべて、手を上げると。
「まあな。お前こそまだ3D柔術とか名乗ってんのか?」
「は、当たり前だろ。俺はいずれ武術界に新風を撒き散らすつもりさ」
ニヤリと笑み。
そんな山下に俺は軽く親指を下に突き出しながら。
「とりあえずテメエは柔術に謝れ」
「何故に!?」
「合気柔術とかそこらへんを全部習得してから新しいのでも考案しろよな。中途半端に齧ったままだとただの我流だぞ?」
「ぬぬぬ、痛いところを突く」
武術における歴史の蓄積とはそれだけの価値がある。
よほどの才と弛まぬ鍛錬の積み重ねを持ってようやく覚えきれるか、新しい武術を生み出すなど天才でもなければ不可能だ。
何度か山下とは手合わせをしているが、奴が全てを習得しているとは思えないし、本人も思ってないだろう。
才能はあるが、天才では無い。
俺と同じようなもんだ。常人の領域。
……とはいえ。
「そういや他の三人はどうしてる?」
高等部の武術系名物四人。
この目の前の山下に、何故に役所でOKされたのかわからない大豪院ポチ(名前の人権はどうした)、発勁使い中村達也、喧嘩殺法とやらの豪徳寺 薫。
こいつらは仲がいい。
「あー、全員元気にやってるさ。というかお前もたまには付き合えよ、四人で組み手ばかりしてても刺激が足りないし」
大豪院や中村だって会いたがってたぜ? と、山下は少し寂しそうに告げたが。
「……俺を病院送りにしたいのかよ」
山下の言葉に、嫌気を含んだ声が洩れるのを止めることは出来なかった。
別にこいつらが嫌いなわけじゃない。
阿呆が多いが、性格自体は善人そのものだし、不良然とした豪徳寺だって実際はカツアゲすらしない良い奴だと知っている。
だがしかし、こいつらは“古菲と同類だった”。
山下とは高等部の入学時代は同級生だったし、中村と大豪院も元は中国武術研究会の部員だった。
昔はよく一緒にトレーニングもしたし、組み手もやって、互いの技法を盗んだり、教えあったり、馬鹿もやったりした。
勝率は大体同じぐらいだったけど、僅かに勝率が一番高いのが俺だったことに密かに自慢をしていたぐらいだ(その後集団でボコボコにされたが)
けれど、いつの間にか実力に差が開いた。
いや、おかしなぐらいに開きすぎた。
山下は柔術における円運動での返し技以上に人を投げ飛ばせるようになり、大豪院は古菲の次ぐらいに強くなって馬鹿みたいに頑丈になっていて、中村の発勁は人間を容易く砕けるようになってしまった。
ただ一生懸命に武術を習っていただけなのに、おかしなぐらいに強くなっていた。
そんな事実は存在しないのに、ドーピングをしてるんじゃないかという噂すら掛けられた。
そうして、山下も、中村も、大豪院も通っていた部活を辞めた。
武道は続けていたけれど、同じような境遇の連中とだけ組み手をするようになっていた。
喧嘩の強さで有名だった豪徳寺と知り合ったのはその後らしい。
去年のウルティマホラに全員出ていて、俺はそれを観客席で見ていた。
参加なんてしなかった。古菲に勝てる勝算などゼロ以下だったから。
ただ部活を辞めた後も武術の訓練を続けていたことを知っただけだった。
俺は辞めるあいつらを引き止めることも庇うことも出来ず、その苦悩すらも知らず、罪悪感を抱き続けている。
友達の資格すらもないのに、あいつらは態度も変えずに会えば笑顔を浮かべて話しかけてくれる。
それがある意味辛かった。
「っ……悪い」
痛みを堪えるような表情を山下が浮かべる。
こいつらは知っている。
自分達がどれだけ簡単に人間をぶっ壊せるのか理解している。
彼らは変わってなどいないのに、何故か力が、威力が、技が、別のモノへと変わり果てていた。
彼らに喧嘩を売るのは何も知らない馬鹿ぐらいだ。
この麻帆良だと何故か能天気にそこらへんのことを気にしない奴が殆どだが、長い付き合いだった部活仲間の連中とかは尊敬や畏敬、或いは恐れの目でこいつらを見ている。
――きっと俺もその仲間だろうけど。
「まあ冗談だけどよ、お前らそんなことしないだろうし」
そういって俺は偽善だと自覚する笑みを浮かべる。
「放課後、お前ら集まったりするか?」
「あ? ああ。一応今日はこの川原で集合しようかって話になってるけどよ」
「んじゃあ、俺今日は部活サボるからよ。一緒に組み手でもやろうぜ、久しぶりに中村の発勁も見たいし、大豪院の奴ちゃんと功夫積んでるか心配だしな」
平部員の俺がサボったところで部活には特に支障はないし、特に今日は何か伝えるような用事もなかったはずだ。
そう告げると、山下は心なしか嬉しそうな笑みを浮かべると。
「OK。他の奴らには俺から言っておくよ」
「頼むわ」
欺瞞の痛みに俺は内心歯軋りをしながら、シュタッと手を上げる。
「んじゃ、放課後」
「ああ、放課後だな」
山下に別れを告げて、俺は再びゆっくりと、そして次第に逃げるように速度を上げて走り出した。
嗚呼、俺は弱い。
走りながら、俺は誰もいないことを確認して、嗚咽を漏らした。
「最低だ」
目尻が潤む、汗まみれの手で目元を拭った所為か、目が痛かった。
涙が零れるのはその所為だと思った。
こんなくだらない方法でしか友達に謝る方法を知らない自分がどうしょうもなく憎かった。