同じような日はあっても同じ一日は決してない。
日々は常に変化する。
学校で受ける授業もそうだった。
月曜日、僕はかなり必死になってノートにエンピツを走らせていた。
先週月曜日から木曜日まで連続して四日も休んでいた僕は友人に頼み込んで借り受けたノートを手に、休み時間の度に自分のノートに授業内容を写していく。
学生の本分は勉学であるとはよく言ったものだ。
ともすればそのままサボって寝てしまいたい衝動を必死に堪えながら、我慢して終わる果ての見えない量を書き進めていく。
そして、ようやくほぼ全てのノートを写し終わったのは放課後の時だった。
「あ、ありがとうね」
「おつー」
金曜日と月曜である今日、二日間ほど学校に居る間借り受けていたノートを友人に返した時には既に僕はボロボロだった。精神的な意味で。
机から立ち上がり、伸びをしながら体の筋を軽く伸ばすとポキパキといい音がした。
「つ、かれたぁ」
やれやれとため息を吐き出して、僕は鞄を肩にかけて、教室の角に置いておいた竹刀袋を回収する。
木剣を入れたそれだが、気に留めるものは誰もいなかった。
僕は剣道部に入っているわけでもないのだが、気が付かれなかったことに少しだけ寂しさと安堵の両方を憶える。
そして、そのまま僕は教室を出た。
迷いもなく校舎を出ると、事前に印刷しておいたマップを見ながら歩く。
目的地はただ一つ。
麻帆良学園に共通して存在する――剣道部、その道場だった。
部活動などが大変多い麻帆良都市では、学校などの垣根を越えて人気のある部活動は総合してまとめられる。
長渡が所属する中国武術研究会もそうなのだが、剣道部や空手部などのポピュラーなのは一つの道場と施設、そして集まりとして一箇所に集められており、大変に人数が多い。
豊富な土地面積を所有し、麻帆良祭などではどこからひねり出したのかも分からないほどに豪勢なイベントを行なうが、予算の削減と混乱を防ぐために施設や集まりなどは一箇所にまとめているのだ。
そして、全国でも有数の強豪を数多く輩出している剣道部はその実績に比例して大きな道場だった。
「うわー、殆ど初めて見たけどでかいなぁ」
麻帆良に引越ししてからほぼ二年近く。
今更のように知るその道場の大きさにため息を吐く。
数百人は収容出来そうな大きさに圧倒されながらも、中から響いてくる無数の打撃音。
乾いた音、風を切るような錯覚を覚える。ビリビリと足元がざらつく震動。
さらに響いてくるのは気炎の咆哮。
声がある、声がある。
圧倒されてしまいそうなほどに。
「……凄いなぁ」
大きめの道場に行った経験は少ない。それも出稽古でお邪魔したぐらいで、それほど記憶にあるわけではないのだ。
どこか緊張で体が硬直し、道場の扉の前でどう入ろうか迷っていたときだった。
「ん? 誰だ、君」
ガラリと道場の扉を開いて、首にタオルを掛けた大学生らしき男性が出てきた。
剣道着の面を外した状態で出てきた彼は、全身びっしょりと汗を掻いて、手にはスポーツドリンクの入ったペットボトルを持っている。
「あ、すいません。ちょっと見学希望なんですが」
むわっと扉から出てくる熱気に息を飲みながら、僕は用意しておいた言葉を吐き出す。
「お、見学か。春だからなぁ、いい事だ」
ぎっしりと太い腕を動かして、そのささくれた手で顎をその人は撫でた。
そのままこちらに眼を向けると、不意にその眼を細めて。
「ん? 剣道経験者か」
「え? い、いや、剣道経験者じゃないです」
僕の竹刀袋を認めたんだろう。男の人の言葉はもっともだった。
違うのか? と少し首を捻ると、「まあいい、ちょっと入れ。別に取って食うわけじゃないしな」と彼は道場の中に入っていく。
それについて行くように扉を潜ると、数百はありそうな下駄箱を横に並べた玄関があった。
しかし、その下駄箱の中は人目見るだけで満杯であり、炙れた無数の靴が玄関を埋め尽くすように脱ぎ捨てられている。
「靴は適当に脱いでおいてくれ。下駄箱は一杯だからな」
「あ、はい」
先輩らしき人はその言葉通りに履いていたサンダルを脱ぎ捨てると、玄関の隅に積み上げてあった同じようなサンダルの山の上に置いた。
僕は学生靴を脱ぐと、出来るだけ丁寧に並べて置き、他の靴を踏まないように爪先で進みながら、彼の後を追う。
そして、彼の後を追って玄関を抜けた先は別世界のようだった。
「――キァアアアッ!!」
「――リャアアッ!」
怒声のようでもあり、咆哮が轟き、竹刀がぶつかり合っていた。
ぶつかり合うのは大柄な男性らしき剣士と小柄な少女と思しき剣士。
体格差はあるものの、その互いに蓄えた闘志に差はなく、油断もなさそうだった。
ダンッと床を踏み抜き、風を切るように鋭く振り抜かれた竹刀が何度も激突する。
動きは速い。迷いもなく、旋風のように、円を描いて燕のように鋭い剣先が閃く。
乾いた音が響く、乾いた音が響く、乾いた音が響いて――打撃音。
「胴ッ!!」
振り抜いた小柄な剣士、対峙する彼の脇腹に竹刀を叩きつけて、そのまま横を駆け抜けて、残心を行なうように振る向き、また構える。
それに応じるように鋭い気炎を発して、大柄な剣士が床に足が叩きつけて、その震動がここまで伝わってくる。
そんな光景が幾つも見えた、激しく、息する暇もなく、脈動する活気が満ち満ちていた。
どこか神経を削りそうな僕の知る道場とは違う、熱気。
同じようでありながらも違う心構えの発露。
「凄いか?」
僕が呆気に取られていたのに気付いたのだろう、大学生らしき男の人はどこか嬉しそうに笑みを浮かべる。
「はい」
僕は正直に答えた。
隠す必要もないぐらいに、呆気に取られていたのだから。
「ふむ。見込みがありそうだな」
「え?」
「萎縮してない、むしろ楽しそうだと思っているだろう?」
ニカリと彼は笑う。
そこで僕は少しだけ唇が歪んでいたと気付く、興奮に。
「ふむ。どうやら武道経験者らしいな、常例ならジャージにでも着替えてもらってそのまま筋トレしてもらうんだが」
彼はゆっくりと室内を見渡す。
数十組の稽古を続けている人たちを見て、その道場の壁際で汗を掻きながら休憩をしている人たちに目を向けると。
「柴田、ちょっとこい」
彼は手を上げて、その中で同じぐらいの年齢だと思われる高校生の少年を呼んだ。
「あー? 藤堂部長、なんすか?」
パタパタと軽い足音を立てて、やってくる柴田と呼ばれた人。
そして、今更理解する。この人、部長だったのか。
……運がいいと言うべきかな?
「こいつ、見学希望者なんだが、確か誰も使ってない古着の稽古着と防具があったろ? それを着せてやれ」
「え?」
「え? いいんすか。あ、もしかして剣道経験者すか?」
柴田と呼ばれた軽い口調の、茶髪に染め上げた髪を持つ少年が僕の全身を一瞥してそう呟く。
とはいえ、誤解されているようなので再度訂正する。
「いや、剣道は初心者なんで」
「剣道は、だろ? お前何かやってるだろ」
藤堂さんが断言してくる。
いや、確かにそうだけど。
「剣術を少しやってますけど、剣道は初めてなので……」
僕がそう発言すると、柴田さんは目を丸くして。
「剣術!? へー、かっけー! なになに? なんて流派? 実はものすげえ剣術とか極めてたりなんかする? 岩とかぶった切るのか?」
「え!? ちょ、ちょっと、落ち着いて――」
興奮したように顔を近づけてくるのに、僕は少し後ずさりした時だった。
ガコンと柴田さんの頭頂部に、藤堂さんの拳が落ちた。
「落ち着け、馬鹿」
「い、いったー!! 暴力反対っすよ! この体育会系!!」
「うるさい。困ってるだろうが! と、それはともかく、剣術だがなんだか知らんが棒を振るうのには慣れてるんだろう?」
「あ、はい」
棒って……まあ確かにそうだけど。
アバウトというか、ワイルドな人だなぁ。
「身体も鍛えてそうだし、ちょっくら竹刀振ってみろ。柴田、俺は他の奴らの相手してるから更衣室に案内してやれ」
「ういーっす」
頭を押さえて、不機嫌そうに返事を返す柴田さん。
藤堂さんは道場の隅を堂々と歩くと、自分の置いた面などを取りにいったようだ。
「じゃ、案内すっから。付いてこいよ」
「あ、はい」
僕がその背中を見ていると、柴田さんの声が掛かった。
彼は僕の横を通って、道場の端にある更衣室という標識のある扉へと向かう、とした時だった。
「あ、そういえば名前なんだっけ? オレ、柴田 充(しばた みつる)っていうんだけど。麻帆良大学付属の二年な」
「短崎 翔です。って、あれ? もしかして同じ学年と学校ですか?」
僕の所属しているのは麻帆良国際大学附属高等学校である。
「ん? てことはお前も同じところ? クラスは? オレBなんだけど」
「僕はEです」
「なんだ、同学生かっ」
「そうみたいですね」
柴田さんが笑う。
同じ学年でもクラスが違えば顔すら知らないことなんて珍しくない。
近年の少子化を笑うように生徒数も多い学園だし。
「じゃ、タメ口でいいぜ。堅苦しいの嫌いだし、ってここだ」
更衣室と書かれた入り口に入ると、すぐに左に曲がって男子用と書かれたドアを開けていった。
「あ、はい。じゃなくて、分かったよ」
慌てて言葉遣いを直す。
堅苦しいのは僕も好きじゃないし、同じ年なら他人行儀過ぎるのも失礼だった。
柴田さんの後を付いていって、僕もドアを通ると――空気が少し濁っていた。
ていうか、少し臭い。
コロンでも使っている奴がいるのか、それとも整髪剤の臭いか、空気に汗臭い臭いと果物のような香りが入り混じっている。
「やっぱ、なれないとキツイよなぁ」
僕が慌てて少し口に手を当てたのを見て、柴田さんがゲラゲラと笑う。少しむかつく。
更衣室内は上品にロッカーなどがあるわけじゃなく、銭湯の更衣室のようにものを置くだけの棚が並んでいるだけだった。
判別が付くように名札をバックにつけてあり、それらが無造作に詰め込まれている。
まあ男の更衣室なんてこんなもんである。
「青春の臭いって言えばかっこいいが、実際は汗臭いだけだしなぁ。て、ちょっとまってろよ。確か寄贈された奴はここにあるはずだし」
棚の端に詰まれたダンボールを開いて、柴田さんは少し古ぼけた稽古着と袴を取り出して、パタパタと仰ぐように少し振るう。
「あー、やっぱ埃臭せえなぁ、ちょっと窓開けてくれ」
「分かった」
更衣室の窓を全開にしていく。
その間に柴田さんは他のダンボールから剣道の防具を取り出して――いつの間に用意したのか消臭剤をぶっかけていた。
「やべー! カビくせー! 汗くせー!! 臭い消し掛けないと鼻もげそうだー! オレだったら死んでも身に付けたくねえ!」
「いや、それ身に付けるの僕なんだけど!?」
思わずツッコミ。
しかし、柴田さんはゲラゲラ笑いながら、消臭剤を面の中に振りかけて。
「まあガンバレ! オレ応援するから! ただし、それだけしかしねえけど!!」
「……」
ちょっとだけ殺意が湧いたのはしょうがないと思うんだ。
もういい、さん付けいらないよこの人。柴田で十分だ。うん。同い年だし。
と、思っていたら窓を全開し終わった僕に剣道着が投げつけられた。
「ほれ、これ着ろよ。一番状態がいい奴だし」
「ありがとう」
受け取り、僕は慣れた仕草で制服を脱いで学生鞄に詰める。
剣道着というか胴衣の類は剣術の道場で着慣れているから、迷いもしない。
「早いな、じゃ、このバックはオレの奴の横に詰めておくぜ」
柴田は僕の学生鞄を手に取ると、棚の一つ、柴田という名札の付いた鞄の入った棚の隙間に押し込んだ。
その間に剣道着に着終える。
少し埃臭いけど、まあ気にしなければいいだろう。袴の感触も悪くない。
「まあ今は必要ないだろうから、垂れと胴だけ付けて置くぞ」
そういって僕が身に付けるのを手伝ってくれた彼は多分凄い親切なんだろう。
誰かに着せるのも慣れているらしく、軽く胸を締め付けられる程度で胴を身に付けた。
「篭手と面はまあ後でいいよな。ほい、あとこれが竹刀な」
そのまま投げ渡してきた竹刀を受け取る。
それは軽いようで、どこか重いような不思議な感覚。
握りを確かめて、軽く振ってみるが――やっぱり感覚が違うなぁ。
「おー、手首だけの振りじゃねえな。よし、じゃあ道場に戻るぜ」
「あ、篭手と面は僕も持つよ」
柴田が面と篭手を抱えて歩き出そうとしたのに、慌てて声をかける。
「あー、じゃあ、篭手だけ持ってろ。面は俺が持つわ」
「了解」
篭手を持ち、柴田が面を持って更衣室から出る。
そして、そのまま道場に戻ると。
「おー準備出来たか」
「あれ? 藤堂部長、なんでここに?」
道場の壁によりかかり、腕組みをした藤堂さんがいた。
「いや、よくよく考えたら俺休憩中だし、めんどくさくてな」
「は、はぁ」
僕はどう反応すればいいのか分からなくて、曖昧な言葉を返す。
柴田は慣れているのか、やれやれと肩を竦めて。
「まったく部長ってば不真面目なんすから、どうせ見学の短崎の指導と偽って楽するつもりなんでしょう?」
「ハッハッハ、まあその通りだ。しかし、一言余計だ」
ゴガンと再び拳がめり込んだ。
ぐのぉおおおお、と柴田がオーバーアクションで呻いて、頭を抑えてしゃがみこむが、本当に痛いのかもしれない。
「て、訳で。見学希望の――えーと……」
「短崎です。短崎 翔」
「そうそう、短崎。早速だが、少し指導を付けてやろう。俺と出会って幸運を祝え」
「……不運を呪えの間違いじゃないすか?」
「あ~?」
柴田がぼそっと告げた言葉に、藤堂さんが睨んだ。
さささと即座に逃げ出す柴田が、僕の背に回り込み。
「やれ! 短崎剣術マン! あの生意気な部長をぶった切ってやれ!」
などと、叫んだから僕は大慌てだった。
「え? いや? む、無理だよ!?」
「カッカッカ、俺に挑むか。小僧共」
ぎらーんと瞳を輝かせて、藤堂さんの手に握られた竹刀が構えられる。
僕の握る竹刀よりも長大なそれはその体格に似合って勇ましく、凄まじい圧迫感だった。
佇まいと体格だけで分かる。この人――強い。間違いなく。
竹刀を握り締めて、咄嗟に構える。身の危険を感じたために。
「……ふむ、変わった構えだな」
「え? あ」
思わずいつものくせで、逆八相に構えていた。
すると、藤堂さんは構えを解いて。
「剣道とは違うか。とはいえ、その構えはここだと意味がないぞ」
「え? あ、そうですよね」
「まあ付いて来い。柴田も最近なまっているらしいし、一緒に指導してやる」
そういって、藤堂さんが歩き出す。
付いてこいという意味なのだろう。
「うへ~。お、オレもかよ」
よほど厳しいのか、柴田がガクンと頭を下げる。
僕はあっという間に流れる事態に少し戸惑いながらも、その背を追おうと歩き出して。
――ゾワッ。
一瞬、全身の産毛が逆立った。
「っ!?」
竹刀を握る手に汗を掻きながら、瞬時に旋転し、眼を向ける。
吸い込んでいた息を止めて、心臓が早鐘を打っていた。
圧迫感のようなものを感じた方角、そこには一人の剣士が立っていた。
道場の壁隅、頭に巻きつけていた手ぬぐいもそのままにこちらに眼を向ける小柄な少女。
気が付く、それが初めて入った時に対峙していた剣士なのだと。
そして、それと共に理解する――彼女の名を。
桜咲 刹那。
かつて出会い、僕に警告を残した少女が怪訝そうな眼を浮かべて、こちらを睨みつけていた。
つまるところそういう意味だったのだ。
ここへと辿り付いたのは、幾つもの誘導があっても、僕の選択だった。
知らぬならば会えばいい。
語れぬならば話せばいい。
理解出来ぬならば対峙すればいい。
つまるところ、そういうこと。
非日常ではなく、日常の領域で僕と彼女は再会した。
互いに深くは知らず、互いに対峙し、互いに語るための舞台に。
踏み出した。