予感ってのはたまに怖くなる。
たとえば休日なのに不必要に早く目が覚めるなど。
目覚ましを掛けたわけでも、理由もないのに目が冴えて、俺は午前五時に起床してしまった。
ベットから起き上がり、牛乳でも飲むかと台所に行くと。
「あ」
「あ」
何故か味噌汁作ってるジャージ姿の短崎と鉢合わせた。
お玉で鍋の中をグルグル掻き混ぜていたよ?
「……おま、男に朝起きたらゴハンが出来てましたよシチュはマジ勘弁なんだけど」
「いや、これ僕の朝食予定だったんだけど」
「一人で食べるつもりか? 俺の分もせめて作れ!」
「都合いいね!?」
というわけで、短崎に命令して切らせたたくあんと味噌汁と炊いた米で朝食を済ませる。
俺が寝巻きから運動用のジャージに着替える間に、短崎はなにやら張り切って、近くの公園で素振りしにいった。
肋骨が心配だったが、まあ本人の望むことだからと放置。
人目の少ない時間だが、悲鳴を上げれば住宅街にでも聞こえるだろう、と俺は考えた。
そして、俺はジャージに着替えると、久しぶりの走りこみをするために玄関で運動靴に履き替えて、鍵を手に外へと出て行った。
寮の階段をゆっくりと歩いて降りると、俺は軽く二・三歩足踏みをして脚の調子を確かめる。
軽くストレッチをしてから、俺は走り出した。
最初は速度を上げてのダッシュ、決めた区間を通り過ぎたら減速してゆっくとしたペースのジョグに切り替える。
そして、一定距離として決めておいた区間を通り過ぎたら、徐々に加速してのダッシュに切り替える。
これを交互に繰り返す走りこみ。
ほぼ一週間ぶりの走りだったので、体の調子も考えて軽めにしようと考えていた。
クッションの効いた運動靴で、骨盤を押し出すように走り、爪先から腰までの動きをイメージし、交互に手を振るう。
走る、走る、走る。
息を吸い、息を吐き出し、酸素を取り込みながら有酸素運動を続ける。
さすがに土曜日の早朝で人は少なく、時々犬を連れて散歩している人や同じようにジョギングをしている人しか見かけない。
時々挨拶を交わしながら、俺は暢気にダッシュをしていて。
いつも走りこむルート、大橋に差し掛かる川の辺に差し掛かったところで気が付いた。
「あ」
思わず減速する。
ゆっくりと足を弾ませながら、俺はその方角に目を向けた。
川原の傍の草むら、そこで見覚えのある奴がジャージ姿で手を動かしていた。
近くに置いた鞄の上にはタオル、そして水筒を置いて、そいつは黙々と手を動かし、足を踏み込み、息吹を発しながら拳打を作る。
その顔を忘れるわけが無かった。
「山下?」
それは山下 慶一だった。
「……長渡?」
俺が声をかけたことで気付いたのか、こちらに振り返ってくる。
あの日、俺が無様にぶっ飛ばされてから、ほぼ一週間ぶりの顔合わせだった。
俺はどこか気まずい空気を感じながら、よっと手を上げて。
「今日もトレーニングか? 熱心だな」
「まあ、な。部活に入ってるわけでもないから、自主トレを続けないとすぐになまっちまう」
どこか寂しげにそう告げると、足を踏み込み、流れるように手を打ち出した。
それは相手を想定した動きだった。
誰かが迫ってくるかのように体重を移動させて、流れるように軸足とは逆の足を踏み込ませる。首を捻り、顔を背けながら、手に作るのは手刀。
飛び込んでくるだろう拳打を捌くように腕を振り抜き、踏み込んだ膝を曲げながら爪先で地面を滑って、足の足首に絡めて、捻る。
螺旋を描くように、遠心力持って力を制し、重心バランスを崩して倒す柔術の流れを数秒と掛からずに実行して見せた。
それは美しい動作だった。
日本武道における武芸とは、美の追求でもある。
ただ単に動作を演じ、動かし、やるだけでも綺麗だと思えるぐらいに無駄が無い。
「ふぅ~……」
呼吸を整えて、山下は手を引き下げる。
「ま、こんなもんだ」
「おー久しぶりに見たけど、いい動きしてるなぁ」
結局この間は山下の動きをロクに見ている暇は無かったが、鍛錬を続けていたことだけはしっかりと分かる動きだった。
何十、何百と繰り返した動作に無駄は無い。
筋肉が憶えて、骨が変形し、皮膚が無駄なく動いて、やすりで削り上げるかのように無駄をこそぎ取っていくものだから。
俺は素直に感嘆して、声を漏らしたのだが。
「……とはいえ、意味があるのかなぁ」
どこか山下は遠くを見つめて、少し顔を苦悩させて呟く。
「は? どうしたんだよ」
山下らしくない気落ちした顔。
甘い顔に苦悩の色を浮かべて、俺に山下は目を向けた。
「いや、な。この間、お前をぶっ飛ばしてから思ってたんだよ……お前さ、俺たちをどう思う?」
それは問いかけだった。
どこか悩めるように呟いた言葉だった。
「どうって……お前は山下で」
「そうじゃねえよ。お前さ、俺たちの中で一番強かったろ? なのに……あっけなく勝っちまった。それもあんなにも簡単に」
どこか失望したようにな、どこか苦しむような言葉だった。
俺の存在が堰を外すきっかけにでもなったのだろうか。いや、前から思っていたことなんだろう。
愚痴るような言葉が静かな朝に流れて。
「なあ、長渡知ってるか? あの後さ、中村とか泣いてたんだぜ」
知らない事実だった。
けれど、その様子がどこか想像出来た。アイツは馬鹿だけどいい奴だから。どこか涙もろい奴だったから。
俺程度に全力を出してくれる奴だったから。
「……」
俺はどう答えればいいのだろうか。
「強すぎるってのは気分悪ぃよ。普通に楽勝ってなら気分いいけどさ……化け物みたいな強さなんだよ」
山下は其処まで行った途端、ダンッと脚で地面を踏みつけた。
瞬間、土煙が上がった。
ここまで音が響くほどに強い踏み込み、いや明らかにおかしいぐらいの力強さだった。
「最低だ! くそったれ! 技ってのはなんだ! 俺たちは多分普通に殴るだけでも誰でもぶっ飛ばせるんだよ!!?」
叫んだ。
冷たい朝の空気の冷気を忘れるぐらいに悲痛な声だった。
「同じようにトレーニングして、同じぐらいに特訓して、同じように成長して、なんでこんなに差が出るんだよ! おかしいだろ!!」
山下は怒り狂うように吼えていた。
それはずっと溜め込んでいたジレンマだったのかもしれない。
中村は、豪徳寺は、山下は、俺の知る限り古菲と同類だった。
あの時の対峙した感触からすると、その力の威力は素人が食らえば重傷確定だった。
プロボクサーよりも多分重い拳。
山下の言葉を借りれば、化け物じみた拳。
いつかの夜の俺みたいな理不尽だった。
その強さに憧れる者は沢山居た。うちの中国武術研究会のように、最初から強すぎた少女はただの憧れになった。
その強さに恐れる者は沢山居た。うちの中国武術研究会のように、最初から強すぎたわけじゃなくて、突然に訓練以上に実力を跳ね上げたから。
誰が一番辛いのだろうか。
置いてかれた俺のような奴か? 同じ仲間だったのに、外れものになった俺か。
それとも置いていくしかなかった山下たちか? 同じ仲間ではいられなくなった外れものにされたこいつらか。
ただ普通にやっていたはずなのに。
ただ友達で、部活の仲間で、同級生なのに。
性格と名前と体質とそれ以外は同じでもいいじゃないか。
世界は残酷だ。
世界は理不尽だ。
あの日のように、かつてのように、狂わせる。ふざけるなと叫びたくなるぐらいに。
だから。
「なぁ、山下」
俺は声をかける。
俺は構える。
「俺と勝負してくれないか」
「あ?」
山下は少しだけ掠れた声を漏らした。
こちらに目を向ける、その目には心配と困惑の色。
「……やめといたほうがいいぜ。俺は……」
ああ、ぶっ飛ばされるだろうな。
今の踏み込みから文字通りの力の差は理解している。
だけど、それでも。
「いや、実はな……中村にぶっ飛ばされた時は俺うっかり油断してたんだ」
嘘を付く。
誰にでも分かるような嘘を吐き出して。
息を吐き出しながら、腰を落とす。
「だから、簡単には負けねえよ。お前らと同格だからな」
俺は引かない。
理不尽が、理不尽では無いと証明するために。
睨み付けるように、息を吸い込み。
燃え上がるように、息を吐き出して。
心臓を動かそう。
アドレナリンが緊張と恐怖で分泌されて、頭の中が恍惚に、或いは焼けていく。
そして、山下は……どこか俺を一瞥したかのように見て。
「そうか」
笑う。どこか寂しげな笑いを浮かべて。
構える。呼吸を整えながら。
「なら、ちょっと本気出させてやるよ」
俺の嘘を通す言葉を吐き出してくれた。
倒してみせろ。
倒してくれと、言葉語るように。
だから、俺は。
「いくぜ!」
「オウ!!」
風が吹く。
草が風に揺れて、波のような音を立てた瞬間に踏み出した。
先手必勝は箭疾歩。
柔術には無い速度での踏み込み。
「っ!?」
対峙したのは数年ぶりか、それとも大豪院の奴が箭疾歩をやらないのか。
どちらにしても懐に飛び込んで、拳打を放つ。
タンッと踏み込んだ足を軸足に、爪先で地面を蹴り上げる。さらにその衝撃を膝で受けとめて、加速する。
腰の乗った掌底、だがそれを山下は繰り出した手刀で捌いて――その威力に手が痺れた。
「っ!?」
鉄パイプで殴られたような激痛と衝撃、鍛えていなかったら確実にひびが入ったか。
打ち出した拳打は捌いて叩かれて、山下が抱きつくように俺の体に腕を廻し、袖を掴む。
ジャージの皺は掴みやすい、投げ技か。
クルリとひっくり返る、その前に俺は山下の股に足を通して、踏ん張った。
「っ!? 長渡」
「投げられてたまるかよっ!」
ジャージが千切れそうな勢い、体重をかけるのを止めれば一瞬で投げ飛ばされる。おそらく腕力だけで。
だが、それでいいのか。
回転、旋転、螺旋を描きながら俺は爪先で草と土を巻き上げながら、山下の胸に手の平を叩きこんで――イメージしたのは竹筒の先から飛び出す水銀。
発勁、それも運任せの分勁だった。
「がっ?!」
山下が数歩後ろにたたらを踏む。
感触は十分、勁が通った。ダメージはあるはずだ。
――さらに叩き込む!
俺は勁に使った足を引き抜きながら、俺はそのままその足で踏み出そうとして。
「させるかっ!」
「なにっ!?」
踏み出そうとした瞬間、山下が迫っていた。
着地点の場所に脚が割り込み、俺が踏み込めない。
さらに肩に手の平が叩きつけられて、自重が吹き飛ばされたかのように後ろに下がる。
やべえ、崩された!
「受身は取れよ!」
瞬間、俺の視界が回転した。
腕が取られる、柔術における投げ技ならば衣服があれば幾らでも可能。
崩された俺に抵抗は出来ない、ただ投げ飛ばされただけだ。
それも凄い勢いで。
ドンッと背中に衝撃が走ると同時に俺は地面に手を叩き付けて、強制的に吐き出された肺の酸素に息づく。
「っ!」
やばかった。
ここが草むらじゃなくて、アスファルトだったら一発でダウンしているぐらいの威力。
と、その瞬間、上から迫る影に気付いて俺は横に転がった。
山下の手が俺の居た場所を掠める。
「っぶね!」
俺はそのまま転がりながら立ち上がり、土だらけのジャージままで距離を取って構えた。
倒れたところで柔術使いに掴まったら確実に負けだ。
固められて、そのまま負けを認めることになる。
そう思って見上げた瞬間だった。山下は呼吸を整えると、こちらに一歩踏み出して――次の刹那、ダンッという足音と共に飛び込んできた。
「なっ!?」
「ぁあ!」
人間の速度とは思えない接近。
信じられないことに、山下はたった一歩で五メートル近くの距離を“跳躍した”。
砲弾のような速度で俺とぶつかる。
咄嗟に迫ってきた両腕の間に割り込むように両手を打ち込んで、両手の袖が取られるだけで押さえる。
けれど。
「袖を取らせたな!」
山下は俺の両手袖を掴んだまま、俺を投げた。
右手が下に、左手が上に、あたかも両手で円を描くように体重をかけられて、人間の肉体はその動きに逆らうことが出来ない。人間の反射反応を逆手に取った投げ技、合気のままに捻り倒されそうになる。
そして、さらに軸足を刈るべく食い込んでくるだろう脚払いに、俺は膝を曲げて突き出し、定石通りに防御をした。
けれど――それごと跳ね飛ばされた。
「!?」
土に食い込んだ脚ごと引っこ抜かれる、脚がビリビリと激痛を発して、俺は苦悶の声を上げる暇もなく空を舞う。
だけど、俺は。
「がっ!」
強引に体を空中で曲げて、取られた袖を引き千切らせて脱出した。
「なっ!?」
ジャージの袖が破れる。
同時に背面からぶつかるはずだった、俺の向きが真正面からうつ伏せのように地面に叩きつけられる。
けれど、それに俺は受身を取り、さらに山下の足を掴んで、引っこ抜いた。
「幾ら馬鹿力でも!」
尻から弾き上げるようなイメージ。
体重をそのまま力に変えて一気に抱え上げる。
「体重だけは変わらねえだろ!」
持ち上げる、山下が抵抗するように足をぶつけてくるが、地に足をつけていない蹴りの威力など高が知れている。
「おらぁっ!」
俺はそのまま廻すように回転すると、自分の体ごと山下を地面に叩き付けた。
受身すらも取れないようにした。
「っ!? っ、がほ……!」
背中から地面に叩きつけられて、山下が苦しそうに息を吐く。
手加減している余力はなかった。
だから、威力はあったはずだ
「はぁ、はぁ……どうだ!」
俺はまだ呻いている山下を置いて立ち上がると、叫んだ。
「まだやるか!?」
手が痛い。
足も痛い。
だけど、まだやれる。
負けないのだと証明するために。
「……いってぇ、なぁ」
「当たり前だろうが」
痛いと呻きながらも、何故か山下は笑っていた。
空を見上げたまま、はははと笑って。
「やめやめ。俺の負け!」
と告げた。
「背中痛くて動けねえよ……もうちょい手加減しろよなぁ」
そういってくる山下。
そして、俺は構えたまま。
「んな余裕ねえよ。全力出さないと勝てないしな」
「俺もだ。全力だった」
全力。
本当に? いや、嘘じゃない。
「なら? 俺の勝ち、か?」
勝った。
勝ったのか。
「そういっているだろ?」
「……よっしゃぁあああああああ!!」
構えを解いた。
そして、俺は全力でガッツポーズを決めて、声を漏らした。
嬉しかった。
どこまでも。
勝利を噛み締めて、痛みも忘れて実感していると。
「いててて……ちょっと手を貸してくれ。起き上がれねえから」
「あ、悪い」
手を伸ばしてくる山下に手を貸して、起き上がらせる。
あいたたと背中を摩り、山下は服の草と土を手で払った。
俺も同じように払う。
そして。
「久しぶりの勝利だな」
「ああ、久しぶりにお前に負けたわ」
言葉を交わし。
「俺の実力を見たか?」
「ああ、見た見た」
視線を交わし。
「お前より俺が強いってことだな」
「一勝しただけなのに厚かましいな、お前」
笑みを交わして。
「じゃあ、お前普通じゃねえか」
「そうかも、な」
どちらからかともなく笑い出した。
ゲタゲタと笑って、傍を通りすがる通行人が不気味そうに見ている視線も無視してひたすらに笑った。
笑いすぎて、笑ったせいで涙が出る。
ぐしゃぐしゃと涙が出るほどに笑って――
「じゃ、次は中村ぶっ飛ばすか! また川原で集まってるんだろ? 俺も参加していいか」
「別にいいけどよ、その前に俺のリベンジが先だぞ!」
山下が少し恨みがましい目で見てきたが、俺は気にせずに。
「やーだねー。俺の勝ちはしばらく取っておく価値がある!!」
と、宣言する。
「お前、卑怯だぞ!」
「卑怯の何が悪い!」
口論する。
言葉を交わす。
俺たちは友達だった。
まだ一緒の武術をやれる友達だと実感が出来た。
信じたものは通じて、きっと裏切らないと信じることが出来ることだけが実感出来た。