それは試練だろうか。
それとも過ちだろうか。
僕は唐突に問われた言葉に、しばし目を瞬かせて。
「……神鳴る剣?」
言われた時にまず思ったのは大仰な言葉だと思った。
何らかの比喩表現だろうか?
それとも例えだろうか。
僕が分からずにタマオカさんを見ると、彼女はうっすらと口を開いて。
「タン坊、神鳴流という名前を聞いたことはあるかい? 天上の神と書いてしん、音鳴らすの鳴ると書いてめいと読む」
「しんめいりゅう?」
確かこの間ミサオさんが刀を打ちに行っているとか言っていた時の流派の名前がそれだったはずだ。
とはいえ――それぐらいで、他に聞いた事はなかった。
僕が実際に知っているのはタイ捨流、そして示現流、あとは今通っている道場の天然理心流ぐらいだ。
何個か憶えている限りの知識で流派名を思い浮かべるが、神鳴流という名前は思い当たらない。
規模が小さい流派なのだろうか?
「知らないって顔だね」
「聞いたことがないですね。まあ僕もそんなに凄く詳しいわけじゃないですが」
首を横に振ると、タマオカさんは何故か楽しげに顎を掻いた。
「まあ知らなくても訳がないさ。世の中には知られていない流派だからね。で、タン坊……お前はいずれそれとぶつかるだろうさ」
ぶつ、かる?
カカカ、とどこか楽しげに笑うタマオカさん。
その笑みがどこか怖かった。
「……どういうことですか?」
「どういうことも何も無いさ。これは単なる警告だよ」
ざららら、といつの取り出したのか筮竹を手に持って鳴らしている。
鳴らす、鳴らす、楽器のように。
音が満ちていく。
どこか恐ろしく、どこか吐き気が込み上げるように。
「嗚呼、嗚呼。恐ろしいことさ、奴らは狂人だからね」
ならば、貴方は狂っていないというのか?
僕は身構える、汗が全身から吹き出し、手足を滑り流れて、隻腕の刀工を見つめた。
「なぁ、タン坊。お前は理不尽なものを知っているか?」
「り、ふじん?」
「それを殺すために殺せるようになる。それを倒せるためにそこまで強くなる。正しいことさね。安直だけど正しく効率的だ」
何を言っているのか。
何を僕に教えようとしているのか。
分からない、分からない、けれど。
「いいかい、世の中には“裏”っていうものがあるのさ。カードには裏と表があるようにね」
静かに呟き、細波のような音の渦に響き渡るその声から耳が離せない。
美しい人からは目が逃げられない。
「うら?」
「この世は綺麗で汚くてドロドロとしたものだけどさぁ、その裏があるのさ。超えようと思えば超えられる境界線の向こう側、理不尽と人外と化け物と魔性と穢れと怨嗟と願いと希望と欲望の坩堝さ」
血のように、牡丹の花のように紅く艶やかな唇から流れる言葉はどこか儚くも聞き逃せない言葉だった。
「裏の術理が一つ、神鳴らす雷鳴を信奉と目標に鍛錬を極め続ける剣術。その名前は神鳴流という」
名前を覚えた。
言葉を理解した。
僕はどこか唇が乾いたのに気付きながらも、舌で舐めることすらも忘れている。
「強いよ? ああ、そりゃあ強い。滅茶苦茶に強いさね。刀で岩を切る、魔を断つ、化け物を殺しまくる、人すらも粉砕する。人の虚弱さを忘れたように“気”という名の力を使って、人の癖に人外以上に強靭な連中だ」
――気。
いつかの夜にあの人形が発していた言葉。
それのことだろうか?
「まあ正直に言えば、普通の人間のお前じゃ手の届かない性能だろうね」
あえて含んだような言い回し。
おかしい。
何かが引っかかる。
「……何故そんなのが僕と関わるんですか?」
関係ないだろう。
知り合うはずもないだろう。
放っておいてくれるならばどうでもいい、関わる必要すらもないだろう、ただの学生の僕に。
だけど。
「縁、だろうね」
たった一言で答えは告げられた。
「縁? それと僕に何の関係があるんですか!?」
震えを隠すような叫びだった。
不可思議な人だと思っていた人が、化け物だと知ったような絶望感。
それに囚われないために、膝を着かないための咆哮。
「――桜咲 刹那は神鳴流剣士さ」
「え?」
「前に言ったはずさね。お前にだけ情報が無いのは不公平だろう? だから、私は洩らすよ。公平が好きだから」
カカカッと、どこか鴉のような笑い声を上げる。
「タン坊、お前はいずれ彼女と激突するのさ」
「何故?」
「さてね。私に読み取れる縁の行方がそれだということ」
筮竹のこすれ合う音が鳴り響き、バラバラとそれが振り落ちる。
床に転がる筮竹の棒が床に散らばり、それの転がる僅かな音が残響音となって不気味に耳にへばりつく。
「ただそれだけさね」
カカカと笑って、タマオカさんが無造作に足を組み替えた。
その時だった。
パシンッと背後からタマオカさんが叩かれたのは。
「あいたっ!」
彼女の頭部をひっぱたいたのは孫の手だった。
けれど、その速度としならせ方は竹刀の如き勢いでいい音が響いていた。
「なにしている」
頭を押さえて呻くタマオカさんの背後に立っていたのは、いつの間にやら風呂から上がったらしいミサオさんだった。
さっぱりとした顔つきと着替えた衣服だったが、水に濡れた感じは合っても湯上がる蒸気は感じない。
もしかして、本当に水だけ浴びたのだろうか? 夏前だけど、まだ春なのに。
「一々脅すな、タマオカ。見込みのありそうな奴に粉をかけるのはお前の悪い癖だぞ。で。カケル、無事か?」
「あ、ああはい」
孫の手で肩を叩きながら、ミサオさんがこちらに目を向ける。
足元から頭まで舐めるように視線を飛ばすと、うんと頷いて。
「支障はないな。そして、カケル。こいつの発言は気にするなよ」
「え?」
「こいつの占いは大体山勘と推測と願望によるものだ。当たるも八卦、当たらぬも八卦。忠告程度に軽く考えろ」
「ておいまてや。ミサオ、ちょっと失礼じゃないかね?」
「失礼なのはお前だ。まったく、放置すれば好きにやりやがって。説教するぞ」
「へ?」
そういって、ミサオさんがタマオカさんの襟首を掴んだ。
ずりずりと引きずっていかれて、タマオカさんがジタバタするが、隻腕の上に力はミサオさんのほうが圧倒的に上だった。
工房の奥の廊下にまで運ばれて。
「こらー! やめんかー!」
「うるさい、黙れ」
さらには担ぎ上げられて、ぽーいと奥の一室に放り込まれた姿が見えた。
どたーんといういい音が響いたのが聞こえると、ミサオさんは手を叩いてこちらに戻ってきた。
「迷惑をかけたな、カケル」
「あ、いえ」
なんだろう、夫婦漫才でも見せられたような気分だった。
ガリガリとため息を吐きながらミサオさんは頭を掻いて。
「たく、あのババア……」
「え?」
「いや、なんでもない。それとこれを渡しておく」
そういって渡されたのは携帯番号らしきものを書かれたメモ用紙だった。
「俺の新しい携帯番号だ。何か困ったら俺に連絡しろ、しばらくは俺もここにいるからタマオカにあまり相談するな。俺と一緒の時ならいいが、それ以外は避けろ」
「あ、はい。あれ、でも前の携帯は?」
一応僕はミサオさんの携帯番号は知っていた。
けれど、ミサオさんは顔を背けると。
「ああ、壊したから」
「……どうして?」
「色々あってな」
携帯を壊すような何かでもあったのだろうか。
とはいえ、聞かれたくなさそうなので僕は頷いて、そのメモ用紙をポケットに入れる。
「それじゃ、失礼しました。太刀と脇差、ありがとうございました」
「別に構わないさ。放っておいても捨てるだけの太刀だし、俺の打った奴じゃない。礼ならアイツにしておけ」
と、ミサオさんが指差した方角ではひらひらと部屋の仕切りからはみ出た指先があった。
僕はそれに頭を下げてから、工房を出た。
「純粋に生きろ。手は穢れに染めてもな」
そんな言葉が聞こえたのは気のせいだったのだろうか。
僕は道を歩く。
いつ見ても、いつ来ても、光の洪水のような道だった。
飲まれそうな輝きがあって、吐き気がしそうなぐらいにキラキラしていて、僕は思う。
「大人になりたいなぁ」
強く、強く生きたい。
誇れるぐらいに。
頼れるぐらいに。
僕はいつでも未熟だった。
大人に護れているのが分かる。
友人に支えられているのが分かる。
憧れと夢だけが原動力だった。
踏み込む足取りだけが軽く、心は静かに響いて、吸い込んだ息に肺が膨らんで、満たされる。
「何があるんだろうか」
未来なんて分かりやしない。
あの警告は何に届くのか、どうなるのか分からない。
ミサオさんはああ言っていたけれど、タマオカさんの言葉はどこまでも真実味を帯びていた。
そして、いつかぶつかるのだろうか。
彼女と。
鳥のような少女と、あの反応すらも出来なかった化け物じみた速さの彼女とぶつかるのか。
いつ?
どこで?
なぜ?
三つのどれも分からない。ただヒントだけ与えてくれた。
だから、強くなろう。
負けないように。
後悔しないように。
「明日から学校にいこうかな」
そしたらバイトでもしよう。
そして、しばらくの間道場に行く回数を増やそう。
師範には迷惑をかけるが、カンを取り戻す必要がある。
素振りをしよう。
目標を携えて、切り裂くように、負けないように。
僕は大地を踏み締めて、蹴り飛ばした。
走る、少しだけ痛む肋骨を無視して走る。
押さえ切れない衝動があったから。
また夢に手を伸ばす。
いつか届いた天への一刀を再び掴み取るために。