彼女は鳥のように見えた。
何故そう感じたのか、理由は今のところ見当たらない。
油断無く佇む姿には欠片のように残った情緒感がそう表現したのか。
それとも、白く艶かしい手足につい先ほど見た白い鳩でも連想したのか。
近づけば迷いも無く飛び去る鳥の如き警戒心を感じ取る。
それは知り合いの刀工家からの帰り道だった。
入り組んだ都市の道なり、迷路のように複雑に、様々な構造物と色彩に入り組まれた景色の中で、ただ一つ平穏とさえ言える道なりを歩いていた。
竹刀袋に入れた愛刀を担いで、僕はいつものように歩いていた。
一歩一歩、地面を踏み締めるように。
一つ一つ、大地の硬さを噛み締めるように。
大切に大切に、味わい尽くすように。
いつも考える。
とても考える。
思考で心は埋め尽くされて、道なりの向こうに見える世界樹とその上に広がる青空を見上げながら僕は呼吸をしていた。
息を吐く、心地よく。
息を吸う、不味くない。
何気ない行為は意識するととても難しくて、退屈をまぎらわせるには丁度いい。
普段沢山考えるほうが、いざって時に考え残すことが少ないというのが先生からの教えだった。
だから、僕は沢山考えながら歩いて――視界に入り込んだ彼女を見た時に、思考の数を極端に削り飛ばした。
距離にして十数メートル、道端の角から何気ない動作で現れたのはおそらく年下と思しき少女。
格好には見覚えがある。麻帆良女子中等部の制服、肩には竹刀袋、剣道部だろうかと安易な推測。髪を結わえた髪型、年齢の割には険の強い目つき、建物の日陰の中を歩く彼女の肌は人形のようにどこか白い。
高校二年の思春期らしい感想だなと我ながら自覚し、僕は足を止めぬまま視線を下に下ろし、彼女の足元を見た。
……歩きなれているな。
かなりの鍛錬を積んでいるなと判断、脚の踏み込みにブレはなく、一定間隔でズレもなく歩いている。
彼女ほど綺麗な歩き方をしていたのは先生か、兄弟子の兄さんしか知らない。
きっと剣道部でもとても強い少女なのだろう。
そんな推測をしながら僕は不埒な観察をやめて、彼女の横をゆっくりと通り過ぎた。
彼女はどこに行くのだろうか。
ここから先は何か女の子が行くような店などあっただろうか? と内心首を捻りながら。
僕は今日のこの日を無事に終えた。
麻帆良の都市は広い。
出来うる限りの散策を自分に命じ、多少の地理は把握したと感じても恥ずかしくないと思えたのは半年は経過してからだ。
この都市に放り込まれて既に二年が経過している。
ルームメイトの友人と同じく僕はこの都市に住んでいたのではなく、高等部からの入学だった。
家庭の事情という名目、まあ両親が海外への長期間赴任するので、ただ一人外国語などロクに喋れない僕を放り込むにはこの環境がうってつけだったのだ。
幸い頭は並以上だったので、偏差値は高校入学には問題なく、入れば大学まで一直線のエスカレーター式。
選ぶ自由は少ないが、外れる心配は限りなく低い。
安心生活というやつだ。
……なんか違うような気がするなぁ。
「また間違えた」
独り言を呟き、僕は手に持ったジュースの缶を唇に付けた。
オレンジのジュース、果汁は実際には十数パーセント、あとは水と糖類と味付けの化学製品。
知り合いの刀工ならば決して飲まない「穢れを孕む」と言っているが、その不自然までの甘さが心地よいのは若さ故にか。
渋みのよさも実感できぬ若輩の身である。
たたんと、ベンチから乗り出した脚のつま先で地面を叩いて、目を閉じる。
場所は公園。
車の喧騒も、街の騒音も、どこか遠いように思える。
人の声など悪意がなければ気にならない。
子供の声など気にかけるまでもない。
肩に乗せた竹刀袋の重み、その中身の硬さと冷たさを幻覚で感じながら、風を浴びる。
夢にまどろむというべきか。
――白昼夢を見た。
目を開く。
そこには誰かが立っていた。
人相を理解する必要は無い、ただそれの四肢があり、手には武器がある。それだけで十二分。
長さは一メートル弱、刀剣。
僕は目を開いたまま、それが振り下ろすための軌道だと確認、一瞬前に肩が動いた、それを認識し、僕は転がり横に飛ぶ。
斬。
ベンチが叩き切られた。
僕は転がり落ちた際の落とした脚で地面を踏み締め、じりっという砂を削る音を立てながら、竹刀袋をそのまま握る。
追撃迫る。
相手は振り下ろした刃、その柄を叩くような動きで横薙ぎに払ってくる、狙いは首か、首肉にめりこむだけで人は死ぬ。動脈も呼吸器もある脆い弱点部の一つ。
僕は下がるかどうか一瞬も考えずに、竹刀袋を縦に構えた。
がぎぃ、漆塗りの鉄棒である鞘が受け止める。念のため斬鉄の心得があるかと思い、受けた軌道から腕も、体も斬られぬように角度を調整している。
竹刀袋の繊維が破ける、めりぃという音すら立てぬ刀身の鋭さは敵ながら天晴れ。
弾く、二本の指で、けれども寸打のように受けた鞘ごと相手の剣を弾き、押し返す。
僅かな乱れと共に弾ける、建て直しに一瞬の遅れがあればいい。
剣術を習うには剣だけには在らず。
先生は人の殴り方も、殴られたときの痛みも教え込まれた。
袈裟切りに握った鞘で相手の顎をたたき上げる、めきり、骨を殴る音、激痛が走っただろう。
踏み込む、地面から僅か数センチ、蹴りでもいれるかのような速度で踏み出し、距離を詰めて、鞘を握る腕を曲げて、体を回す。
旋転、突撃というよりも体当たりに近い格好で肘打ち。
自身の体重は70程度、それなりに威力はあるか。
そして、そのまま流れるように追撃をしようとして――
「ねてるのー?」
「っ」
不意に掛けられた声に、目が覚めた。
僕は目を開く。
敵なんていない、ベンチも切られていない、ただ眠っていただけだった。
目の前にいるのは沢山の可能性を秘めた無邪気な子供だけだった。
「こんにちは」
ぺしぺしと膝を叩いて見上げている五歳ぐらいの少年に、微笑みかけて挨拶をする。
「ちょっとうたた寝してただけだから、起こしてくれてありがとうね」
「どういたしましてー」
にこーと少年は微笑んだ後に、わーといいながら公園の砂場の方へと走っていった。
見れば友達らしい数人の少年少女と笑いあっている。和やかな風景。
しばらく心を癒された後に、僕は空を見上げた。
「都合がよすぎた」
先ほどの白昼夢を分析。
戦力差を都合のよすぎるように計算していた。
相手の起こりを見てから躱せる程度の剣速など、鞘で防げる程度の威力なと、肘打ち程度が通じる相手などと、都合がよすぎる。
もっと容赦ないのが現実だ。
もっとえげつないのが大方待っている。
「駄目だなぁ、僕は」
ため息を吐いて、指でこつんと掛けた竹刀袋の中身を小突いた。
かちゃんと硬く重い音がする。
斬る相手などいない――いるわけがない。
抜くことも少ない――道場には通っていない。
平和な時代、戦争なんてない国で生まれ育った自分はどこまでも平和に埋もれていくのが相応しい。
ただたまには剣を修練したい。
刀を抜いてみたい。
切る相手などいなくても、巻きワラでも、空気でもいい。
ただ太刀を抜いて、頭を空っぽにして、振るうだけ。
それだけで満足出来る。
そう、それだけで。
「本当に?」
声がした。
けれど、僕は知っている。
それが幻聴だということを。
「貴方は人を斬ったことがある」
ある。
確かにある。
僕は――兄弟子を斬った。
斬りたくなんかなかったのに、彼が望んだから。
「人の味を忘れたことがあるのかしら」
ないだろう。
心に焼きついた記憶、二年も前だけど覚えている、昔食べた食べ物の味をうっすらと覚えているように。
けれど。
「貴方は人を斬るのが容易すぎる」
僕は望んでいない。
一度も。
一度もだ。
「そう」
そうだ。
「それならいい。答えはまだ遠いから」
幻聴という名の一人遊びは耳から遠ざかる。
気が付けばうっすらと汗を掻いていた。
「」
息を吐く、誰にも聞こえないほどに静かに。
僕はベンチを降りた。
そして、歩き出した。
学生寮の扉を開けて、割り当てられた部屋の前でドアに手をかける。
ガキッ、金属の抵抗。
まだルームメイトは帰っていないようだ。
僕は鍵を取り出すと、扉を開いて中に入った。
「ただいま」
誰もいないだろうけど、挨拶をする。
靴を脱いで、キッチンにまで歩くとうがいをした。コップに浄水器を通した水道水を注ぎ込み、表面張力ぎりぎりまで入れたそれでうがいをする。
ごろごろ、ぺっ。
三度ぐらいやって、その後残った水を飲んだ。ゴクリ。
寝室に行き、決めておいた場所に竹刀袋をよりかける。
かけた竹刀袋の横に置かれた木剣を手に取ると、部屋の家具にぶつからない程度にぶんっと振った。
風を切る、室内の大気が僅かに揺れる、微細に、さざめく。
木剣を手に持ったままリビングに行き、僕はゆっくりと正座をして、膝の上に木剣をおいた。
目を閉じる。
意識をしよう。
イメージトレーニングをする。
聞こえてきそうな幻覚と幻聴を振り払うように。
僕はそれからしばらくして帰ってきたルームメイトに挨拶をして、その後食事を取って、寝た。
今日もいい日だったのだと思う。
そして、今更のように思いついた。
この都市に来てから幻覚が酷くなったような気がした。