ゆっくりと時間は過ぎていく。
水曜日が過ぎて、木曜日になった。
だけど、何も起こらなかった。
俺の手の痛みは大分引いて、短崎の場合「寝返りがー! 起き上がれない、いたたたた! 長渡助けてー!」と、朝起きる時と寝る時に悲鳴を上げてくる。
家庭用の医学書で調べたのだが、肋骨にひびが入っていると寝返りと起き上がる度に痛みが走るらしい。
鎮痛剤と湿布とコルセットでの補強はしているが、少なくない痛みに大げさな声を上げていた。
災難なことだ。
とりあえず朝と夜、短崎と大体外食を一緒にして、余裕があれば貰った漢方茶を飲んでいた。
くそ苦いが、貰い物だし、内臓に染み渡るようにポカポカしてくるので効果はありそうではある。
あまりにも苦いので、飲みきれない時は短崎に無理やり飲ましているが……まああいつの方が怪我が酷いからだ。俺の思いやりだ。
「じゃ、行って来るわ」
一昨日と比べるとずっと楽になった制服の着替えも済ませて、腕全体から手首から先だけになった包帯まみれの手でカバンを背負う。
肩紐を通し、一度中を開けて教科書が入っていることを確認する。
「ういー、いってらっしゃい」
足の擦り剥けと腕の打撲はかなりよくなったはずなのだが、短崎は学校を休んでゴロゴロしていた。
大変駄目な奴である。
と言いたいが、言わない。怪我が酷いのも事実だし、奴なりの考えもあるのだろうと思ったからだ。
友人ではあるが、保護者ではない。
過剰なお節介は互いに求めていないだろう。
と、そこまで考えて、俺は登校を開始した。
玄関の扉を開けて、外に出る。
廊下を歩きながら空を見た。
「あー晴れてるなぁ」
今日も気持ちいいぐらいの晴れだった。
何も変わらない、何もおかしくない、日常の始まりだった。
三日目ともなると、既に包帯状態で授業を受けていても誰にも注目されなくなる。
寂しいようで、まあそれが当たり前だと納得しておくべきだろう。
ようやくエンピツを普通に握っても痛くなくなった。
ノートで黒板の中身を書き写し、体育はさすがに見学して、適当に授業を受け終わる。
真剣に授業を受けなければ放課後になるのなんてすぐだ。
「よし、今日はここまで」
そう告げて担任が出て行き、ホームルームが終わる。
途端にわらわらと解放された野生動物のような速度で行動を開始するのがうちのクラスの特徴であり、麻帆良学生の特徴でもあった。
もう少し落ち着け、といいたくなるような速度と共に奇声を上げて走っていくもの、落ち着いた態度でカバンに教科書を仕舞い出て行くマトモなもの、友人と喋り教室に残るもの。
観察すれば飽きないほどにパターンがバラバラだった。
最近のニュースでは個性のなくなった学生たちということで嘆かれているが、ここだとその心配はなさそうだ。
個性ありすぎてむしろ困りそうだが。
「と、そろそろ行くか」
今日も部活はサボリだ。
というか、この腕だと組み手も出来ない。
なので、そのまま真っ直ぐに帰宅すべく、校舎から出ると――携帯が鳴った。
「ん?」
マナーモードでの振動に気付いて、携帯を取り出し、両手で指に負担をかけないように開いた。
メールが一件。短崎からだった。
「あ? 今日は一緒に食えないのか」
短崎に用事が出来たらしい。
少し遅くなるが、夜には帰るとのこと。
一緒に行動したほうが安全だと思うのだが、さすがにべったりといつまでも飯を食うわけにもいかないか。
「ま、この借りで飯でも奢ってもらうか」
怪我が治るまでの奢り生活で資金がピンチになっていたので、少しでも浮かせるためのチャンスは見逃せなかった。
そう決めて、俺は空いた時間をどうするか考える。
「ん~……そろそろ顔出さないとやべえかな」
中国武術同好会に顔を出すべきだろうか。
思えば自主的なサボリで、休むことは伝えていない。
時間も空いたし、伝えるだけ伝えておくべきだろうか。
足を向ける。その先は道場のある場所。
はぁ、とため息を吐きながらも筋を通さないといけない自分に呆れる。
独り言も増えるというものだ。
どういういい訳をするべきか、まあ普通に怪我したんで行く暇もなかったというべきか。
そんなことを考えながら、適当に歩いていると――直ぐに道場の前に辿り付き。
「ん? ナガト、久しぶりアル!」
「げ」
何故かジュースが山ほど入ったビニール袋を手に持った現部長がいましたよっと。
「久しぶりって一週間も経ってないような気がするんだが、いや、丁度一週間ぶりか?」
金曜日に部活サボったから、最後に出たのは丁度木曜日だ。
そうなると丁度一週間である。
「そうアルヨー」
「そうかい、そうかい。で、何故に部長がジュース持ってるんだ? まさかいつの間にか立場が逆転したのか」
古菲が持っているジュースのペットボトルの本数はどう考えても量的に一人分ではなかった。部員全員分近くある。
「違うネ。ただ単にジャンケンで負けただけアル」
なんだ、ただのバツゲームか。
「和気藹々だな、おい」
ギスギスした雰囲気が産まれようにない性格だし、個性はあるがまあそんなに悪い奴も部員にはいないだろうから冗談のようなものだったが。
――少しだけ安心した。
ふぅっと、安堵の息を吐き出すと、古菲が不意に視線を落として俺の手を見た。
「怪我したアルか?」
「まあちょっと階段から転び落ちてな。手を少し怪我しただけだ。爪割れたぐらいだから来週には治るさ」
クラスメイトと同様の言い訳をしておいた。
そうすると古菲は少しだけ首を捻って。
「ああ。だから来なかったアルネ!」
「まあな。ていうか、さすがに爪バキバキで組み手するほど俺無謀じゃねえし。って、わけで来週までちょっと部活休むから」
んじゃ、と手を振って立ち去ろうとしたのだが。
「待つアルー!」
後ろ襟首を掴まれました。グエッと声が漏れた。
踏み出そうとした足がピーンと伸びて、一瞬息が止まる。
「げほっ!! な、なんだよ!」
「折角だから、見学だけでもしたらどうアルカ!」
「見学って、俺もうここに所属してるんだけど」
意味なくね? と、思うのだが、強引な古菲の力には逆らえずに。
結局、学生服のまま道場に入る羽目になりました。
「あ、長渡じゃん」
「おひさー」
と、顔見知りの連中は何名か挨拶してくれたのだが、他は軽くこちらを見て組み手に戻っていた。
まあこんなものである。
人間全員仲良しなんて幻想だった。
いや、後ろのぶら下がっている部長は例外だろうが。
「ええい、離せ!」
「おっと、了解アル」
制服の裾が傷む前に古菲は手を離した。
そして、俺が逃げないと判断したのか、そのままテコテコと歩いていって持っていたジュースを配っている。
そんな彼女の様子を見ながら俺は制服を整えて、息を吐いた。
「よーす」
「あ、手どうしたんだ? 怪我か」
「階段でとちってな。今週は部活無理っぽい」
と、適当に会話をこなすと、俺はカバンを持って道場の隅に置いた。
そして、しばらく見ないうちにだが、何名か見たことの無い顔がいる。
新入部員だろうか?
「何人か、新入部員が入ったんだな」
春である。
そう考えればおかしくないな。
と、見ている間に新入りらしき部員の一人が、古菲に挑み出した。
まだ若い、多分中学生らしき少年。それなりに鍛えているらしくがっしりとした体格、顔つきは幼いが動きは武道の流れを感じる。
「うぉ、無謀」
実力を知らないのだろうか。
いや、まあ若いうちに理不尽に遭うのはいい事なのだろうか。
互いに礼をして、古菲が構える、少年が構える。
周りの連中は同情の目を向けたり、或いは応援したり、或いは早々と湿布の用意を始めていた。
俺が組み手するときも同じようなことをしていたのだろうか。
「行きます!」
景気のいい発声。
同時にその唇が震えるほどに声が出た。
発声法か、気合を入れての動き。素人じゃない。
迫る、空手にも似た真っ直ぐな動作。愚直にも似た綺麗な少年の動きに、古菲は構える。
構えて、少しだけ笑った。
「いい動きアル」
笑み。
それと同時に少年が深く大地を踏み込むような動作、震脚、さらに空手の動きを交えた正拳を打ち出していた。
空手ベースで、中国武術を学び始めているのか。
悪くない、悪くないが――奴の恐ろしさを少年は知らなかった。
打ち出される拳、大体同じか、それ以下の身長を持つ少女。
その顔面に向かった手加減無しの正拳、だが、それはさっと伸ばされた古菲の左手で払われ、巻き込まれて、彼女の頬に触れることすらなく空を切る。
纏の化剄、螺旋を描く彼女の左手に巻き込まれて、受け流されていた。
少年の顔を見た。
何故こうも簡単に逸らされたのか、理解が遅れている。
判断が遅い、古菲は懐だ。
既に彼女の手の平はその胸板に触れている。早く後ろに跳べ、或いは腕を逸らせ――じゃないと。
「がっ!」
――吹き飛ぶぞ。
少年が軽く宙に浮いた。
トンッと古菲が踵で床を踏んだ、その次の瞬間の光景だった。
腰の回転、肩の捻り、腕の螺旋。
人体動作の全てを使って生み出される勁の威力は体重の差を凌駕して、馬鹿げた威力を発揮する。
数メートルは吹き飛び、まるで風船のように少年が吹き飛んだのを事前に分かっていたのだろう部員の一人が受け止める。
「大丈夫アルか?」
手加減はしたのだろう。
ゴホゴホと息を吐いている少年が、驚愕と尊敬の目で頷きながら古菲の言葉に返事を返した。
古菲は彼が無事だと分かると、ニッコリと頷く。
少年の息が少し止まった。
嗚呼、またなったか。吊り橋効果とは恐ろしい、恐怖による心臓の鼓動をときめきと勘違いする。
そうじゃなくても、古菲自身は飛びっきりの美少女の一人だ。愛やら恋までは行かないだろうが、ドキマギするのは仕方ないだろう。
ズルズルと少年の身体を引きずって、道場の隅に運ぶ顔見知りの部員と目があった。
――目を冷ましてやれ。
ペシッ軽く俺は手を横に振る。叩くように。
――了解。
ため息を吐きながら、奴は指を軽く立てて頷いた。
その後姿を見ながら、俺は他の連中の目を理解しながら口を開いた。
「古菲、もう少し手加減してやれ」
「ぬー、難しいアル」
今の一撃で大体の新入部員の運命が決まる。
その強さに憧れて続けるか、それとも恐れをなして辞めるかだ。
古菲はどこまでも高く、昇り切れそうにない絶壁そのものだった。
大学生の先輩でも彼女に勝てるものはいない。
決して届かない強さを持つものに憧れて身体を鍛え続ける馬鹿もいれば、超える事は不可能だと判断して別の部活に入る賢い奴もいる。
今残る部員はほぼ前者であり、後者は先ほどの光景を見て顔を青ざめさせている新入部員のどれかになるだろう。
そして、俺は――どっちでもなかった。
組み手を続ける古菲の姿を見ながら、指を振り、腕を震わせて、息を吐き出す。
想像するのは対処方法。
幻想するのは勝つ方法。
古菲に挑む奴の動きを追順しながら、その動きのミスを理解し、古菲の動作に合わせる動きを想像している。
イメージトレーニングだった。
そして、それを続けながら、俺はたまに立ち上がり。
「おい、藤沢。動きがおかしいぞ」
「へ?」
「重心が少しずれてるぞ。もう少し足をゆっくり踏み出して、踵から着地しろ」
後輩の動きに指導などをしていた。
手が動かなくても教えることぐらいは出来る。
新入部員の連中には見覚えのないだろう自分に少し怪訝な顔と警戒をされたが、俺は素直に気が付いた部分を指摘し、正しい動きを教えた。
まず一番大事なのは歩法だった。
空手には運足、俺の知っているものだと一歩歩く毎に半円を描きながら、踏み出す、足首、膝、腰の三つの部分を連動させた三合の教えがある。
そして、中国武術における歩法なのだが。
とりあえずポピュラーな少林寺拳法の歩法を教えておいた。
出足、八種。
引き足、八種。
横足、六種。
転回足、四種。
その二十八種類の踏み出し方、運歩法を教える。
武道とは結局のところ突き詰めると、肉体の運用方法でしかない。
少林寺拳法ならばほぼこの歩法の動作に連動して繰り出す型であり、全ては応用と発展技だ。
人は歩かなければ決して前に進めない。
這いずり進むこともあるだろうが、赤子のうちに手と足を動かし、幼児になって立ち上がり、両手を利かせるようになった。
基本を覚えなければ決して進めない。
歩き方を覚えなければ進めないように。
「ほれ、次は逆転足だ! もっと重心を意識して、振り返れ!」
『はい!』
最初は軽く教えるつもりだったが、いつの間にか力が入っていた。
脚の歩き方を教わるだけだった新入部員は最初こそつまらない顔を浮かべていたが、少しずつ体が動かせるようになっていくと、次第に熱を入れていた。
歩くということは誰もが行える行為だ。
脚が動かない、足がない、走れない、歩けない。
そんな例外もいるけれど、大抵は出来る常識的な行為。
だけど、人は本当に正しい歩き方をしているのだろうか。
本能に従うままに、間違っても正しいわけでもない歩き方をしているだけだ。
もっと磨けば、もっと突き詰めれば、もっと無駄を無くせば、ただ歩くだけで人は進める。
より速く、より軽やかに、よりスムーズに、より無駄のなく、より綺麗に歩けるのだ。
何度か新入部員の誰かが歩法を間違えるたびに、俺は自己復習するようにその歩法を実践した。
足裏で呼吸するように、とは空手の教えだったか。
力の流れと、息吹と逆らわないようにとは拳法の教えだっただろうか。
ただ楽しかった。
しばらく身体を動かしていなかったためか、俺は熱心に歩き方を教えて、それを部員たちが身に付けていくのが嬉しかった。
まだ若輩の身だったが、教えることは尊いと思えた。
師匠もこんな気分だったんだろうか。
そう、思えた。
そして。
いつしか部活の終了時間になっていた。
部活の終わり。
まだ居残る部員とさっさと着替えて帰り支度をする連中に、医療品を片付ける部員もいれば、バックから取り出したタオルなどを首にかけて共同浴場に向かう奴らなどなど身一つで活動するだけの部活の片付けは簡単だ。
「少し疲れた」
結局歩法だけじゃなく、何個か型を教える羽目になった俺は学生服にも関わらず汗を掻いていた。
うっすらと汗ばんだシャツが、動きを止めた後だと気持ち悪いし、暑い。
息を吐き出し、さっさと帰るかとカバンを拾いに行こうとした時だった。
「お疲れーアル!」
バシンと背中が叩かれた。
「どわっ!?」
思わず悲鳴が出る。
「なにすんだ!?」
「あ、すまんアル!」
振り返ると、そこにはしゅんとした顔の古菲がいた。
その手には一本のジュース。
「ん? なんだ、それ」
「上げるアル、本数間違えたから買い過ぎたアル」
「あまりか」
それを受け取る。
すでにぬるくなっているのが分かったが、喉は乾いていた。
ありがたく貰っておこう。
「いいのか、タダで?」
「部員指導の礼だから、気にしなくていいアルネ」
部員指導の礼も糞も先輩部員だから当たり前のことだが、まあ好意は受け取っておこう。
好きじゃない奴だが、親切に一々拒絶するほど俺は阿呆じゃなかった。
「サンキュ」
「礼は言いアルヨ。とりあえずさっさと手を治して、相手するアル」
「……礼を言って損した気分だ」
吹っ飛ばされるのが目に見えているのだが、まあいい。
二年以上経っても治らない似非臭い日本語を告げる彼女の真意は未だによく分からなかった。
俺の言葉に小首を傾げる古菲を見ながら、俺はジュースの蓋を開けて。
「うめえなぁ」
喉を通るジュースの味に、軽く息を吐き出した。
嗚呼。
武術は好きだと思える。
今のこの瞬間にも続けられることに俺は少しだけ安堵の息を吐き出した。