怒りを力に変える。
こんな経験は人生には多くないと思う。
少なくともキレっぽい人間やカルシウムが足りてない人間、感情の抑制が取れていない故の突発的な発露を覚える人種。
そうでない人間ではそれほど多くは無い。
怒りを覚えないわけではないだろうが、それを本当に力を変える機会なんてあまりないのじゃないだろうか?
なければ無いほうが良いに決まっている機会。
それは僕の人生では二度目の経験。
ただ目の前の少女――の形をした人形を叩き斬る。そうだと決めた瞬間に、僕は燃えるような痛みと焦がれるような快感にも似た感情を覚えた。
アドレナリンの分泌、ランナーズハイにも似た恍惚、怒りによる興奮による脳内麻薬に僕は満たされていく。
「ふっ」
足を踏み込む。足袋を履き、包帯を巻き、ここに来るまで走り抜いた足首は熱く、充足していた。
心地よいほどの疲労。身体のアップは済ませている、四肢は温まり、筋肉は動く。
硬いアスファルトの感触を踏み締めながら、動作イメージを浮かび上がらせる。
太刀の鞘に左手を被せて右手は柄に添えたままの疾走。
真っ直ぐに呼吸をし、風を呑み込みながら駆けて――
「学園都市データベースに照合、検索処理完了。対象、長渡 光世の同室者」
声が風に流れてくる。
けれど、構わずに走りながら、距離を詰める、詰める。
「――短崎 翔。無所属の一般人だと判定します」
距離は五メートルを切る。
一刀一速の間合い、リアクションをしてくるか、それとも――
「第二級対応の許可が降りました。許してください、貴方を痛めつけます」
どこか悲しげに告げられた声。
それと同時に大気が揺れた。
「っ!?」
霞むような速度、視認するのも難しい豪速で迫ってきたそれに僕は鞘を払った。
抜刀。
あまり得意ではない居合い、太刀は居合い抜きには向いていない、それでも反応が間に合う。
硬い金属音と重い何かが激突する音が響く、手が痺れる、痛みを覚える。
「っ」
弾かれた。
確かに刃筋を立てたはずなのに、人形の打ち放った打撃、それを斬り裂くことも出来なかった。
「反応――体温の上昇を確認。アドレナリンの分泌による反応上昇と診断」
アドレナリンの分泌、興奮状態が故に僅かに緩慢に現実が見える、速度が上がる。
構えを取り直す暇もなく、足場を踏み変えて、腰を回す。
一閃。
逆袈裟に繰り上げる、顔か首を狙う薙ぎ払い、一刀一断のつもり。
だがしかし、それを少女は僅かに地面を蹴り、体勢を落として。
「予測範囲」
躱す。
僅かに届きそうな距離、剣先に返ってくるのは大気を切る手ごたえ。
空ぶる、まずい。
「痛いですよ」
駆動音、人形の肩の制服部位が僅かに揺らいだのを見た。
僕はすぐさまに足首が悲鳴を上げるのにも関わらず身体を倒して――打ち出された暴力の塊にぶっ飛んだ。
響いたのは炸裂音と爆音。
それが人形の腕部、その内部で炸裂した火薬による反動ということにその時の僕は気付く余裕なんてなかった。
二の腕を掠める圧倒的な質量にジャケットの繊維が捻られて、一瞬で引き千切られて、僕は倒そうとした体勢ごと回る。
中に棒を通され、固定されていたい縦看板が側面を叩かれて回転するように、僕の身体が回転した。
一瞬にして世界が廻り、吹き飛びながら、アスファルトに叩きつけられる。
「がっ!!」
痛い。だけど、それほど感じない。熱いだけで、千切れたジャケットの裾から見える素肌や、硬いアスファルトに削られた膝や、手の指の皮膚が裂けて血が流れていることに気付くが。
「かっ!」
僕はすぐさまに太刀を握り締めて――追撃に迫ろうとした人形の顔面に剥ぎ払う。
体勢の崩れた足裏で地面を蹴り、跳ね起きる動作をも混ぜたがむしゃらの斬撃。
それを人形は予測していたかのように顔を下げて躱すと、数歩後ろに飛びのいた。
「はぁっ」
息吹を吐き出しながら、僕は立ち上がる。
爪先からアスファルトを掴み、膝から上に打ち出し、起き上がるための蹴り足で飛び出す。
体勢は低く、獣のような疾走。
低く口笛を吹くように吸った息を細く吹き出しながら、引きずるように構える太刀を意識する。
――相手は硬い。
材質は知らない。金属なのか、それとも合成繊維か何かなのかも分からない。
人形の全身、それがぼんやりと発光しているような気がした。蛍光塗料か、それとも内部で蓄えた電力及び何らかのエネルギーの発露なのか。それは分からない。
だけど、確信。
それは鉄と同じぐらいに硬いと、普通には斬れないと考える。
――刀。
その切れ味は多少心得のある人間ならばその一刀を代償に、普通の軽自動車のフロンドドアを両断出来るほどの鋭さ。刃筋さえ合えば拳銃の弾さえも両断する尋常ならざる得物。
人間を殺すには不必要なほどまでに鋭い凶器。
僕がその手に持ったそれは名刀、魔剣、秘剣なんてものじゃない。
ただの無銘。それなりの業物だとは思っているが、ただ刃筋を合わせるだけで鋼鉄を両断出来るほどの代物じゃない。
技巧が必要だ。
如何なる角度にも正確無比に刃筋を向ける理が。
どれほど体勢が悪くとも、全体重を、動作に合わせて加速し増幅した重みを刀身に乗せる理が。
瞬時に合わせた刃筋から旋廻に合わせて引き切る理が。
鉄斬る技法、断ち切る技を。
束ねて、集いて、繰り出す必要がある。
「ォォオォォオ!!」
息吹を発す、苛烈に己を奮い立たせる意味がある。
来る。
少女が反応し――こちらに手を向けた。手にも持たない手を、
「らぁっ!」
タイ捨流、それの特異にして基本は袈裟切りに拘ること。
斜めに相手を断ち切る。縦でもなく、横でもなく、ただ斜め。
ただ横に避けるだけでは、縦に動くだけでは避けられない。二線を両断する角度の斬撃。
相手が構えに反応し、僕はただ真っ直ぐに刃を撃ち出した。
金属音。
視認なんてレベルじゃない、見えた瞬間には手遅れ、だけどカンと予測に従い繰り出した袈裟上がりの一刀が火花を散らした。
打ち出された人形の腕部、その手を弾いて逸らしたのだと数秒後に気づいた。
「!?」
「っ!!」
腕がへし折れるかと思ったが、まだ動く。
だけど、太刀の刀身は僅かにたわみ、歪んだだけで顕在。刃は刃こぼれ、研いでも直らなくほど深く欠けたがまだ使える。
指の中指がゴキリと異様な音を立てて、熱い。だが付き指か、脱臼程度。まだやれる、指が痺れる前に斬ればいい。
踏み出す、何度でも。
裾の間で足首を隠し、指先で器用に低空を這うように飛ばす、すり足。だけど、足裏が痛い。草履でも買っておくべきだったかな、とどこかボケて考えた。
「らっ!!」
距離が詰まる。
一刀一速の距離、そこを越えた。
相手の片腕はまだ戻っていない、回避動作をするか、こちらを殴るか。
それとも――
「回避――不可。防御を選択」
振り翳す僕の一刀。
それに対して合金製か、それとも防刃繊維か、いずれにしても頑強な左腕を突き出して受け止める算段。
だが、甘い。
舐めるな、太刀を持てば――
「鉄斬る!」
歯を噛み締める、強く、強く歯の間から息を吹き出し。
肩の筋肉が悲鳴を上げる。
脚の指先で大地を踏み締めて、膝を落とし、腰を廻し、肩を回し、腕をしならせて、指は踊るように柄を振り放つ。
直撃。
会心の一刀、刃筋を立てた刃が人形の手首に斬り込み。
「 」
声にならない声を発して僕は理を紡ぎ上げた。
手首を返し、肘を跳ね上げるように動かし、円を描くように力を乗せて――引き切る。
人形は知らないのか。
戦国時代、人を斬り続けて、人の油と血に塗れた太刀が切れ味を失いながらもどうやって人を斬ったのか。
それは撲殺。金属の刃、鋼鉄の塊、重い人を殴り殺すには事足りる凶器。
それをもっとも体現したのは西洋剣。
かの剣には求められたのは硬さであり、重さ。切れ味は求めない、撲殺すればいいから、叩き切ればいいから。
ならば、和刀は? 切れ味だけを求めた刃は何をもって断ち切り方を求めたのか。
それは摩擦。
摩擦こそ刃物が最大の斬り方であり、原初の断ち切り方。
しなやかな刀身と軽やかな鋭さは摩擦を持って万物を両断する。
故に血の代わりに機械油を、肉の代わりに内部部品を、骨の代わりに合金のフレームを、皮膚の代わりに合成繊維を、撒き散らして腕落ちる。
「は」
斬った。
その確信が込み上げて――次の瞬間、腹から響く激痛に血反吐を吐き散らした。
「――がっ!?」
蹴りが食い込んでいた。
脇腹が砕ける、それほどの一撃。腕を斬られてもなお表情を変えない人形の脚がめり込んで、僕を吹き飛ばした。
ドンッという音が聞こえた。
飛ばされながらも、僕は踏ん張り、ザリザリと足裏が真っ赤に染まっているだろう自信を持ちながらも前を見た。
そこには左手首から紫電を発しながらも、戻ってきた右手を構えて、無表情に立ち尽くす人形の姿。
相互距離にして五メートル。また離された。
殴り合いよりはマシかもしれないが、一撃一撃の重さが違いすぎる。理不尽だ。
「っ……いたぃ」
脇腹から鈍痛どころか灼熱を感じた。
どんなスーパーテクロノジーで出来ているのか、プロボクサーに殴られてもこうはならないんじゃないかと思えるほどに痛くて、胃酸が喉に込み上げてくる。
それでも僕は前を見る。
前を見ながら――気付いた。
――助けるか?
そこには少女の手を借りて立ち上がった長渡の顔があって。
――必要ないよ。
僕は薄く笑みを浮かべようとして、表情筋を動かした。
必要ない。
これは彼の仇討ちであり、僕の私怨でしかない。
それを本人から手助けしてもらっては意味が無い。
泣きたいほどに助けてもらいたいのが本音だが、男としての意地があったので言わない。絶対に言わない。
そう。
「……これ以上続けますか?」
もはや勝つ方法がほぼなくなっていても。
冷たい言葉を発せられなくても、僕は己の勝機をほぼ失ったことを理解していた。
先ほどの一刀、それによる鉄斬りは反動が大きすぎた。
人間ならば手首を断てばよほどの化け物でもない限り、戦意を失うか、処置の遅れ次第で出血多量により死ぬ。
だが人形――ロボットにはそれがない、首を断つか、頭部を破壊するのか、それとも粉々にでもしない限り動き続けるターミネーターか。分からない。
さらに、ちらりと太刀を見るが、凄まじいの一言。
掛けていた刃はノコギリで無理やり引ききったかのようにボロボロにそのひび割れを酷くして、柄は目釘が折れたのかぐらぐらと安定していない。思いっきり振り回せば、どこかに刀身が吹っ飛んでいってもおかしくない状態。
後は後ろ越しの鎧通しぐらいしか武器は無いのだが……出来るか?
無理だろうと思う。しかし。
「続けるよ。そして、君を斬る」
決意は変わらない。
止まる理由などなかった。
「そうですか」
どこか悲しげに――それが苛立つ。
脇腹の痛みを、浅く繰り返す息で誤魔化し、額から零れる汗による目の痛みを無視して見開く。
太刀を後ろ手に突き出し流す、身体で隠した刀身、タイ捨流の逆八相の構え。捨て身の構え。
「来いよ。今度は首を断つ」
出来るかどうかは不明だが、今の一瞬だけは道理を忘れた。
やれるかじゃない、やるのだ。
「では、私は貴方の意識と意思を断ちます」
ペコリと一礼をして――人形が目を見開く。
その瞳に光が宿っていると気付いた瞬間、僕は悲鳴を上げて飛び避けた。
圧倒的な放熱が傍を貫いたからだ。
「嘘だろ?」
ジュッと後方の地面が焼かれた音がして、今脇腹の横を通り抜けた光の存在に全身の毛穴が開いて、汗を吹き出す。
ビーム。或いはレーザー。
ありない。現代でもレーザーメスとかあるけど射出は無理であり、米国で開発研究しているということは聞いたことがあるが、それが実現してこんな学園都市の片隅で搭載されているなんて聞いてない。というかありえない。
異星人でもこの都市にいるのではないか。そうとすら思える。
「っ!」
だから、躱した次の瞬間、僕は駆け出していた。
次のビームは躱す自信なんてなかったから。
「ぅうううう!」
息を吐き出す。
どこまでも吐き出し、歯を噛み締めながら、今度は横薙ぎに天へと繰り出す一太刀。
だが、それが。
「データ集積及び解析結果、修正完了」
さり気になくさし伸ばされた人形の手、その指にはっきりと掴み取られた。
「なっ!?」
「――気の反応はなし、魔力反応無し、魔法具でもアーティファクトでもありません。故に」
破壊は簡単です。
そう告げると同時に太刀が握り潰された。半ばから砕け散る。
僕の太刀、だが湧き上がる怒りよりも早く引き抜いて。
「っぉ!」
顔面へと繰り出された斬撃。
それもスウェーで避けられる、軌道が見切られていた。
手首を返して、その顔面に拳打を叩き込むよりも早――顎に衝撃。
歯が噛み合う、無理やり、首が悲鳴を上げて捻り上げられる。
「ぶっ!」
殴られた、アッパーでと気付いたのは一瞬後。
身体が倒れるよりも早く、さらに腹部に衝撃。
――内臓が破裂したかと錯覚。
衝撃音が響く、身体の中と地面で。
人形が震脚から流れるように繰り出した寸打。それが僕の身体に叩き込んでいたからだ、と知ったのは後からだ。
ただ今の僕は声すら出ない、吹き飛び、崩れ落ちる。
けれど、許されない。その襟首が掴まれて――衝撃が走った。
「 !!」
全身に激痛ですらないただの衝撃が走る。
声が出ない、出すことも許されない。
脳の中身が茹で上げられるかのような痛みにも似た何か、アドレナリンの興奮など消し飛ぶ衝撃。
それが何秒経った? 何分過ぎた? わからない、分からない間に……終わった。
「電圧は市販のスタンガン程度です。お眠りください」
僕の瞳を見つめる人形の瞳は感情が無い、何も見えない、ただ憐れむように声を出すだけだ。
手が動かない。
脚が動かない。
襟首を捕まれたまま、息が苦しくて、全身が悲鳴を上げていて。
ただ諦めそうになって――
「ァアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
「っ!?」
遠く遠く張り上げられる咆哮に、人形が顔だけを後ろに向けた。
そこには何かを振り回している長渡の姿があって。
「っ、なにを!」
人形が僕の襟首から手を離した瞬間――手が少しだけ動いた。
ジャケットの中、腰の後ろ、その帯に佩いた得物を指に引っ掛けて。
「ま、てよ」
声を少しだけ出し。
「まだ?」
動けたのか。
そんな目で見る人形に、微笑みながら――払った鞘を地面に落とした。
全身の筋肉が痺れて動かない。
なのに、何故それほどまでに早く出来たのか、ただの意地の一念だったのか。
鎧通しの刺突、それは人形の肩関節に突き刺さり――
「終われ」
その装甲を貫いて、刃を突き立てた。
深々と。
殺すように。