夜闇を駆ける。
走れ、走れ、走れ。
――あの日のように。
疾る、疾る、疾る。
――あの夜のように。
裾が風を孕む。空気を飲み込み、ばさばさと音を鳴り響かせた。
歩くのが重い、だがしかし構わない。
ジャケットが翻る、カチャカチャと金属音がする。
けれど、構わない。殺意を高めるために。
「?」
夜闇に見えた。
気配――無機質な風。
それはざざざという音と共に茂みを渡って飛び出し――斬った。
「邪魔するな」
それが人間じゃない。
紙切れのようなものだと気付いて、無造作に太刀を振り抜いていた。
いつ手首を返したのも覚えていない、足首を曲げ、膝を落とし、蹴り足で地面を打ち抜いたのすらも意識していない。
ただ斬った。
どこまでも集中していた。過敏なほどに。
「――まるで辻斬りだ」
真っ二つに両断した白い紙切れ、どこからか飛ばされてきたプリント用紙だろうか。ゴミまで斬るなんてどうにかしてる。
それが風に流されるのを見届けて、僕は走り出す。
音が聞える。
光が見える方角へ、方角へ。
後悔しないために疾走する。
午後七時。
僕は寮に帰り、支度をしていた。
シャワーを浴びて、身支度。
下着を身に付ける。清潔なそれは着心地がよく、違和感が薄い。
新品ではいけない、だが着古したものでもだめだ。新品では身体が動きにくい、着古すと伸びて激しく動くと邪魔になる。
包帯を取り出し、足の土踏まずの部分から一周、二周と巻きつけて固定。柔らかくクッションになるように身に付ける。
シャツの下の腹にはサラシを何重にも巻く、せめてもの防備。
タンスを開けて、中に納めておいた袴と袖なしの羽織と帯と足袋を取り出し、順番に身に付ける。
足袋を履く、久々の感触、親指が床を踏み締める感触。アスファルトは硬い、皮膚が破けないように包帯で固定しておいて正解だった。
長距離を走れば足がいかれる、だけど問題はない。
袴を身につけ、帯を巻き、僕は古着屋で買い求めた裾の長いジャケットを羽織った。
これからすることは人目を避けなければいけない。
持っているものを隠すための衣服であり、戦うための装備。
何故こんなものが必要なのか、意味がないんじゃないかと理性は囁く。
だけど。
――おそらくお前に必要なものだ。
鞘をくれたあの人が。
――立ちはだかる全てを斬り捨てて、友を助けにいきな。
タマオカさんの言葉が耳に残り。
「……僕は何度でも繰り返す」
護りたいものを、貫ければいけないものがあるのならば。
何度でも何度でも太刀を抜こう。
――“ヒト”だって殺してやる。
研ぎ直した太刀と渡された鎧通しを床に置き、僕は正座する。
呼吸する。
息吹を整える。
自律神経の興奮を抑え込み、体調を整える。水は飲んだ。塩は舐めた。汗を掻こうとも問題は無い。
時間が流れる。
チクタクと普段は気にも留めない時計の音がひどくうるさくて、それがいい暇潰しになる。
整える、整える。
息を吸う、吸う。
自分を研ぎ澄ます、どこまでも。
――パチン。
そして、停電が訪れた。
何も見えない、だが目は閉じていた。夜闇にはすぐに適応する。
「行こう」
太刀を帯の左側に、鎧通しを隠すために右後ろ越しに佩いた。
鍵だけを持ち、部屋を出る。
廊下から顔を出し、誰もが外出禁止の約束を守って大人しくしていることを確認し、僕は扉を出て、鍵を閉めた。
手早く駆け下り、鍵はポストに入れる。
これで邪魔なものはいっさい無い、僕は夜の闇に走り出した。
行き先も分からぬままに疾走した。
夜は好きじゃない。
過去を思い出す。
冷たい空気は好きだ。
刃物のように。
疾る、疾る、走る。
「 」
荒く体温が上がったせいか、息が白く見えた。
いや、違う?
「なんだ?」
空気が妙に冷たかった。
学園のプール近く、その傍を走っていたときに気付いた気温の変化。
幸運――汗を掻いていた事。
事実――そうでなければ風を強く察知出来なかった。
「北風ってわけじゃないよね?」
空を見上げて――違和感。
何か見えたような気がした。明るかったような気がしたのだ。
「?」
光は無い。
……電気は付いていないのだから。
病院か? 入院患者や手術中の患者のための予備電源はあるはず。
それの光? 違うだろう。何故空に見えるのだ。
「……」
いや、どうでもいい。
とりあえずさっさと次の場所を探そう。
早くここから立ち去らないといけないんだ。
足を踏み出し、身体を翻そうとして、カシャンと鎧通しと太刀が金属音を響かせた。
「まて」
気付く。理解する。踏み止まる。
意味が分からない。
手掛かりは無い。
適当にぶらつけば気付ける、そんな曖昧な情報の中で何故ここを避ける理由がある?
鞘を左手で握り締める、柄に右手を添える。
「はぁ」
呼吸をする。呼吸をする。
本能はどこかにいけと叫んでいる。
だけど、断る。
理性で考えろ。人の本質に本能が張り巡らせているが、理性で誤魔化し、取り繕うことは出来る。
「進め」
言葉で命令。
足を踏み出し、前に駆け出した。
一歩、二歩、五歩、十歩。
走り抜ける、アスファルトの冷たくも硬い感触に足裏が少し痛むけれど、それが進んでいる証明だと思えた。
走りながら感じる。
「?」
音が聞こえた。花火のような音、空耳のような風の唸り声。
見上げれば、麻帆良と外を繋ぐ大橋、その方面から花火のような光が見えた。
気になる。
「行ってみるか」
走り出す方角とはそれほどずれていない。
悲鳴を上げそうな身体に鞭打って、僕は再び走り出した。
夜闇の真っ黒な暗闇に飛び込むように。
どれぐらい走っていたのだろうか。
十数分ぐらいだろうか。
ようやく大橋の麓に辿り付く頃には僕の目は信じられないものを目撃していた。
空に舞う三人の男女。
そして、打ち出されるのは光であり、風であり、闇であり、氷。
映画の特撮でしか見たことが無いような光景。
花火のような爆音に、僕は半信半疑になりながらも自分の頬を抓り、ただ駆け出していた。
何が起こっているのだろうか。
いつから世界はこんなにも不条理になったのだろうか。
吐き気がする。
違和感。信じていた世界の瓦解する光景。
“悪夢は終わったと信じていた”。
例え信じられないものがこの世界の裏側にあるとしても、僕はもう一生関わらないのだと。どこまでも深い深い汚泥の其処に沈んでいるのだと思っていた。
なのに。
「あ」
その大橋の奥で、みおぼえのあるかおがみえた。
「――ハハ」
思わず安堵の息を吐き、同時に狂ったように自分の口元が歪むのが分かる。
それは怒りだ。
それは激怒だ。
「ァアアアアア!!!」
泣いていた。
心の底からの悲嘆が彼を襲っていた。
そして、彼が叫びながら空から落ちてきた誰かと拳を交える。
目にも止まらない速度で女子制服を纏った少女――しかし、違和感。風が長渡の顔を打ち抜く、そして掴んで、バチッと紫電を迸らせた。
スタンガンか?
だとしても、それでも長渡が何かしたのか、彼女は吹っ飛ばされるも無傷。
両手を血に染めて、今まで見たことが無い怒りの顔を浮かべていた。
その後ろには一人の少女。誰だろう? 知らない。だけど、どうでもいい。
ただ、辿り付いた。
足を止める、息を吐く、彼女たちがこちらに目を向ける。
「……事態はよく分からないけど」
何が起こっているのかは分からない。
だけど、分かることがある。
「……とりあえず、敵が誰かは分かるね」
長渡を戦っていた彼女は敵だ。
緑色の髪、耳には機械のパーツ、人間では無いと直感。
いつの間に、文明科学は進んでいたんだろうか。SFみたいなアンドロイドに驚く心はあったけれど。
「……斬るよ。親友の敵だからね」
関係ない。
もはや関係ない。
縦横無尽に切り刻むだけだ。
「人間じゃないから殺してもいいね」
僕は笑いながら、太刀を左手で支えて、足を踏み出した。
長渡の背後の少女が、狂人を見るような目で見ていたが構わない。
僕は多分怒り狂ってるから。