今回、生徒の一人と魔法先生を襲った罰として、エヴァンジェリンには一週間の謹慎処分が命じられた。とはいっても、学校に通うことだけは禁止しないので、事実上お咎めなしとでも言っていい。それ以前の事件については、証拠が不十分ということもあり、過去の事件との関連は不問とされた結果とも言える─勿論、表向きの理由だ─。
当然、他の魔法先生や生徒からの苦情はあったものの、学園長自らがこの件を収めたということで、一応の終わりは見えた。
だがそれよりも問題だったのは、禍々しさを増したエヴァンジェリンその人であろう。常から誇りある悪として生きてきた彼女であったが、今の彼女はそんなかつての姿とは少々毛色が違っていた。
恐ろしいのだ。封印により最弱にまで貶められ、あるいは魔法生徒にすら容易に敗北しかねない彼女の纏う雰囲気が恐ろしい。
「わからないよ。貴様達には」
そう言い残して自宅に戻ったエヴァンジェリンに何かを言おうとするものは存在しなかった。恐ろしかったからだ、単純に。
その翌日、ネギ・スプリングフィールドの受け持つ3-Aは、いつも通りでありながら、どこか緊張感のある空気が漂っていた。
原因は、エヴァンジェリンだ。無表情であるのは変わりないというのに、その身体に張り付くような気配が、昨日までのとは違う。能天気といわれるネギのクラスの女子達ですら、その異様に感づいていたのだろう。
ネギはといえば、そんなエヴァンジェリンが怖くてたまらなかった。先日、訳もわからずに意識を失い、明日菜に背負われて帰路についた。そして眠りにつき、ここに来るまでの間、嫌な考えが止まらないのだ。
また、襲われるのではないか。次こそは血を全て吸い尽くされてしまうのではないか。そっと首筋に手を当てて怯えると、教室の隅でエヴァンジェリンが笑ったような気がした。
教師だなんだといわれようが、結局、ネギは十歳の少年でしかない。身を襲った恐怖を我慢して、こうして授業を行うために教室まで来ただけ大した胆力である。
だが、そこまでだ。
「怖いのかい? ぼーや」
エヴァンジェリンは笑った。ただ一人の化け物は、今は少女の身にも限らず笑った。
昼休み。明日菜と共に、茶々丸を連れていないエヴァンジェリンの元へ、昨夜のことを聞くために来たのだ。
明日菜もここに来て、ようやく昨夜の異常事態を把握した。
空気が違う。二年間も同じクラスメートであったはずの少女が、今はまるで別の生き物にすら見える。
「……茶々丸さんは、今日は?」
まずは、今日来なかった彼女についてネギは質問していた。
その質問に、エヴァンジェリンは驚いた様子を見せると、続いて面白そうに笑みを浮かべた。
「何を笑ってるのよ!」
人を嘲笑うような態度に、明日菜が食って掛かる。だがエヴァンジェリンはそんな明日菜の怒声を気に留めることなく、暫く肩を揺すると「貴様、まさか……知らないのか?」そう、見下しきった眼差しでネギを見つめた。
「え?」
質問に質問を返されてネギは言葉に詰まる。というか、自分が何を知っているというのだろうか。まるでわからないといった態度に「過保護か……つまらん」とエヴァンジェリンはため息を吐き出した。
「安心しろ。機能の一件で少々やられただけで、すぐにでも回復する」
「やられたって……茶々丸さん、何かあったのですか!?」
不安げに眉をひそめるネギ。昨日襲われたばかりの相手のことだというのに心配する姿は、お人好しが過ぎて、エヴァンジェリンには僅かに不愉快だ。舌打ちを一つして背中を向け、その場を後にしようとする。
「待ってください! もう! もう生徒達に手を出すのは止めてください!」
そんな背中にネギは勇気を振り絞って声を掛けた。両手で杖を握り締め、臆しながらもエヴァンジェリンを止めようと叫ぶ。
その姿だけは、好感が持てた。
「安心しろ。私も暫くは動くつもりはない、が……気をつけておけよ? 学園長やタカミチに手助けを願ってみろ。次は誰かが干からびているかもなぁ」
最後の台詞ははったりである。昨夜、釘を刺されたばかりであるため、エヴァンジェリンの動きは完全にばれているといってもいい。
だが、まだ切り札は一つだけ残っている。
「精々用心はしておけ。私は悪い魔法使いなんだからなぁ」
それ以上話すことはない。エヴァンジェリンは尊大に笑って見せると、今度こそ立ち止まることなくその場を後にした。
─
エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。闇の福音と恐れられている、十五年前まで悪名を轟かせた吸血鬼の真祖。そんな恐ろしい相手を前にして、海外からわざわざ来てくれアルベール・カモミール。通称カモの助勢も微々たるもので。エヴァンジェリンに対抗するためのパートナー選びもして、明日菜が協力してくれることになったのだが、エヴァンジェリンの経歴や、ここに居ては迷惑がかかると知り。
結果、ネギは逃げ出した。
まぁ、十歳の精神力でよく耐えたものである。
だが麻帆良を出たネギは、途中で余所見をしていたせいで木に激突。そのまま落下して、山中迷子になった。
そんな彼を救ったのが、ネギの生徒である長瀬楓だ。
ネギを山中で拾った彼女は、そのままなし崩し的にネギと共に夕飯の食材を集めたりして、そんな彼の心を少しだけ癒してあげたのであった。
そんなこんなで土管を使った露天風呂である。満天の星空を見上げながらゆったりとつかる風呂は、風呂嫌いなネギも満足できるほどゆったりとしたものだ。
だがまぁ、異性である楓と共に入浴するのは緊張してしまったが。
「ネギ坊主は、今壁にぶつかったのでござるよ。というよりも、教師を始めてからこれまで、よくぞまぁ上手くやってきたと感心するでござる」
「そ、そのとおりです……でも、僕は逃げて、逃げ出して」
「いいんじゃないでござるか? ネギ坊主の歳なら、逃げ出しても恥ずかしくないでござるよ。まだ、子どもなのでござるから……周りの大人に頼っても、ちっとも悪くないでござる」
楓の言葉にネギは首を振った。
逃げることも、頼ることも出来ない。この問題は自分が何とかしなければならないことであり、その不安で肩が押しつぶされそうになる。
「人間。今はどう足掻いても乗り越えられない事柄の一つや二つ、あるでござるよ」
「……楓さんも、そうなんですか?」
「勿論、拙者にも今はどうにも出来そうにない壁があるでござる」
ネギは楓が超えられない壁があると聞いて驚いた。そんな内心が表情に表れていたのだろう。楓はネギの横顔を見つめて微笑むと、その頭を軽く撫でた。
「少し、難しい質問をするでござる」
「は、はい」
「乗り越えなくてもいい壁は、存在すると思うでござるか?」
その質問は、大人であっても容易に答えられる質問ではなかった。
「えっと……乗り越えないと、前に進めないから、存在しないと思いますけど」
子どもの無邪気さと、大人の知性を持つから故に、ネギは僅かな逡巡の後すぐに答えた。楓はその答えに満足したように頬を緩めると。
「拙者は、そうは思わないでござる」
ただ静かに首を振った。
答えの意図がわからずにネギは疑問を覚えた。乗り越えてはいけない壁は存在する。それは一体どういうことなのか。
「人は、乗り越えてはいけない……踏み出してはいけない一歩というのがあるでござる」
確信しきった言葉であった。まるでそれをなした人間でも目の当たりにしたような言い草。
その直後、ネギの身体を凄まじい寒気が走り抜けた。
「ひっ!?」
「……またでござるか。アレも加減を知らぬ」
だから修行になるのでござるが。そうぼやいた楓を、ネギはすがりつくように見上げた。
「い、今、いきなり寒くなって……」
「超えてはいけない、壁でござるよ」
ネギの言葉にかぶせるようにして楓は言った。そうして、ネギの身体を優しく抱きしめる。
「ネギ坊主は、天才でござる」
「そんなこと……」
「だから、どんな壁も簡単に乗り越えて……いつか、最後の壁に到達するかもしれない」
その果てに、アレが居る。初めて出会ったとき、眼を離せないくらいの有り様を見せ付けたアレが立っている。アレは終わりだ。修行中の身ではあるが、楓にもそのくらいはすぐに理解できた。
完結する。
それは、最悪だ。
「そのとき、ネギ坊主には踏み止まってほしいものでござる」
人の才能が極限にまで高まり、そんな人間が努力を積み重ねる。
その果てを、楓は見てしまった。
あの有り様を、まざまざと見せ付けられた。
「……まっ、安心するでござる。アレはこちらから干渉せねば無害ゆえ……だから辛くなったらいつでも来るでござるよ。ここへ来たら、お風呂くらいには入れてあげられるでござるから」
楓はそう言うと、星空を見上げて満足そうに微笑んだ。
つられて見上げたネギは、まだ楓の言うことがほとんど理解できなくて、寒気の正体にも怯えているけれど。
「そのときは、お願いします」
少しだけ勇気を貰った。その事実だけは、本当だ。
─
あの日の襲撃から、どうやらマクダウェルさんは何かをするでもなく、俺の護衛任務は特に何かがあるでもなく平穏無事に過ぎていた。まぁ、先日ネギ君が何を思ったのか山のほうに来てしまい、思わずテンションが上がって、修練の最中に気を開放してしまったりもしたが。
まぁその程度のこと。
些細である。
「そういや兄ちゃん。今日は大停電だから早めに仕事を切り上げるぞ」
朝、いつも通りに錦さんに挨拶して今日の清掃に出かける際、そんなことを言われた。
どうやら年に二回、学園都市全体のメンテナンスのため、大規模な停電が起きるらしい。
「いや悪いな。教えるのが遅れちまってよ」
錦さんは申し訳ないと軽く頭を下げたが、俺は麻帆良から少し離れた山に住んでいるため、大停電の弊害は特にないので、頭を下げなくてもいいのだ。
「いえ、気になさらないで、ください。元から、電気にはあまり、世話にならぬ場所に居るので」
「そうかい? エコってやつか。若いのに偉いじゃねぇか」
それともまた違うのだが。まぁ説明する必要も特にないだろう。俺は曖昧に返事をすると、今日の持ち場に向かって錦さんと向かっていった。
そして昼休み。いつも通りに初等部の体育の授業を眺めながらの早めの昼食。
「しかし兄ちゃんも、最初の頃に比べたら随分と話せるようになってきたじゃねぇか」
「そうでしょうか?」
「あぁ、最初はもっとこうぼそぼそって感じだったがよ。まぁ今も声は小せぇが、結構マシになってきたってもんだ」
錦さんの言葉に、俺はここ暫くを振り返って、それもそうかと思った。
まぁ、ここに来るまではろくに人と接することなくすごしてきた俺である。少し話すだけで舌が疲れるくらいには世俗との縁がなかったためか、確かに無表情に加えていっそう根暗に見えたことであろう。
「変わったのでしょうか」
「あぁ、いい変化だと俺は思うぜ」
男臭く笑う錦さんに、俺は頭を下げて応じる。残念なことに、俺の無表情は、使っていなかった言葉と違って修練のしようがない。
それこそ、よほどの感情の起伏が生まれなければ、微笑むことすら出来ないだろう。
全く。
不憫極まりなく、錦さん達に対して申し訳ない。
「俺は……」
「兄ちゃんは、少しだけ外を見てなかっただけだと俺は思うぜ」
言い募ろうとした俺に、錦さんは言葉を被せてきた。
言葉を失う俺の頭を、錦さんの大きな手のひらが圧し掛かる。大きくて、重くて、ごつごつとした。
生きている人間の、強い手だ。
「ゆっくりでいいんだよ。人間なんてもんはな、一目惚れ以外のことじゃ劇的には変化しねぇ。それでも、少しずつ重ねていけば、見えてくるもんってのもあるはずよ」
「そういうものでしょうか?」
「そういうもんさ。少なくとも、俺はそう信じているよ」
臭い話をしちまったな。錦さんはそう照れくさそうに鼻を擦ると、ゆっくりと立ち上がって「トイレ行ってくらぁ」と告げて歩いていった。
俺はその背中を見送りながら、頭に残る優しい感触を思い出すように、自分で頭を撫でてみる。
気付きもしなかった。というよりも、見向きもしなかっただけだ。
この世界に人格を芽生えさせてからこれまで、ひたすら俺は青山しか見ていなかった。強くなり続ける才能を、童のように無邪気に楽しみ続けた。
だが今はどうだろう。
俺は、青山は終わってしまった。
それによって、俺は少しだけ外を見ることが出来て、今はこうして頼りになる上司や、新しく出来た友人、まだ出会っていないけれど、学園のために影で頑張っている同僚の皆様。
色々な人と触れ合った。
色々な現実を、ようやく見つけた。
なら、俺は変わるのだろうか。変わって、違う何かに俺はなっていくのだろうか。
そうだといいな、と思えることが素晴らしくて。
斬るから。
俺は、斬る。
うん。いい方向に変わっているな。
─
大停電の夜。黒衣を纏った吸血鬼はそっと空に浮かぶ月を見上げた。
ひどく、ひどく、寒かった。
どうしてかわからないけれど、とても冷たく感じた。
「よく言うことだ。人の夢と書き、儚いと。人を夢見る。なるほど、私にはとても儚い夢想だよ。そう思わないかい? 先生」
眼下には、可能な限り装備を整えた英雄の息子が立っている。どうやら、先日付いてきていた神楽坂明日菜はいないようだ。
「一人で来るとは、見上げた勇気だな」
「あなたは……誰ですか?」
その言葉に、小さく失笑。そういえば、今の自分の姿は大人のそれで、暗闇も重なればわからなくても無理あるまい。
だから幻術を解いて、姿を晒す。冷たく笑って、エヴァンジェリンは英雄の息子、ネギ・スプリングフィールドを見下した。
「私だよ先生。まぁ、姿形など、今の私にとっては意味のないことだが……お前たちは下がっていいぞ」
エヴァンジェリンは吸血によって操っていたクラスメート達を開放した。隣には、メンテナンスを終えて以前よりもさらに強化された茶々丸が立っている。
ネギも覚悟を決めたのだろう。杖を構えて、いつでも魔法を詠唱できる準備を整えた。
「満月でなくて悪いがな。今夜、ぼーやの血を存分に吸わせてもらうことにした」
「そんなことはさせません。今日、僕があなたに勝って、悪いことはやめてもらいます」
強く宣言したその言葉に、エヴァンジェリンは声をあげて笑った。
「ハハハッ! 悪いこと? 悪いことか……そうだな。あぁ、悪いことを止めさせて、それで、どうする?」
「どうするも何も、授業に出てもらって皆と仲良くしてもらいます!」
「つくづく……いやまぁ、十歳のガキならこんなものか。なら試してみるといい、私に勝って、見せてみろ」
人間なら、やってみろ。宣言とともにエヴァンジェリンの魔力が膨れ上がった。
「そら。足掻けよ、ぼーや」
虚空に十にも及ぶ氷塊が発生した。無詠唱魔法、魔法の射手とはいえ、無詠唱で、しかも瞬時にそれらを作り上げたエヴァンジェリンの実力は、それだけでネギとの実力差を如実に表していた。
「うわ!?」
その詠唱速度の違いをまざまざと見せ付けられたネギは、咄嗟に杖にまたがるとその場から一気に離脱した。
それを待っていたかのように状況は動き出す。エヴァンジェリンが遅れて氷の矢を開放する。当たれば、常人を一撃で貫く威力を誇る矢が十、四方から囲い込むようにネギを襲う冷たい殺意を、持ってきた魔法銃を構えて迎撃した。
魔力が反発し合って、虚空で閃光を放つ。その光に眼を焼かれないように顔を手で隠しながら、ネギは飛び掛ってきた茶々丸から杖を操って逃れた。
爆発。ネギを打ち落とすための茶々丸の一撃は、その拳が直撃した地面を破砕してクレーターを作る。敗戦を経験した後、その一撃にすら耐えるようにバージョンアップした茶々丸の戦力は、最早単騎でネギの制圧は余裕なほどだ。
だがあえてそれをしないし、ネギにそれを気付かせない。
遊んでいるのだ。容易に捕まえ、葬れるのを、弄び、蔑み、その無様を笑って観賞する。
攻撃が重なるにつれて、ネギもそのことに気付いたのだろう。防戦一方を維持『させられている』状況に、その顔に焦りの色が生まれた。
「でも……!」
一撃ごとに装備を剥がされながら、それでもその瞳には諦めの色がない。
その瞳にエヴァンジェリンは笑った。とても嬉しそうに、笑って見せた。
「そら! 何かあるなら出してみろ! なんでもいいぞ? 試してみろ。援軍でも、魔法具でも、乾坤一擲の魔法でもいい! 楽しませろ。私を楽しませるんだよぼーや。それが楽しければ楽しいほどに──」
この後が、楽しくなるんだ。
最後の言葉の意味はわからない。というよりも考える余裕すらないネギは、ひたすらにある場所を目掛けて飛翔する。
早く、早く。
油断しきっている今だから、この策は使えるから。
「見えた……」
そしてようやくネギは目的の橋に辿り着いた。だがそれによってにじみ出た安堵をエヴァンジェリンは逃さない。
「氷爆!」
橋を滑空しだしたところで、エヴァンジェリンの魔法がネギを吹き飛ばした。冷気の爆発は、ネギが作った障壁を食いちぎってその身体を木っ端の如く吹き飛ばす。
「うわぁぁぁ!?」
成す術もなく吹き飛んだネギは、そのまま道を転がって倒れ伏した。そんなネギをゆっくりと追い詰めるように、エヴァンジェリンと茶々丸も着地して、歩み寄っていく。
「それで、もうお終いか? ん? まだあるだろ? そら、もったいぶらずに吐き出してしまえ」
戯れだ。今のネギはエヴァンジェリンを楽しませる道具以上の価値がない。それでもネギはまだ諦めてはいなかった。僅かな可能性、そう、後少し踏み出せば!
ネギの元へ二人が迫る。だがその途中、二人の足元に巨大な魔法陣が発生した。
「なっ!?」
驚く間に、エヴァンジェリンと茶々丸を捕縛結界が捕まえ、その身体の自由を完全に奪い去る。
確かに、エヴァンジェリンは驚いた。幾ら戯れたとはいえ、なおこの僅かな可能性に賭けたその足掻き、その根性は賞賛できる。
「見事だよ。それで、どうする?」
感動的だ。だから告げた言葉は、次の瞬間汚されることになる。
「これで僕の勝ちです! さぁおとなしく観念して悪いことはやめてくださいね!」
得意げなネギの言葉。
それを聞いて、エヴァンジェリンの顔に浮かんだのは──落胆だった。
「何を言ってる? そら、まだ終わってないぞ。早く撃ってこい。まだ私はここに居て、お前はそこにいるだろ?」
「え、そ、そんなの……だってもうエヴァンジェリンさんは動けなくて!」
「だから?」
ネギの言葉を一蹴する。言葉だけではない。冷たい視線こそが、何よりもネギの動きを止めてみせた。
「おいおい、動きを止めた。だから終わりって……それはないだろ? そうじゃないだろ? 早く折れ。相手の戦意を、砕いてしまえ。そうしなければ闘争なんてものは終わらないんだよ」
私はまだ負けたつもりはない。そう告げるエヴァンジェリンに対して、ネギは言うべき答えがなかった。
どのみち、時間がたてばこの結界は解除される。そのとき、エヴァンジェリンはまた動き出し、また戦う。
「捕まえてはい終わりで済ませられるのは、刑務所にぶち込まれるくらいなものだよ。もしくは援軍でも待つか? 生憎だが、この周囲には結界を張り巡らせている。余程気配を察するのが得意な奴でない限り、ここに援軍は来ないよ」
それに、この程度はどうでもない。エヴァンジェリンは背後に居る茶々丸の名前を呼んだ。
「結界解除プログラム始動」
淡々と告げた茶々丸の耳元のアンテナが開き、結界の構成に干渉する。
するとたちまち、二人を捕縛していた結界が砕け散った。
「この通りだ」
「そ、そんなぁ……ず、ずるいです! 僕が勝ってたのに!」
「黙れよ。もう飽きた」
直後、エヴァンジェリンが指を鳴らすと、ネギの真下に魔法陣が展開された。
気付いたときには最早襲い。即座に発生した氷の捕縛陣が、ネギの四肢を固めて、動けなくさせる。
「この程度、私なら罠として設置するまでもない」
ただの遊びだよ。そう告げたエヴァンジェリンを前にして、ネギは己の敗北を悟る。
「まぁ、十歳程度の子どもにしては、よく頑張ったほうじゃないのか? そのご褒美に殺すのだけは勘弁してやる」
「あ、うぅぅ……」
エヴァンジェリンが展開した氷の呪縛は、今のネギでは解除することは出来ない。だからここまで、結末は残酷で、冷笑するエヴァンジェリンにネギは何も出来ず、訪れる恐怖から逃れるように眼を閉じて。
凛と鳴る、美しい鈴の音を、その耳は確かに捉えた。
─
ともすれば月光。
突き刺すような輝きを見上げながら、ふと思う。常日頃、暇があれば考えていた意味のない思考。
どうして月夜は刀に似合うのか。
嬉しそうに刃鳴りを響かせる十一代目を胸に抱いて、そっと空を見上げれば、欠けた月が刀の曲線を思わせ、とても綺麗で、感動的。
斬るという意思を感じた。
ともすれば刃である。
俺は十一代目をいつもの木箱に入れると、玄関口に置いた。残念ながら、気を充実させていない十一代目では、これからに僅かな支障をもたらしてしまう。
だから持っていくのは、一週間、寝食を惜しんで作り上げた七本のモップ。それらを両手に一本、腰に残りの五本を差して、念のために懐に小太刀を一本、それではいざ空へ。
とん。と軽い勢いで飛翔して。
とん。と軽く麻帆良の街へ。
気負いは特になかった。吐き気を催すようなおぞましい魔力の濁流を感じながら、頭はいたって冷静で。
凛と。
あるいは鈴と。
耳元に残留する鈴の音を確かに。招き入れるように殺気を振りまく死地の名は、闇の福音、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。大橋の真ん中で、俺を誘き出すためだけにネギ君を制した化け物が、両手を広げ抱擁するように迎えてくれた。
着地、瞬動で割って入ってきた俺を見て、四肢を氷漬けにされたネギ君が驚きの声をあげた。
「モップで来るとはな。あまり私を舐めていると、そこのガキと同じようになるぞ」
「……」
「カカッ。どうやら冗談でその武器を選んだわけではないということか……安心しろ。ぼーやは拘束しただけだ。まだ血を吸ってもいないよ」
そうか。
まぁ、そうだとわかっていたから、こうまでのんびりここまで来たんだけど。
「君の姿は充分に見た……意思のあるなしくらい、判別はつく」
「ハッ! つまりあれか? わかっていて放置してみせたと? クククッ、護衛役としては三流以下だな人間」
おっしゃるとおり。
返す言葉は何処にもなく。
俺は返答代わりに、手にしたモップを一閃して、ネギ君の拘束を全て斬り捨てた。
「わっ!?」
いきなり拘束が解けたため、バランスを失ったネギ君はその場に膝をつく。
俺はそんな彼をじっと見て、何度かモップの握りを確かめた。
うん。
まぁ、我慢は出来るようになったか。
「私を前にして随分と余裕だな」
どっかで聞いたような台詞。だが最初に会話したときと違うのは、「ありがとうございます。あの、あなたは……」と呟くネギ君から視線を離し、質問に答える余裕すらないほど、ゆっくりと距離を詰める化け物の放つ気配は尋常ではないということ。
最早、取るに足りぬとは言えない。
心胆が震え上がり、魂まで凍てつくような恐怖。
恐ろしいから、化け物。
なんともまぁ。
訂正しなければならない。
「君を、斬りたくなった」
それは、ネギ君に比べたら僅かな思いでしかないけれど。
斬りたいと願った。
この素敵は、やはり愛。
「笑えよ。人間」
そんな俺の告白を、化け物はとても嬉しそうな微笑を浮かべて受け入──
斬った。
後書き
次回で決着。