戦いの果てに敵を殺したとして、何が得られるのだろうか。
特に何も思わないよ。悪の魔法使い、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルなら、邪悪な冷笑を浮かべて、淡々と答えただろう。
戦いの果てに敵を殺したとして、何が得られるのだろうか。
今の充実だよ。真租の吸血鬼、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルなら、作りもののような笑顔を浮かべて、嬉々として答えただろう。
それがどうしたというわけでもない。かつての己と、今の自分。その違いを簡単に表すなら、このように比べたほうがわかりやすいだけだという話だ。
計画が始まったその時、エヴァンジェリンが地下の移動施設を使って出たのは、麻帆良の出口、郊外に広がる山の直ぐ側だった。
既に茶々丸による麻帆良中枢へのハッキングは開始しているだろう。だから待つ。郊外へと、外へと続く境界線の前に立ち、エヴァンジェリンは解放の時を、一人静かに待ち焦がれる。
後少しで、化け物、エヴァンジェリンが始まりを告げる。この身を束縛する鎖から解放され、自由に光を汚し、夜を満たすことが出来る。
待ちわびた、と言われれば、待ちわびたと答えただろう。だが悠久の時を生きた吸血鬼にとっては僅か数年、閃光のように短い歳月であったのも事実。
それでも長く、とても長く感じたのは。
多分。
いや、間違いなく。
「私は、ここが好きだったんだろうなぁ」
かつての己の残滓が、言葉と共に吐きだされる。感慨はないけれど、そう思っていた自分が少しだけ誇らしかった。
だが悪の残滓は即座に吹き飛ぶ。エヴァンジェリンは、恐るべき速度でこちらに迫る不気味な気配を察知して、その口角を引き裂くくらいに釣りあげた。
「……エヴァンジェリン」
「待っていたよ、青山」
境界線の向こう側に降り立ったのは、エヴァンジェリンが待ち望んだ最大の好敵手。
修羅外道。
恐るべき、青山よ。
「これはまた……随分と気が狂った獲物を手に入れたようだな」
エヴァンジェリンは、青山の右手に掴まれている、一部の隙もなく封印の呪府に包まれた鞘に収まった野太刀、証を見た。証はその強大すぎる力を抑えるために、術式を刻み込んだ鎖を乱雑に撒きつけられて封じられている。
それでも漏れ出ている生を渇望する力の露出に、エヴァンジェリンは込み上げる笑いを抑えることが出来なかった。
「……退け。お前を相手にする暇などない」
青山は封印状態のエヴァンジェリンなど、相手にするまでもないと思っている。
エヴァンジェリンもそれには納得なのか、特に反論することなく頷きを返すが。
「なら、どうして貴様は取るに足りぬ私の前に立った?」
逆にそう問い返した。
青山は答えない。いや、その無言の佇まいが、言葉以上に雄弁と語っていた。
常識的に考えれば、今のエヴァンジェリンは脅威にすらならない。
しかし、青山の本能は、ここで待っていれば、きっと間違いなく──
「次に会ったら、殺すと言ったろ?」
エヴァンジェリンは歌うように言いながら、舞うように青山へと一歩を踏み出した。境界線まで後三歩。線を越えればたちまち呪いによって体中に激痛が走るのがわかっていない彼女ではないだろう。
「だというのに貴様、私の前にのこのこと出てきてどういうつもりだ?」
嘆かわしそうに眉をひそめながら、しかしその表情には隠しきれぬ喜びが滲みでていた。
よくぞ。
よくぞ出てきてくれたと無言で訴えながら、また一歩。
残りは、二歩。
「言い訳する気にはなれないな」
青山はそこで観念したように溜息を吐くと、証を拘束していた鎖を、わずらわしそうに解いた。
興奮が沸々と込み上げてきていた。同じく、エヴァンジェリンのまき散らす気配が、一歩を踏み出すごとに劇的に増大していく。醜悪で、目も当てられない脅威。心胆が凍りつき、そのまま悶死してしまいそうな気配が立ち込めるなか、青山は極上の汚物を変わらぬ無表情で迎え入れる。
残りは、一歩。
「お前を斬りたい」
引き抜かれる漆黒の牙が、濃密な殺気を断ち切って冷気を放つ。凍てつく世界。二人だけの修羅場に相応しく。
そしてエヴァンジェリンは。
「私も、貴様を殺したいよ。なぁ……」
境界線を、超える。
「青山ぁ!」
物理的な圧力を伴って、エヴァンジェリンを中心に魔力が破裂した。青山ですら咄嗟に距離をとらざるを得ない物理的な衝撃力。人間としての本能が瞬動で青山を後退させた時、エヴァンジェリンは既に空高く舞い上がっていた。
「クハハハハハ! ハァッハッハッハッハッ!」
それは狭き牢獄からようやく自由になれたことによる歓喜の笑い声であり。
それはようやく化け物として世に出ることが出来た命のあげる産声であった。
大橋で出会ったときとは魔力の総量自体は変わらないだろう。劇的に変化するほど、彼女は未完成の存在ではない。
だがしかし。
それでもやはり。
「化けたか……吸血鬼」
青山は空を舞う死に対して、彼なりの称賛の言葉を送った。
なんと見事な醜悪さか。
空気すらヘドロにする魔性の花。
美しき汚泥の君。
その者こそ、世界に名だたる最強の化け物。
人の血を食らって生きる、夜の王。
エヴァンジェリンは青山の称賛に、右手に顕現した氷の刃を持って返答する。少女の背丈ほどもあるその刃は、振るえば高層ビルを輪切りにして、さらに永久凍土に送りこむ威力を持つ断罪の刃。
それが詠唱もなく指先一つ一つから現れ、爪の如く五本。敵手である青山への返答代わりに放たれた。
人間一人を葬るには過剰すぎる火力。かつての青山は、この氷の刃を含めた乱気流になす術なく飲まれた。あの時はエヴァンジェリン自身の油断があったことで勝利を掴んだが、今や彼女には毛ほどの油断も存在しない。
頭の先から爪先まで、全てが嫌悪すべき化け物ならば。
「……シッ!」
己もまた、尋常ならざる刃にて五つの氷獄を斬って伏せよう。
青山に降り注いだ五つの破壊が、その威力を発揮することなく砕け散った。フェイト・アーウェルンクスが全存在をかけて作り上げた生の魔剣。
銘は『証』。
終わりに至った生存本能は、終わりに至った斬撃に斬られることなく音色だけを奏でて見せる。いつ振るっても最速かつ最適に己へと対応する刃の冴えに、青山は胸中に溢れる歓喜に打ち震えざるをえなかった。
エヴァンジェリンもその素晴らしき斬撃一閃に感嘆する。終わりに至りし修羅に相応しき刃。この敵手にこの刃ありとでも言うべきコンビネーションに、見事と言うほかないだろう。
「だからこそ殺す」
エヴァンジェリンは嗜虐心のまま、大橋での決戦で青山を一時は死亡させるまで追い詰めた究極の魔法が一を出し惜しみせず解放する。
「解放・固定……千年氷華」
青山が止める暇すらなく、エヴァンジェリンは掌に召喚した野球ボール大の絶対零度の塊を躊躇なく己の肉体に取りこんだ。
そして再び氷の女王は現れる。大橋で斬られた腹部と背中、そして腕の接合部が涙を流すように出血を始めた。致死量にまで達する血液は、エヴァンジェリンの衣服から溢れだし、一つの意志の元、その背中に集まって氷の華となる。
術式兵装『氷の女王』。
陽だまりの平穏を凍りつかせる恐るべき魔が、落ちゆく夕日よりも尚濃い赤色の氷山を、守られてきた平和を崩さんために天へと放った。
「……来い」
対峙するは人間の極地。完結した修羅。手に持つは同じく完結した魔性の牙。漆黒の刀身は、天高くどす黒い輝きを放つ流血の氷華にすら負けぬ禍々しい気を吐きだして、担い手の期待に答えんと凛とした歌声を響かせた。
「言われなくとも! 私と貴様! 百億年すら超える因縁の決着を! 今ここでつけようじゃあないか!」
吸血鬼は高らかと吼え猛り、その激情を冷気と為して、青山の視界一面に鮮血色の槍を召喚した。
一撃が先の刃に負けず劣らぬ断罪の刃。百を超えた剣群が、究極の一目がけてその矛先を光らせた。
「行け!」
号令一掃。射線を凍らせながら剣群が青山へと突撃した。
エヴァンジェリンの人形遣いとしてのスキルはここでも存分に発揮される。新たな剣群を次々に生み出しながら、さながら指揮者の如く腕を振るって百を超え、今や千にも届きかねない剣と槍の混成群を一つ一つ別個の生き物の如く操る。
青山は不規則に己の周りを飛び回りながら襲いかかってくる剣群を斬り伏せながら、不用意にエヴァンジェリンへと飛び出せないことを悟る。
確かに青山の持つ証は、山すら凍り尽くす剣群すらも一刀の元斬り伏せるだろう。だがエヴァンジェリンは個で敵わぬからこそ群れとしての長所を最大限に生かして、青山が強引に突撃したとき、その斬撃速度すら上回る剣群を叩きつける用意を行っていた。
大橋の戦いの後、何もただ遊んでいたわけではない。むしろ別荘を使っていた分、京都の死闘を経た青山以上に濃密な時間を過ごしたと言えよう。
全ては次に見えたとき、必ずや青山の首を取り、その生き血を啜るため。エヴァンジェリンは宿敵との死闘に焦がれ、ひたすらに研鑽を積んだ。
だからこそ、青山の恐ろしきところも、そして付け入ることのできる短所も熟知している。
「そらぁ!」
右手を横薙ぎに振るえば、数十の氷の槍が青山の側面に襲いかかる。遅れて左手も振るい逆方向からも同等数が強襲。青山は迫る物量に目を細め、周囲を取り囲む氷の乱気流に身を投じることで必殺から免れた。
密度を濃くしている弾幕に比べて、青山を取り囲むだけの氷雨はさばけないほどではない。嵐の中、一秒に幾つもの斬撃を振るいながら己の領域を確保した青山を、左右から挟撃しようとしていた氷の槍が中央で合流して、マシンガンの弾幕を超える密度となり襲いかかる。
迫る剣群。触れた個所から冷気に閉じ込める必殺の一矢を前に、青山はあろうことか自ら突撃をする。
凛。
激突の瞬間世界に響き渡った清涼なる音と共に、まるで見えない壁があるかのように、青山の眼前まで来た槍から順に、次々と砕け散っていった。
個々に分かれていようが、突き詰めればエヴァンジェリンの意志一つに捜査された群れでしかない。であれば、青山はその意志との連結を見抜き、断ち斬ることが出来る。
結果、青山の一振りに連鎖するようにして、続々と槍が砕けて消滅していくことになった。
これが青山の恐るべきところ。あの修羅は、目には見えぬ『意志』というものを見切り、斬ることが出来るのだ。正確には見ることが出来れば形として捉えて断つことが出来るというものであるが、いずれにせよ常人の視界とは別の何かが青山には見えているとみて間違いあるまい。
もしも少しでも気を緩めて、己の心をさらけ出そうものならば、そのとき青山は躊躇なくエヴァンジェリンの中にある化け物性とでもいうものもろとも斬り裂くことだろう。
一撃必殺を可能とする目と、それを支える目にも止まらぬ斬撃、そして一歩ごとに瞬動を行うことにより、本来は直線的になりがちな瞬動で三次元的な動きを可能とした技量。
たった三つ。だがこの三つは全てが世界最高峰の達人すら鼻で笑うほどにまで極まったものである。
少なくとも、至近距離に持ちこまれた場合、エヴァンジェリンでは青山を落とすことは出来ない。こと近距離戦闘において、青山は歴史上最強の使い手とみて間違いない。
だがしかし。
だからこその欠点がある。
「ッ……!」
青山は氷の槍を砕いてみせたというのに、苛立たしげに唇を噛んでいた。それもそのはず、たかが氷の槍の二十や三十。今もなお次々と量産される槍と剣の総量に比べれば、微々たるものでしかないのだ。
第一の弱点、それは、完成された技故に、遠距離の攻撃方法を青山が持っていないということだ。これは終わりに至った弊害とでもいうべきか。刀を通してでなければ、青山は対象を斬ることが出来なくなっている。もしかしたら隠しているだけだともエヴァンジェリンは考えたが、だとしたら大橋のときに使っていたはずだろうから、その可能性はほぼないだろう。
事実、青山は終わりに至ったそのときから、対象に刀を通して切断するという風にしか気を練り上げることが出来なくなっていた。
その弱点、突かずに置くのは失礼という話だ。むしろ、一対一という状況にしようとしただけありがたいと思ってほしいとすらエヴァンジェリンは思っている。
なりふり構わず青山を倒すなら、それこそやり方は幾らでもあった。麻帆良の魔法使いに、青山の本質を、本人の実演つきで見せつけて、敵として排除されるのに便乗して、封印を一時的に解除してもらい、集団で叩き潰す。例え青山が最強だとしても、タカミチ、近右衛門、そしてエヴァンジェリンを含んだ魔法使い達に戦いを挑まれれば、京都での状況を見る限り勝てはしないだろう。
「だが私は貴様を手ずから殺す」
しかしこの闘争は、エヴァンジェリンが真の吸血鬼となるための大切な儀式。乗り越えなければならない最後の壁。
一対一。人間と化け物。それ以外の余分は一切必要ない。
「なぁ、青山!」
二人だけの修羅場がここにはある。
それ以外の要素など、全てが全て余分でしかないのだから。
「ッ、おぉ!」
青山もまた、エヴァンジェリンに感化されて、らしからぬ気合いの声を張り上げて証を振るった。
大橋の時とは強さの深みが違う。あの当時でさえ、姉である素子に匹敵、あるいは凌駕する戦闘力をもっていたというのに、今では強さ、精神性、全てが素子はおろか、己すら超えているのではないだろうか。
人では覆すことの出来ない、種族としての明確な差が広がっている。
純粋に汚らしい化け物。
だが俺は、斬るだけだ。
「ハハッ、そうではなくてはなぁ」
エヴァンジェリンは、山すらも飲み込もうとしている氷圏をさらに加速度的に広げた。その様はまさに浸食。鮮血の氷獄が、今や視界一面、青山の立つ大地はおろか、空一面すらも赤き氷が包み込もうとしていた。
それはつまり、エヴァンジェリンが行使できる魔法の範囲がさらに広がったということ。手の一振りどころではない。呼気一つだけで無数の氷塊を降らす姿は、まさに氷の女王の名に恥じぬ。
外から見れば、何百メートルにも及ぶ巨大な氷の塊が、今もその質量を増大させているように見えるだろう。だが見た目はただの氷塊。しかし今、その内部は生きる者を許さぬ真の地獄と化していた。
上下四方、あらゆる場所で吹き荒れる氷の竜巻。立っているだけで、氷点下を遥かに下回ったこの環境は、気の出力を緩めれば忽ち体力を奪っていくだろう。恐ろしきは、空気すらも呪的な効果を付加されているということか。
ここはエヴァンジェリンの腹の中。溶かす代わりに凍り尽くす魔の胃袋。
先程まで立っていた大地すら、一瞬のあと槍衾が発生して、一秒だって気が抜けない。
これこそ、エヴァンジェリン。
魔法世界を震撼させ、今もなお恐怖の代名詞として語られている魔の極地。
証という最高のパートナーを得た所で変わらない。氷獄に収めた時点で、状況はかつての大橋と同じとなっていた。
「……だが」
青山はこの程度は他愛ないと半ば確信している。大橋の時を超えた氷の世界の中で、しかしあの時の自分と今の自分では、獲物に明確な違いがある。
証を両手で握りしめ、吹き荒れる暴風と降り注ぐ氷槍の雨を見据える。猛っていた心は今一度冷静に、冷たく、平坦に、凍らせるのではなく、ただ冷たい。
無感動。
零の刹那に、身を投じる。
「シッ……!」
吐きだした呼気とともに青山は虚空瞬動を駆使して、上空からこちらを見下ろすエヴァンジェリンの元へと飛び出した。
当然、簡単に接近を許すエヴァンジェリンではない。両手を広げればその背後から生まれる氷槍乱舞。天と地からも盛り上がってくる冷気の軍勢が、最強の一振り目がけて飛び出した。
究極の一と、無個性の無限が衝突する。だが青山は次の瞬間目を疑った。
「氷爆!」
無限の軍勢の全てが、青山の斬撃圏内に入る直前に爆発を起こす。点ではなく面。青山に斬られれば効果を失うのであれば、その間合いの外から魔法を発動すればいいという、きわめてシンプルながらこれ以上ない有効打。
虚空瞬動、冷気の爆風を斬りながら横に飛んだ青山だが、僅かにその体に氷が付着している。
斬りきれない。次々に爆発していく槍に飲まれながら、青山はそれでも凛と鈴音を響かせて、京都を落としたスクナの攻撃よりも壮絶な冷気の嵐と拮抗する。
勝機を必ず手繰り寄せるのだ。青山は四方八方を斬りながら、この状況下で尚、暗黒の瞳でエヴァンジェリンから視線を離さず前を見ている。
「ハハハッ! いいぞ! それでこそ貴様だよ青山!」
劣勢に追いこんでいるというのに、喉元に鋼を突きつけられたかのような幻視したエヴァンジェリンは高笑いをした。
こうでなければならない。エヴァンジェリンが見染めた人間が、この程度で終わるなど断じて許されてたまるか。
いずれ。
もう少ししたら早く死んでくれと願うことだろう。
だが今は青山が生きていることに、抗っていることに感謝する。
「今がある! 私と貴様がなぁ!」
整合性が取れていない言葉を吐きだすほど、エヴァンジェリンは世界を満たす冷気とは逆に熱く熱く滾っていた。
あるいは、冷たい熱を宿していると言ったほうがいいのか。
青山はその熱に応えるために、凛と歌を奏で続ける。斬るという完結の中、斬りたいと思える相手を斬るために。
「行くぞ、吸血鬼……!」
言霊に思いを乗せる。これ以上ない興奮の中、ついに発生した結果である冷気の爆風の繋がりを見つけた青山が、刃を一振りした。
そして破裂しようとしていた槍が一斉に砕け散る。その目に映るのは、最早物質世界の物だけではない。三次元を超越した高次元にチャンネルを合わせた脳髄は、終わりに到達した青山、天才の肉体の青山を持ってすら、割れるような痛みが目と頭から響くほど。
だがそこまで出来る。証という刀があれば、これまで刀が追いつかなかったために出来なかった技にすら至ることが出来る。
これまでも全力を絞らなかったわけではない。だがここに至り遂に、青山は証という相棒を手にしたことで、斬撃という完結の全てを扱うまでに自分を解き放つことに成功したのだった。
「……ッ!」
流石のエヴァンジェリンも、既に発生した結果の因果すら断ち切る魔技には言葉を失う。氷の霧が晴れた向こう。高次元を見るという出力に耐えきれなかった両目と鼻から流血する青山と目が合う。
互いが汚泥。
許されぬ異端存在。
雌雄を決する修羅と化け物。
「斬る」
射竦められた訳ではない。
エヴァンジェリンはその刹那、青山の放つ気配に見惚れただけだった。
虚空瞬動。
「しまっ……」
一瞬の隙と突いた青山がエヴァンジェリンの懐に飛び込む。反応した時には遅い。天高く掲げられた証の切っ先が振り下ろされ、少女の体に再び肩から腰まで伸びる裂傷が刻まれた。
鮮血がほとばしる。そして、全てを包み込んでいた氷の檻もまた、少女の墜落と共に音を立てて砕け散る。
そしてようやく姿を現した空を見上げれば、太陽も完全に隠れ、天には幾つもの星と、刃の冴えを思わせる月光が一つ。
「……あぁ」
青山は体に飛び散って付着した化け物の冷血に恍惚とした溜息を吐きだした。久しく見ていなかったような月光を見上げ、手に残る感触と、耳に残留する鈴の音色に酔いしれて。
「俺の──」
「甘いよ、人間」
夜は始まった。
ならばそう、ここからが吸血鬼の本領なり。
「なっ……」
「甘いなぁ。甘すぎるぞ青山……今度は貴様が油断したのか? なぁ!?」
青山が驚愕する。確実に斬ったはずだった。だというのに聞こえるその声に当惑して眼下を見下ろす。
そうすれば、鮮血を滴らせながらも、その鮮血で翼を型どり再び舞い上がる吸血鬼のおぞましき姿。
「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック」
闇の魔法は健在だ。山を幾つも飲み込める程に広がった氷圏は先の一刀で砕けたものの、エヴァンジェリンの周囲だけであれば上級以下の魔法は詠唱無しで行えるはず。
だというのに、詠唱が始まっている。それは間違いなくあの時、何とか断ち切るのが間に合った最強の氷結魔法の詠唱では──
「……!」
それを坐して待つ程お人よしではない。青山は距離を離していくエヴァンジェリンに虚空瞬動で追いすがる。
一瞬。再び懐に潜り込んだ青山は、今度こそその命を斬るためにエヴァンジェリンの首を横薙ぎに斬り裂いた。
「阿呆が」
だが虚空に舞ったエヴァンジェリンの顔が冷笑を浮かべた刹那。轟音を響かせて少女を模した氷の彫像が爆発した。
デコイを張られた。そのことに気付いた時、耳元に届くのは、魔力を孕んだ冒涜的な歌声だった。
「契約に従い我に応えよ。闇と氷雪と永遠の女王。咲きわたる氷の赤薔薇。眠れる永劫庭園」
聞き惚れ、目を閉じて陶酔したくなるような美声だ。破滅的な歌声だというのに、こうも美しくあるという矛盾は、だが奇跡的な組み合わせで完全に調和している。
だが聞き惚れる余裕はない。青山は歌声の発信源を捉えて、さらに上空、月を背中に両手を広げているエヴァンジェリンを見つけ出した。
「来れ永久の闇。無限の氷河!」
巨大な魔法陣がエヴァンジェリンを中心に展開される。まるでそれそのものが一つの世界の如き異様に、青山の脳裏で生存本能が強く叫び出す。
アレを放たれてはいけない。アレは全てを終わらせる本物の一撃必殺だ。
青山が夜空に飛びだす。気を最大出力まで発揮して、その全てを足に叩きこみ駆け抜ける。牽制で放たれた氷の槍は、直撃するコースのものだけ斬り裂いて、最短距離を突き抜けた。
「ッ……!」
化け物の頭上を取り、落下の勢いを乗せて叩き斬る。勢いの乗った一閃は、夜を照らす星すらも断ち斬るような怒涛の勢い。
流星の如き鉄槌を前に、ここでエヴァンジェリンはこの瞬間を得るために隠してきた切り札を解き放った。
青山の斬撃は、達人ですら見切れぬ速度である。だがそれも上段から来るとわかっていれば、達人なら見切れるのもまた必然。焦りからか、らしくもなく直線的な軌道を描いてしまったその斬撃の線を、エヴァンジェリンは待ち望んでいたのだった。
驚くべきことが起きる。最小限の動きで体を逸らしたエヴァンジェリンの肩を擦るようにして、空を断つ漆黒の閃き。
「見え透いて──」
そして間髪いれず青山の懐に潜り込んだエヴァンジェリンは、その手を掴み、捻りあげ、虚空ということもありバランスを維持出来ぬ青山の天地を逆にして放り投げた。
「いるんだよ!」
日本に着いたときに、気まぐれに習得した合気道。例え彼女自身に合気の才はなくとも、膨大な年月で練り上げた技の冴えは、達人と比べてもそん色ない。
天地を逆さにされながら吹き飛んだ青山に、この手はもう通用しないだろう。一度限りの奇策。だがそれだけでいい。一度だけでも距離を離すことができたのならば、値千金以上の価値がそこにはあった。
「凍れる雷もて」
青山が体勢を立て直す。そこに怒涛と押し寄せる氷の雨は、男の肉体には届かないが、障害とはなりえる。
「道なき修羅を囚えよ」
間に合わない。エヴァンジェリンの奇策にまんまとはめられた青山は、魔法には疎くとも、その魔力の高まりが最高潮にあるのだけは察していた。
そして歌声は最後の詩を紡ぐ。
「妙なる静謐。赤薔薇沸き生まれる無限の牢獄」
世界は知らない。
これこそ真租の吸血鬼が敗北を超え、修羅の魂を飲むためだけに作りあげた唯一の魔法にして、先の氷獄すら児戯に落ちる、無限に生まれ出る這い寄る冷気。
万象一切相手にせず、ただ一途に修羅を落とすためだけに練り上げた、ただそれだけに特化した、九つの天を抜く氷結の英知。
その名に魔を乗せさらけ出す。
「終わりなく赤き九天!」
時すらも凍りつかせる美しき赤薔薇、生まれ続ける氷の大海。滂沱と天に昇るのは、雷を孕んだ極大の天災なり。
天にとぐろ巻く摩天楼の頂点で、エヴァンジェリンは化け物らしく高らかと、下劣に汚濁を吐きだしながら、戦慄に震える青山へと宣誓した。
「まだだ! 私と貴様の終わりはここから始めるんだろ!? そうだろう? なぁ……青山ぁぁぁ!」
エヴァンジェリンは歌う。二人だけの絢爛舞踏に酔いしれて、歓喜の気持ちに打ち震えながら。
まだ、ここから。ここまでは所詮、前座にすぎぬ。青山もそれを理解してか、己を停止させる巨大氷獄に挑むため、たった一振りの暗黒の感触を強く強く、握り直した。
戦いは激化する。互いが死力を尽くし、互いが最大の力を行使して繰り広げた激戦は頂上を目指して加速していた。
だがしかし。
やはりそう。
あえて、あえてこう言おう。
「あぁ、始めよう」
真っ赤に荒れ狂う嵐の中、唯一人の人間を殺すために作りあげた魔道の頂に佇む吸血鬼と、国すら落とす大嵐に孤立無援、手にした刃のみを頼りに挑む修羅一人。
どちらか一人、死するべきは確たる運命。
今宵最大の戦いは、赤き薔薇の咲き乱れる中、ついに幕を開けたのだった。
後書き
微妙に違うオリジナルスペル出現の回。
次回はネギの場面なので、終わりなく赤き九天の効果についてはもう少し後で。