恐ろしい程の気の高まりに惑わされがちだが、月詠の戦闘力は見たとおりに劣化しているとみて間違いないだろう。
答えは一目瞭然。月詠には両腕が存在しない。分かりやすくて当たり前な結論だ。刀とは手に持つものであり、決して口で咥えるものではないのだから。
だが。
それでもなお、月詠の醸し出す鬼気と呼べるものは、両腕がないというハンデすら補ってあまりあるものだった。
刹那は対峙しているだけだというのに、背筋を嫌な汗が伝っていくのを感じた。柄を咥えているため、切っ先が真っ直ぐに刹那の方を向いているのが恐ろしかったのだ。
斬るのか、あるいは突くのか。迷いは惑わせ、月詠が腕を失ったことにより弱くなっていることすら忘れそうになる。
対峙だけで体力を削られる命がけの攻防だ。
しかし。
それでもなお、月詠は弱い。
両腕のハンデは、一か月を素子の元で過ごした刹那に対してはあまりにも開き過ぎており、呼吸を僅かに乱しつつありながらも、刹那は幾つも脳裏に敵の刃の軌跡を思い浮かべ、問答無用で一刀に伏せるだろう己を夢想する。
刹那はいつの間にか相手の気当たりによって止まっていた呼吸を再開した。隙を晒さぬように呼気を一つ、二つ、三つしたところで、月詠は一歩右足を後ろに下げた。体も屈めて、下半身に力を蓄える。素人目からでも分かるほど、月詠の次の行動は丸わかりだった。
咥えた刃の切っ先をそのままに、己の体を顧みぬ突きによる特攻攻撃。
それは予測した中でも一番厄介な構えであった。幾ら狂人とは言え、刹那には同じ人間である月詠を殺すまでの覚悟はない。人を守るための剣が人を斬り殺してしまえば本末転倒でしかないのだから。
だが。
刹那は目つき鋭く、重心を下げると右足を一歩下げて、切っ先を月詠に向けた。
殺す覚悟はない。
それでも月詠を止める覚悟はある。
そよ風が二人の間を流れた。木々がさざ波を打ち、木の葉の影から射す日差しが影の位置をずらした。そんな自然の中に刹那は己を同化させていく。
月詠は弱くなった。だが同時にとてつもない強さを得ていた。人の精神とは、段階が一つ上がるだけでこうも人を変貌させるのか。
自然と一体化していく静の心に埋没していく中、己とは逆に周囲の自然から浮き出ている月詠の壮絶に、共感はせずとも羨望がないと言えば嘘になる。
強くなるという願い。違いはどうあれ、月詠の精神性は、未だに惑ったままの刹那の精神性を凌駕しており、それが肉体という決定的なハンデの差を埋めていから。
だからと言って、斬るという概念になることが正しいのか。
答えは否。
違うだろう。
そういうことではないはずだ。
そうなるのは簡単であり、そうならないことはとても難しいから。ならば刹那が未完成なのは当然のことだろう。
いつか聞いた言葉がある。
狂気を侠気に。
邪道を正道に。
狂気に陥らぬために、剣を持つ者は己の精神を律するのだ。
今ならそれがどれほど困難なことなのか痛いほどわかる。刀とは、突き詰めなくとも何かを斬り、殺すための道具でしかない。
そんな武器を持って、正道を、人を守ると謳うことのどれほど愚かでわざとらしいことか。
周囲と同化していく。自己に埋没するからこその葛藤。心は静かになっていくというのに、脳裏には今は考えても意味がない疑問が幾つも浮かんでは泡のように消えていく。
消えていくのは答えを得たからなのか。あるいは疑問に対する答えがないから目を背けて彼方に放っているからなのか。
一瞬で全てが終わる。文字通り刹那の決闘にて、刹那は切っ先を鈍らせる思考ばかりを繰り返す。
だがしかし、心はやはり落ち着いていた。
何処までも己に問い続ける愚行を繰り返し。
そうすることで精神を昇華させる矛盾した行為。
忌むべき種族である己が、正道を行える場に居られる切っ掛けをくれた神鳴流。
だが守ると誓いながらいつも大切な幼馴染を守れない自分。
次こそと意気込み、素子の元を訪ねてからの今。
そして。
未来は。
どうなのだろうか。
過去も、今も、分からないことだらけだと言うのに、未来がどうなのかなど分かるわけがない。
だが見渡す限りの闇の中でも、わかることは微々ではあるが確かにある。それは自分のことではなくて、周りの人のこと。
もしかしたら人間というのは、自分で思っている以上に、己のことよりも他人のことのほうがわかっているのかもしれない。
客観視。
そう、それが大切だ。
他人だからこそよくわかる。だがこれが己のことになると、途端に様々なしがらみが己への評価に靄をかけて見えなくさせるのだ。
他人こそ己を映す鏡である。
そういうものだとしたら、目の前に立つ月詠もまた、わからないことだらけの刹那を照らす、かけがえのない灯りの一つなのか。
改めて見る。己を張り続ける少女の立ち姿を見据える。
月詠は口に刀を咥えているせいか、まるで彼女自身も刀を構成する一つのパーツになっているようだった。
もしくは、刀こそ月詠を構成するパーツの一つとなってしまったか。
いずれにせよ。
彼女の恐ろしさは、増大の一途であった。
増大し続ける恐ろしき斬撃という名の自我。斬るという信念に支配された少女は、守るための戦い、逃げるために戦おうとする刹那とは真逆だ。
だからこそ、己の鏡だった。
彼女は、邪道で。
刹那は、正道で。
故に、コインの裏表。
刹那は恐ろしくも弱々しい月詠をよく見た。
少女の瞳からは伝わる意志は斬ることだけで、それ以上の余分は一切ない。
だからこそ刹那の迷いも、この一瞬だけ研ぎすまされて削られていくのだ。
再び、呼気を一つ。
二つ。
三つを経て、ゆっくりと。
月詠。修羅に捉われた哀れな少女よ。
お前から見た私はどう映っているのだろうか。
乗り越えるべき壁か。
耐えがたい醜悪な外道か。
それとも好敵手として恋い慕っているのか。
いずれにせよ、お前は斬るのだろう。
斬って。
私を斬るだけではなくて。
斬るものがなくなるまでずっと斬るのか。何も知らぬ人々すらも巻き込んで、己の外道邪道をまき散らすのか。
その結果、京都と同じ惨劇が生まれると知りながら。
お前は。
でも。
「お嬢様が居なかったら、私もそうなっていた」
強く。
ひたすらに強く。
始まりの願い。原初の祈りはきっとそこに。鍛錬とは己を強くする行為に他ならなくて。
力を求める外道だろうが。
人々を守る正道だろうが。
結果として、強くなりたいという願望だけは変わらない。
だから一歩踏み外せば刹那は月詠だっただろうし、月詠も一歩踏み出していれば、刹那になっていただろう。
だけど月詠。
結局、同じだから。
「強さの果ては──修羅場だよ」
直後、鋼は砕ける。鈍い輝きを乱反射する刃の亡骸に包まれながら、刹那は冷たい眼差しで呟いた。
「奥義、斬魔剣」
戦いは、完結した。
その時、同時に動いた二人。互いに突き出した刃の切っ先は、寸分の狂いもなく激突して、当然のように月詠の刃は砕かれ、その勢いで柄を叩いたところで力を加減したことで、月詠の口内を、濡れそぼった柄が強かに蹂躙した。
遅れて吹き飛んだ月詠は、大地を抉り、口から柄もろとも歯や血をまき散らした。ようやく止まったあとも、常人なら喉を突き破られるほどの衝撃を受けたことによって、月詠は力なく横たわりながら吐血を繰り返して痙攣している。
「……あぁ。終わりか」
夕凪を鞘に仕舞った刹那は、淡々と決着を把握した。
一度、平静に陥った心は勝利の高揚にすら泡立ったりしない。
冷たかった。
木漏れ日の暖かさすら感じられないくらい、冷たい勝利だった。
刹那は体を包む冷気を振り払うように月詠の元に歩み寄る。少女は吐血を繰り返し、腕がないため自力で立つことすら叶わない状態でありながら、それでも首を持ち上げて勝者である刹那を見上げていた。
「……」
「グッ……ゴホッ……ガホッ!」
喉を潰されたことにより月詠は刹那に言葉をかけることが出来ない。それでも黒く染まった瞳は、勝者である刹那に言葉以上に分かりやすい願いを訴えかけていた。
斬れ。
私を斬れ。
「嫌だよ。そんなの」
刹那はそう告げると、月詠の前に屈みこみその体を抱き上げた。
「なぁ。こんなことの何が楽しいんだ? 私自身の存在意義を否定する言い方だが、私達は使われるべきでも、ましてや進んで己を使うべきではないよ……冷たいんだ。邪道を極めようが、正道を極めようが、闘争であるこれらの道の先は、どっちも冷たすぎる」
悲しいよ。
刹那の言葉に、ようやく痙攣がおさまり始めた月詠は未体験の何かを見るように、驚いた様子だった。
その反応が悲しかった。
鳥族とのハーフである己以上に、邪道に染まりきった少女の反応が辛くて、だが涙を流すには、今の刹那は冷たくなりすぎている。
「月詠……もし勝者としての権利が許されるのならば、私と一つ約束をしてくれないか?」
「な、でず、が……?」
「今後、斬りに来るなら私だけを斬りに来い。私は何度だってお前を倒すよ。そしていつか、お前がそのままでは私に勝てないって、そう思えたら、それがいい」
修羅の子よ。月詠という少女、修羅に魅せられた彼女を正道に戻すには、一度の敗北だけでは足りないだろう。
なら、何度でも見せてみる。
武器を持ちながら正道を進む困難を。その道こそ本物の強さに繋がるのだと。
尤も。
「結局……どっちも冷たい」
邪道だろうが正道だろうが。
行きつく果ては、空虚な修羅場に違いない。
─
修羅に魅せられただけの少女だった。
だがそんな少女ですら、狂気的かつ一本の芯が育まれる。
ならば本物の修羅はどれほどのものとなるのだろう。刹那は麻帆良へと帰る新幹線の中で、脳裏に浮かんだ青山の恐るべき気配に、それだけで怖気を感じた。
逃げるという決意はさらに強固なものとなる。
どうやって逃げるのか。どうやって逃げ続けるのか。
手段はわからないし、刹那一人に出来ることはあまりにも少ない。
だがそれでも刹那は成し遂げなければいけなかった。
青山。
恐るべき青山。
多分、というよりもこれは確信だが、学園側の人間は信用できないと見ていいだろう。彼らが悪いというわけではなく、青山の本質を見ていない者に青山の危険性を説いた所で、それは無意味なものだからだ。
最悪、刹那に出来るのは木乃香と明日菜と楓とネギを連れて逃げ出すことだけだろう。彼女達だけは、刹那と共に青山の脅威を体験した仲間達だから。
「……木乃香お嬢様」
今暫くだけ、お待ちください。
そんなことを思いながら麻帆良へ帰るために新幹線に乗ろうと駅に入り。
「あ、せっちゃん」
聞き慣れたそんな言葉が耳に届いた。
「ホントだ。おーい刹那さーん!」
「桜咲さーん!」
「やっほー!」
振り返れば、そこにはクラスの皆が全員そろってその場に立っていた。
「え……ちょ、お嬢様!?」
驚いて目を見開き、刹那はそこでようやく気付く。
クラスの仲間だけではなくて、その他麻帆良に在籍する生徒が多数そこには存在していた。
一体どういうことなのか。刹那がその光景に当惑していると、我慢できずに駆け寄ってきた木乃香が体当たりの如き勢いで刹那に抱きついてきた。
「良かった……! 久しぶりや……! 会いたかった……」
「そ、そりゃウチも……ってどういうことですかこれ!?」
「ぇ? せっちゃん、何も知らんの?」
意外とばかりに目を開いて抱きついたまま刹那を見上げる木乃香。何がどうして木乃香を含め学園の皆がここに居るのかわからなくて右往左往しつつ木乃香の背中にこっそり手を回していると、見かねたあやかが近づいてきた。
「公然でいちゃつくのは後にしてくださいな」
「いちゃ……! わ、私はそういうつもりでは……!」
「……ならいいのですが、とりあえず刹那さん。暫く京都に居たので事情を知らないようなので、よければご説明いたしますが」
「は、はい」
あやかは小さく一つ咳払いをすると、これまでの経緯をかいつまんで説明し始めた。
その内容は刹那が驚くのも当然な内容で、そしてそれ以上に青山から逃れるという彼女の願いには好都合な話に他ならない。
「つまり……暫くは京都の復興のため、麻帆良の生徒が京都近辺に来ていると?」
「まとめるとその通りですわ。宿泊施設等の問題はありますが、私を含めて、超さん等が出資したりすることでそういう部分は上手くまとめています。勿論、刹那さんの分の部屋も確保していますので……」
「あの、明日菜さんと、ネギ先生は?」
刹那は周囲にネギと明日菜。そして他にも幾人の生徒がいないのことに気付いた。
あやかは微かに不満げな色を瞳に浮かべ、呆れた風に溜息を漏らす。
「ネギ先生は明日菜さん以下残った生徒の方々と共に麻帆良に残っているみたいです。どうやらやらなければならないことがあるようでして……」
「やらないといけないこと……」
その当たり前と言えば当たり前な言葉に。
刹那は。
何となく。
嫌な、予感がした。
「せっちゃん……」
刹那は自分の名前を呼び、腕に抱きついている木乃香を見た。決して離さないと、もしくは離れないでと訴えかけてくる木乃香の不安げな眼差しを見返す。
逡巡は一瞬だった。
刹那は、彼女を守るのだ。
「すみませんお嬢様。今は、ただ御身の隣に置かせていただけたらと……よろしいでしょうか?」
「ううん。そんなことない。ウチ、せっちゃんが隣にいてくれたらえぇんや……」
頬を肩に擦りつけて、木乃香は最近ようやく戻り始めた微笑みを浮かべた。
刹那はその笑顔に安堵の笑みを浮かべながら、同時に胸を突く小さな罪悪感に心を痛めていた。
もしかしたら、自分はとんでもない過ちを犯したのかもしれない。
だがそれでも、もうこれ以上木乃香を一人にさせるわけにはいかなかった。
守るのだ。
守って、守り続けて、これより先、彼女に振りかかる全ての災厄から守り続けるのだ。
だから──
「……頑張って」
麻帆良に居る彼らに向けて、刹那はただ祈りを捧げるしかない。
空は、そんな彼女の祈りを覆い隠すような暗雲が立ち込め始めていた。
後書き
いつから……学園祭を行うと錯覚した?