日差しが暖かく、流れる空気は緩やかに身体を包み、呼吸一つにすら美味しさを感じる。
だが全てがまやかし。偽りの空間で感じる全ては意味をなさないもので、現実世界に充満している排気ガスで汚染された空気にすら届かない。
しかし。
それでもしかし。
この空間こそ、青山と自分の内心を表すのに最適な場ではないのだろうか。エヴァンジェリンは束の間の休戦。外界とは切り離された別荘で、毎日の恒例となった青山との会合を楽しみながら、そんなことを考えた。
「どうかしたか?」
「ん? いや、なんでもない。取るに足らぬことだよ。私にも、貴様にとっても」
青山は意味がわからないといった風に眉をひそめる青山に、内心を悟らせぬ怪しい笑みを返した。
「しいて言うなら、この会合も今日で最後だからな。少々、感傷に浸っていたところだ」
青山が別荘を利用する理由は、京都での怪我を癒すという目的のためだ。かれこれ二週間以上。長いように見えるが、マグマと呪詛の砲撃を受け、さらにフェイトによって骨を幾つか折られたというのに、己の気を使った自然治癒でほぼ回復したのだから、正気を疑う回復速度だろう。
だが当の本人からすればこの程度は手馴れたものなのかもしれないが。若輩でありながら、終わりの領域にまで到達した男だ。その人生は長く生きただけの老人をはるかに超える密度のものだったろう。
例えば、化け物になりきれなかったかつての己のような。そう自嘲して、堪えきれずにエヴァンジェリンは笑った。
「お前の笑みは、気持ち悪いな」
「今さらだぞ青山。貴様がそうした。貴様の責任だ。だから責任はしっかりととれ」
打てば響くように、青山の率直な感想を真っ向から突き返す。言ってることは事実なので、なんとも複雑な感じに青山は唸って視線を逸らした。
そんな情けない姿を鼻で笑う。なんにせよ、随分と長くこの男とは接した。もう充分に語りつくしたし、言葉で伝えることなんて特にない。
あるとすれば、そうだ。
「なぁ青山」
「……何だ?」
椅子に腰掛けてのんびりとしている青山が答える。エヴァは偽りの空を見上げて、ただ自然のままに口ずさんだ。
「次に会ったとき、貴様を殺す」
挨拶をするような気軽さで、しかし聞けば誰もが絶望するほどの恐ろしい殺気を漲らせたその言葉に、青山は特に動じた様子も見せず。
「それは嫌だなぁ」
などと、当たり前な回答を口にして、エヴァンジェリンを笑わせるのであった。
─
雨は勢いを増すばかりだ。
その夜、錦宗平とその仕事仲間は、京都災害の後からボランティアで行っている夜の麻帆良の見回りをしていた。
話題に出るのは、休みを取るたびに怪我をしてくる、寡黙ながら誠実な好青年である青山のことだ。些か以上に浮世離れしており、表情も常に変わらないために不気味といえば不気味なのだが、彼らの中での評判はすこぶるよかった。
仕事の勤務態度が素晴らしいことや、表情が変わらない代わりに、身振り手振りで丁寧に感情を表すその真摯でありながら、田舎者のような雰囲気も評判がいいのに繋がっていたが、真の理由は別にある。
ともかく、青山は透明なのだ。それこそ無表情と相まって、己がないように見えるものの、それ故に打てば響き、放てば返す。ブラックホールのような黒い瞳も、裏を返せば何もかも透かす透明と同義であった。
特に、彼の相方である宗平は青山のことを気に入っていた。我が子を事故で失った彼にとって、青山は子どものようでもあったことも理由だろう。ともかく、職場では人気者である青山の話題は毎度尽きることはなく、本人がいれば赤面すらしたはずだ。
「……しかし錦さん。あの子は一体何を抱えているのかねぇ。俺達じゃ力になれないもんか」
「阿呆。あの怪我を見ればわかるだろ。兄ちゃんの抱えてることは、きっと俺らでどうこうできるもんじゃねぇ。」
あの年齢で表情が変わらなくなったのだ。そして毎度の休暇と怪我をしており、さらに学園長の推薦でここに来た。
これだけでも得体の知れない何かを抱えているのは明白だった。だが宗平は無理に理由を問いただすつもりはなかった。
事情はわからなくても、傍にいることでその苦労を取り払うことは出来るはずだ。最近は生徒に挨拶されることも多くなり、昼休みのときはどこか嬉しそうに「友人が出来ました」と、少々頬を染めながら言ってもいた。
少しずつ変わっている。最初のときに感じた、冷たい刃のごとき印象も随分と様変わりしてきたから。
青山は透明な感性はそのままに、普通の人間のように成長をはたしたのだ。宗平は我が子の成長を見るように、青山の変化が嬉しかった。
だから、兄すらも失った彼の隣で、父親とまでは行かないが傍にいよう。そう新たな決心をして、唐突にそれは現れた。
誰もがそれが現れたとき驚きに声を失った。見た目は全身黒尽くめの、少々古臭い帽子も被った紳士の如き姿。だがまとう空気があまりにも現実的ではなかった。
まるでその老人の周囲だけが異界のような錯覚。いや、宗平を含めた彼らはそれが現れる瞬間を確かに見ていた。
突如、空から雨とともに降りてきたのだ。周囲には高さのある建物などないというのに、道の真ん中に男は悠然と降り立った。
それは、何処までも異常な光景であった。
「ふむ……魔法関係者から逃れるのを意識するあまり、一般人への警戒を怠ってしまったようだ……」
老人はそんなことを呟くと、困惑と恐怖で動くことも話すことも出来ない宗平達を見据えると、「残念だが、見られたからには眠ってもらおう……殺しはしない」そう言って、一輪の花を取り出した。
直後、男は人間には考えられない跳躍力で後方に飛んだ。
遅れて道が爆発した。そうとしか思えぬ斬撃が発生したのだが、宗平達には理解できない。
最早全てが常識の枠から離れた出来事だった。逃げるという意識すら浮かぶこともなく、爆撃の跡地に降り立つのは、宗平に見覚えのある人物。
「あの時の、姉ちゃん?」
背中しか見えないが、そこに立っていたのは、確かに青山と世間話をしていた女性、葛葉刀子その人だった。雨に濡れ滴る姿は、この状況を忘れるくらいに美しく、扇情的な色香がむせるほどにあふれ出ているようだ。
「……もう追っ手が来たか。上手く撒いたつもりだったが、君はあのメガネの黒人の仲間なのかな?」
「えぇ……尤も、彼は今怪我をしているので動けませんが……代わりに私があなたを倒します」
そう言って、女性が扱うにはあまりにも長大な刀を刀子は構えた。瞬間、対峙する男の表情に焦りと恐怖が滲むが、すぐに表情は引き締まり、構えを取る。
「私の目的のために、悪いが君に構っている暇はないのだよ」
「……構いませんわ。どうせ、すぐに終わります」
そして対峙も一瞬。一般人である宗平達を置き去りにして、二人は同時に飛び出した。
瞬動を利用した高速戦闘。技量の上で老人を圧倒する刀子は、距離を詰めると同時に、容赦もなく充実した気を吐き出した。
「奥義、斬岩……!?」
だがその瞬間、刀子は己の気が雲散霧消するのを肌で感じて当惑した。構築した技が紐解かれるような違和感。そしてその違和感を覚えたことによる隙を男は見逃さなかった。
「遅い」
「ッ……!?」
刀子が防御に回るよりも早く、男は野太刀の内側に入り込む。大柄な肉体からは考えられぬほどに洗練された踏み込み。余分等微塵もない動きは、風のように防ぐ余地も与えず刀子への接触を果たす。
接触状態から、刀子の腹部に痛烈な一撃が炸裂した。気で強化されたとはいえ、鳩尾を抉られたような男の拳の威力は耐えられぬものではない。たちまちミックスされた血液と胃液を撒き散らして、刀子は雨に濡れた地面に叩きつけられた。
「ぐぅ……!」
「はぁ!」
痛みにうめく暇もなく、地面を陥没させるほどの威力を受けた刀子に追撃の蹴り足が迫る。踏み込みとは大地の反発を得るための打撃と同義。大地を砕く踏み込みを、大地ではなく対象を刀子へと変える単純ながら恐ろしい脅威。胸部目掛けて振り下ろされる足裏を、刀子は苦悶しつつ横に転がることで間一髪逃れた。
えぐれた大地の破片が刀子の頬を打ち、足一個分で地面をえぐる足に冷や汗。だがその程度で止まることはない。倒れたまま身体を回して、両足で刀子は男の足を挟みこむ。
「むっ?」
「シッ!」
挟んだ足をそのまま捻り上げる。バランスを崩した男は勢いのまま地面に激突した。
その隙に身体を起こして距離をとる。追撃はしないし、反撃は来なかった。際外は立ち位置が逆転した状態。状況は刀子の腹部には鈍痛が残ったままで、男は顔面を強かに打ちつけたものの、まるでダメージになっていないので刀子に不利。
何よりも、先程の一連が引っかかっていた。身体に染み付いた神鳴流の奥義が放てない異常。偶然でも失敗でもない。明らかに何かの干渉の結果、刀子の奥義は散らされたのだ。
「……おや、追撃がないぞ?」
男はわざとらしくゆっくりと起き上がると、余裕たっぷりの様子で刀子に向き直った。
鼻からうっすらと血を流しているがその程度。何よりも刀子は、この見た目だけ人間に似せた者が、あの程度で怪我をしているとは思えなかった。
「この学院に何のようかしら……悪魔」
「おやおや、もうばれてしまったか……自己紹介が遅れたね、私はヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマン伯爵。伯爵とは名乗っているが、しがない没落貴族だよ」
「爵位級の、上位悪魔か……」
刀子は苛立たしげに愚痴を零した。
悪魔と呼ばれる中でも一際戦闘力が高いのが爵位を持つ悪魔だ。伯爵、といえばそれなり以上の悪魔で、さらに奥義が使えないというのは状況的に分が悪かった。
何より、立ち位置が悪い。刀子は意識されぬようにヘルマンの背後にいる宗平達を見た。
今はある程度平静を取り戻しているように見えるが、それでも幾人かは恐慌状態で動けないように見える。
奥義を散らす得体の知れぬ技も脅威だが、ここで人質をとられては話にならない。
ならば早々に決着をつける。そう覚悟を決めた刀子は、決意を宿した眼でヘルマンを見据えた。
その純粋な闘志の冴えにヘルマンは楽しげな笑みを浮かべつつ、構えを再度とる。
これが調査対象であるネギであれば、加減したうえで負けてもよかったが、相手が完成された個性ならば話は別だった。
「どうやら君相手に手加減は不要みたいだ……様子見は止めて、増援が来る前に終わらせよう」
直後、ヘルマンがコートを翻すとそのコート自体が巨大な一対の翼に変貌した。さらに両手両足は異様に伸び、巨大な二つの角と、滑らかな黒い尾まで生える。
上位悪魔の覚醒した姿。人間の姿を象っていたときとは比べ物にならない魔力が巻き起こり、刀子の身体に叩きつけられた。
「行くぞ」
ヘルマンは卵に目と口をつけただけの異様な顔を笑みに変えて、口に魔力を収束した。
直感が刀子に回避を訴える。そして収束した魔力砲撃は、雨粒を石化させながら、瞬動で右に飛んだ刀子の服を浅く削り後方で爆発した。
「チッ」
刀子は石化を始めたスーツを躊躇せず脱ぎ捨てた。石化を始めたスーツは地面に落ちるときには完全に石化し、地面に落ちると同時に砕け散る。
そのときには刀子はヘルマンの懐に入り込んでいた。瞬動二連。スーツを脱ぐという焦りの色を見せることで相手の余裕を誘ったところでの奇襲。これにはヘルマンも完全に対応出来ない。表情がわからずとも驚いているのは手に取るようにわかった。
一線が空間に走る。線上の水滴を両断しながら、真一文字の斬撃をヘルマンは腹部を浅く斬られながらも逃れ、お返しと腕を突き出して魔力を放った。
「ぐ……!?」
二度、刀子の鳩尾を強かに打つ重い打撃。人体の構造上、誤魔化すことの出来ぬ激痛に、吹き飛びながら刀子は身体を九の字に丸めた。
無様に地面を二転、三転。回転するたびに吐き出される鮮血のテールランプを引きながら、しかし刀子は意識を切らすことなく踏み止まった。
空を見上げれば口内に再び石化の光を収束させたヘルマン。刀子は意を決して気を刀身にかき集めた。
「奥義……斬鉄閃!」
石化の一本腺が刀子目掛けて放たれるのと、螺旋状の気が振りぬいた刃の線の形にヘルマン目掛けて飛んだのは同時だった。
ようやく放つことが出来た膨大な気の出力は、石化の光すらも斬り裂いてヘルマンに激突し──はかなく散っていった。
「……やはり、一定距離内での無効化か」
「正解だよお嬢さん。報酬の景品はないがね……!」
ヘルマンが虚空で拳を連打した。拳圧と魔力が合成された怒涛の連撃が刀子に襲い掛かる。
刀子は視界を埋め尽くす弾丸豪雨を避ける余裕もなく、その場で迎撃をせざるを得なかった。砲弾をその細腕で逸らす作業に苦悶の表情が浮かぶ。
だが凌ぐ。
斬って。
斬りしのぐから。
これは、そこまで難しいことではなかったと、刀子はくるんと思考が反転したのを自覚した。
「奥義、雷鳴剣」
空が落ちる。雷雲ではなく、人間の手から眩い光の雷は放たれた。襲い掛かる弾幕を焼ききり、しかしヘルマンに届く前にそれらは霧散。
無駄だ、そう叫ぼうとしたヘルマンだったが、叫びよりも早く刀子はヘルマンと同じく空を飛び、何もない虚空を足で踏み抜いて飛んだ。
虚空瞬動。上空に飛び、虚空を掴んで鋭角に迫る刀子。
その速度にヘルマンは困惑した。
否。
困惑したのは、その眼。
「何だというのだ……君は」
顔を抉ったかのような、光を飲み込む闇色の瞳。
そして、惨劇は幕を開ける。
─
ガンドルフィーニがそれを探知できたのは、エヴァンジェリンが学園の警護の任を放棄して久しく、ローテーションで学内警護の担当をしており、彼が今夜の当番であったからだった。
結界に得体の知れない魔力反応を感知したガンドルフィーニが慌ててその場に急行したとき、その場にいたのは初老の紳士、ヘルマン。ガンドルフィーニは果敢に戦いを挑むもののまんまと煙に巻かれてしまったのだった。
「くっ、急いで応援を……」
「ガンドルフィーニ先生」
携帯を取り出して応援を呼ぼうとしたとき、聞きなれた声が彼の耳を打った。
振り返れば、おそらく異変をかぎつけてきた刀子が、愛刀を片手に鋭利な気を充満させて立っていた。
「よかった。葛葉先生、学内に不審者が一人、いや、使い魔らしき反応もあったので複数現れました」
刀子はガンドルフィーニの説明に表情を引き締めた。
「……京都の件もあります。迅速に、かつ的確な対処をしましょう。木乃香お嬢様の身が心配です。私はその不審者を追いますので、先生は応援を呼んでお嬢様の警護を」
「わかりました……くれぐれも気をつけて」
「はい。先生も気をつけてください」
刀子はそう言って華やかに笑った。傘もささずに来たせいで雨に濡れた刀子は、最近の変化で色気が増したこともあり、目に毒であった。妻帯者であるガンドルフィーニは顔を赤らめながらも、その姿から顔を赤らめて視線を切り。
それが、明暗を分けることになる。
凛。
という音の前、透明でありながら肌に張り付くような気持ち悪さを感じてガンドルフィーニは咄嗟に背後に飛び、しかしその胸部が激痛とともに赤い花を咲かせた。
「なっ」
当惑と、激痛、そして目の前で笑顔を浮かべたまま抜き身の真剣を振りぬいた姿勢の刀子。
着地とともに膝をついたガンドルフィーニは、信じられないといった様子で刀子を見上げた。
「何を……何をして……」
「え? 斬っただけですけど」
それが何か?
ガンドルフィーニに以上に困惑した表情でそう言った刀子こそ、彼を混乱させた。
「斬ったって……」
「って、あら、申し訳ありません。怪我させてしまいましたね。どうしましょう。とりあえず斬りますね? 怪我なんてさせて私ったら何をしてるの……あぁもう、斬りますから動かないでください」
ガンドルフィーニは、一歩一歩、真剣を掲げて近づいてくる刀子が、本当に刀子なのかわからなくなった。
何を言っている。
この女は、何を言っている。
「待て! 葛葉先生! 正気に戻るんだ!」
「正気も何も普通ですよ? ……いえ、わかります。わかっていますよ先生。確かに私は先生に怪我させてしまいましたけど、斬るのですから。斬るのなら当然です」
「は、ぁ……え……?」
「斬りますから。死んでしまいますけど。あぁ、殺すなんて酷い。そんなの許されないわ。でも斬るのは仕方ないですし。でも斬ったら死ぬ。死ぬのに斬った。斬ったら死ぬ。死ぬ? 斬る。あれ? おかしい。ううん、おかしくないわ。斬るのは普通で、でも斬ったら死ぬ。でも斬らないと、斬るのは当たり前だから、怪我も痛みも死ぬのも殺すのも、全部斬るから」
刀子はうわ言のように意味のわからない言葉を羅列したと思うと、そっと瞼を閉じてからゆっくりと開き、痛みすら忘れて唖然とするガンドルフィーニを。
「怪我して痛んで死んで殺して……斬るのです。先生」
光すら飲み込む黒い眼で、見下ろした。
「う、うぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
ガンドルフィーニの生存本能が逃走を叫んだ。咄嗟に取り出した拳銃で、相手が同僚なのも関わらずその顔面目掛けて弾丸を撃つ。
これを咄嗟に弾いた刀子の隙を突いて、ガンドルフィーニはその場から離脱した。全力で逃げ、振り返ることなく、道すらも決めずにひたすら走った。
得体の知れぬ深淵が広がったような錯覚に陥った。恐怖を超えた何かが彼を動かした。
身体を構成する全てが逃走を訴えた。叫ぶ体力すら足を動かすことに使って、そしてガンドルフィーニは当然のように全力で走り続けた影響で地べたに倒れた。
「あ、ぅ」
幸い、斬られた怪我は命に関わるほどではない。それでも治癒魔法を早急にかけるほどの深さだ。ガンドルフィーニははいずりながら近くの木に寄ると、必至に身体を起こして幹に背を預けた。
「葛葉先生……」
何があったのか。落ち着きを取り戻し始めた思考で、ガンドルフィーニは刀子の変貌を冷静に考えようとする。
しかし何故彼女があんなことになったのかわからなかった。
とりあえず、応援を呼ばなければ。ガンドルフィーニは懐に手を入れて、先程の一撃で手から落としたのを思い出して力なくうなだれた。
激痛を無視して動いたため、最早一歩も動くことは出来ない。
何より。
何より、怖かった。
得体の知れない化け物の口の中に入れられるような、捕食される哀れな草食動物の如き心境だった。
今は心が折れている。動くことすら出来ない。
雨は強かに身体を打ち、じっとりと体温を奪っていった。
いや、雨はとても暖かくガンドルフィーニを癒している。
体温は雨にすら暖かさを感じるほど低くなっていた。おかしい話だが、身体は冷たかった。
まるで、刃のようだとガンドルフィーニは思う。
空を見上げれば、雷雲が雷を纏いながら、雨をいっそう強くさせていた。
その光景を見てから、ガンドルフィーニの意識はゆっくりと沈んでいく。まるで投げ捨てられた人形のように力なく眠る彼を見るのは、優しく降り注ぐ雨だれのみ。
不幸中の幸いか。
あるいは、不幸に重なる災厄か。
この先の光景を彼が知らずにすんだことだけは、せめてもの救いとなったことだろう。
後書き
次回、悪魔が泣き出す。