桜咲刹那が京都の惨劇の後も、護衛対象である木乃香を麻帆良に返してまで一人残ったのは、未熟な己を鍛えなおすためである。
ネギ達が京都を出て早々、その日のうちに刹那は行動に移ることにした。
幸いにも今回の件によって西と東の関係はある程度改善し、刹那は久しぶりに神鳴流の総本山に戻り、そこでとある人物の居場所を知ることが出来た。
「だがあまり近寄らないほうがいい。思うところがあるのか、ここ数ヶ月ほど山に篭ったまま出てこないのだ。京都の件を聞いても出ようとしないのは、それほどの何かがあったのだろう」
高弟の一人から聞いた助言に感謝しながらも、刹那は一人人知れぬ山奥に乗り込んだ。代々神鳴流の剣士が鍛錬の場として選ぶその場所は、清涼な空気が充実しており、精神を研ぎ澄ますには最高の場である。
道なき道も刹那にとっては苦にもならない。愛刀の夕凪の入った竹刀袋を背負い歩くこと暫く、刹那はようやく目的の場所に辿り着いた。
木々の迷路を抜けた先に広がるのは、見上げるほど巨大な滝を中心に試合が出来るほど大きな一枚岩が特徴的な開けた場所だった。その大岩の上に目当ての女性が座っているのを見て、刹那は声をかけようと──躊躇う。
「……」
ただ座禅を組んでいるだけだというのに、妙齢の女性は目が眩むくらいに膨大な気をその内側で練り上げていた。だが驚くべきは、恐るべき青山に匹敵するほどの気を練り上げながら、刹那が視界に収めるまでそれを外界に晒さないほど濃縮していることと、その気が春に吹く暖かな風のように心地よいものであったことだ。
目が眩んだのは、刃のように鋭いのに、女性らしい柔らかさがその気に含まれていたことによるアンバランスさからか。そうして暫くその美しい座禅に見惚れていると、女性は閉じていた瞼を開いて、立ち尽くす刹那にそっと微笑みかけた。
「桜咲、刹那……だったかな? 大きくなったな」
名前を呼ばれて正気に戻った刹那は、反射的に片膝をついて頭を下げた。
「失礼しました! 神鳴流、桜咲刹那、次期当主、青山素子様に拝見できたこと──」
「そういう堅苦しいのは止めてくれ……疲れる」
そう言って、もう一人の青山にして、現神鳴流最強の剣士、青山素子は恥ずかしそうに頬を掻いた。
鍛錬所より数分歩いた場所にある木製の小さな小屋に招かれた刹那は、自分が決断したこととはいえ、雲の上の存在である素子と対面していることに緊張を隠せずにいた。
素子はそんな刹那の緊張を知り、それとなく緊張を解すために雑談をしたりとってきた魚を焼いたりした。
そんな気遣いに気が回ることのない刹那は、出会ってからこれまで緊張し続けていて、素子は刹那の緊張振りに、何となく懐かしさすら感じて笑みを浮かべた。
それも対面して、雑談をしながらともに同じ食事をすれば緊張も和らぐ。ようやく落ち着きを取り戻した刹那は、串に刺しただけの魚を美味しそうに頬張る素子に、質問を投げかけた。
「京都のお話は聞いていますか?」
「あぁ。人が沢山死んだみたいだな……」
どこか人事のように語る素子の言い草に若干の苛立ちがこみ上げなかったといえば嘘になる。刹那はそんな自身の気持ちを吐き出すように、語気を強めながら視線を下げる。
「私は、あの惨劇で己の無力を感じました……木乃香お嬢様を何とか取り返すことが出来たとはいえ、それ以外に何も出来なかったのです。魔から人々を守るのが神鳴流の剣士であるというのに、しかも──」
「弟に……青山に会ったか」
刹那の言葉に素子は続けた。ハッと顔を上げた刹那が見たのは、途端に表情が失われた素子の顔だ。まるで別人になったかのような様変わりに言葉が失われた。
代わりに今度は素子が淡々と語りだす。
「私は数ヶ月前に、アレとやりあった。理解できなかったよ。こんな人間がこの世に存在するのかと……今だって、怖くて怖くて、仕方ないんだ」
「素子様……」
刹那にとって、彼女が青山と戦っていたことも驚きだったが、それ以上に素子であっても青山が怖いという事実が衝撃的だった。
「兄上は、詠春様は見つかっていないのだろ?」
「は、はい……おそらく、総本山を襲ったマグマによって命を奪われたと……」
唐突に変わった話題に、刹那は驚きを引っ込めて懺悔するように告白した。あの悲劇は刹那が間接的に招いたようなものでもある。だから責めを幾らでも受ける覚悟もあった。
しかし素子は「そうか」と、どこか他人事のように語る。
「多分、私の責任だ」
「え?」
「山に篭らず、京都に戻っていればその惨劇は免れ、兄上が死ぬことはなかっただろう」
「そんなことは……」
「あるのだ、桜咲。恐怖せず、青山をあの場で殺していれば、惨劇は回避されていたはずだ」
素子の言葉は有無を言わせぬ説得力があり、同時に疑問が浮かぶものだった。
今は京都の惨劇の話をしていたはずだ。それが何故青山を殺すという話になっているのか。確かに恐ろしい男ではあった。だが事実、青山がいたからこそ惨劇は被害をあそこまで抑えられたことも事実。
意味がわからないといった刹那の表情を見て、素子は己の説明力のなさに内心で舌打ちをした。だからわかりやすく、簡潔に告げる。
「青山が斬った」
「……それは、どういう」
「あの修羅が……あぁクソ。姉上はやはり気が狂っている。桜咲、悪いことは言わない。お前に守りたいものがいるならば、一刻も早くその者を連れてここに来い」
素子はそう言いながら紙と筆を取り出して、ひなた荘という場所の住所を書いた。
問答無用でそれを押し付けられた刹那が目を白黒させていると、素子は疲れ果てた老婆のように背を丸めてため息を吐き出した。
そして刹那は背筋に怖気が走るのを感じた。素子の様子が反転し、最初に見たあの優しい気が嘘のように、冷たく、凛と奏でるような音が今にも聞こえそうな様相に変わっていく。
「私の予想が正しいのなら、今のアレを止められるのは、この世で私を含めて数人いるかいないかだろう。あぁ言わなくてもいい。お前の身体にアレの気が僅かに染み付いてるのはわかってる……そして木乃香お嬢様が麻帆良にいること、姉がアレを麻帆良に送ったこと。全部、わかってる……わかってるが……怖いのだ。わかってしまうから怖い。私はいい、だがアレはいつか私の大切なものも斬ってしまうのではないかと思う、いや、確信がある。そのとき、私は私のままなのか? 私は今の私ではなく、その向こう側に行ってしまうのではないか? 冷たい場所が広がる。冷たくなっていくのだ。凍りつくのではない。触れば斬り裂く冷たさが延々と広がる……アレはそこに平然と立っている」
素子は背筋を正しながら、弱音を吐露した。まくし立てるように言いながら、一言一句が刹那の脳裏に刻み込まれた。言葉自体に重さが、冷気が込められているようで正気が失われていきそうになる。
青山。
あの青山が、素子をここまで追い詰めたというのか。刹那は愕然とした面持ちで、なおも語る素子を見据えた。
「私はもうアレと真正面から対峙するなんてしたくない。京都の件は間違いなく青山が関わったから惨劇に繋がったのだ。証拠なんて必要ない。青山だよ。青山が青山だというだけで全ては繋がる。アレが元凶だ。そして、アレを後一歩まで追い詰めながら、恐怖で逃した私の責務だ。そしていつかアレは私の前に現れる。そのとき、一瞬だけでも同じ領域に辿り着ければ、アレと相打つことは可能で……すまない。少々、取り乱した」
「いえ……気になさらないでください」
「そう言ってくれると助かる」
お茶を一口飲んで落ち着きを取り戻した素子は、その場で座禅を組んで己の体内に気を練り上げた。
すると、素子の身体から発揮されていた冷たい気配が吹き飛ぶ。再び誰もを包み込むあるがままの気に戻った素子は「青山と仕合ってから、この様だ」と己を恥じた。
「異変は青山に刀を斬られたその日からだった。今はどうにか抑えるところまできたが、最初の頃は一秒だって気が抜けない状況が続いたんだ……恐ろしかったよ。もし刀ではなく、己自身を斬られたらと思うとな」
「素子様……」
刹那はようやく素子がこれまで山に篭っていたのかを理解した。山から出たくても出られなかったのだ。
今もなおこの人はあの恐ろしい男と一人で戦っている。刹那は神鳴流として素子の高潔さを誇らしくすら思った。人間とも呼べぬ外道畜生と戦って、それでも修羅に陥らぬ心の強さ。
やはり、押し付けがましくても、この人しかいない。刹那は覚悟を決めると、一歩下がり床に頭をこすり付けた。
「無礼ながらお願いがあります! 素子様が今も苦行に立たされているのは重々承知のうえで! それでもなお! 私は人を守る強さが欲しいのです!」
「私は、誰かに指導できるほどではない。未だ道を彷徨う求道者だ」
「ならば隣に、せめて素子様の求道をその傍で見させていただけないでしょうか?」
何卒お願い申し上げます。刹那は頭を下げることしか出来ない。だが決して退くことはない強固な意思がその姿からは感じられた。
素子はそれでも何かを言い募ろうとして、だがこの少女はやはり動かないだろうなぁと、かつての己を見るような複雑な気持ちで納得するのだった。
「一週間だ。それが過ぎたら一度戻り、改めてまた来るといい……本業は学生だろう? 勉学を怠ることいけないからな。本当に……うん……」
勉学という言葉が何かしら響いたのか。遠くを見つめながら数度うなずく素子。だが刹那は期間は短くとも、素子の師事が得られたことに喜び、ただ力強く「ありがとうございます!」と答えるのみであった。
─
思ったよりも俺は人の輪に入れるようになったのだろう。
などと自惚れてみるくらいちょっとだけだったらいいはずだ。何せあの夜の一件以来、刀子さんとは少々疎遠であるものの、魔法関係者の皆様に、清掃中に挨拶をされることが多くなった。
子どもの魔法使いも挨拶するので、必然、その周りの人達にも挨拶される。気付けば軽く挨拶をするだけではあったが、挨拶が挨拶を繋げて、色々な人と関われるようになっていた。
「こんちゃーっす」
「こんにちは」
今も清掃中に男子生徒に挨拶をされる。俺も律儀に返して、それだけで何だか嬉しくなってしまうのだ。
だがここ数日で爆発的に人数が増えてきたので、錦さんには「ちゃんと仕事しろよ?」とからかわれつつ釘を刺されて赤面ものだったが。
ともかく。
良き日々である。
誰かと触れ合い、繋がっていく。陽だまりは連鎖していき、暖かな陽気が俺をまどろみに引きずり込む。それは冷たい修羅場とは違う面白さがあって、これをそのままあの冷たい感覚に引きずり込んだら面白いだろうなぁとか思ったり。
なんて、誰かに聞かれたらからかわれそうなことを考えていると、いつの間にかこの場の清掃が完了してしまった。毎日のように掃除していたため、意識せずともこの程度なら出来るようになったのか。我ながら進歩したよなぁと、いっそ刀もそうだが清掃の道を究めるのもいいかも、なんてね。
「あら、青山さん。こんにちは」
そうして惚けていると、不意に俺の背中越しに聞きなれた声が届いた。
慌てて振り返る。そこにはいつの間に俺の傍に現れた刀子さんが、憑き物が落ちたような表情で俺に笑いかけてくれていた。
「びっくりした……あ、失礼しました。お久しぶりです。葛葉さん」
「あぁそんなにかしこまらなくてもいいわ。刀子って呼んでちょうだい」
「はぁ」
なんか。
なんか、変わったなぁ。
あの夜に会ったときは、蛇に睨まれた蛙。猫に捕らわれた鼠。買い手を見上げるチワワ。そんな哀れむべき雰囲気が全開だったのだけど。
男子もそうだが、女性も三日会わなかったら活目せよといったところだろうか。妙齢の女性らしい色気を滲ませた今の彼女は、すれ違う通行人が何人も振り返るほどに美しかった。
「いいことでもありました?」
俺は率直にそう聞いてみるが、葛葉さん、もとい刀子さんは困ったように頭を振った。
失礼なことを聞いてしまったのか。その表情を見て申し訳ないと頭を下げた俺の肩を刀子さんは優しく抑えた。
「それ、もう何度も聞かれてたから混乱しただけで、謝らなくていいわよ。むしろ、私が謝らないといけないってずっと思っていたの」
「そうなのですか? 俺は葛葉さん……刀子さんに何か迷惑された覚えはないのですが」
そう言うと刀子さんは苦笑して「ほら、あの夜のことよ」と告げてきた。
あの夜は……んー。刀子さんが驚くのも当然だし、俺はそれほどのことをしてしまったからなぁ。
だから気にしないでくださいと言ったが、刀子さんは「そういうわけにもいかないわ」と返してきた。
「魔法先生の方々の前で恥をかかせたのは事実よ。ごめんなさい。今思えば、どうしてあなたをあそこまで怖がってたのか不思議でたまらなくて……」
「ですが、確かに俺は鶴子姉さんに取り返しのつかない怪我をさせましたからね。それで道場に連れていったのだから、怖がらないほうが当然だと」
「そうなのだけど。でもほら、あれは斬ったから怪我をしたので、それなら仕方ないかなぁと。勿論、怪我させたことは反省しなくてはいけないわ。でも斬るのは仕方ないものね」
んー。まぁ斬るのは普通だしなぁ。
「ほら、しかし怪我はしましたし。姉さん腕がぽーんって」
「そこよりも驚いたのは血の量だったわ。第一、あなたが腕を斬るところは誰も見ていないでしょう?」
「あ、それもそうか」
「ふふふ、うっかりね青山さんは……それでまぁ仲直りでというのも変だけど、少し相談してもいいかしら? ほら、秘密の共有で仲良しってあるでしょ?」
刀子さんの提案に内心で苦笑。秘密の共有で仲良しは、いかにも女の子らしいなぁとか、自分の年齢考えてくださいとかふと思ったり。
「何か変なこと考えたかしら?」
「いえいえ、ところで、相談というのは?」
錦さんは空気を読んだのか刀子さんが来た時点でこの場を離れて次の場所に先に行っている。周囲の人も俺達の話に耳を貸すことはないだろう。幾ら刀子さんが人目を引くとはいえ、往来の場である。わざわざ立ち止まって聞くような人はいないだろう。
それがわかっているのか。刀子さんも場所を移そうとはせず、なんら気負いもなく口を開いた。
「えぇ、明日彼氏とデートなのだけど……久しぶりだからちょっと緊張してて。男性にとっての、理想のデートのシチュエーションとか何かないかしら?」
うむぅ。
これは軽く聞こうとした罰か。中々難しい問題だなぁ。俺はこの年になっても彼女も出来たことないし、好きな異性も出来たことはない。
しいて言うなら好敵手とかは沢山斬ったけど……
俺ではそういう方面でしか助言できないなぁ。
「とりあえず」
「とりあえず?」
「二人っきりになって斬りあえばいいのではないでしょうか」
好きな相手とは斬りたい相手だ。上手くいけば冷たいあの場所に一緒に行ける。だから一般論として俺はそう告げたのだが、刀子さんはどうやらお気に召さなかった様子。不満げに眉をひそめると、俺に詰め寄って怒鳴ってきた。
「そんな当たり前なことは聞いてません!」
「そうですよねぇ」
やはり俺には恋愛ごとの相談を解決は出来ないみたいだ。そも、斬ることなんて普通なのだし、そんなこと言われても困るのは目に見えていたというもの。
呆れた様子で「相談しなければよかったわ」などと自分から勝手に提案したくせに理不尽なことを言う刀子さんに呆れつつ、とりあえずせめてものということで、最近ではかなりよかった詠春様を斬ったときの感想とか語ったりする。
刀子さんもこの話は気に入ったらしい。「私なら一瞬で斬らないで味わって斬るわ」「ですが断続的な音はその人の感性を傷つけますよ」「それでも一瞬で終わらせたらそこだけしか斬りとれないから、やはり別の角度から行うべきよ」などとそれぞれ意見を交わしつつ、俺達は錦さんがいい加減にしろと携帯電話越しに怒鳴りつけてくるまで、雑談を続けるのであった。
翌日、駅について買った今朝の新聞に、首だけの死体が見つかるという殺人事件が新聞の一面に載ってるのを見た。帰り際に交換した番号に電話して刀子さんに聞いてみたら、斬ったのはやっぱし刀子さんだったので、どうでしたと聞いたら、刀子さんは電話越しに。
「汚い声でしらけました」
などと一言。
ご愁傷様、そういうこともよくありますよ。なんて俺が冗談めかして言ったら、やっぱし大声で怒鳴られた。残念。
そんなよくある朝の出来事。俺は今日も笑顔の陽だまりを守るために、麻帆良の清掃業務に勤しむのであった。
「おはようございまーす」
「おはようございます」
うん。
今日も麻帆良は平和だなぁ。
後書き
日常(ちゃんばら)