暗がりの森を駆ける。
月明かりすら遮る木々の影の間を、俺は無音で駆けていた。
冷たい空気に、白い息が淡く溶ける。息と共に、今にも消えそうになる体、でも月光に濡れた暗い瞳だけは、何もかも飲み込む闇として、確かにそこに存在していると思う。
一寸先もわからぬ闇を、我が庭の如く容易に駆け抜ける。木々を縫いながら、迷いなく疾駆して向かう先からは、聞こえてくる僅かなざわめきが聞こえた。
「……」
言葉もなく、ざわめき元へと駆けつける。そこに現れている無数の妖怪変化を、俺は腰の鞘から抜刀した冷たい鋼の煌きで、歓迎した。
月夜の光は、濡らすように鋼の鈍さを照らし出す。
直後、解き放った銀色が、その場に居た全ての妖魔を斬り滅ぼした。
空気すらも、斬り裂かない。
斬りたいものだけ、今回は妖怪だけを斬り裂く刃。
俺は、俺の斬りたいものしか斬らない。だから、この生い茂る自然も、空気も、全部全部、斬るつもりはない。
でも、妖怪だけは、正しくはその繋がりは斬る。
単純だ。
選択された斬撃対象。結果、俺の振りに耐えられなかった刀の刀身が半ばから斬れたのは、まぁ、悲しいことで。
「……うん」
煙に消える妖怪達を見送るでもなく、今の斬撃で半ばから失われた刀身を、ぼんやりと見つめた。
「……」
俺は、俺の太刀に耐え切れぬ刀に申し訳なさを感じていた。
君を斬ってしまった。敵を斬るだけではなく、俺は君の鋭利すら斬ってしまった。
悲しいと思う。刀に生き、刀と進みながら、刀を殺してしまう。そんな自分が情けなくもあり、仕方なく感じる。
素子姉さんの仕合で使った十代目なら、この斬撃にも二千くらいなら耐えたのだが、ないものねだりは意味なしである。
なんにせよ、俺は斬るのだ。
それは、使うべき刀に関しても同じである。
斬る対象は決められる。
その分だけ、刀─俺─も斬ってしまう。
それが、俺が見つけた、斬るということへの答えだったから。
まぁ、斬れるのだから斬るだけで。
それ以上もそれ以下もないだけの話なのだ。
とても、つまらない話である。
「……冷たい、いや、暖かい?」
軽いとはいえ運動をしたために、夜の空気が体を冷やす。一方、内側から火照った体は熱く、胃袋にカイロを突っ込んだような感覚。
そんな当たり前の感覚を、当たり前のように自覚して、ほぅっとため息が漏れる。
清掃員として働き始めてから一週間。
この学園に現れた侵入者を、今日始めて斬った。
といっても、妖魔達と現世を繋ぐ糸のようなものを斬っただけなのだが。
これは、なるべく殺しはしてはいけないと、学園長さんに頼まれたからだ。
なんというか、ちょっとばかし納得がいかないところがある。確かに俺は青山ではあるが、別に好き好んで人や妖魔を殺しているわけではない。
ただ、斬っただけである。
それだけだったのになぁ。
いやいや。違うだろう。
結果、殺している者もいるのだ。ちょっと我がまま過ぎたな。学園長さん達から見れば俺は危険人物である。ちょっとばかしのんびりしただけで、それを忘れるとは恥ずかしい。
何たる無様。
恥ずかしいなぁ。
「まぁ……」
どうせ、斬るけど。
にしても、面白い境遇だ。
初仕事、のち、初仕事である。まぁしかし、一週間という期間で二つも仕事をこなすのだから、もしかしたら俺はなかなか忙しいご身分ではないのだろうか。
歩く。というよりかは、コソ泥の如き逃走。周囲から殺到してくる気やら魔力やらから逃れつつである。夜道を一人、暗い森を散策するのは乙なものだ。
とはいえ、同僚に会えないのは、少々寂しさを感じないでもないが。
俺である。
俺は、青山である。
であれば、可能な限り、出会わないほうがいい。
「……」
さておき、麻帆良学園には、こうして時たまに侵入者のようなものが現れるらしい。
らしい、というのも、まぁあれだ。俺はこの仕事が初めてなのである。だから、そう何度も襲撃が来るものかと、心のどこかで疑いを持っているのだが。
斬れるのならなんでもいいやという短絡思考によって、その疑いも彼方に飛ぶ。我が身ながら、恥ずかしい、思考を手放すやり方というのは、どうにも刹那的過ぎて、人には誇れぬ考えだ。
恥ずかしく。
恥ずべき。
でも、斬るのかなぁ。
「……お?」
少し離れた場所で、大きな気と魔力の膨らみを感じた。
どうやら、いい感じに戦っているらしい。中々の使い手が揃っているようで、正直俺などという者は必要ないのではないのだろうか。
だがまぁ、こうして俺が戦えば、それだけで周りの苦労が少しはなくなるのであれば、俺も社会に貢献できていると実感できるので、別に余計なおせっかいというわけでもないのだろう。
いいこと。
嬉しいことだ。
人のためとは、よき響き。
俺の刀が、平穏を守っている。
うんうん。これは、よきことだ。
「……」
そういうわけで足取りは軽く。また新たに発生した別働隊の元に俺は走る。腰には残り三本の刀。といっても、そこらに転がっていた真剣なのだが。
急ごしらえのため、これしか用意できなかった。
まぁ、ないものねだりは意味なしである。
夜闇を裂いて、一直線。周りの気配は──あぁ、高畑さんが同じ場所に向かっている。他は、まだ少しだけかかりそうだ。
どうしようかなぁ。
会ってもいいのかなぁ。
「……」
走りながら思考。あまりよろしくないが、そこはご愛嬌。
どうやら高畑さんはそこまで本気で駆けつけているわけではないらしい。場所は俺よりも近いが、これなら瞬き程度先に俺が到着するだろう。
どれどれ。
ここは初仕事ということで、少しはいいところを見せてみよう。やる気が沸けば俄然、足も軽くなる。
無論、そんなの気のせいだけど。
そして、月を背中に俺は刃を解き放った。月光と刀の相性はいい。冷たい光が、冷たい鋼を、冷たくする。その様にいつ見ても心が落ち着く。
斬れるのだ。
そう、わかる。
「……」
音もなく現れた俺に、妖怪達が気付くことはなかった。見ている方向は、どうやらもう目の前まで来た高畑さんのほうである。
ちょうどいい。
斬った。
それだけ。
─
タカミチが見たのは、常軌を逸した光景であった。
それは突然のこと。
目の前で、そこにいた妖魔が全員、真一文字に泣き別れしたのだ。
まるで最初からそうだったかのように。
あっさりと。
とりとめもなく。
違和感なんて、まるでない。さっきまで繋がっていた姿を確認していなかったら、目の前の妖魔は、最初から身体が真っ二つであったのだと納得してしまうくらい。
それは当たり前のように。
綺麗さっぱり、斬られていた。
当然、痛烈な一撃を受けた妖魔達は煙となって消えていく。
驚きは特になかった。ということにタカミチは驚いた。最初からそうであったという事実に、一瞬前までそうではなかったことを、あたかもそうであるとした太刀筋、太刀筋か? をぼんやりと見て、ぼんやりしていた自分に驚く。
その直後、鈴の音のような清涼な響きが周囲に鳴った。
「ッ……!?」
タカミチの背筋が凍った。喉元はおろか、体中に刃を突きつけられたような錯覚。死を意識するのではなく、斬られると意識してしまう。
それほど冷たい空気に、タカミチは咄嗟に、だが遅いと感じながらも最大級の警戒態勢に入り。
音もなく、砕けた刃と共に着地した男を見て、目を疑った。
「……青山、君?」
砕けた刀を手に持った男は、つい先日も会ったばかりの青年だった。だというのに、タカミチは目の前の青年が、先日も会ったあの素朴な青年とは見えなかった。
夜の闇のせいとは言えない。ちょうど月明かりが照らす場所に青山は立っており、強化された身体を持つタカミチであれば、この程度の闇は視界を妨げることはない。
だというのに、その顔を正しく直視したというのに、タカミチは青山のことを疑ってしまった。
無表情も、無感動な瞳も、何一つ変わっていないというのに。
そこにいるのは、別の何かであった。
「……」
青山は静かに会釈をした。常と変わらない、礼儀正しい所作だ。
だがその腰に携えられた刀が、何処にでもありそうな、ただの刀があるだけで、彼の印象はまるで様変わりしていた。
なんということだ。
タカミチはこれまで、沢山の人間、人間でない種族、それらが持つあらゆる善と悪を見てきた経験がある。だから、人の善悪を感じ取る術には、常人よりかは長けている自信はあった。
だが目の前のそれは、尊敬すべき正義でもなく、唾棄すべき邪悪でもない。
そこにいるそれは、どちらともかけ離れていた。
「君、は……」
──なんて、様なんだ。
その言葉を、教師として、立派な魔法使いとして、ぎりぎりのところで飲み込んだ。相手は人間である。生きている、考えもする、それに礼儀もしっかりしている人間である。そんな人間に、僕はなんてことを言おうとしたのか。
なんて言い訳を、そう、彼の印象を、自分が覚えた彼のいいところを、タカミチは全て、その様を否定したいがために、言い訳に使ってしまった。そんな言葉を、頭の中に思い浮かべてしまった。
それは、青山という化生を認めたということに他ならぬ。
だがしかしタカミチは、それでも青山を、青山とは認めようとはしなかった。それはタカミチの優しさであり、まさに立派な魔法使いとして、人々を助ける崇高な精神がなせる心である。
だって、それでは、そう認めてしまったら──
そんな彼の思考を察したように、青山は再び頭を下げた。
「この様、なのです」
「……」
「だから、斬れます」
何よりも説得力のある言葉だった。
人は、人間は、『ここまで行けてしまう』。恐るべきは、若干二十歳前後の年齢でありながら、青山がそこに到達していたということである。
人間は行けるのだ。道の果て、道の終わりで、完結できる。それ以上行けない場所へ、行けてしまう。
だから青年は、『青山』と呼ばれている。
「……初仕事、お疲れ様」
苦し紛れの一言に近かった。青山はそれを聞き届けると、ここに集まってくる気配を察して闇の中に消えていく。
完璧な隠行だ。少なくとも、タカミチですら、青山が消えたのを見なければ、そこにいた事実にも気付かなかっただろう。
タカミチはそれを見届けるしか出来なかった。かける言葉は見つからなかった。何を言えばいいのか、全部が全部、言い訳にしかならない気がした。
「高畑先生?」
直後、森の木々を潜り抜けて一番に到着したのは、教え子でもある桜咲刹那であった。呆然と、いや、憔悴しきった顔で立つタカミチの顔を、訝しげに見上げている。
「いや……なんでもないよ」
タカミチは懐から煙草を取り出すと、まるでその内心を覆い隠すように火を点けて、紫煙で顔を覆い隠した。
そんなあからさまな動揺を見せる彼の動作に、刹那は驚きを隠せない。
一体、この場所で何があったというのか。あっという間に、この学園でも最強の使い手が妖魔を一掃した、それ以外の何かがあったのか。
刹那はまるで戦いの痕跡すら残っていないその場所の中央にまで向かい、ふと、月明かりに照らされた大地が光っていることに気付いた。
「これは……」
光に近づき、拾い上げる。それは砕けた鋼の一欠けらであった。よく見れば、それはあたり一面に、月の光を反射して、まるで空に輝く星のように散乱している。
やはり、何かがあったのだ。刹那はそう直感した。だが何があったのかすらわからない。散乱する鋼以外、まるで問題などなかった空間では、それ以上の推察は不可能だ。
本当に、何もなかった。
だが刹那は気付いていない。最も重要な違和感に、気付くことも出来ない。
そもそも、妖魔が居たはずの場所が何もなかったように思えること自体、異常なのだということに。
タカミチだけは、その違和感に気付く。どうしてそうなったのか、アレを見たからこそわかる。
「斬った、のか」
「え?」
「……独り言さ」
繋がりを、斬った。
だからここには、何もない。
あの青年はそれが出来る。あんな状態だというのに、こんな絶技が出来てしまう。
それが、あの有り様でそれが出来ることに、タカミチは末恐ろしい何かを感じる。
ふとタカミチは空を見上げた。雲がかかった月が、何処となく波紋が波打つ日本刀に似ているような。
そんな、気がした。