「何、木乃香が誘拐された?」
近右衛門は、荒い吐息を繰り返すネギからの連絡に、表情を引き締めた。親書を奪うために現れた西の術者とその従者は、辛くも青山の助勢によって撃退した。しかしその隙を突かれて、彼らの本来の狙いである木乃香を奪われてしまったのだ。
すみませんと謝るネギだが、今回に関しては誰が悪いというわけではないだろう。学園最大戦力である青山が介入しなければならぬほどの事態。そして西の者が、長の娘である木乃香を誘拐するという愚行。西自身の不手際でありながら、同時にネギばかりに意識を向けすぎた東側の不手際でもある。
近右衛門はネギに「援軍を送るので、どうにか頑張ってくれ」と告げて通話を切ると、深くため息をついた。今は敵が木乃香を拉致して何をしようとしているのかが問題だ。詠春を脅して長から降ろすのか、はたまた別の──
「例えば、アレの膨大な魔力を使った悪事とかなぁ」
「……エヴァ」
近右衛門は、対面に座っているエヴァンジェリンを諌めるように見据えた。だが当の本人は近右衛門の視線に全くひるむことなく、楽しげな微笑を浮かべている。
「事実だろう? むしろその程度考えなくてどうするという話だ。ふふ、いやいや、そうあって欲しいものだよ実際。とても楽しそうじゃないか」
「不謹慎じゃぞ」
「それでも私は繰り返し言ってやる。起こるだろう事実だ。なぁ学園長。楽観主義は止めたほうがいいぞ? 未だに私を人間に戻せるとか、そういった生ぬるい幻想と一緒にな」
エヴァンジェリンは嘲るように鼻を鳴らすと、「さて、どうする?」と問いただしてきた。
現状、最悪の事態を考えるなら、即座に急行できて、なおかつ圧倒的な実力を誇る人材を派遣すべきだろう。それをなせるタカミチは出張でここには居ない。
とすれば、それが可能な実力を持つのは自分か。
「くくくっ」
目の前で冷笑を浮かべるエヴァンジェリンだけだ。
だが最悪の事態を考えた場合、事と次第によっては自分では能力が足りない場合もあり、かつ組織のトップが前線に出るという事態は、今の状態ではすることは難しい。組織の上に立つというのは、そういったしがらみも発生するということに他ならないのだ。
「あぁ、私は行かないぞ?」
エヴァンジェリンは近右衛門の内心を察したようにそう言った。何故、と聞く前にエヴァンジェリンはさらに言葉を続ける。
「あそこには青山が居る」
「……じゃが、その青山君ですらとり逃した敵がいるのじゃぞ?」
「くはっ!」
近右衛門の言葉に、エヴァンジェリンは大口を開いて笑った。吐き気のこみ上げる邪悪な笑みだった。
「おい、おいおいおい! もしかして、貴様、まさか、くははははは!」
「何がおかしいのじゃエヴァンジェリン」
近右衛門は、一刻の猶予もない状況の焦りから、僅かに怒気を含ませてエヴァンジェリンを睨んだ。だがお構いなしにエヴァンジェリンは笑う。呪いによって人間に貶められながらも、その笑い声と佇まいは恐ろしい化け物そのものだ。
ともかく、面白かった。まさかこの爺、本気で青山が敵を逃したと思っている。笑える冗談であった。あの男が、あの人間が取り逃す?
わかっちゃいない。やはり、近右衛門のような素晴らしい正義では、あの人間の本質を理解出来はしない。
「はー……久方ぶりに腹の底から笑ったよ」
何とか笑いを抑えたエヴァンジェリンは、未だ口元に笑みの残滓を残しながら続けた。
「これはただの茶番だよ。そう、死人が出るだけのお遊びだ」
「死人が出る遊びなど存在せん」
「立派だ爺。潔癖な正義らしく、それは素晴らしい切り替えしだが……これは遊びだよ。詳しく語るのは野暮だがな」
だからエヴァンジェリンは行かない。状況を理解しているとはいえぬネギの言葉を、さらに簡潔にまとめてエヴァに伝えた近右衛門の言葉だけで、エヴァンジェリンだけは青山を理解していた。
これは、あいつが仕掛けた遊びだ。何を目的にしているのかはわからないが、きっと今のあいつは、とてもとても楽しんでいるだろう。嬉しくて楽しくて面白くて、だから私を斬る前に見せたあの表情で──
ひひっ、と不気味な笑い声を出したエヴァンジェリンは、席を立つとそのまま出口に向かっていった。
「行くなら勝手にしろ。だが、やるなら人間同士で好きにやれ。飴か悪戯か(トリックオアトリート)をやるほど、私は子どもじゃないんだ」
この騒動は、エヴァンジェリンからしたらその程度のものでしかない。そして、青山にとってもその程度のものだろう。
飴か。
悪戯か。
勿論、あの男ならいずれにせよ。
「斬るだろうなぁ」
そうするに違いない。
エヴァンジェリンは笑った。青山と同じ笑みを浮かべた。
─
総本山付近まで来たのと、遠くからでも感じるほどの巨大な魔力の唸りを感じたのは同時だった。ネギ達はとてつもない何かが生まれでそうなのを確信して、僅かにその歩みを止める。
「早く!」
だがいち早く復活した刹那の一喝で我を取り戻した一同は、全速力で魔力元へ駆け抜け、ついに巨大な湖に辿り着いた。
「お嬢様!」
刹那は祭壇に捧げられた供物のように横たわる木乃香の姿を見つけて、激昂しながら抜刀した。ネギ達が静止する暇もなく、刹那は瞬動で木乃香の元へと飛ぶが、しかしその直前に現れたフェイトによって行く手を遮られてしまった。
「フェイト……アーウェルンクス」
楓が警戒心をむき出しにしてその名を呼んだ。敵味方揃ったあの場で、唯一青山と戦える実力を持った恐るべき少年。そんな化け物が一人佇んでいるだけで、ネギ達の動きは止められていた。
「残念ながら青山の助勢は期待しないほうがいい。今頃、僕らが召喚した鬼の群れの迎撃に忙しいだろうからね」
彼らの望みを砕くように、フェイトは淡々とその事実を告げた。
青山。
味方とも呼べぬあの男だが、今は誰よりも必要な男であった。刹那は内心で、使えない奴と詰るが、そんなことに意味がないのもわかっていた。
フェイトの目的は、ネギ達の希望を絶つことで、確実にその命を終わらせることだ。尤も、フェイトの狙いはネギ一人なので、他の者は可能な限り殺さないようにはするつもりである。
だが例外は当然ある。
青山、あの恐るべき男だけは、どのような惨劇をこの京都に起こそうが殺さなければならない。
「とりあえず、ネギ・スプリングフィールドを渡してくれれば、君達に危害を加えることはしないと約束はしよう」
「ふざけんじゃないわよ! 誰があんたにネギを渡すかっての!」
誰よりも早く明日菜が反応した。ハリセンを構えて、ネギを庇うように前に出る。その勇敢さに後押しされて、刹那と楓もそれぞれの得物を構えた。
「……木乃香さんを返してもらいます!」
最後にネギがそう叫びながら、魔力と気を内部で合成した。小太郎戦のときと違い、スムーズに合成された究極の技法を前に、フェイトの目が細くなった。
やはり、この少年は危険だ。青山とは違う、その将来性がフェイトの邪魔になるのは間違いない。子どもだからという油断もなく、フェイトは「……なら、力ずくといこう」と言うと、静かに構えをとった。
「来るぞ!」
楓の叫びがネギ達に伝わるのと、フェイトが明日菜の懐に飛び込むのは同時だった。
「きゃあ!?」
反応すらさせない速度で、フェイトの拳が明日菜の腹部を捉えてそのまま空に打ち上げた。幾ら強化されているとはいえ、その凶悪な威力に明日菜の身体に激痛が走る。
しかしネギ達に明日菜を構う余裕はなかった。四つに影分身した楓が、気を練り上げた拳を打ち、刹那もそれに合わせて夕凪を払う。
「無駄だ」
だが捉えたのは水の分身。いつ代わったのか判断も出来ぬ業の冴えに驚嘆。フェイトは驚く二人を横目に、刹那の背後に回りこんだ。
殺気に反応するが、対応が遅れた。背筋をはいずる悪寒に気付くが、フェイトの一撃は解き放たれている。直後に訪れる激痛を予感して覚悟を決めた刹那だったが、その拳はネギの掌に受け止められた。
「ぐぅ!?」
咸卦法で得られた膨大な出力で受けたにも関わらず、ネギは掌が痺れる痛みに呻いた。
それでも止めた。二度と放さない気概で、ネギはフェイトの拳を握りこむ。咸卦の光がさらに増大して、一瞬だけネギはフェイトをとどめることに成功した。
そしてその一瞬を逃さない。楓の分身体が影の中を進むように静かにフェイトの懐に入る。低い体勢から放たれる三体の影分身の蹴りが、フェイトの胸部に集中した。
痛烈な打撃に、明日菜と同じく空に吹き飛ぶフェイト。砲弾もかくやという勢いで飛翔した彼の胸部は、蹴りの跡が痛々しく残って、いない。
「へぇ」
フェイトの顔に痛みの表情は浮かんでいなかった。楓渾身の連撃すら、フェイトの障壁を突破することは出来なかった。この程度の打撃では揺るぎもしない。その火力もさることながら、フェイトの恐るべきはその防御力にあった。
だがまだ終わらない。吹き飛ぶフェイトの背中を誰かが止めた。振り返れば、太陽のように輝く気の塊を拳に収束させた楓が、鬼気迫る表情でそこにいる。
「神鳴流、決戦奥義!」
そして眼下では、膝を畳み、力を溜め込んだ刹那が、夕凪の刀身に幾つもの紫電を纏わせて立っている。
最大威力による同時攻撃。だがフェイトはそんなもの無駄といわんばかりに無表情でそれらを見据え、何かが迫る気配に咄嗟に視線を移した。
「うりゃあ!」
明日菜が虚空から全力でハリセンを投擲した。逃れようとして、その動きを楓の手が強引に押しとどめる。
結果、ハリセンはフェイトに直撃した。その体にダメージは何一つないが、ここで初めてフェイトの表情に焦りの色が浮かぶ。
障壁が全て破られた。
たちまち、己のアドバンテージが失われ、状況は一気に傾く。上空に太陽。下界に雷鳴。練り上げられた必殺を、この瞬間に叩き込め。
「極大雷光剣!」
「おぉぉ!」
楓の気と刹那の奥義が、その間に居るフェイトを挟むように飲み込んだ。虚空に発生した星の輝き。目を開くことも出来ない光は、間違いなくフェイトを捉えた。
やった。ネギは強敵からもぎ取った勝利を確信して拳を握りこむ。刹那と楓の全力を賭した、もう二度と訪れぬチャンスを生かした攻撃は、並の術者はおろか、熟練の達人ですら葬るほどの火力。
楓と刹那、互いの必殺は反発しあうように数秒もの間雷鳴のような音を響かせながら膨張していき、一気に消し飛んだ。
「危なかったね」
吹き飛んだ気の内部から、僅かに服を焦がしただけのフェイトが現れた。
絶句する。体にうっすらと火傷があるものの、フェイトはほとんど無傷といっていい様相であった。
達人二人の最大火力は、化け物の性能を上回ることが出来なかった。とはいえ、フェイトも表情とは裏腹に、内心は冷や汗ものだ。明日菜の無効化能力は先程見せてもらっていたので、それを踏まえて遅延呪文による障壁の即座の展開を出来るようにしていた。遅延呪文のほうも吹き飛ばされる懸念はあったが、呪文の構築式のみを固定。即座に魔力を流して展開という形をとったのが功をなしたらしい。
いずれにせよ、上手くいったのだから問題はない。フェイトは呆然と隙を晒す刹那に飛び込み、今度こそその顔面に痛烈な拳を叩き込んだ。
「がぁ!?」
女子にあるまじき悲鳴をあげながら、刹那は木っ端のように湖に飛ばされ、そのまま水柱を発生させて水底に沈んだ。
そのまま浮かんでくることはない。絶命したのか、あるいはまた別の要因か。ともかくたった一撃、フェイトの打撃が炸裂しただけで刹那は戦闘から離脱させられたのだった。
「刹──」
「人の心配かい?」
刹那を助けようとした楓の本体と分身の周囲に、無数の黒い刃が展開される。黒曜石の美しい輝きが千にも届く数。逃れえぬ刃の牢獄は、隙を晒した楓の逃げ道を完全に封じた。
「千刃黒曜剣」
宣誓と共に刃が殺到する。分身がいようがいまいが関係ない。千に届く刃が音を置き去りに迫った。
抵抗空しく、楓の体に刃は突き刺さる。分身は消滅し、残った本体も急所は守ったものの、体中に刃が突き刺さりウニのようになり、うめき声も上げられず楓は地に伏した。
「あ……」
ネギはその間、何も出来なかった。遅れて落ちてきた明日菜も、ハリセンを投げただけで限界だったのだろう。力なく倒れ、その目は閉じられていた。
一分にも満たない時間。
たったそれだけで、フェイト・アーウェルンクスはネギを残して周りを無力化したのだった。
「さて、残りは君だけだね」
「そんな……」
呆然と佇むネギにフェイトは向かい合う。保有する戦力の桁が違いすぎた。フェイトとネギ達の間には、やはり覆しようのない差があって。
それでも譲れないものがある。ネギは半ば呆然とした意識を引き締めて、強い決意の篭った瞳でフェイトを睨んだ。
「……許さないぞ!」
「ならどうする? 勝つつもりならそれは自惚れだよネギ・スプリングフィールド。咸卦法を使えるようになっただけの君では、僕を打倒することは出来ない」
「そんなことぉ!」
ネギの意志に影響されたように、咸卦のエネルギーが増大した。その能力の向上は、基礎スペックだけならばフェイトですら瞠目するほど。湖の水を波立たせるほどの力の濁流をかき集めて、ネギは体の赴くままにフェイトに突撃した。
瞬動もかくやという速度で駆けるネギ。なるほど、確かにその身体能力は、飛躍的といえるほどに向上している。
だが所詮はその程度。スペックだけで超えられない壁が存在する。
「うぉぉぉぉ!」
大振りながらも砲弾に匹敵する拳が走った。咸卦の光に包まれた拳を、フェイトは軽く手で流すと、その勢いを利用してネギの重心をずらして横転させた。
膨大なエネルギーを流された結果。ネギはただ横転するだけではなく、数メートル以上の距離を転がった。
「くっ!?」
「驚いているね。どうして自分が吹き飛ばされているかわかっていないっていう顔だ……なんてことはない。君より鋭角に、君よりスピーディーに、攻撃を流しただけの話だよ」
ネギの身体能力は確かに驚異的だ。だが所詮、その程度でしかなかった。
もしも再び同じ状況で小太郎とネギが戦ったのならば、間違いなく小太郎はネギを倒せるだろう。彼の敗北の原因は、予想外に向上した身体能力、つまりはネギの成長速度を知らなかったからだ。
しかし所詮は一発芸。そういうものだとわかっていれば、ただの身体能力の高い人間。つまりはただの獣と変わりない。
「それで? 終わりなら決着をつけよう」
「うぅ……」
勝てない。たった一合でネギはわかってしまった。身体能力で勝っていながら、それを活かす下地がネギには欠けている。これでは宝の持ち腐れに過ぎなかった。
そんなネギを無感動に見下ろすフェイトは、トドメを刺すためにその手に魔力を収束して、背後で爆発した魔力の嵐に振り返った。
「どうやら、チェックだ」
フェイトの視線を追ったネギもまた、その恐るべき姿を見た。
夜を引き裂く白銀の肉体。見上げるほどに巨大な体躯には、四つの腕と二つの顔がある。指先一つにすら異常な魔力が詰まっている鬼の化け物こそ、かつての時代、恐るべき恐怖を振りまいた鬼神。
リョウメンスクナがここに復活を果たしたのだった。
「……悪いが、君に構う暇がなくなった」
フェイトはそう言うと、どうにか立ち上がったネギを置いて空に飛んだ。ここに手札は揃った。状況も望める限り最高の舞台。
千草もまたわかっているのか。いや、わかっていないからこそか。尋常ならざる気配を漂わせた彼女の思考には、最早西の権力を剥ぎ取るという考えすらないのだろう。
青山。
恐るべき、青山よ。
「殺せ!」
千草は叫んだ。総本山から飛び出した影を睨み、怒りのままに吼えた。
「殺せぇぇぇぇぇ!」
鬼の狂気を具体したようだった。そして千草の狂気を再現するのが鬼神の役割。
光が集った。膨大な魔力を膨大なまま破滅に変換して、神の名に相応しき極限が顕現する。
世界を照らす恐ろしい光よ。正義の色を宿しながら破壊のみを宿す恐るべき魔弾よ。
この怒りを表せ。お前が刻んだ恐怖を。お前が刻んだ怒りを。この一撃にぶつけてみせろ。
「青山ぁぁぁぁぁ!」
千草の絶叫に合わせて、リョウメンスクナの口内に閉じ込められた魔力の爆弾が放たれた。怒りを束ねた咆哮が、一直線に遠くの影、青山目掛けて走った。
終末の光。神罰の一撃。まさにそう表現するに足る閃光に千草は暗い笑みを浮かべた。
殺った。アレは人間では抗いようのない破壊だ。それ以外に何とも言えぬ災いが青山を食らう。
死ね。
消えろ。
この世から。
「消えるんや。悪魔が……!」
だがそんな千草の願いすらも斬り裂くように、光の轟音すら斬り裂いて、鈴の音色が世界中に響き渡った。
その音に千草は小さな悲鳴をあげた。
青山。
お前はどうして死なないのだ。
「う、ぁ」
斬り分けられた光が二つ、軌道を変えて京都の街を爆発に飲み込むが、千草はそんな光景も目に入っていないようだった。
声を失う。鬼神の全力すら、青山という修羅には届かないというのか。突きつけられた現実に、ぎりぎりで保たれていた千草の意地が崩れ落ちようとして。
「まだだよ」
そんな彼女を奮い立たせる冷たい声が届いた。
「砲撃、続けて」
フェイトはそう千草に告げると、魔力を最大出力まで吐き出して、持てる最大の魔法の詠唱を開始した。
わかっていた。お前があれだけで終わるわけがないくらいわかりきっていた。
だからこそ後詰めをする。この距離、虚空瞬動ですら数秒以上はかかるだろう絶好の機会を逃すわけがない。
「ヴィシュ・タル・リ・シュタル・ヴァンゲイト」
世界を震撼させる歌声が轟く。災厄の証明を告げる。宣告するのは死、そのものだ。
「契約に従い我に従え奈落の王。地割り来れ千丈舐め尽す灼熱の奔流」
ネギはフェイトを中心に世界が震えるのを感じた。揺れはどんどん大きくなり、常人なら立つのも困難なほどにまでなっている。
世界が悲鳴をあげているようだった。フェイトの魔力は最早、地球という存在すらも隷属させているのか。いや、今から放つ魔法を思えば、その表現は決して比喩でもなんでもないことがわかる。
今からフェイトが放つのはそういった類の魔法だ。地属性魔法の最強。そう言っても過言ではないこの魔法は、本来旧世界と呼ばれるこの場所では使用すら禁じられるほどの究極の一手。
その絶対の威力を把握した千草も、フェイトの背中を信じた。ならば時間は稼ごう。青山という修羅を滅ぼすには、地球の怒りでようやく比肩するはずだという、訳のわからない確信が千草を動かした。
「出し惜しみはなしや! 徹底的にぶっ放すんや!」
千草の号令を聞いて、スクナが怒涛の魔力砲撃を展開した。無詠唱というのが考えられないほどの爆撃は、点ではなく面を抉る。結果、京都がさらなる被害をこうむり、幾つもの光が、眠る人々の安寧をぶち壊した。
それは戦争だった。個人と個人が繰り広げる、現代の国家郡ですら展開することの出来ない破壊活動だった。
空が震える。
大地が砕ける。
咆哮一つごとに世界が軋み、フェイトの魔力はなおも大地を泣き叫ばせた。
ネギには何も出来なかった。あの時と同じく、ネギでは何も出来ない遥か高みの戦いが行われる。
次元が違う。
格が違う。
蟻とゾウの背比べですら足りぬ絶望的な壁が広がっていた。
「滾れ。迸れ。赫妁たる亡びの地神」
だがそんなネギの虚無感など、当然戦いを繰り広げる者には何の影響も与えない。そして、フェイトの詠唱が終わった。
世界が吼える。怒号の如き爆音が京都を震撼させた。同時に爆発的な魔力が総本山を包み込み。
「引き裂く大地」
地が空を飛ぶ。マグマとなった総本山の直下が噴出して、防戦一方の青山を容易く飲み込んだ。どうすることも出来ずにマグマの海に飲まれていく青山。
だが。
だが、千草はそれで勝利したとは思えなかった。
「まだや! もっと! アレの魂が消し飛ぶまで打ち続けるんやぁ!」
千草はなおもスクナに号令を下した。主の命を受けて、スクナの砲撃が再開される。終わることなき光の雨が、未だに赤く爛れている総本山を吹き飛ばした。
散ったマグマが四散し、さらに二次被害が加速する。紅蓮はその手を広げ、突如降り注いだ恐怖に怯える人々を飲み込んだ。
その間にも、一般人には原理のわからない破壊の光が京都を穿つ。
「止めろ」
阿鼻叫喚の声が聞こえてくるような気がした。紅蓮に包まれている街の姿が容易に想像できた。
「止めろ……!」
悲鳴と怨嗟が広がるごとに、その負を吸収してスクナがより強大となり、砲撃はさらに威力を増して夜空を焦がす。
黒の空にデコレーションする赤色が見えた。燃える世界に佇む己をネギは見た。
「やめろぉぉぉぉぉぉ!」
立ち上がったネギは、怒りのままに杖にまたがり飛んだ。そしてスクナに飛び掛るものの、それをフェイトが遮る。
無常にも、怒りの拳は再び受け流されて、ネギは水面に叩きつけられた。
無力だった。
誰よりも無力だった。
魔法という、人よりも優れた力を持っているはずなのに、ネギは無力だった。
英雄、サウザンド・マスターの息子であるはずなのに、ネギは無力だった。
何も出来ないのなら、今も炎に泣き叫ぶ一般人と何が変わらない。
まるで変わらない。
お前は、まるで、変わらないのか。
「……違う」
己を責める声にネギは頭を振った。
違う。
そうじゃない。
そうならないために、強くなろうと。
そうだ。
「僕は……」
胸のもやもやが解消されていく。いや、解消はされていない。その正体が判明していく。
わかったのだ。わかっていたのだ。自分はこんなにも弱くて、全くの無力で。
だから、強くなりたかった。
誰よりも、強くならないといけなかった。
絶対に、勝利しなくちゃいけないから。
「勝つんだ」
水の中でネギは呟いた。
「勝つんだ」
でないと、再び惨劇は繰り返される。弱い己のせいで、燃える村が、崩れる大橋が、そして今まさに行われている惨劇が。
何度だって、行われるのだから。
「勝つ。勝ってやる。絶対だ。もう嫌だ。強くなる。強くなる。僕はもう」
──誰も失いたくない。
だからここで、弱い自分は死にさらせ。
「ラ・ステル・マス・キル・マギステル。風精召喚。戦の乙女100柱」
唱えられるのは、何の変哲もない普通の風の精霊召喚。だがネギは100にも及ぶ精霊を、あろうことか強引にその掌に押さえつけた。
咸卦法の出力によって、何とか押さえつけてはいるが、それでも暴れる魔法がネギの体からあふれ出して、その両腕の肉が引き裂け鮮血が周囲に漂った。
「術式、強制、固定ぃぃぃ……」
それでもネギは止めない。咸卦法の膨大な力を使用して、ネギは今まさに自ら死への階段を駆け上っていた。
ネギはわかっていた。最早、己の持つ手札だけでは彼らを止めることは出来ないことをわかっていた。
ならば、作り出せばいい。勝てるものを、圧倒的な切り札を。今ここで、作り出すしか勝利を得られないのだから。一度だけ見たあの恐るべき力。あれさえあればきっと、この状況を乗り越えられると信じて。
その先に己の体の崩壊が起きようとも。
「掌、握!」
惨劇を止められるなら、安いものだ。
瞬間、握りつぶした破壊力がネギの体を蹂躙した。悲鳴をあげることすら出来なかった。激痛は零秒の内に百以上頭の先から足先までを往復し、例えるなら血管を硫酸が流れているような心地だった。
つまり、死ぬ。
ネギの無謀は、咸卦法の時のような奇跡を起こさない。
だが奇跡は起きた。咸卦法のエネルギーは、自殺行為ともいえる主の行為からすらも肉体を守ろうと足掻いた。
その代償としてネギは無限の激痛を味わうことになる。自分が何処にいるのかもわからなくなった。ここが何処で、自分が誰で、そもそもなんでこんな痛みを受けなくてはいけないのかわからなくなる。
しかしネギは耐えた。血が出るまで歯を食いしばり、体中が取り込んだ魔法によって引き裂かれるのすら咸卦法のエネルギーで強引に修復しながら、まさに必死に耐えた。
死ぬわけにはいかなかった。
負けたくないから死ぬわけにはいかなかった。
だが割れていく。次々にネギを構成するあらゆるものが削られていく。取り留めのない日常がぽろぽろとその手からなくなっていくけれど。
勝つのだ。
その意識だけが。
勝つのだ。
その渇望だけが。
勝つのだ。
その願いだけが、ネギの存在を最後の最後まで保ち続け。
──そうだ。この杖をお前にやろう。
最後に、失ってはいけなかった言葉が何処かに消えた。
そして、無限でありながら、その実一秒にも満たない地獄が終わる。湖の底に沈んでいくネギの目が大きく開いたのと同時、巨大な水柱が発生した。
「君は、まだ……?」
現れたネギの姿を見て、フェイトは一瞬それが誰なのかわからなかった。
「……術式兵装『風精影装』」
緑色の風を纏ったその姿は、確かに見た目はネギなのだが、まるで別人のようでしかなかった。血に染まった服は、濡れているにも関わらず、流血の跡がはっきりとわかる。目と鼻と口、耳からも出血しており、血染めの顔はホラー映画にでも出そうだ。
まさに別人といった様相だが、何よりもフェイトを驚かせたのは、その瞳。
だがネギは構わずに己の状態を把握することにする。
兵装は何とか完了。代償として体内の血が随分と失われ、鼓膜は弾けて音は聞き取れない。さらに嗅覚は完全に失われ、口の中の血の味もぼやけている。視界も左半分は完全に失われ、脳髄は強引に押さえつけた魔法のせいで絶え間なく激痛を発している。
五感のうち四つが破損し、まともな思考も激痛のせいで難しい。
しかし、戦える。
ネギは咸卦法の力と、掌握した魔法の力を実感するように手を握り締めた。
本来は考えられなかった恐ろしい者が生まれる。どちらも究極の技法である咸卦法と闇の魔法。それを未熟ながらも、その溢れる才能と、ありえぬ執念で作り上げた化け物が、ついに生まれた。
「勝つんだ。僕は、絶対に勝つんだ」
ここに、兆しは生まれた。あどけない少年の面影は失われ、その瞳は──あぁ、なんということか。
「僕は、勝つ」
あらゆる光を飲み込む闇色。
「もう負けない」
それはまるで、青山の瞳だった。
後書き
展開上、闇の魔法と書いていますが、正確には咸卦法を下地にした別の何かみたいな感じです。
風精影装(ふうせいえいそう)
詳細・使うと(自分の五感と記憶が)死ぬ