月下。交差した二つの影。
一つは流星のように大橋に激突し、一つは木の葉のようにゆらゆらと大橋に着地した。
前者は青山。
後者はエヴァンジェリンだ。
大橋に爆音をたてて落ちた青山は、自身で作ったクレーターの中央で力なく倒れている。指先すら動かすことはない姿は、まるで死んでいるようにすら見えた。
一方のエヴァンジェリンは、胸から下腹部まで一直線に斬り裂かれた傷から血を流しつつも、ゆっくりと意識を保ったまま着地する。
「ッ!」
ネギ、明日菜、カモは、傷つき、ぼろぼろになりながらも、それでもこの戦いを制したエヴァンジェリンを、恐怖と敵意、そして疑惑の眼差しで見つめた。
「あ、あ……」
降り立ったエヴァンジェリンの様子がおかしい。着地と同時、血があふれ出ているのにも関わらず、空を見上げて手を伸ばした。
虚空を彷徨う手は、何かを手繰り寄せようと必至である。傷は表面上塞がっているとはいえ、腹部を血まみれにした少女が、口から血を吐き、片腕も切断された状態で空を探りながらさ迷い歩く姿は狂気的だった。
まるで、月の魔力に狂わされたような。哀れな迷い子みたいに、もしくは母を求める赤子の如く。虚ろな瞳から涙を流して呻きながら、それでも必至に見えない何かを追い求める。
直後、空から月光を反射してキラキラと光る何かが降り注いできた。それは青山が最後に繰り出した小太刀の残骸だった。それらが、砂金のように月光に照らされながら、小さな粒子となって降り注ぐ。
「いやぁ……! いやぁぁぁ……!」
その光に何を見たのか。エヴァンジェリンは縋りつくように鋼の残滓を残った片腕でかき集めた。
だがそれらはエヴァンジェリンの手をすり抜けて、斬り裂かれた腕の先から滴る血によって出来た赤い水溜りに消え、その輝きを失っていく。
「あぁ! あぁぁぁぁぁ!」
エヴァンジェリンは発狂したように首を振ると、自らが作り出した血の水溜りに膝をついた。
そして、涙を流しながらその中を探りだす。
ネギと明日菜とカモは、その光景から目を背けた。眼も当てられないほど痛々しい光景だ。なくしてしまった宝物を探す姿は、歳相応の少女のように哀れで、同情を誘い、何よりも衝撃的だった。
何かがあったのだ。最後の瞬間、息をする間もなく終わりを迎えた交差。そのとき、エヴァンジェリンは何かをされたのだと、ネギ達は無意識に悟る。
そして、それをなした男がアレなのだ。クレーターの中央、体中が凍傷で傷つき、激突の衝撃で深々と身体を斬り裂かれた血まみれの男。
青山が立ち上がると、その姿に気付いたエヴァンジェリンが怒りの形相で青山に向かっていった。
「危ない!」
ネギが叫ぶ。エヴァンジェリンは周囲を凍りつかせることはなくなったが、潜在する魔力と戦力は、未だ削られきってはいない。対して青山は、素人眼で見てもぼろぼろで、風が吹くだけで倒れそうで。
だがそんなネギの予想を裏切って、青山に向かっていったエヴァンジェリンは、その命を終わらせるどころか、その身体を倒すことすら出来なかった。
「返せぇ! 返せぇぇぇ! 返せぇぇぇぇぇぇ!」
駄々をこねるように、エヴァンジェリンは青山の胸を少女の細腕で叩き始めた。無論、肘から先がない腕も叩きつけているため、叩くたびに青山の血で染まった着物が、さらに赤く染まっていく。
だがそれにも構わず、エヴァンジェリンは涙を流しながら青山の胸を叩き続けた。
青山は何も語らない。ただ冷たくその姿を見下ろし、沈黙のまま受け入れる。
その状態がどの程度続いたのか。次第に叩く速度が遅くなったエヴァンジェリンは、ついに腕を力なく垂らして、膝をつく。
「あぁぁぁぁぁ! うぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
そして、大声を上げて泣き始めた。血に沈み、血にまみれて、少女はひたすら泣きじゃくる。
悲しかった。
とてもとても、悲しかった。
「返せぇ……! 返せぇぇ……!」
どんどん落ちていくのだ。胸の傷が塞がっていくにつれて、その代わりに大切な何かが斬り落とされていくのをエヴァンジェリンは感じていた。
それはもうどうしようもなくて、あふれ出る涙すらも、落ちていくものと共に乾いていく。
斬られた。
斬られてしまった。
大切にしていた私を。人間として生きていた私の全部が。
全部、全部、斬られていっちゃう。
そんなの嫌だ。
私が私でなくなるのが嫌だ。
「……それでいい。吸血鬼」
見た目相応に泣き喚く姿を見て、よく見なければわからないくらい、だが確実に、青山は目じりを緩めて微笑みを浮かべていた。
青山が感じていた違和感の正体、それは、人間であり続けた化け物の心だった。
誇りある悪として、吸血鬼と成り果ててからも、女、子どもは殺さず、可能な限り殺さず。
まるで、吸血鬼である自分を忌み嫌うように、人間のようにあり続けた。
青山は知らないが、エヴァンジェリンの出生を考えれば、それも仕方ないであろう。自ら進んでではなく、無理矢理吸血鬼にさせられた少女が、人間であろうとしたのは当然のことであり。人間になろうと憧れ続けたのは、当たり前の帰結だった。
だがしかし、長い年月は、そんな少女の内側に眠る化け物を育んだ。
それがこの戦いで僅かな片鱗を見せ、そして人間性という檻は、青山の刀によって斬り裂かれ、今まさにたった一つの吸血鬼、たった一匹の化け物が覚醒する。
「……おめでとう」
泣きじゃくる少女に対して、青山は愛情を精一杯乗せた言葉を送った。慈愛に満ちた優しい音色だった。死んでいく少女と、今産まれる美しく醜悪な化け物に対して、内側からあふれ出る愛を伝える、素晴らしい祝福の言葉だった。
その愛は、やはり素敵な感情で。伝える言葉は一言でいい。
君の目覚めにおめでとう。
やっと出てきてくれたね。
俺が斬りたい君に、俺は君を斬ることでようやく出会える。
おめでとう。
本当に、おめでとう。
おめでとう、エヴァンジェリン。
「あぁぁぁっ! 嫌ぁぁぁぁぁぁ!!!!」
そして静かに涙は枯れる。咆哮のような泣き声を最後に、少女の涙は途絶え。あぁ、積み上げた積み木を崩すように、崩壊した形を取り戻すことは出来ない。
魂が斬り落とされる。その垣根を形成していた大切な何かが、別の何かのように感じられてきたその瞬間、エヴァンジェリンは全てを悟り、青山はその歌声に心を奮わせた。
──死に行く君が心から叫ぶ。血まみれのバースデーソング。
青山が頷くと同時、天を斬り裂くような泣き声が、まるで停止ボタンを押したかのようにピタリと鳴り止んだ。
「……」
まるで何もなかったかのようにエヴァンジェリンは立ち上がる。その顔からは表情が抜け落ちていて、感情の灯らない暗い瞳は青山を見上げた。
青山は、ふらつく身体で少女を見返す。傷つき、折れかけ、吸血鬼の力を解放すれば、小指だけで潰せそうな矮小なる人間。
「人間」
愛おしく。憎らしく。エヴァンジェリンはたっぷりの感情を塗りたくって、その言葉を吐き出した。
「……」
「あはっ」
返事も返さない青山に、エヴァンジェリンは無邪気に笑いかけると、踵を返して大橋に落ちている右腕を糸で吊り上げて回収した。
そして迷いなく切断面につなげると、見えない糸で強引に縫いつける。血が噴出して、肉がぐちゃぐちゃと潰れる音がしたが、エヴァンジェリンは苦痛に顔を歪めることなく、嬉々としてその激痛を感受した。
癒着した組織は、封印が再びかかるまでの残りの時間を再生に回し、後は自然治癒に身を任せれば回復するだろう。
「痛かったよ、青山。痛くて、痛くて、私はとっても泣きたくなったんだ、泣いちゃいそうなんだよ、青山」
振り返ることなく、嬉しそうに呟いたエヴァンジェリンは、静かにネギ達の目の前に立った。
警戒心を露にする。何て余裕もなかった。
ネギ達は固まった。先ほどまでも恐ろしかった少女の顔は、先程と違って柔らかな笑みを浮かべている。
だというのに怖かった。歯が噛み合わなくなり、身体は主の意志を無視して震えだす。意識を手放すことが出来るのなら楽だった。だが目の前のソレは、そんな楽を与えるほど優しい存在ではなかった。
「素敵な夜だなぁ、小僧、小娘」
エヴァンジェリンは、そんな彼らの様子に気付かないように、いや見向きもせずにそんなことを語り始めた。
夜空を見上げて、優しく微笑むその姿を写真にでもとれば、どこかの大賞を楽に取れそうなくらい、美しく可憐なその微笑。
そこに、ネギ達は逃れられない死を感じた。容姿が豹変しているわけではないのに、むしろ少し前よりも美しくなっているというのに。
なんということなんだ。
なんて有り様なんだ。
「そう思うだろ? なぁ?」
エヴァンジェリンは笑う。華のように可憐に、棘をむき出しにしてときめいている。
答えは期待していなかったのだろう。沈黙するネギ達を見据えるでもなく、軽く手を振ると、ネギを凍らせ続けていた氷がたちまちに砕け散った。
「ふふっ、今宵の私は敗北者だ……ならば、勝者の命には粛々と従うことにしよう……消えろよ小僧、小娘。闘争に不要な正義感を振りかざす阿呆は、この素敵な夜には必要ない。青山に感謝しておけ。今の私の気まぐれは、奴が勝ち取った権利なのだからな」
諭すようでありながら、それは何処までも強制的な命令であった。有無を言わさぬとはこのことか、エヴァンジェリンの言葉は、魔力を伴っていないにも関わらずネギ達を狂わせ、力なく、だが強引に帰路につかせる。
無言だった。言われるがまま、ネギと明日菜は、互いを支えあうようにして大橋を後にする。ネギはその前に、四肢を失った茶々丸を見据え、そんな少年の視線を感じたエヴァンジェリンは鼻を鳴らした。
「茶々丸は置いて行け。その程度では壊れないし、それでも一応、今宵の私を引き立てた愛らしく可愛い従者だ。貴様らの手を借りたりはしない」
だから失せろ。そう告げられれば何も言えない。ネギと明日菜はゆっくりと、それでもできるだけ早くその場から逃げていく。
エヴァンジェリンはその姿を見送ることもなかった。最初から興味等なかったかのように、ネギに対してあった執着すらどこにもなかった。
「青山」
「……」
「ぼろぼろだなぁ……ホント、傷だらけで、酷い姿だ」
エヴァンジェリンはゆっくりと、再び青山のほうに向かい、その前に立つと、青山の肩から下腹部まで刻まれた切り傷を、労わるようにそっと撫でた。
激痛が走り、青山の身体が反射的に震える。しかし苦悶の声も、表情も一切漏らさずに、青山はエヴァンジェリンを見下ろすだけだ。
いや、もうそれだけしか出来ない。
今の青山は、立っているだけで精一杯だった。生殺与奪は化け物の側にあって、敗者と勝者は誰が見ても明らか。
それでも斬ったのは青山で。
斬られたのはエヴァンジェリンだった。
「止めておこう。今日だけは止めよう。本来、私と貴様の関係は、一方が朽ち果てるまで終わることが出来ないのだが……今夜はいい夜だ。生まれ変わったような気分で、それに、そうだな……あんな醜態を晒した後に、戦いを仕切りなおそうなどとはとてもとても……あぁ、そうだ、今は闘争の空気ではない。そうなんだよ。貴様と私は、ここで完結してはいけないんだ」
酔いしれるように、黒い瞳を渦巻かせる。その眼に残ったのは狂気だ。悪意も正義も何処にもない。人が根源から恐れる狂気、化け物と呼ばれるシンプルな生命体として、エヴァンジェリンは立っている。
「君は、綺麗だな」
そんな彼女の様を見た青山の率直な感想を受けて、エヴァンジェリンは笑った。無邪気に、躊躇いなく殺気を孕んだ笑顔だった。
少女は壊れた。いや、人間としての根本を斬られて、生まれ変わった。今や、あんなにも執着していたナギへの思いを含めた、人間にしがみついていた己の一切がまるで消えていた。
ただただ、化け物として人間に憧れる。それだけしか残っていない。
「きっと、全部なくなったからだよ。貴様が私を綺麗に斬ったんだ」
青山が斬ったのは、記憶ではなく、その記憶や経験から生まれる、そうした人間的な諸々のものだ。悪なんていう、実に人間らしい価値観はもうエヴァンジェリンの中にはない。同時に、対となる正義という概念すら、彼女の魂からは綺麗に斬り落とされていた。
善悪の概念もない。善悪を理解しながら、それらを自分とは無縁と笑う、垣根なしの吸血鬼。
ただ怖いから、恐ろしいからこそ化け物。余分な定義など、一切含まれることはない。
そこにいるのは一体の化け物で、それ以上でも以下でもない。
最悪なまでに化け物。
最低なくらいに化け物。
純粋に化け物な君が。
「本当に、綺麗だ」
そんな醜態が青山には美しく映った。化け物として、人間性などという『余分な代物』を剥がされたエヴァンジェリンはこうも綺麗で、心音がトクトクと脈動を大きくする。
服もぼろぼろ、傷口は癒着しただけで未だに血を滴らせ、白い柔肌は血と泥でどろどろに、美しい黄金の髪もざんばらに斬り裂かれ、顔は血と涙と鼻水でぐちゃぐちゃとなっていて、先程までの美しい少女の姿は何処にもないというのに。
その美しさはまさに神がかり。
月光に濡れた姿に夢を見る。君もまた、終わる世界に辿り着く修羅の人。
「そのときに、君を斬る」
「あぁ、待ってるよ」
いずれまた、冷たい修羅場で、めくるめく。
眠るように崩れ落ちる青山を、エヴァンジェリンは壊れ物を扱うように、そっと優しく抱きとめた。
触れ合った肌から互いの血が混ざり合い、アスファルトの大地に浸透していく。
月光の下に始まった闘争は、赤い水面で寄り添うように。
「お休み、人間」
今宵、産声をあげた修羅場のまどろみに、今はただその身を委ねよう。