その日の夜、俺は店を閉め、夕食を済ませた後、エヴァの『別荘』へと来ていた。
「うわー……」
俺はアホみたいな声を出して、只々その光景に呆けるだけだった。
外は冬だと言うのに、なんなんだ、この南国は。
あらかじめ茶々丸から説明を受けていたが、流石に実物を目の当たりすると想像を遥かに凌駕していた。
突き抜けるような青い空、頬を撫でる暖かい風、肌を焼く日差し。
巨大な円筒状の台座の上に建造されている豪華な建物。遥か眼下に見える青い海。
「…………これが『別荘』か」
「はい、以前にマスターが作られた物の一つです。さあ、こちらへ。マスターと桜咲さんがお待ちです」
「あ、うん」
あまりのスケールの大きさに圧倒されながら、それでも促す茶々丸の後を歩き階段を下りる。
「お二人は下の浜辺にてお待ちです」
「……なあ茶々丸。俺、本当にやらなきゃ駄目か? かなり乗り気じゃないんだけど……」
「…………申し訳ありません、本来ならお止めしたいのですが、マスターの命令は――」
「絶対、って言うんだろ? 仮にとはいえ約束しちまったしな……」
「……すいません、お力になれず」
「ああ、悪い悪い。茶々丸にあてつけで言ったんじゃないんだ。エヴァへの愚痴だから聞き流してくれ」
「……しかし、止められなかった私にも責任が……」
なんて言って前を歩いている茶々丸の肩が落ちる。
そんな気はなかったのに責任感じさせてしまったか。
階段を先に降りているせいで丁度いい高さにある茶々丸の頭をグリグリと撫でる。
「そんなに気に病むなよ茶々丸。何も本気で殺しあうわけじゃないんだからさ」
「――あ、あの、その、し、士郎さん、この手は……?」
「ん? 茶々丸は良い子だなぁって思って。良い子にはこうするもんだろう? これまでにこうされた事ないか?」
「は、はい……私は背を高く造られていますから。それに、これまで、と言われましても製造されてから2年程しか経っていませんので……」
「……は!? 2年!? じゃあ茶々丸って2歳なのか!?」
「え、ええ……数えで」
はあー、なるほど……、2歳ねえ……。
なんて言うか、こんなに出来た2歳児いたら凄いよな……。
まあ、ロボットなんだからだろうけど。
でもそれなら余計に――
「んじゃあ、もっと褒めてやんなきゃな。良い事をしたら褒めて悪い事をしたら叱る。これが躾の基本だ」
更にグリグリと撫でまくる。
「――――っ……」
茶々丸は嫌がるでもなくされるがままに階段を下り続ける。
ただ何処と無く落ち着かないようではある。
……あれ? これはもしかしてどういう反応をしていいか分からないのだろうか?
だとしたら困らせるのは本位では無い。
「ああ、ごめんごめん。幾らなんでも中学生である茶々丸を子ども扱いするのは失礼か」
最後に頭を軽くポンポンと叩き手を退かす。
「あ……。い、いえ、その……失礼とか嫌とかではなくてですね……むしろ、その逆と言いますか、ああ私は何を口走っているのでしょうか!?」
目の前でオロオロする茶々丸に失礼だと思いながらも必死で笑いをかみ殺す。
――本当に良い子だ。
……さて、とりあえずは早く行かないとエヴァに怒られてしまう。
「さぁ、早く行かないとエヴァに怒られちまう。急ごうか!」
「あ、あ、ああ。士郎さん?」
未だにオロオロしている茶々丸の肩を押しエヴァの待つと言う浜辺へと急いだ。
で、
「――遅いっ!!」
怒られた。
着いた瞬間、ドッカーンって感じで怒られた。
「一体何時間待たせれば気が済むというのだ!? 待ちくたびれたわ!」
や、そうは言うけど勝手に先に行ってしまったのはエヴァだし、そもそも遅れたって言っても5分位なんだけど……。
って、そうか……時間の流れが違うんだっけ。
えっと、そうなると、5分だから…………、2時間くらいか?
確かにそれなら怒っても仕方ない待ち時間かもしれない。
「や、悪かった。これでも急いで食器洗ってきたんだけどな……」
「言い訳は聞かん。そもそも私は早く帰るようにと言っ…………ん? どうした、茶々丸?」
エヴァは説教を始めようとした俺の隣で視線を止め、訝しげに眉を潜めた。
それにつられて並び立った茶々丸を見る。
なんかボーッとしているような?
「い、いえ、問題ありませんマスター! 各部正常、異常無しです!」
「? そうか、ならいいが。とりあえず始めるか……そう言えば士郎、お前の武器やら聖骸布とやらは持ってこなかったのか?」
エヴァはそれで興味を失ったのか視線を俺へと戻した。
そんな隣では茶々丸がホッと安堵の息をついているような気がしたが、まあいい。
「ああ、武器ならここに……」
ぽんぽん、と自分の背中を叩いて、いかにもなにかあるように見せる。
無論、そこには何も存在はしない。
投影魔術に関しては、この世界がどういった物かわからない以上、無闇に見せない方がいいだろうと判断したからだ。
「聖骸布は、流石に手合わせ程度に持ってくる装備じゃないからな」
今の俺の格好はTシャツにジーンズにスニーカーと言った動き易くはあるがかなりラフな格好だ。
パーカーも着ていたが流石に暑いので脱いでしまった。
「…………そうか、まあいい」
「桜咲さん、遅れて悪かった」
「いえ、お気になさらず。今日はよろしくお願いします」
そう言って一礼する桜咲さんの片手には例の白鞘の刀が握られていた。
全容をこの目にするのはコレが初めてだが、確かに桜咲さんの小柄な体格には、些か扱いづらそうな程の長刀だ。
「それでは今回の試合内容を説明する。とは言ってもたいした内容ではない、勝敗の決め方だけだ。どちらかが先に降参する、もしくは私が決定的な一撃と判断した段階で終了だ。なにか質問は?」
「では、一つ。移動してはいけない場所などはありますか?」
「そうさな……せめてここの孤島くらいに留めておけ、上を破壊されては直すのが面倒だからな」
「この島ね……」
辺りを見回し思考を巡らせる。
眼前に砂浜。
背後には森。
――――。
「他には無いか? 無ければ始める」
「よろしくお願いします、衛宮さん」
桜咲さんが手を差し伸べてきた。
「こちらこそ、お手柔らかに頼む」
それに対し、その手を取る事で答えた。
「衛宮さんのお力……、拝見させていただきます」
「あんまり期待されても困るんだけどな……」
「――では、始める! 両者、距離を取れ!」
その掛け声で、桜咲さんは弾かれたように距離をとり、俺はゆっくりと後退する。
まさに始まろうとした、その直前、
「――ああ、そうそう。言い忘れたがな。両者、加減抜きの本気でやれ」
「――は?」
待て、何言っているんだエヴァは?
「拒否は許さんぞ? もし私が手を抜いていると判断した場合は、二人ともこの空間に閉じ込めてやるから覚悟しろ。無論、抜け出す手段など皆無だ」
「ちょ、ちょっと待ってください! そのような事をしても意味は、」
「黙れ、拒否は許さんと言った筈だぞ。私は本気だ。さあ、そうなったらどうなる? お前の大事な『お嬢様』は誰が守るんだ?」
「っく! エヴァンジェリンさん、貴女という人は……」
「ククク、何を日和った事を言っている。私は吸血鬼で『闇の福音』だぞ? 己が快楽の為にこの程度のことは造作もない。万が一でも歯向かってきてみろ、その瞬間この空間に取り残してやる」
「ッ! ――分かりました。……申し訳ありません衛宮さん。本気で行かせて貰います」
桜咲さんがスラリと鞘を抜き、鋭い眼光で俺を睨み刀を構える。
――さて、何やら色々おかしな事になってきやがった。
エヴァの、余りにもあからさまな悪役振りや挑発に疑問を持たないでもないが、本当に閉じ込められる事などあり得ないだろう。
少しでも考えてみれば分かるが、それは自分だって閉じ込められるって事と同義なのだ。
それにこれは俺の主観だが、エヴァがその様な事をするとは全く思えない。
問題は桜咲さんだ。そんな簡単な事にすら気付く余裕なく、全て鵜呑みにしてしまっている。
まるで、思いつめたような真剣な瞳を見るに、紛れも無く本気のようだ。
「――投影・開始(トレース・オン)」
背中に回した手をTシャツの中に隠し投影をする。
相手が誰であろうと出来る限り投影は隠す。変なトラブルを起こさないためにも、だ。
投影したのは、まるで鉈のような大型サバイバルナイフを2本。
無論、刃は潰してある。
「――さて、どうしたもんか……」
両手にナイフを構え眼前を見つめる。
それを準備完了の合図と判断したのか、エヴァはニヤリと笑みを浮かべた。
「――では、…………始め!!」
◆◇――――◇◆
衛宮さんは何かを小さく呟くと、背中に腕を回し、何処からとも無く2本の大型ナイフを取り出した。
いや、それは最早、鉈と言っても差し支えないだろう。
刃渡り30cm超はあろうかというそれは、非常に肉厚で、いかにも頑丈そうだった。
それを左手は順手で眼前に構え、右手は逆手で腰の位置に構え、重心を落とした。
(――しかし、厄介な事になってしまった……)
最初は本当に手合わせ程度の気持ちだった。
エヴァンジェリンさんの言った、実力を知っておくというのは確かに正論であったことは間違いない。
それを有益と判断してこの試合を受けたのも事実だ。
しかし――、嵌められた。
エヴァンジェリンさんの目的は分からないが、本気を出さねばならない状況に追い込まれてしまった。
エヴァンジェリンさんは本気でやらねばここに閉じ込めると言う。
真偽の程はわからないが、僅かにでもその可能性があるのなら、それは絶対に避けなければならない事だ。
――私には守らねばならないお方がいる。
その為の障害は、例え小石程でもあってはならないのだ。
この場を抜ける為に、衛宮さんとは戦わず、エヴァンジェリンさんを倒すと言う選択肢もあったが、それは無謀だろう。
例え呪いによって魔力を封じられているとは言え、ここは敵地で、更に相手はあの大魔法使いだ。私でも勝てる確信がない。
『不死の魔法使い』『人形使い』『悪しき音信』『闇の福音』『禍音の使徒』。
幾つもの異名が思い浮かぶ。
話にならない。それこそ比較するのもおこがましい程の実力差で、私が圧倒されてしまう可能性が高い。
――逃げ場は無い、八方塞だ。
……いや、道は一つだけ。
衛宮さんと本気で打ち合うしかない。
結果、――どちらかが命を落とそうとも。
「――では、…………始め!!」
衛宮さん……貴方に恨みなどありません。
が。
私の使命の為――本気で討たせていただきます。
「……桜咲刹那……、参ります!!」
お互いの距離は6メートル強。
その距離を瞬時に駆け抜ける。
「なっ!?」
驚きは衛宮さんの声。
瞬動術で衛宮さんの背後を取り、身体の捻りを加えた夕凪を、横薙ぎに一閃。
「――ふっ!」
短い呼気と共に刀を振るう。
返ってきたのは鈍い金属音。
しかしそれは、衛宮さんが右手に持ったナイフで、下から掬い上げるように軌道を逸らされ、弾かれてしまう。
――速い。
瞬動での奇襲は成功。
その上、こちらの動きに着いてこれず背後まで取った。普通ならばこれは決定的な隙だ。
にも関わらず、最小の動きで防がれてしまったのだ。
様子見の一撃ではあったが完全に防がれた。
「せい!」
ならば、と矢継ぎ早にニ撃目を繰り出す。
一撃目を、無理な体勢で弾いたから出来たであろう本当に僅かなスキ。
弾かれた勢いすら利用しての袈裟切り。
その速度は先程の横薙ぎを遥かに上回る。
「――!」
が、それは避けられる。
またしても最小の動き、今度は首を少し傾けただけで私の一撃を紙一重で避けた。
巧い。
それに凄い目をしている。
首を落とされかねない一撃を、ギリギリで避ける胆力も凄まじい。
間違いない、相当の手錬だ。
しかし私に負けは許されない。
――私は絶対に戻らねばならない”理由”があるのだから!!
「はあぁぁーッ!!」
一撃ニ撃で駄目ならば、十撃百撃で叩き伏せるのみ!
烈火怒涛と剣戟を走らせる。
相手は魔法使い。距離を離して戦うのは危険だ。
ならば魔法を使わせないのが常套。
戦いにおいて相手の土俵で挑むのは無謀と言う物。
だったら使う暇を与えなければ良いだけの話。
即ち、こちらの土俵へと引きずり込み相手の手段を封殺する!!
「シッ――!」
実力は分からないが、リーチの差は歴然だ。
身長差はあろうとも、得物の長さはこちらが圧倒的に勝っている。
ナイフと夕凪。
小回りでは敵わなくとも、間合いの差は絶対なのだ。
白兵戦とは究極的に言ってしまえば間合いの喰らい合いだと言ってもいい。
どうやって自分の間合いで戦うか、どうやって相手の間合いを殺すか。それが生死を分ける。
その定義で言うと、この戦いにおける優劣はハッキリしている。
射程距離の差は明確で、向こうの射程外から私は攻撃ができる。
そうなると必然的に攻守は完全に分かれ、一方的な展開になったとしても何も不思議ではない。。
それでも――。
「ふっ! ……っく!」
――当たらない。
私の連撃全てを、避け、いなし、弾く。
最早加減などしていない剣戟全てを、その2本のナイフで凌ぎきっていた。
しかし、その行為自体が、私には不可思議だった。
「――――」
私の一撃はそんなに甘い物ではないと理解している。
自惚れでも何でもなく、事実として一撃一撃が鉄さえ切断しかねない程の剣戟だ。
そんな斬撃を、幾ら肉厚とはいえ、ナイフ程度では耐え切れる筈がないのだ。
それをこの人は可能としている。
――刃と刃が触れる、キンッと言う高い音が微かに響く。しかし、その後に続くのは鉄と鉄が滑る音だけ。
……信じられない。
この人は私の攻撃の全てを防ぐのではなく、己が刃の上を滑らせるようにして受け流しているのだ。
私の線に対して円。
私の剛に対して柔。
まるで川の中に立つ杭のよう。
一直線に唐竹割りを放つ。
それを円の軌道のナイフで斜めの力に逸らされる。
逆袈裟を放つ。
それを受け止め、その力を流すように体ごと独楽の様に回転して力を逃がす。
武器破壊を狙い、体ではなくナイフを切断しようとする。
しかし、一瞬刀を受け止めたナイフを衛宮さんはあろう事か手放すことでそれを防いだ。
驚愕はそこからだった。
そのナイフは衛宮さんの手をその背の部分で舐めるようにクルリと一周回転すると、また何事も無かったかのように握られていたのだ。
――まるで予定調和の剣舞に巻き込まれているようだった。
敵わないのかもしれない…………。
そんな考えが頭をよぎるが、しかし、その思考は考えてはならない物。あってはならない物。
『――刹那、いざという時に護り切れなくなってしまうぞ?』
放たれた言葉にギチリ、と奥歯をかみ締める。
そんな事は出来ない。
そんな事は許さない。
そんな事を許せるわけが無い――!
弱気を打ち消すように更に刀を走らせる。
そうだ、いくら実力で劣っていようとも未だに攻守は逆転していない。
追い込んでいるのは私だ!
その証拠に衛宮さんは後退を余儀なくされている。
「ふ――!」
「っく……!」
懐に深く入り込み横薙ぎの一閃を放つ。
「これならば避けも、いなせもしまいっ!」
回避不可の一撃。
「っぐ!」
その一撃を、体の前でナイフを交差するように重ね防ぎ、自身も後方へ大きく飛び衝撃を受け流す衛宮さん。
が、その代償は大きい。
今の手応え、夕凪と直接合わせたナイフを切断、とまでいかなくとも確実にダメージが入った。
それだけ確かな手応えだった。
もしかしたら、あと一合も耐えられないうちに破壊できるかもしれない。
だが、後退した衛宮さんのいる立ち位置は流石……と、言うべきだろうか。
「――成る程、森、ですか」
「……そういう事だ、さあ、どうする?」
衛宮さんが不敵に笑う。
確かに長刀を振るう際、周囲に樹木があるとままならない。言うまでも無く、木に刃が引っかかってしまい、満足に振るう事が出来ないからだ。
逆に、衛宮さんの持つナイフは、短い分取り回しがしやすく、こういった状況にこそその真価を発揮するのだろう。
これで攻守は逆転した。
普通ならばそうだろう。常道ならばそうだろう。
しかし――、
「――無駄です。神鳴流にそのような小細工は意味がありません」
そう、それは”普通”ならば……。
「神鳴流奥義……」
腰溜めに刀を構える。
そして、”気”を集中させ一気に解き放つ!
「――斬岩剣!!」
夕凪から放たれる斬撃が辺りの樹木を薙ぎ払う。
「っ! 洒落にならんぞ、おい!」
足元を狙って放った一撃を、跳躍して衛宮さんはかわした。
(好機!)
ここに来て衛宮さんの大きな失態。
跳躍から着地までの致命的なタイムラグ。
例え今から虚空瞬動を使って逃げようとしても遅い。
なぜなら、既に私は瞬動で衛宮さんの目の前に来ているのだから!!
「覚悟!」
「っ!!」
上段切りで切りかかる私の夕凪に、衛宮さんは無事な方のナイフを合わせるが、それは遅すぎる。
最高速に達した夕凪の剣戟と、動き出したばかりの衛宮さんのナイフ。
速度による剣戟の重さは絶対だ。
私の一撃は軽々と衛宮さんのナイフを弾き飛ばした。
そのナイフはくるくると回り、今しがた切り払われたばかりの切り株に深々と突き刺さった。
これでは簡単に引き抜くことは不可能だろう。
「やばっ!」
切り返し、衛宮さんを捕らえようとする剣閃は空を切った。
それよりも早く衛宮さんは慌てて横合いにあった木の陰へと逃げ込んでいたのだ。
「――無駄と言ったでしょう」
そう私の前では木は障害物になり得ない。
隠れるというならば、その隠れ場ごと叩き切る。
つまり、
「斬岩剣!!」
木ごと刈り取るのみ!
「――ふっ!」
だが、それと同時に木の陰から躍り出る影。
衛宮さんが私の技に合わせて横っ飛びで飛び出してきたのだ。
その片手にはナイフ。
そのナイフを私の顔面目掛けて投げつけた。
「しまっ、」
た、とは続かなかった。
そのような暇など無い。
技後の膠着を狙われたのだ。
たとえ壊れかけのナイフであろうとも、肉体など容易に切りつけるだろう。
全力を持って回避に神経を集中させる。
ナイフの軌道を、コンマ秒に満たない時間で見極めて首を傾ける。
瞬間、
――――。
顔の直ぐそばを、空気を切り裂く羽音を放ちながらナイフが通過して、背後の木へ深々と突き刺さった。
そのスローイングの正確さに全身の血が瞬時に凍ったが、これで”詰み”だ。
衛宮さんの場所まで三歩の間合い。
私がナイフをかわした為に多少体勢を崩して後退していたとしても、衛宮さんの体勢は致命的だ。
まだ、横っ飛びに飛び出したままで、完全に起き上がってすらいないのだ。
更に無手。
一歩。
刀を腰に付け、構える。
早く。
もう、いいだろう。
二歩。
あと少し。
腕に力を込めて刀を走らせる準備をする。
早く、早く。
まだなのか!?
三歩。
間合いに入ってしまった。
早く、早く、早く止めてくれ!
衛宮さんは無手だ、避けようが無い体勢なんだ!
このままでは本当に切りつけてしまう、……殺してしまう!
早く止めてください! エヴァンジェリンさん!!
幾度と繰り返し修練された横薙ぎの一撃が、狂い無く走ろうとする。
身体に染み込んだ動きは思考せずとも最高の一撃を放って、その首を――。
「それまで! 双方動くなっ!!」
――止まった。
エヴァンジェリンさんの掛け声でギリギリのところで止める事が叶った。
後、コンマ一秒でも遅ければ止める事は出来なかっただろう。
――助かった。
衛宮さんもだが、私もだ。
勝ったことよりそちらの方が私の心を安堵させていた。
刀を下ろし張っていた気を息とともに抜く。
「――ふう、強いんだな、桜咲さん」
身体を起こし、苦笑まじりに微笑む衛宮さん。
「――いえ、そう言う衛宮さんこそ相当の手練。時と場合によれば私が負けていました」
これは紛れも無い本心と事実だった。
衛宮さんがもし、もっと強力な武装を持っていたら?
それだけで結果は変わっていたかもしれない。
夕凪の一撃を耐え切れる武装を持っていたら私は敗北していただろう。
背後から砂を踏みしめる音が聞こえた。
「ご苦労……、なかなか楽しませてもらった」
エヴァンジェリンさんと茶々丸さんがやってきて衛宮さんの隣に並ぶ。
だが、エヴァンジェリンさんは不服そうな表情と作ると、ジト目で衛宮さんを見上げた。
「だがな士郎、どういうつもりだ?」
「どういうって……なにがさ」
それに対して衛宮さんは、身体に着いた砂や葉っぱを払いながら憮然と答えていた。
「私が分からないとでも思ったのか? お前――本気ではなかっただろう」
「…………」
――え?
本気では、ない?
「士郎、お前一度も攻性に出なかっただろう? 巧く隠したつもりだろうがな、私の目はごまかせん。刹那の攻撃をかいくぐって狙う隙は幾らでもあっただろう」
「――――」
衛宮さんは何も答えない。
本当…………だろうか?
確かに衛宮さんから攻撃を仕掛けてきたのは、最後の投擲を抜かせば無かった。
だがそれは、私が攻撃の手を封じていたからのはずだ。
「ま、待ってください! それは私が衛宮さんに魔法を使わせない為に、そう仕組んだのであって狙ってできることでは無い筈です!
いくらエヴァンジェリンさんと言えども私たちの試合を侮辱しないでください!」
「ああ、魔法を使う暇を与えなかったお前の着眼点には一定の評価をしよう。だがな、おかしいと思わなかったのか? 例えば自分で動いているのではなく、動かされているような感覚はなかったか?」
「……それは」
それは確かに少し感じていた違和感だ。
予定調和のような演舞。
隙を見つけて打ち込んでも、予測していたかのごとくいなされる。
「あっただろう? それはな、コイツがわざと隙を見せ、もしくは誘導し、お前がそこに攻撃してくるように仕組んだのだ。逆に言えばそこしか狙える場所は無かった筈だ。……ま、これは傍目から見ていたからこそ分かったのかもしれんがな」
「し、しかし……」
「思い出せ刹那。――初撃からその後の攻撃の繋ぎ、弾かれたと言うのに”なんの戸惑いも無く”打ち込めたのではないか?」
「……ッ!」
言われて、――驚愕した。
初撃は横薙ぎを上へ逸らされた。
その際、衛宮さんが右手を振り上げたからこそ出来た隙があった。
だからこそ袈裟に斬り降ろした。
それは紙一重でかわされた。
その後も、その後も、その後全てが…………。
「――ば、馬鹿な」
そう、言うのがやっとだった。
そんな事が可能なのだろうか?
命を賭けてまで無防備な所を作り、狙わせるなんて。
しかし、それが可能だとしたら衛宮さんは何故負けたりしたのだろうか?
そこまでの力を持っているのならば、私をねじ伏せる事など容易いだろうに。
「だ、だったら、衛宮さんはわざと負けたと言うんですか!?」
だとしたらとんでもない侮辱だ。
私は本気で向かっていった。
それを手を抜いて、わざと勝たせるなんて馬鹿にされているにも程がある!
「衛宮さん! 答えてください! 貴方は私が女だから花を持たせようとしていたのですか!? だとしたらとんでもない侮辱です!」
「い、いや、俺は……」
「手を抜かれた状態で勝ったとしても、何の栄誉にもなりません!!」
感情の赴くまま衛宮さんに食ってかかる。
頭に血が上り、自分でも感情を巧く制御できていない自覚がある。
しかし、私にも剣士としての誇りがあるのだ!
けれど、
「何を言っている。負けたのはお前だぞ、刹那」
「――――え?」
エヴァンジェリンさんの、そんな言葉で一気に頭が真っ白になった。