それは、どこか西洋の城を連想させるような光景だった。
外壁から内壁にいたるまで白で統一された、豪華ながらも華美ではない内装に調度品。
そんな大きな空間にはチリひとつ見つからない。
この風景を誰かが見ようものなら、その圧倒的な美しさにしばし心を奪われることだろう。
———だが、それは誰かが見ることが出来ればの話である。
そう、そこには広大な敷地とは裏腹に人の気配と言うものがまるで感じられなかった。
辺りを包むのは静寂。動かない空気。
その贅を凝らしたかのような意匠も、管理の行き届いた景観も、誰の目にも触れる事がなければ無用の長物に成り下がるだろう。
———カタン、と。
そんな空間に小さな音が響いた。
それは決して大きな音ではなかったが、耳が痛くなるような静寂の中でその音はひどく響いたのだ。
「——————」
誰一人として存在しないと思われた空間に、一人の少年が佇んでいた。
内装と同じく白で統一された椅子とテーブルに座り足を組み、内心の全く伺えない表情でコーヒーの入った手元のカップへと視線を落としている。
その様はまるで人形のよう。
そこに確かに存在しているにも関わらず、まるで気配の感じられない圧倒的なまでの気配の希薄さ。
それは、少年の白い頭髪と相まって、言われなければ風景の一部だと錯覚してしまいそうになるほどだった。
「——————」
しかし、そうではない証拠に少年は、手に持ったカップをもう一度傾け、器に満たされたコーヒーを口に含んだ。
何処かを見ているようで何処も見ていない。
何かを思案しているようでいて何も思考していない。
今の少年を誰かが見れば、そんな相反するような印象を受けるだろう。
「———フェイト様」
そんな空間に、少年———フェイトに呼びかける、少女特有の高い声が響くと、長い髪の美しい少女が扉を開けて現れた。
たったそれだけで風景は急速に現実味を帯び、色を取り戻す。
「……調(しらべ)か。どうしたんだい?」
フェイトはその少女———調の方を見ることなく声をかけると、再びカップに口を付けた。
「ヘルマン伯爵より先日の調査報告書が上がってきています。ご確認下さい」
「ああ、ありがとう」
フェイトはそう言うと、カップを持っていない方の手で十数枚の紙の束を調から受け取った。そうして傍らのテーブルにカップを置くと、そこに記されている内容に目を通し始める。
黄昏の姫御子。
魔力完全無効化能力。
ネギ・スプリングフィールドの脅威度。
「…………」
そんな言葉の羅列が顔写真付きの書類に事細かに踊っている。
それをフェイトはなんの感慨も無い様な表情と目で追い、パラリ、パラリと書類を捲り続ける。
その様は、新しい情報を得ていると言うよりは、ただの事実確認をしているだけのようにも見えた。
「……なるほど。大方は予想通りか」
フェイトは書類を確認し続けながらそんな言葉を呟いた。
それは誰かに向けたと言う言葉ではなかったが、調はそんな呟きに反応をしてみせる。
「しかしフェイト様。いかに英雄の息子とは言え、フェイト様がお気になさるほどの脅威になるとは到底思えません」
「———確かに。調の言うとおり今のままの彼ならばさしたる障害にはなり得ないだろうね」
「だったら、」
「けどね、調」
声を上げかけた調の言葉に、フェイトは更に言葉を重ねる様にして最後まで言わせようとはしなかった。
しかし、そのような事をしながらも視線は手元の書類に向けられたままだ。
「彼はこの僕に直接拳を当てたんだ。圧倒的に実力が劣っているにも関わらず、だ。今はまだ放置していても良いかも知れないが、今後その才を侮っていては僕らの計画に支障をきたしかねない」
「……はあ、そうなんですか」
調は思わず気のない返事を零してしまう。
そもそも彼女は、主と仰ぐフェイトの実力を、全世界でもトップクラスだと考えている。そしてその予測は間違いなく事実であるという確信もある。
だからこそ、そのような世界最強の一角を担う主が、いくら英雄の息子とは言え、幼く、未熟な少年を気にするのかが理解出来ないのだ。
だが、当のフェイトはそんな調の様子を気にした素振りも無く、ただ書類に目を通し続けていた。
その表情には相も変わらずなんの感慨も浮かばず、ただ視線だけが素早く文字を追っている。
「…………」
と。
気がつけば、そんな主が報告書の最後の1ページで動きをピタリと止めたのが目に入った。調自身、その書類に目を通している訳ではないので、その内容を把握していない。だが、普段から感情の起伏が乏しい主が、そこまで興味を惹かれる内容なのだろうかと
内心で首を傾げた。
が、次の瞬間。
「———ふ。クククッ……アハハハハハッ!」
———それは、かつて無い光景だった。
この主が、声を上げて笑っているのだ。ここまで感情を露にした事が今まであっただろうか?
いや、過去にはあったのかもしれないが、少なくとも調が仕えるようになってからは一度たりとも無かった事だ。
そんな調の困惑を余所に、フェイトは狂ったように笑い続けるばかり。
くつくつと。
手で目を覆い、その隙間から覗く口元だけが欠けた月のように歪んでいる。
まるで壊れた機械のように。
「——————」
そして、笑い始めた時と同様に、唐突に笑うのを止めたかと思うと、
「——————見つけた」
そう、酷く冷たい平坦な声で呟いた。
「……フェ、フェイト様?」
そんなフェイトの雰囲気に思わず調は気圧される。
一体なにが彼をこうさせているのか。
一体なにが彼に起きているのか。
「———調」
「は、はいッ!?」
唐突に名を呼ばれ、驚いた調は思わず短いスカートを強く握ってしまう。握ってしまった箇所が、それこそ皺くちゃになってしまうほどに力強く。
だが、フェイトはそんな彼女に構うことなく続けた。
「一つ、僕の我が侭を頼まれて欲しい」
「……わ、我が侭……ですか?」
我が侭と言う言葉と、先ほどまでのフェイトの様子が余りにも合致せず、調は思わず首を傾げてしまう。
しかし、それも無理からぬことだろう。
誰が、あんな狂ったように笑った後に言い出す言葉が、我が侭を聞いて欲しいなどといった内容だと予測できるだろうか。
「……勿論でございます。何なりとお申し付け下さい」
だが、彼女の答えに否などなかった。なぜなら、彼女の喜びは、フェイトの力になると言う事なのだから。
調は恭しく跪くと、頭を下げ臣下の礼をとる。
そんな彼女に対して、フェイトは一瞬だけ、どのように言うか逡巡するような素振りを見せるが、
「———調べて欲しい事がある」
その我が侭の内容を口にしたのだった。
◆◇—————————◇◆
「畏まりました。それでは早速調査を開始いたします」
調はそう言い残して部屋を後にした。
そうして残されたのは、時間が遡ったかのように先ほどと同じ姿勢、同じ表情で佇む一人の少年と真っ白な空間。唯一違うのは、その手に持っているのがコーヒーカップではなく、書類の束という点だけ。
そんな、少女という色を失った世界は、またしてもその意義を失ったかのような耳が痛くなるほどの静寂に包まれる———かのように思われた。
「——————」
だが、実際はどうだろう。
無音であるにも関わらず、何処からとも無くギチギチと空間が悲鳴を上げているような錯覚に囚われるほどの圧倒的な圧迫感。広いはずの部屋がいやに小さく感じられる。見えない圧力によって空気が捻じ切れそうだ。
もしもこの空間に少年以外の誰かが存在したならば、一秒たりともここに居たくはないと願うだろう。
この圧力の正体は一体何か。そんなもの、語るまでも無い。
「———ふん、麻帆良学園……か。大した興味もなかったけど……」
その正体———フェイト・アーウェルンクスはテーブルの上にバサリと書類を放り投げると、組んでいた足を解き、ゆっくり立ち上がり、扉へと歩みを進める。
コツコツと言う足音が奇妙なほど響く。
それはまるで、存在意義を持たなかった人形が、初めて意義を得てその存在を高らかに謳い上げるかのような音だった。
空間がひび割れそうになる程の空気を引き連れ、ドアノブに手をかける。
そうして扉をくぐり、後ろ手に閉める間際に、ただ一言呟きを残す。
「———少し、面白くなってきた」
パタン、と。
閉じた部屋にその言葉は妙に響いた。
部屋の主が去り、本当の意味で無人となった空間。
真っ白なテーブルの上に残されたのは空になったコーヒーカップと、書類の束。
扉を閉じた際に生じた風が、テーブルの上の書類を捲り上げる。
無音だった空間にパラパラという紙の捲れる音が響く。
そうして、折り目が付いていたのか最後のページを開いた所でパラリ、と止んだ。
それは奇しくも、先ほどまでいたこの部屋の主が最後に見ていた箇所。
そこにはただ一行の文が並んでいるだけである。
顔写真も、それ以外の何かの情報も記載されず、真っ白な用紙の中心に、これ以上無いほどの簡潔さと味気なさで一行。
『エミヤシロウ。麻帆良学園都市にて存在を確認』
そう記されていたのだった。