「———いけない、少し遅くなってしまったか」
世界が夕暮れ色に染まる中、私は肩に掛けた夕凪の入った袋を背負い直しながら、そう呟いた。
普段であれば、既に帰宅の徒に着いている時間なのだが、今日は日直の仕事を片付けていたら思ったより遅くなってしまったのだ。
お嬢様は大分前にアスナさんと帰っている。
去り際に、士郎さんの所へ寄って帰ると仰っていたので、恐らくお店にいる事だろう。
お嬢様の最近のお気の入りは、アイスレモンティーだとか。
近頃は夏が近いせいか、気温もグングン上昇しているので、温かいモノより冷たいモノの方が美味しくなってきたと、いつものように微笑みながら仰っていたのを思い出す。
私の近頃のこの時間帯の日課は、アスナさんとの剣の鍛錬だ。
最初の頃の方こそぎこちなかったが、元々のセンスが良いのか、驚くようなスピードで日々成長している。
京都での事件の折に、その身体能力の高さは知っていたが、こうも短期間で目に見えて成長していく様子を間近で見ているのは恐ろしくもある。今はまだ自分に合った戦闘スタイルを模索しているようだが、ソレさえ見つけてしまえば、更に成長するスピードが上がるのではないかと私は踏んでいる。
そういえばつい先日、修行の最中にアスナさんがおもむろに、「二刀流を試してみたい!」と言い出した。
理由を尋ねてみたのだが、アスナさんは照れたように頬を指で掻きながら、「ん〜、ちょっとね〜」と、言葉を濁すだけで答えてはくれなかった。
……だけどまあ、ほぼ間違いなく士郎さんの影響だというのはバレバレだったのだが。
確かに二刀流というのは見栄えがして派手に見えるので、剣道などを初めてやる人間は憧れを抱くのも頷けるものだ。
更にアスナさんの場合は、兄と慕う士郎さんが二刀使いなのも手伝って、その憧れは人一倍強いのだろう。
だが、しかし。
現実は幾らなんでもそこまで甘くなかったようだ。
実際に二刀を持ってソレを振ってみたアスナさんではあったが、あっと言う間にバランスを崩してしまい、何度も転倒を繰り返していた。
これはアスナさんが初心者だからと言うだけではなく、実際問題として、二刀を扱うというのは非常に難しいのだ。
通常ならば両手で振るう刀剣類を片手で扱わなければならないのだから、慣れない人間は当然こうなってしまう。
想像しづらければ、両手に長柄の竹箒を持って振り回す所を想像してみて欲しい。
一本の竹箒を両手で振り下ろすことは、まあ簡単だろう。
だがソレを片手で行ったらどうだろうか? ほとんどの人間は振り下ろした後にピタリと止める事は難しいだろう。中には数回ならばまともに振れる人間もいるだろうがそれを本気で、しかも両手に持って振り回す事は至難の技だと理解できるだろうと思う。
しばらくそうやって二刀を試していたアスナさんだったが、一時間ほどして。
「……シロ兄、良くこんなの出来るわね」
と、泥だらけになった難しい顔をして唸っていた。
そもそも二刀というものは、あくまでも一刀の延長線上にある物であって、決して別物ではないのだ。事実として、その二刀を扱っている士郎さん自身も二刀以外は扱えなく、一刀は扱えないと言う事は決してない。
———むしろ、士郎さんは一刀であっても十二分に強い。
修練の際、私の相手をなさる時には大抵竹刀を一本しか使用しないのだが、それでも私の技量の遥か上をいく。確かに二刀を扱う際の『円』を主とした、流れるような動きはそのままなのだが、それでもソレはあくまで一刀を扱う動きの延長線上なのだ。
特に士郎さんの場合はその土台となる基礎のレベルが高いのだ。普通ならば次の段階に進んでも可笑しくない位階に達している筈なのに、それでもひたすら基礎を繰り返し鍛え続けたような、そんなある種異常とも言えるようなまでの基礎能力の高さがそのまま応用力に繋がっているのだ。
その事をアスナさんに伝えると。
「うーん、やっぱシロ兄はすごい……って事なのかしら?」
そんな風に言いながら笑っていた。
それでも両手に竹刀を持って、名残惜しそうにブラブラさせていた所を見る限り、未練が残っているのが分かりすぎて思わず笑ってしまったものだが。
「———っと、もうここまで来ていたか」
考え事をしながら歩いていたら、思いのほか早く士郎さんのお店の近くの商店街まで来ていたようだ。ここまで来ればゆっくり歩いても10分もかからない。
夕食の時間も間近なので人通りも多く、活気に満ち溢れている町並みが、夕暮れの光を浴びてオレンジ色に染まっている。
麻帆良学園特有の欧風な町並みと、夕暮れの幻想的な雰囲気が混じった景色はまるで御伽噺のよう。
そんな光景に自然と笑みがこぼれる。
落ちる夕日。
暮れ行く町並み。
黒とオレンジに染められる風景。
頬を撫でるのは夏の匂いを感じさせる爽やかな風。
通りを楽しそうに歩く学生達。
大きな笑い声を上げて駆け回る子供達。
鉄が錆びたような髪の色をした、ヨタヨタと歩く葡萄のような男性。
「……………………ん?」
はて、今なにやらおかしなモノが映ったような?
……私、疲れているのだろうか。睡眠時間はキッチリ取っている筈なのに。
目頭の辺りを軽くグッグッとマッサージしてからもう一度確認してみる。
するとそこには……。
「…………」
なんと言うか、葡萄のような男性と言うか、葡萄のような私の師と言うか。
鉄が錆びたような赤い髪。上質な布で仕立てられたベストにスラックス。真っ白なウィングカラーのシャツ。胸元には大きな赤い宝石をあしらった紐ネクタイが輝いている。
———詰まる話、葡萄みたいな士郎さんが居た。
「……し、士郎さん。何をしていらっしゃるのですか?」
思わず恐る恐る声を掛ける私。
———いや、私自身、何を恐れているのか知らないが。
「ん? お、おう、刹那。お帰り、今帰りか?」
そんな私の声が届いたのか、こちらを振り返りながら、そうやって答える士郎さん。
「は、はぁ、只今帰りました。……それより士郎さん、一体何事ですか『ソレ』は」
そう言いながらも目を向けるのは、葡萄の実……もとい、買い物袋の山。
そう、葡萄のように見えた物体は、士郎さんの両手に山のように抱えられた、大量の買い物袋だったのだ。
「あ、ああ、コレか? いや、さっき店で使うレモンが無くなったから八百屋にちょっと買出しに来たんだけどな。このか達も待ってるからさっさと買って帰ろうと思ったら、なんか店の親父さんが困った顔しててさ……どうしたんだと聞いて見たら、なんでも年
代物のレジが壊れたって言うんだ。んで、ちょっと見せてもらったら簡単に直りそうだったから直したら……」
士郎さんはそこまで話すと、ため息を吐きながら背後を振り返った。
その視線の先には、程よく日に焼けた中年の男性が一人。前掛けをしているところを見ると、士郎さんの話の八百屋さんなのだろう。
その男性はこちらに気がつくと、満面の笑顔を浮かべて大きく手を振っていた。
「……お礼にって言ってこうなってしまった訳だ」
士郎さんはそう言うと、もう一度大きくため息を吐いた。
「成る程、話は分かりましたが随分と沢山頂きましたね。ええ、本当に沢山」
私の言葉には賞賛半分、呆れ半分が含まれている事だろう。
賞賛は士郎さんの行為に。
呆れは幾らなんでもやり過ぎな八百屋の店主に。
「そうは言うけどな刹那、最初はコレの半分もなかったんだぞ」
「……では何故このような状況に?」
いえ、半分でもかなりの量があるのには変わらないんですけどね?
「俺自身、お礼が欲しくてやったわけじゃないし、本当に簡単に直せそうだから直したんだ。だからお礼なんて貰うわけにはいかないって言ったら、いきなり『気に入った!』って言われてな、大量に袋を追加されて、後はなし崩し……俺が一回断るごとに袋が追加、最終的には袋全部置いていくって言ったら、『そんなことしたら店の商品全部送りつけてやるからな!』って脅されて致し方なく……って待て、なんで俺は脅されてんだ!?」
わけわかんねェー! と頭を抱えて叫ぶ士郎さん。
士郎さん、その状態で頭を抱えると袋の中身が零れます。溢れます。大量の袋がワサワサ揺れてます。
しかしまあ。
士郎さんらしいと言えば、士郎さんらしい話だ。
士郎さんは学園広域指導員という立場からか、学園内外問わずに人助けや手伝いをしている事が多い。
そのことに対して何も感じない輩も大勢いるが、中にはこうして礼をきちんと表わしたいという人もいるのだ。
それでも普段は受け取ったりはしないのだが、今回は強引に押し切られてしまったようだ。
これもある意味の因果応報と言うべきなのだろう。普通なら悪い行いに対して悪い出来事が返って来るというものなのだろうが、士郎さんの場合は、善い行いに対して今までそのツケを受け取らなかった分、こうやって善行で返って来たと言う事なのだろう。うん。
———まあ、当の本人はなにやら頭を抱えているようなのだが。
「し、しかし士郎さん。こうして頂いてしまったのですから、もう観念して納めてしまった方がよろしいのではないですか?」
「……まあ、それもそうだな。———つーか、コレ返しに行ったら今度は何追加されるかわかったもんじゃない」
「は、ははは……」
ガクリ、とうな垂れる士郎さんに私としてはもう笑うしかない。
しかし、本当によくもまあここまで大量に持たせたものだ。
ざっと見た限り、片手に7、8袋。更には取っ手の所を結んで、ソレをたすきの様に首から掛けているのが2袋。
まさに葡萄状態だ。
「士郎さん、私もお手伝いします」
「……悪いけど頼む。いつもだったら女の子に荷物持ってもらうなんて事はしないんだけど、今回ばかりは限度を超えている」
それはそうでしょう。少なくとも私は買い物袋を首からかけている様な人を見た事をありませんから。
と、私はそんな事を考えながら士郎さんの首にかかった買い物袋を二つ受け取る。
袋の中身を覗いて見ると、レモンやオレンジといった果物がぎっしりと詰まっていた。恐らく、士郎さんが持っている袋の中身も似たような物なのだろう。
「もう帰っても大丈夫なのですか?」
「ああ、このか達も店で待ってるからな。さっさと帰るか」
士郎さんがそう言ってスタスタと歩き出したので私もその三歩後に続く。
「お嬢様はお店の方に?」
「ああ、今頃はなかなか帰ってこないから心配してるかもな」
「そうですか。でしたら急がないといけませんね。……もっとも、この荷物の量ではそれも叶いませんか」
「はは、違いない」
士郎さんはそうやって笑いながら荷物の取っ手を持ち直した。
「それにしても珍しいですね。士郎さんがこのようにお店の在庫を切らしてしまうのは」
「ああ、それはそうかもな。……って言うより今回は予想外の消費があったからなんだけどな?」
「と、言いますと?」
私がそう問いかけると、士郎さんは背中を少し苦笑したように振るわせた。
「いや、このかの奴にレモンパイ作ってくれってせがまれちまって。なんでも昨日の晩に見たテレビでそういう特集やってたらしくてな、それを見てたらなんだか食べたくなったらしい」
「レモンパイ……ですか。確かお店のメニューには無かったですよね。どうしてお店のメニューには加えないのですか?」
経営とかの話となると私は全く分からないのだが、普通こういうものは少しでもメニューが多い方が良いのではないだろうか?
すると士郎さんはそんな私の疑問にあっさりと、
「そりゃそうだ。だって俺、レモンパイなんて作ったことないし作り方も知らないからな」
「——————は?」
なんて、さも当然のように言い放った。
そんな士郎さんの妙にあっけらかんとした返事に、思わず間の抜けた声を上げてしまう。
「つ、作った事がないのに作ってくれと頼まれたのですか?」
「んー……まあ、な。だってあいつ、態々レシピまで持ってきたんだぞ? これ食べたいから作ってくれーって」
「———それをお嬢様が?」
「ん、そうだけど。それがどうかしたか?」
「あ……いえ」
首だけでこちらを振り返る士郎さんに、そんな曖昧な答えを返す。
と言うより、ある種の驚きでそんな答えしか返せなかったのだ。
「……”あの”お嬢様がそんなワガママを?」
数歩分だけ先を歩く士郎さんにも聞こえない声で呟く。
お嬢様がこのような事言い出すのは今までに無かったことだ。
確かにお嬢様と言う御方はああ見えて、押しが強いところはある。
だがしかし。
それは、あくまでも他の誰かの事を慮っての事。決してご自身だけの為と言う、利己的な理由は一度も無かった。
だが今回の話は全くの正反対。
言ってしまえば自分本位、もしくはワガママ。
そしてお嬢様は明らかに士郎さんの負担になると分かっていて、そのように振舞っているのだろう。
負担の程度が軽いとは言え、それが分からない御方ではない。
なぜこのような事を? と、一瞬だけ首を傾げそうになるが、その答えは思いのほか早く、それでいてすんなりと導き出された。
「———ああ、そうか。お嬢様は甘えているんだ」
そう、それはきっと甘え。
決して悪い意味ではなく、もっと優しく暖かい言葉。
———この人なら頼っても大丈夫だと。
———この人なら自分の重さを預けても支えてくれると。
そんな曖昧で。
なんの確証もなくて。
形にする事のできない無色の感情。
だけど。
そんな曖昧だけど。
なんの確証もないけれど。
それでも確信を抱く事のできる、大きく暖かな色の感情。
それは無条件に。
それでいて、何の根拠すら必要としない。
純粋無垢な、そうである事が当然であるような絶対的な信頼の証。
……———そう、まるで妹が兄に向けるような『絆』の形なのだろう。
そんな優しい答えに思わず笑みが零れた。
ああ、この御方はお嬢様の心の拠り所になったらしい。
それが嬉しくも、自分自身がそうなれていない事が歯痒くもある。
……けれど。
「……甘え、か……」
そう小さく呟き、少し前を歩く士郎さんの背中を呆けるように眺める。
この御方に甘えているのはお嬢様だけではない。
アスナさんもその言葉や行動の端々にそういう感情が垣間見られる。
そして恐らく…………私自身も。
「——————」
知らずのうちに手を前に伸ばす。
思考の海に沈んでいた足は歩みを止め、その背中は離れていた。
夕暮れの光を浴びて、赤く染まる遠い背中。
……いつか私も、貴方のように強くなれる日が来るのでしょうか?
それは戦う為の強さだけではなく、心も含めた『本当』の意味での強さ。
私も、いつか貴方のように誰かを支える事のできる強さを手に入れることが出来るでしょうか?
肩幅があるせいか、背丈よりもずっと大きく見えるその背中。
思えば、私はこの背中をずっと見ている気がする。
いつも、私達を導くように。
いつも、私達を守るように。
———そんな貴方の背中をずっと見続けている。
私ではまだ貴方の隣を歩けないのでしょう。
貴方の隣を歩く事が出来るのは、私が知り得る限りただ一人。
エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル———彼女しかいない。
いつか私も貴方の隣に並べるでしょうか?
いつか私も貴方と同じものを見れるでしょうか?
その答えは私には分からない。
いや、誰にだって分かる事はないのだろう。
……分からない、けれど。
「おい、どうした刹那? 早く帰らないと日が暮れちまうぞ」
きっと、焦る必要なんて無い。
——————だって、ほら。
「———はい、今行きます」
弾むような足取りで。
一歩。
二歩。
三歩。
たったのそれだけの事で貴方の隣に並ぶ事が出来きてしまうんだから。
そんなおかしさに思わずクスクスと笑ってしまう。
「ん? どうかしたか?」
士郎さんが突然笑った私を不思議そうな顔で見た。
それになんでもありませんと答える。
そう、これはただの自己満足。いわゆる反則技だ。
こんな事をしても、何も変わらないってことは自分自身が一番分かっている。
———それでも、やっぱり焦る必要なんて何処にもない。
私は私。
過ぎ行く日々を駆け抜けたりせず、今をゆっくり歩いてく。
私はまだ高い高い山を目指して歩く坂の途中。
その頂は未だに遠く霞んで見えてこない。
だけど。
今という時を踏み締めながらゆっくり、ゆっくりと歩いていこう。
周りの景色を心に焼き付けて。
その時の感情を身体に染み込ませ。
過ぎ行く一秒一秒をしっかり見続ける。
道のりはまだまだ長く遠い。
駆け足で登ったりしたらきっと疲れ果ててしまう。
そんな事をしても本当の意味での強さなんて手に入らない。
だから私は、一歩進むごとに映り行く景色を心に焼き付けながら歩いて行こう。
どんなに頂きが遠くとも。
辿り着けるなんて確証はこれっぽちもないけれど。
それでもゆっくり歩いてく。
だって。
「じゃ、行くか」
こんなにも近くにその頂が待ってくれている。
頂を知る人が手を引いて、一緒に歩いてくれている。
だったら焦る必要なんかない。
私はその背中を見失わないように歩いていけばいいのだ。
道に迷う事もあるだろう。
困難に突き当たって立ち止まる事だってきっとあるだろう。
それでも間違えた道だけは、決して歩く事はないと信じられるその背中。
そこに並び立つ事が出来るかは分からないけれど。
今を信じて歩いてく。
だから。
「はい、士郎さん」
———今は、もう少し貴方の背中を見続けても良いですか?