「勝負ですわ、アスナさん!」
もはや聞き慣れた感のあるセリフが、休み時間の教室に響き渡った。
「おー」
「きたきたー」
「ひきわけに10円ー」
「アスナちゃんの勝ちに20円ー」
「ぼくもひきわけー」
わいわいがやがやと、それを引き金に騒ぎ始めるちびっ子ども。
「んー……アスナちゃんの勝ちだとおもう」
「なんだと!?」
「くそ、ミスった!」
そこで最終判断を下すな。確かに彼女の勘は滅多に外れないが、まだ結果は出てないぞ?
いちいち指摘はしないが。
恒例のレクリエーションとなりつつある周囲の騒ぎを聞き流し、漢字の書き取りの小テストを見せる。もはや言うまでもなく満点である。――いやだから、小1で習う超簡単な漢字を間違うとか、無理。
対するいんちょちゃんは、ケアレスミスで1問落としていた。
「むぐぐぐぐっ……私の負けですわ……。次は負けませんわよ!」
悔しそうに顎下で小さな拳を握り、頬を膨らませながら、素直に負けを認めて引き下がる。潔い。あと、ぶんむくれてても可愛らしさが先立つのは、素材がいいせいだろうか。得だな美幼女。
しかし、1問でも間違えたら勝てないのはもうわかってるだろうに、それでもテストの度に見せに来るのは何故だ、いんちょちゃん。
律儀と言うか、公正と言うか。自分に不利でも一度決めたことをやり抜く姿勢は、頑迷ではあるが素直に好感が持てる。
……内容が、俺に突っかかってくることでさえなければ。
引き分けならまだしも、勝つたびに微妙に罪悪感があるのだが……。
まあ、だからと言って手を抜く気はないが。このレベルで負けてしまったりすれば、なけなしのプライドが粉微塵になりそうだ。
この学校に通い始めておおよそ1ヶ月。
周辺環境にも慣れてきて、新生活のルーティンワークも形になってきていた。
起床、洗顔、朝食の下拵え。崩拳と八卦掌の修行。シャワーを浴びて髪の手入れ(……面倒)。朝食を作り、食事。歯磨きして勉強道具の確認、登校。身体把握と周辺把握の訓練。
学校では内職と周辺把握訓練と休憩、休み時間にちびっ子どもの相手。
まさに今していることだ。
朝からの流れを確認していたところで、目の前にぷにぷにの幼女ハンドが突き出された。その間に絡み合いながら何本も走る毛糸。
ふむふむ。ここがこうなってああなって……。
テキトーに形を読みつつ、毛糸の間に指を差し入れてひょいひょいと動かす。
――こんなものか?
にこにこ笑顔の桜子の手から、すっと毛糸の網、すなわち綾取りを抜き取った。
「……む」
綾取りは俺の手の中でばらりとほどけて広がる。どうも取り方を間違えたようだ。精密動作そのものにはだいぶ自信がついてきたのだが……。
「くしししっ。アスナちゃんはあやとりヘタだね~!」
むむ。おかしい。空間把握も得意になって来たつもりなのだが。
「ヒナちゃん、はっきりいいすぎだよ! もっと、とおまわしにいわなきゃ!」
……下手なのは否定しないわけだな? まひろ。それ以前に、わざわざ指摘しなくていいわけだが。これだから天然は……。
「そうなの? わかった、まっぴー、気をつける! えっと……アスナちゃん、あやとり、にがてだねー?」
言い直さなくていい。大して遠回しになってないし。
これだから天然どもは……。
仕切り直すことにして、輪っかに戻し手首と指に絡めて基本形を作り、雛子に差し出す。幼い顔立ちを真剣に引き締め、毛糸に指を滑らせる。
さっきのテスト勝負後の中休み時間、珍しく運動が得意でなさそうな女子ばかり集まってきたため、遊びのお題を綾取りにしてみた。みたのだが……俺が取ろうとすると何故か形が崩れる。
くそう、何故だ。何となく悔しいぞ。
「はい、6段ばしごー」
綺麗な菱形を連ねた毛糸を前に、動きを止める。
むむむ。どう取ればいいんだ。
「おーい、まひろー。鉛筆貸してくれー」
「あ、おにいちゃん。わかったー」
「お? あやとりか。ふふふ、何をかくそうオレは、あやとりの達人!」
ひょいっと割り込んできた少年が、ひょいひょいと、いとも簡単に綾取りを自分の手に移した。
すいすいと器用に指先を動かし、毛糸をからげていく。
「ぃよっ! はい、ジェットせんとうき!」
いや待て。飛行機ってのは聞いたことあるが、明らかにそれどころじゃないぞ。やたらと立体的で躍動的なソレ、どうやって作った?
おーっ、と周囲から拍手が湧く。
「まっぴーのにーちゃん、すげー!」
「かっこいいー!」
それで済むのか……能天気な連中だな。少々釈然としない。まあいいが。
「やー、どーもどーも」
笑顔で手を振って喝采に答え、少年は綾取りを返して立ち去って行った。
数分後、慌てて鉛筆を借りに戻ってきたが。
ふと気付くと、いつもなら皆を注意するはずのいんちょちゃんは、騒ぎに背を向けてノートに鉛筆を走らせていた。傍らにさっきのプリントがあるので、黙々とテストの復習をしているようだが……。
周囲を拒絶するような雰囲気を漂わせてるのが気になるな。
とりあえず、彼女の代わりに騒ぎを鎮圧しておく。
ぱんぱん、と手を叩いてちびっ子どもの注意を惹起した。
「そろそろ中休みが終わる。次の準備に入れ」
『りょうかーい』
次の授業は体育である。体操着に着替えねばならない。
小学1年のうちから別々に着替えたりはしない。
セーラーカラーの淡いブルーのワンピースを脱ぎ、お子様パンツ一枚になって、体操服を取り出す。
別に恥ずかしくなどないぞ? この頃の性差など、ないも同然だ。堂々としていればよろしい。
シャツを着て、シンプルな紺のブルマを穿く。公立学校からは昨年度駆逐されたそうだが、麻帆良学園は私立。未だに、一部の者のフェティシズムを著しく刺激するこの装束が生き残っている。高学年ならともかく、小1ではただ子供っぽいだけだが。
俺としては短パンのほうが楽な気はするが、まあどうでもいい。
着替え終わった者から、三々五々、わらわらと校庭に向かう。
予鈴が鳴ると、ジャージに着替えた担任女教師が、朝礼台に向かって歩いてきた。
「はーい、みんな、集まってー」
両手をメガホンにして声を上げるが、一部のちびっ子はじゃれ合いに夢中で気付いていない。
なので、修行の成果の一部を試してみることにした。
自らの体機能を意識する。腹筋、横隔膜、肺、気管、声帯。それらに「気」を通し、強化し、連動させる。息を吸って唇を開いた。
「集合。だらだらするな、きびきび動くがいい」
大きな声は発しない。だが、体の隅々まで意を配った腹式呼吸に加え、「気」を込めた声は妙に通りがよかった。全員、問題なく言うことを聞き、小走りに朝礼台前に集まる。……別段強制力とかはないはずだが。いつもながら聞き分けがいいな。いい子揃いのウチのクラスは、学級崩壊などとは無縁だろう。
うんうん頷いていると、担任教師が何やら落ち込んでいるのが目に留まった。
生徒を急かしたのに、貴女が動かないでどうする。
何やらぶつぶつ言っているので耳を傾けた。
「うう……担任の私がまとめきれないのに、どうして神楽坂さんはこんなに統率力があるの……? 今度弟子入りしようかしら……」
いや、さすがに、やめておけ。
復活した女教師の指示で、まずはラジオ体操第一。
これまでの授業では、手つなぎ鬼や、鉄棒や、ドッジボールや、50m走や、縄跳びや、大縄跳びや、フラフープ跳びや、フォークダンスなどをやったが、今日は何だろうか。
「今日は、馬跳びをします!」
ということだった。
……ま、1年生のうちは、体育の授業なんてのは半ば以上レクリエーションの時間だからな。
今度、先日のポイント式缶蹴りとか、あるいは遠野家式鬼ごっことか、提案してみるのはどうだろうか?
とか思っていたところ。
「勝負ですわ、アスナさん!」
……あー、またですか。
さすがにちびっ子相手に「受けずに逃げる」とか選択できん。受けるしかないのだが……。
はあ、やれやれ。
気や魔力やカンカ法を使わなければ、この身も単なる幼女でしかない。鍛え始めて3週間程度で劇的に体力が上がるわけでもなし。
そして幼女同士、単純な身体能力では差はほとんどない。彼女も運動神経はいいので。
なのだが、どういう巡り合わせか、体育でもいんちょちゃんに負けたことはなかったりする。
毎回いい勝負にはなるのだが。不思議だ。無論、手抜きは失礼なので、いつも真剣にやってはいる。
さて、勝負の方法だが。テキトーに十人ほど馬になってもらい、それを2列作って、左右の掌をかざした学をゴール地点に立たせる。ヤツの手に先にタッチしたほうが勝ちだ。ゴール係が学なのは、一番感覚が鋭敏そうだったからである。ほぼ同着でも、微妙なタイミングの差異を判別してくれそうだと思ったのだ。
なお、担任教師には「まずは俺とあやかが見本になる」と言うことで勝負を了承してもらった。まあ、毎回のことだし、苦笑して認めてくれたが。
「はいはーい。みんな、準備はいいかしらー? 白浜くん、頭はもっと下げとかないと、跳ぶ人の膝がぶつかっちゃうよー。神楽坂さん、雪広さん、用意はいい?」
それぞれ頷く俺といんちょちゃん。
女教師は頷き返し、俺達の後ろで開始の合図を始めた。
「それじゃあ、位置について。よーい……どん!」
ぺちん、と小さな拍手音が鳴り、俺達は弾かれたように駆け出した。反射的に瞬動を使ってしまいそうになるのを抑えるために無駄な労力を使ったのは内緒だ。
ちびっ子どもの声援を受けながら、ほぼ並走した俺達は、横を向いて屈んだ級友の背に手をついて開脚跳びをする。跳び越して着地し、勢いを殺さず前にステップ、次のジャンプの態勢に入る。うむ、これはこれで身体機能の意識的把握に非常に適した遊戯だな。
始めた当初よりは微妙にできてきた空間把握も駆使して(と言っても、何となく距離感が以前よりわかる、程度だが)、次回、次々回のステップ、ジャンプに適した位置を予測し、可能な限り正確に手足の動きやポジションをコントロールし、リズミカルにちびっ子どもを跳び越していく。
色々と余計なことを考えながら動いているため、トップスピードはやや落ちるが、代わりに動作のつなぎのスムースさでタイムを稼ぎ、がむしゃらに目の前の馬を跳ぶことに夢中のいんちょちゃんより半身分くらいリードしていた。
リードを保ったまま、十人目のちびっ子へ。……兼一、担任教師が頭を下げろと言っただろう。蹴られても文句は言えんぞ? 蹴らないが。その代わりちょっとくらい怖い思いをするのは勘弁しろよ?
俺の膝が兼一の頭皮をかすめるほどギリギリに、大開脚して跳躍。「ひぃ!?」とか悲鳴が聞こえたが、勢いを殺さず兼一の頭を躱すためには仕方がない。元々このボディは柔軟性が高かったが、ストレッチを続けていたおかげでさらに稼働域が広がってきている。やっててよかったよ。AMBACで空中姿勢制御……とまではいかないが、すぐに次の行動に移れるよう態勢を整えながら着地。直ちにダッシュした。
いんちょちゃんは最後の跳躍の勢いを殺し切れずにたたらを踏み、半歩分遅れた。
あとはダッシュするだけだ。無駄のないフォームを心がけ、小さな体を目一杯大きく使ってストライドを稼ぐ。
いんちょちゃんも根性で猛ダッシュを見せ、差を詰めてくるが、残念ながら距離が足りない。
学の掌に軽くタッチした半瞬後、必死で伸ばしたいんちょちゃんの手が反対側の掌を叩き、乾いた音が鳴り響いた。
痛かったのか、微妙に眉をしかめつつ、学が宣言する。
「アスナちゃんの勝ちー!」
わーっ!
と、沸き返るちびっ子ども。
いんちょちゃんは、がくっと膝が抜け、走って来た勢いのままゴロゴロッと転がり、仰向けに倒れた。よほど全力を尽くしたのか、顔は汗だくで、ゼェゼェハァハァと荒い呼吸を繰り返している。しばらくは動けそうもない風情だ。
対して俺は、彼女ほど余力を振り絞ったわけではないので、普通に立っている。それどころかほとんど汗もかいていない。
それが、勝負に注力した彼女に応えきれなかった証拠のように思え、居心地の悪さを覚えた。彼女の動きに無駄がありすぎたために疲労度が異なるのだと、理由付けはできる。だが、俺は彼女ほど真剣だっただろうか。そう自問した時、はっきり「否」と言えてしまうのだ。
手抜きなど、していない。
なのに、この胸に宿る後ろめたさは何なのだろうか。
俺は首を振って、迷走する思考を打ち切り、いんちょちゃんに歩み寄った。
「派手に転んだな。怪我はしていないか?」
「…………。平気、ですわ……」
声色には明らかに張りがない。どうも身体のダメージより精神に打撃を受けているようだ。
原因は俺だが。
とは言え放置はできまい。身体も完全に無傷とは言えないしな。
「あちこち擦り剥いてるな。保健室に行ったほうがいい。立てるか?」
手を差し出すと、何やら言いたげな眼差しでじっと見つめた後、ふいっと顔を逸らした。
「ひ、一人で立てますわ」
よろめきながらも、俺の手を借りずに立ち上がる。
「それじゃ、私が付き添うから、保健室に」
「一人で行けますわよ」
先回りするように強い口調で言い切るいんちょちゃん。どこか頑なな瞳を見て、俺は説得を諦めた。
「……わかった。無理はしないようにな、あやか」
頷きだけを返し、彼女は逃げるように駆け去った。
……どうしたものかな。
今のいんちょちゃんは、どうも上手くない方向に向かっているように見えるのだが。
腕組みして首を傾げるが、ならばどういう方向が望ましいのかもよくわからない状態でどうにかなるものでもあるまい。
ふと気付くと、何人かのちびっ子が、俺の真似をして、背を伸ばし広めの歩幅で立って腕組みしつつ小首を傾げていた。
…………。
別にいいが、楽しいか? ソレ。
午前の授業が終わり、給食の時間になった。今日は、ソフト麺焼きそばと、コッペパンとマーガリン、野菜たっぷりのクリームシチュー、パック牛乳、デザートのゼリー、というメニューだ。とりあえずコッペパンに縦の切り込みを入れ、焼きそばを挟んでみる。一口食べると、ソースが薄いが、まあ一応焼きそばパンの味がした。
問題は、口が小さいせいで、一度にかじれる量が少ないことだ。もっと大きくかぶりつきたいのだが、端っこからちまちま、かじり取っていくことしかできない。むぐむぐと焼きそばパンもどきに挑んでいると、普段は欠食児童同然に給食に立ち向かっている才人が、手を止めてじっとこちらを見つめていた。
「む? どうした才人。私のほっぺたにソースでもついているか?」
「ぬぁ!? いいい、いやいやいや、何でもない。どうぞおしょくじをおつづけくださいませ!」
何故だか泡を食って左右の手を振る。妙な態度に首を傾げるが、コイツが変なのは割とよくあることなので、気にせず食事に戻った。
はむはむ、むぐむぐ。
俺の生活は実は消費カロリーがかなり多く、そのため食事量はそれほど少なくない。が、前述の事情でスピードが今ひとつ上がらないため、食事は俺にとっては意外と大変な作業である。
だが、咀嚼量が少ないのならば、数で補えばいいのだ。よく噛んだ方が消化にいいしな。
真剣に給食に取り組む俺に、方々から何やらほんわりした緩い眼差しが向けられているのを感知するが、忙しいのでスルーしておく。
――ちなみにその最たるものは、教壇から担任女教師が向けてくる幸せそうに蕩けた笑顔だったりする。何がそんなに嬉しいのかはよくわからんが、幸せであるのならば問題はあるまい。
「ああ……普段の凛々しさとは一線を画す、食事時のあの小動物的な愛らしさがたまらないのよねぇ。これがギャップ萌えと言うものなのかしら……?」
担任の口から駄々洩れる妄言など聞こえん。……何がそんなに嬉しそうなのかは、よくわからない。わからないのだ。
ちまちまむぐむぐと給食を食べきった俺は、最終的な片付けを給食当番のちびっ子に任せ、一人で階段を昇っていく。2階、3階、4階。さらに昇って、鉄扉の外へ。
そこは、高いフェンスに囲まれた屋上だ。基本的に、麻帆良学園都市の校舎の屋上は運動場として開放されている――らしい。俺はこの麻帆良学園初等部しか知らんので、伝聞知識なのだ。
遊んでいるちびっ子ども(上級生もいるが、しょせん上限12歳なのでな)の間を縫い、フェンス際へ向かう。
頑丈かつ目の細かい金網に到達すると、額をつけ、金網越しに遠くの景色をじっと見つめた。
何をしているかと言うと、遠視力の訓練である。ただ漫然と遠くを見るのではなく、ギリギリ見分けがつくくらいのものの細部に目を凝らすようにする。タイルを数えたり、瓦を数えたり、きっちり注視して見分けるタイプの作業が有効であるそうな。
ずっとやっているとかなり目が疲れるのだが、適度に休憩して目を休めつつ続ける。昼休みはもっぱらこの訓練に費やしているため、ちびっ子の相手はお休みだ。
ちなみに雨の日は最上階の窓からやっている。
放課後は大抵、わらわら寄ってきたちびっ子どもを率いて遊びに行く。大抵の場合は外でだ。屋内でゲーム? 元気の有り余っているお子様が? あり得ん。特に運動が苦手な子がいたりとか、雨だったりとかしない限りは、野外を走り回って服を汚し、母親に溜息混じりの笑顔で迎えられるのが子供の仕事である。
冷蔵庫の中身が乏しい時には早めに切り上げるか、先に抜けるかする。
それがここのところのお決まりのパターンだったのだが……非常に珍しいことに、今日は一人だった。
たまには静かなのもいいな。気疲れしないし。
だが、さて、そうすると、何をしようか。
炊事以外の家事は大体土日にまとめて片付けることにしているし、今日は買い物も必要ない。昨日のうちに「明日はカレーにしよう!」と天啓が下りてきた(電波とも言う)ので、その勢いのまま、とっくに作って寝かせてあったりする。
図書館島に行く気分でもないし、周囲を散策するのも気が乗らない。
つらつらと考えていたら、ふと以前気になったものを思い出した。
ふむ、よし。物は試しだ。
四階の特別教室エリアに足を向け、音楽準備室を訪ねる。幸いこの時間、音楽の授業はないようだ。
「すいません、先生。ちょっとギターを弾いてみたいのですが、よろしいでしょうか」
準備室を根城にしている音楽教師に訊いてみると、気軽に許可が出たので、音楽室に入る。
壁際に並ぶ楽器の一つ。ちんまいアコースティックギターに歩み寄る。
これを見た時に、子供用のギターなんぞあるんだなあ、と感心したのを思い出したのだ。
俺はギターを手に取ると、椅子に浅く座って足を組み、ボディを膝に乗せる。
一弦ずつ軽く鳴らして音を聞く。ペグを回してチューニングを微調整。まあ、元より大体合ってるが。
ネックで弦を押さえ、ストロークでコードを奏でた。ナイロン弦なのでぷにぷにの幼女ハンドでもそれほど痛くないが、決定的に握力が足りない。
やむを得ん。カンカ法を使おう。……便利使いしてるが、実際便利なのだから仕方がない。
当然、今のボディでギターを弾くのなど初めてなので、最初のうちはイメージと運指にずいぶんと齟齬があったが、そこは身体把握訓練を続けていた成果で、次第に思う通りに動くようになってきた。
よし、これならアルペジオでも弾けるな。
――それで弾ける曲なんて一つしかないのだが。
前世で大学生の時、金がなかったので一時期暇潰しにひたすらギターを弾いていたのだが、そらで弾けるのが一曲しかなかったので、そればっかりやってたのだ。
数ヶ月ずっとやってたら、上手くはなったが、死ぬほど鬱になったのでやめた。
と言うわけで、これだけは相当の腕前で情感豊かに弾ける曲を披露するとしよう。
曲名は――「禁じられた遊び」。
……鬱になったのもご理解いただけるだろうと思う。
前世で身につけたテクニックを惜しみなく発揮して弾ききる。
実は、音感は今のボディの方が上なので、前世より巧く弾けたかもしれない。曲の威力も相まって微妙に欝な気分だ。
弾かなきゃよかっただろうか。
最後の弦の余韻が空気に溶けていくのを追う耳に、かたん、と小さな音が響いた。視線を向けると、音楽室の扉から顔だけ出していた美幼女と目が合う。
「あやか?」
「――――ッ!」
呼びかけると、いんちょちゃんはハッと息を呑み――悲痛な表情を残して、身を翻した。
「……えっ?」
パタパタ駆け去る足音。
何故、そんな顔をする?
放っておいたら、マズいような気がした。
俺は急いでギターをスタンドに戻し、準備室の音楽教師に「すいません、帰ります」と一声かけて、彼女の走って行ったほうへ向かう。そもそも、放課後とは言え、いんちょちゃんが廊下を走るとは。生真面目でルールに厳格な彼女が、廊下を走ったところを見た記憶は、俺にはない。
そう言えば、いつもいつも突っかかっては来るのだが、いんちょちゃんと遊んだ記憶もないな。
確か誰かに、彼女は放課後はいつも習い事に行ってしまうのだと聞いた覚えがある。又聞きだが。
だが、それって毎日なのか? 一度くらいは一緒に遊んでいても不思議はないと思うのだが。もしかして、意識的に避けられてた?
そのうち打ち解けられるだろう、などと高を括らずに、もっと気にかけるべきだっただろうか。
いんちょちゃんを見つけたのは、俺達の教室内でのことだった。帰り支度をする途中の姿勢で、糸が切れたように動きを止め、じっとしている。
――危うい。
額に冷や汗が浮かぶのを感じつつ、俺はいんちょちゃんに声をかけた。
「えーっと……あやか?」
ぴくっ、と肩を震わせるが、反応はそれだけだ。
彼女に向けて歩を進めようとすると、それを遮るように、平板な声を発した。
「――私、習い事をしていますの」
思わず足を止める。
「週に三回、家庭教師の先生に勉強を見ていただいて、その他に、お花と、習字と、乗馬と、あとバイオリンを習っていますわ」
そんなにか。それで毎日放課後すぐにいなくなるのか。いくら何でも過密スケジュールじゃないか? 子供は遊ぶのが仕事だと、俺なんかは思っているのだが。
「私はお父様やお母様の助けになりたい。将来は、雪広グループをリードしていきたい。だから、何でも1番になろう。皆さんのリーダーになろう。そう思って、そして、それは上手にできていたと、思っていました」
……それは。
「でも、アスナさんが来て。……私は、1番ではなくなりました。クラスのリーダーは、いつの間にかアスナさんになっていました。私は、一生懸命頑張りましたけれど……一度も勝てませんでしたわ」
いつの間にか、いんちょちゃんの横顔には、光る雫が幾筋も伝い落ちていた。
「私、実は習い事の中で、バイオリンが一番好きですの。今日はバイオリンのお稽古の日でしたけれど、先生のご都合が悪くなって、お休みになりましたわ。でも、急に弾きたくなって、お家に帰るまで我慢できなくて、音楽室のバイオリンを借りようと思ったのです」
俺は鉛のように重くなった足を前に出し、一歩ずつ、いんちょちゃんに近付いていく。
「何度も、アスナさんに負けて……悔しかった。でもきっと、私の好きなバイオリンでなら、音楽でなら、私のほうが、上手だと。そう、思って、ましたわ。そんなの、なんの、こんきょも、なかったのに」
「……あやか」
ようやく彼女の傍らに着き、声を絞り出す。迷いながら手を伸ばし、肩に手を置いて、そっとこちらを向かせた。
正面から俺と向き合うと、彼女はぐしゃっと表情を崩し、俺の胸に拳を打ちつけながら、泣き叫ぶ。
「ぐすっ……アスナさんは、ズルいですわ! な、何でも簡単に、1番になってしまって……! 私だって……私だって、頑張っていますのに……!!」
本気で殴る気はないのだろう、俺の胸に降る左右の拳には、全く力が入っていない。
俺は無言でいんちょちゃん、いや、あやかを抱き寄せた。
彼女の慟哭に、苦い思いが湧き上がる。
あやかの言う通りだ。彼女はものすごく努力している。本来なら彼女が文句なく一番のはずなのだ。
前世知識などという反則を持つ、俺がいなかったのならば。
まさしくズルだ。慧眼と言う他ない。本質を見抜く目が優れている。
だが、本能で察したにすぎない俺の「ズル」を指摘もできず、ならばと正面から挑んできていたのだろう。それが、今になって理解できる。
何と誇り高いことか。
感嘆が胸に満ちる。
俺の「ズル」に敗れるたびに、彼女の心に降り積もった微かな憤り。しかし、本能が抱くその不満を、あやかの優れた理性は認めなかったに違いない。
勝てないのは自分の努力が足りないからだ。それを棚に上げてライバルを責めるような本末転倒なことをできようはずがない――そんな風に思っていたのではなかろうか。
授業をまともに受けず、放課後は友達と遊び呆けて、なのに自分より何でも上手くこなしてしまう。
そんな俺を見て、どれほど苦々しく思っていただろうか。
もう少し大人だったのなら、それでもその思いを飲み込んでいっそうの努力を自分に課していたかもしれない。しかし、未成熟な子供の心では、いつまでも耐えることなどできなかった。今回のこれは、その発露であり、ある意味甘えであり、そしてSOSのサインだ。見過ごすことはできない。
だが、その苦しみは、本来彼女が味わうはずがなかったものである。
それを与えたのは、俺だ。
なのに、その俺が、今の彼女にどんな言葉がかけられると言うのだろう。
謝る? 何を馬鹿な。それは彼女の努力を否定する行為だ。
努力を称賛する? その上を行く相手に褒められても嫌味なだけだ。
俺のせいなのに、慰める言葉もない。
何と情けないことか。
俺は奥歯を噛みしめながら、あやかの背と髪を、あやすようにゆっくりと撫でることしかできなかった。
(それは八つ当たりじゃない。正しい怒りだ。正しい嘆きだ。俺は君を肯定する。――君は、何も間違ってはいない)
口にはできない思いを、精一杯込めて。
あやかの泣き声を聞きながら……ふと気付けば、俺自身の頬にも、苦い雫が次々と流れ落ちていた。
大泣きに泣いて、ようやく少し落ち着いたあやかは、まだぐすぐすと鼻を鳴らしながらではあるが、俺の胸から顔を上げないまま、ぽつぽつと言葉を紡いだ。
「ごめんなさい、アスナさん。こんな泣き言……言うつもりは、ありませんでしたのに。私、最低ですわ……」
「そんなことはない」
ぎゅっ、と抱きしめながら、強く否定する。
――最低なのは、俺だ。だが、それは言えない。言ってしまうのは、彼女の気概に対する侮辱だ。
「きゃ……えっ? あ、アスナさん……。何故、貴女が泣いているんですの……?」
驚いて顔を上げたあやかは、ようやく、俺の頬を伝う涙に気付いた。
「あやか。君は頑張った。苦しみに耐えて、たった一人で、誰にも弱音を吐かず」
「…………。でも、それは……」
「俺は君を尊敬する。君は凄い奴だ」
予想外の言葉を聞いた、とばかりに彼女は目を丸くした。
「だが……違うんだ。耐えなくていい。弱音を吐いていいんだ。一人で頑張らなくてもいいんだ」
「でも、私は……1番に」
「目指せばいい。思ったことを吐きだして。両親の、先生の、友達の手を借りて。一人じゃなく、誰かと一緒に」
才能豊かな彼女は、これまで何でも一人で上手くこなしてしまっていたのだろう。まず率先して自分がやろう、と言う委員長気質からもその辺りがうかがえる。このタイプは、総じて甘え下手だ。独立不羈、自らの力を頼み、本質的な部分で他者をあてにしない。長ずれば段々丸くなっていくのだろうけど。
「――護身術の究極、って知ってる?」
「え? いきなり何を」
「それはね……『敵と友達になってしまうこと』。そうすれば、敵だった者の力も、自分の力の一部になるんだ」
俺は抱きしめていた腕をほどき、数歩後ろに下がる。
「雪広あやかさん。君は頑張り屋で、意地っ張りで、心根の清い、尊敬すべき人だ。――俺と友達になってくれないか? そして、一緒に頑張っていこうよ」
自己嫌悪や贖罪の気持ち、それに同情がないとは言わない。
だが同時に、俺は心の底から、この気高く愛らしい少女と友誼を結びたいと思った。
彼女に向けて手を伸ばす。
その手をじっと見つめていたあやかは、おずおずと手を差し出し、そっと握った。
「……そうですわね。勝てない相手にただ向かって行っても、いつまでも勝てませんわ。ならば、貴女自身から学べばよいのです。いつも余裕たっぷりで、とても頭がよろしくて、クラスのみんなをしっかりまとめていらっしゃる、貴女から」
握られた手に、きゅっと力が入った。
「神楽坂明日菜さん。私からもお願いしますわ。是非、この雪広あやかの友となってくださいませ。共に切磋琢磨して、そしていつか、貴女を追い越して見せますわ!」
どこまでも誇り高く宣言しつつ、泣き濡れた、だが生気に輝く明るい笑顔を浮かべる。……彼女のこんな眩しい表情、初めて見た。
つられるように、普段はあまり動かない俺の顔も笑み崩れていく。
「これからよろしく、あやか」
「は、はい。よろしくお願いしますわ、アスナさん」
一瞬驚いたような顔をしたあやかは、再び屈託のない無邪気な笑顔を見せた。何故か頬が真っ赤だったが。
こうして、俺とあやかは親友となった。
「……それはそれとして」
「ん? 何、あやか」
「女の子が『俺』などと言ってはいけませんわ! 徹底的に矯正してさしあげます!」
うえ!? しまった。普段は意識して一人称を変えていたのだが……。つまり意識しないと地金が出てしまうわけで。
な、何だか逆らいがたいオーラを感じる。
逃げちゃダメかな?
……ダメですか、そうですか。
立ち直り早いな、しかし。
あやかの説教を聞き流しつつ、先ほどからの会話を思い返し、ふと思う。
(しかしこの子、ホントに小1か? 大人びてるとか言うレベルじゃねーぞ)
「聞いてますの!?」
ゴメン、聞いてなかった。
それからしばらく、彼女の説教は続いた。
――――――――――
あやかがバイオリンを習っている&バイオリンが好き、と言うのは、捏……もとい、本作中のみの独自設定です。
あと、小1の会話じゃねえ。……作者の筆力の限界です。すいません。