世界中から音が消えていた。
すやすやと眠るウフコックは胸ポケットに、痛む右腕を押さえながらアキラは歩き始めた。
世界樹広場でも多くの人々が剣や杖を落としている。
ある者は目を瞑り、ある者は呆けたように空を見上げていた。
範馬勇次郎ですら苦虫を潰した様な表情をし、拳を下ろした。そのまま「興が冷めた」とでも言わんばかりに踵を返して広場を出て行ってしまう。
広場にあったはすの戦意は完全に霧散していた。
へたり込んでいる人々の中を、アキラはゆっくりと歩いていく。
やがて世界樹広場の縁に辿り着いた。
そこから見下ろした麻帆良の姿はやはり、一時間前とは比べられぬ程変わり果てていた。
それでも戦いの音は消えている。
黒煙がそこら中で上がり、ときおり建物が崩れる音はするものの、悲鳴や怒声、銃声や爆発音は無くなっていた。無残な廃墟がありながらも、どこか静謐な空気が漂っている。
空には黄金。世界樹が吸い上げた日本中の魔力が、金色の光の粒子として麻帆良を満たしていた。
遠くから何かの駆動音が聞こえ、やがて山並みに幾つもの機影が現れる。緑色の塗装をされたヘリコプター。陸上自衛隊だった。
ヘリは麻帆良郊外、比較的被害の少なかった地域に着陸し、次々と隊員を下ろしていく。
同じ様に陸自の輸送トラックが蛇の様に連なって入ってきた。
戸惑う避難民達に物資を配り、怪我人を輸送していく。
戦意を失った《梁山泊》や《学園都市》の兵士達も次々と拘束されていった。
隣接する市から消防車両が到着し、未だ燃え続けている民家の消火活動を行なっている。この麻帆良の有様を伝えようとする報道ヘリも見えた。
それらは日常への営みが戻り始めた証でもあった。
戦いは終わった。
ゆるやかな風が、アキラの髪を柔らかく揺らす。
瞳は遠くを見ていた。彼女の存在をそっと確かめ、アキラは再び歩き出す。
手に温もり、心には約束。
大河内アキラにとって、この時こそが始まり。
一筋の涙の後、星々が煌めいた。
彼女の瞳にもまた、憧れた輝きが受け継がれていた。
千雨の世界 最終話「千雨と世界」
麻帆良に隣接する病院、その一室に広瀬康一の姿はあった。
「もう起きてていいの?」
「はい。むしろもっと動いたほうがいいって、お医者様は仰ってました」
そう言ってはにかむのは湾内絹保だ。
彼女はベッドに半身を起こし、椅子に腰掛ける康一と対面していた。
事件から一週間、目覚めた絹保の体調は快方へと向かっている。
「そっか、良かった」
康一はほっと胸を撫で下ろした。
「先輩……その、ありがとうございました。お話は色々な方から聞きました。私のために頑張ってくれて……」
そう言って頭を下げる絹保に、康一は慌てて手を振った。
「い、いや、お礼なんて。それに本当に違うんだ。むしろお礼を言わなきゃいけないのは僕なんだ。吉良吉影に襲われた時、助けてくれたのは湾内さんだ。あの時僕は……」
あの日、倒れ往く康一を救ったのは絹保だった。自分を放って逃げれば、彼女は助かったかもしれない。なのに、彼女は身を呈して自分を庇ってくれたのだ。
「僕は何も出来なかった。先輩だの何だのって偉そうな事言いながら、何も出来なかった。それがきっと悔しいんだ」
「先輩……」
康一の言葉で病室がシンっと静まり返った。
「ご、ごめん。ちょっと空気悪くしちゃったね。そう言えば湾内さん、退院後はやっぱり……」
「はい。《学園都市》に戻ると思います。今の麻帆良ではさすがに留学生の受け入れは出来ないようで……」
「そっか。そうだよね」
現在麻帆良の復旧は急ピッチで行なわれている。それだけでは無い。一週間という短い時間ながら、世界は未だ激動の中にあり、麻帆良はその中心地なのだ。
「先輩はどうするんですか? 麻帆良に残るんですか?」
麻帆良の学生の大半は実家などに帰省している。学校の再開は三ヵ月後を予定しているとの事だが、どの様な形での再開かも未だ明示されていなかった。多くの保護者からすれば、我が子を麻帆良に通わせるのが不安なのだろう、転校する生徒が増えているらしい。
「僕は、一度《学園都市》に戻ってみようと思うんだ」
「えっ! でも、それじゃ」
《学園都市》は入ることは容易いが、出ることは難しい。ましてや康一は一度《学園都市》から出奔した身だ。そんな彼がもう一度入ってしまえば、再び出てくるのは困難だろう。
絹保の懸念はそこにあった。彼は麻帆良の奔放な生活を楽しんでいたはずだ。なのに――。
「今回つくづく思ったんだ。僕は今まで逃げてばかりだ。でも背中を向け続けても、いつかは追いつかれてしまう。その時にはもしかしたら他の人も巻き込み、傷つけてしまうかもしれない」
虹村形兆との戦い、あの時も逃げ続けた結果、柿崎美砂を巻き込んでしまった。あれらの戦いを通じ、康一は色々なもの向き合おうと決めたのだ。
そしてずっと心の片隅にあったしこり。絹保の事について詳しく聞くうちに、承太郎から知らされた真実。
《学園都市》と麻帆良との対立。それを融和するための絹保を始めとした交換留学生。なのに、康一は絹保が来る三年も前から麻帆良に通っている。
改めて自分と向き合った時、康一はその違和感に気付けたのだ。
「何故僕が《学園都市》から出れたのか、きっとそれが問題なんだと思う。僕はそれと向き合わなくちゃいけない」
康一は顔を上げる。惰弱な心には、いつしか力強さが芽生えていた。決意を瞳に込めながら、ゆっくりと笑う。
「だから僕は行くよ、《学園都市》に。そこでしっかりと決着を付けて、それで麻帆良に戻ろうと思う」
「あ……」
そんな康一に、絹保は少しの間見惚れてしまう。
「どうしたの湾内さん」
「い、いえ何でも無いんです、何でも!」
あわあわと慌てながら、紅潮した頬を絹保は隠す。
広瀬康一は後に、麻帆良と学園都市の橋渡しをし、その融和に大きく貢献する事となるが、それはまた未来の話。
病室の中には和やかな雰囲気が漂っていた。
◆
『麻帆良紛争』と呼ばれる事となる一連の騒乱は、単に日本の地方都市を壊滅させただけでは無かった。
あの日、上空に現れた幾何学模様を、人類の半分が肉眼で見ていたのだ。
更にその後に起きた光の波動――特殊な電磁波により一時的な記憶の混乱を起こさせる――もほとんどの人が浴びた。
まさにターニング・ポイントであった。
国連を含めた幾つかの国際機関は、『科学』に並ぶ体系技術としての『魔法』の存在を公表する。それは奇しくも、行方不明となった超鈴音が望み、求めた結果でもあった。
人々にとっては神話、物語、映画、そんなフィクションの中にだけ存在するはずの『魔法』の情報公開は驚きをもって迎えられる。
国際資格として『除霊師』なるものがあったり、《学園都市》にいる超能力者が存在していたりする事が、多くの人々の理解を助けた。魔法協会による、かねてからの融和政策が効果を発揮したのだ。
しかし『魔法』は受け入れられるばかりでは無い。魔法を扱える素養は、ほとんど産まれながらに決定し、後天的に才能が伸びるのは稀だ。明確にライン引きされた『魔法』の才能の有無は、多くの人々にとって不満足らしめるものだった。それは現代人が慣用句で「まるで魔法の様に~」などと使うように、『魔法』イコール『万能のもの』という概念が強く残っているためでもある。
医師になるのにもF1ドライバーになるのにも才能が必要なはずだ。それと共に不断の努力も要求される。だがそれらには明確なライン引きがされていない、「もしかしたら~」という思いが残るのに対し、魔法の才能の有無は明確な「NO」を突きつけられる。
才能の淘汰は当たり前の様にあるのに、魔法の様な明確な表現は人に不満を与えるのだ。その鬱憤は必然、魔法使い達に向かう事となる。現代の『魔女狩り』の再現を防ぐため、各国首脳は幾つかの対策を考慮した。
なにせ魔法使い達には、異空間の火星を開拓して創られた《魔法世界》がある。その世界の住人達と対立した所で得るものなどほとんど無い事は、二十年前の大戦で学んでいた。
ローマ法王の演説も、宗教観との対立を緩和するための一つの対策であった。
幾つかの宗派の見解も、融和を助長した。
また魔法使いへの個々の迫害やテロから護るため、彼らを主軸に置いた魔法研究都市の設置が施行された。お題目は立派だが、その『護る』という言葉には『隔離する』という側面もある。
世界各国に元々秘密裏に存在した魔法学校や魔法使いのNGO、その他の施設を中心に、選定がなされて幾つかの都市計画が発表される。
その中には麻帆良も存在した。
麻帆良学園都市は、『麻帆良紛争』を機に世界中の目が向けられる事となる。
麻帆良を魔法技術の交流点や窓口にする旨を基本とし、復興計画は立てられることとなった。
麻帆良の重要度はそれだけでは無い。世界樹が吸い取った日本中の魔力が、麻帆良市内を覆っていた。
金色の光が舞うため『黄金都市』と長らく呼ばれるのだが、その吸い取った魔力の弊害は大きかった。
日本中の地脈が荒らされたため、日本は近代史上最大の農業不作に襲われてしまう。日本中の農家が悲鳴を上げ、腰の重いはずの日本政府がすぐさま支援プログラムを立ち上げた程だった。ちなみに地脈がやせ衰えたために、麻帆良結界崩壊による地脈の氾濫などが防げたという一面もある。
そんな事から、各国の優秀な魔法使いが集まり、日本の地脈復興計画も立ち上がった。世界樹のあった場所に地脈への干渉魔法施設を作り、麻帆良内に残っている金色の魔力を約百年かけて地脈に戻していく、というものだ。
百年といえば長く感じられるかもしれないが、大地からしたら微々たる、僅かな時間なのだ。
それに農業への影響を考えるならば、ここ十年程の地脈への魔力注入で、元の収穫高に戻るという見解があった。
麻帆良を魔法研究都市にするに当り、その地脈復旧計画も合わさり、各国は麻帆良の自治権の拡大、云わば独立を日本政府に求めた。
各国からすれば、幾ら世界樹が倒されたからといい、一つの国家を壊滅させる程の危惧を抱かせ、世界中に激動を起こさせた場所だ。当時の麻帆良市管理側の奮闘は世界の知る事となっており、問題は日本政府の対応にあったのだ。あの危機的状況を察しながら傍観に徹した日本政府は徹底的に非難され、その信用を落としていたのだ。そんな国に管理など任せられない、と言うのが各国の言い分だった。日本政府も発言力の低下により、その提案を飲み込まざるを得なくなった。更には《学園都市》という独立都市の前例が後押しし、埼玉県の中央に一つの独立都市国家が出来上がる事となる。
魔法研究市国『麻帆良』の誕生であった。
黄金の国『麻帆良』、とは長らく旅行パンフレットに乗ることなるキャッチフレーズだ。
されど、この状況で慌てたのは麻帆良側であった。なにせ復興にてんてこ舞いで、独立も何も本人達にそんな意志は無かったのだ。
市長含めた役人の一部は魔法の存在を知ってはいたものの、行政に携わるほとんどの人間が魔法使いでは無かったのだ。これには関東魔法協会の、魔法使いが行政に関わることを良しとしない旨の方針の影響だったのだ。この方針もここに来て撤回せざるを得なくなってしまう。
市長の泣きの嘆願により、魔法研究市国『麻帆良』の初代代表の座に近衛近右衛門が座る事となった。
近右衛門が最初に行なったのは人材の確保であった。関西呪術協会に援助を求め、市内に封印されていた《魔法世界》とのゲートも解放し、《魔法世界》へも援助を願ったのだ。
圧倒的に不足する国営のための人材、システム、資金をなりふり構わない形で求めた。
なにせ市内にあるのは廃墟ばかり。放っておけば住民などあっという間に居なくなってしまう。この新しい国家のすう勢は、まさに復興の速さに懸かっていた。
日本の優秀な建設会社と、麻帆良の魔法使いによる共同の復興風景は、日夜各種メディアに報道される事となり、多くの人を驚かせ、憧れさせた。
杖を振り荒地に緑を蘇らせる姿や、重い建材を空を飛びながら運ぶ人間の姿は、人々に魔法の存在を確かめさせた。
魔法がゆっくりと人の営みに染みこんで行く。麻帆良はそれを体現していた。
◆
円卓に座る面々は、どれもが見た事のある顔立ちであった。
先進国の主要十五カ国首脳による秘密会談である。部屋には電子防御が為され、種々の電子機器の持ち込みも禁止。
デジタルなプレゼンテーション機器も無く、木製のシックなテーブルの上には、アナログな紙媒体の資料が乗るばかりだ。
それは『電子の化物』たる彼女を危険視した故の処置だった。
「……それで、この資料の内容は事実なのかね」
一人の男が発言する。翻訳機器が無いため、各国首脳の傍らにはそれぞれ通訳が一人だけ存在した。通訳達が一斉に男の発言を各首脳に伝える。
「概ね事実だと我が国は保証しよう」
「その〝概ね〟という所が問題なのだ。あの『奇跡の一時間』などと騒がれている現象。あの一時間に、本当に武力が無効化したのか。仮に影響が無いケースが発見されれば、現象に対しどのような対処が出来るのか検討出来る」
ふっ、と男が笑った。
「我が国では〝概ね〟あの一時間に暴行、死傷事件が無くなった。アーパートメントで隣人が落とした缶詰を踏んで頭部を強打した事件と、少女の幻影を見たために、足元で糞を垂れていた犬を蹴っ飛ばした事件の、二つの暴行事件を抜かせば、だがな」
「それは暴行事件では無いのでは?」
ターバンを巻いた男が問う。肩を竦めて男が答えた。
「知らんよ。弁護士はそう言っている」
男の言葉を遮るように、理髪的な顔立ちの女性が発言した。
「それらの出来事は些細な事故と言えるでしょう。問題は幾つかの紛争地域に置いて、交戦中にも関わらず、あの一時間だけ双方の攻撃が完全に止まった、という事実です。強かなはずの傭兵達までもが、敬虔なクリスチャンになった様に十字を切っていた、との報告例もあります」
「そいつは面白いな。我が国に導入すれば、日曜日は教会に人だかり。日曜日に残業を押し付ける企業が無くなり、ストも減りそうだ」
ククク、と幾つかの笑い声があがる。
「茶化さないでください。あなた達も体験したはずです。あの時に見た記憶を、あの少女の幻影を――」
笑い声が消えた。
「彼女のプロフィールは即座に情報凍結されましたが、やはり漏れました。主要メディアに規制しているものの、ネットメディアの拡散は抑制しようがありません」
「やった事だけ見ればモーゼかキリストの再来か、という所だな。我々からすればタチの悪い洗脳だ」
「ですが、彼女の存在、その影響力は広がっています。なにせ彼女の顔を世界中の人が一度は見ているのです」
「一部では彼女を信仰するカルト宗教まで出来上がってるらしいの。既存の過激派の宗派によれば、神に綽名すとかで、長髪の若い東洋人女性を見かけては襲撃する事件が起きておる。受け入れるにしろ、忌避するにしろ、問題が多い事柄じゃな」
老人の言葉に、一部の人間が顔をしかめた。
「別に宗教だけでは無いだろ。あの事件のお陰で既得権益を失った企業は数多だ。『魔法技術? 何だそれは』と鼻で笑ってたお歴々が、百ヘクタールの更地を一週間で森に変えた魔法使いを見て、顔を青くしていた。《魔法世界》には空中戦艦なる、スタートレックもびっくりな代物もある。流通、経済、全てが変わっていく。その機をチャンスと見て目を輝かせているものは良いが、乗り遅れたものの恨み辛みは彼女に向かうだろうな」
資料がペラリと捲られた。
「それで彼女が存在しないのなら問題は無い。だが、恐らく存在している」
「……それは死んでいない、という意味ですか?」
「イエスでもあり、ノーでもある。我らの生態学から見れば彼女は死亡している。資料を見たまえ。十年以上前に世界を騒がせ死亡したはずの怪盗、『アルセーヌ・ルパン三世』が麻帆良に現れた記録が残っている。彼は自我を電子化し、世界の目を盗んでいた様だ。しかも現在は『実体化モジュール』なる技術まで開発された。我らの技術の進歩が、彼女の死を否定してしまったんだよ」
「うむ……確か、彼女はあの時、世界中の電子ネットワークの大半を制御していたらしいな。だったら死を偽装するくらい、可能だったのか。なにせ彼女は《楽園》の……」
発言した男が、この部屋の物々しい有様を見回した。この部屋に使われている電子防御は、彼女に対する防御措置なのだ。
「死を偽装した、というのもあながち間違いでは無いだろう。だが幾つかの情報筋を見る限り、彼女の自我は分散し、世界のネットワーク中に転がっているらしい。どうだ、彼女を見つけて制御出来れば、面白い兵器が作れるぞ」
男の軽口に皆が鋭い視線で非難した。
「君の言葉には魅力を感じるがね。一応我々は建前上『世界の平和と安全を維持する』のを目的としている。不適当な発言は控えてくれたまえ」
「これは失礼しました」
男は謝辞を述べるが、顔に反省の色は無かった。
「しかし君の言葉には同意せざるを得ない。確かに彼女は危険だ」
その言葉の意味を、この場にいる人間は皆理解していた。
戦意を喪失させる、そんな事が実際に出来るのであれば、それ程恐ろしい事は無い。事実、あの『奇跡の一時間』では確認できる限りは紛争、武力衝突、様々な軍事行動が滞っていたのだ。
もしその現象をコントロール出来、規模を一つの国家単位に絞れば、どんな大国ですら一日で陥落してしまう。人の意志が戦いを起こすのだ、その根本を潰せれば既存の兵器など意味を無くす。
「一部専門家の意見では、ネットワーク上に分散した彼女の自我が寄り集まり、復活する可能性を指摘している」
「おいおい、それじゃ本当に現代のキリストじゃないか。復活祭でも行なわれて、大勢の信徒を従え闊歩でもされたら、国家など一溜まりも無いな」
彼ら為政者にとって宗教とは厄介な代物なのだ。政教分離が声高に叫ばれる現在、その様な混乱があれば、彼らは躊躇無く弾圧を行なうだろう。
「冗談にしては笑えん。国家の形骸が失われる……SF小説の統一国家など夢だよ。それを為してしまったら、人種も民族も言葉も、皆がそれぞれの拠り所を失ってしまう。だが想定して然るべきケースだ。現在の状況を鑑みればな」
資料を見ていた男性がポツリと言葉を漏らした。
「この……彼女のプロフィールなんだが、彼女の周囲の人間関係を使うことは出来ないのかね」
「麻帆良にいる人間となると難しいだろう。あそこは《魔法世界》との表向きの玄関先になっている。余計な手出しはあちら側との関係を悪化させるだけだ。只でさえ世論は冷たい視線を我々に向けているのだ。これ以上の失態は御免被る」
失態とは、『麻帆良紛争』に置ける国際警察機構の行動だった。国連の体制下にあるはずの組織の暴走。元々過激な面を持ち合わせていたが、今回の失態は世界中の知る事となり、世論の非難が集中しているのだ。
そのため国際警察機構は解体、再編され『国際警察連合』と名を改める事となった。
元々あった裁量、特権は大幅に削られ、国連の完全な支配下に置かれる事となる。もちろん今回の主犯たる中条は更迭。人員の意識改革のため、元九大天王の中でも常識人だった銭形への長官職のオファーをしたが、すげなく辞退されている。
「彼女の両親は死亡。一応血縁者は数人見つかるがほぼ面識は無し。ふむ、だが親しくしていたという、この二人の少女だが……うむ、なんだこれは。資料の内容が良く分からんが、彼女はレズビアンなのか?」
示す先にはポニーテールの背の高い少女、腰まで伸びた髪で二つの房を作った背の低い少女の二人の写真があった。
「彼女の通ってたのは女子だけのミドルスクールだった様でね、レズビアンというより、思春期特有の擬似恋愛みたいなものらしい。といっても、肉親を失った彼女からすれば、依存していたんだろうな。肉体関係の有無までは確認出来なかった」
「依存していた、か。それが事実ならば彼女が自我を取り戻したなら、この二人に会いに行くのでは無いかね」
「その可能性は高いですね」
円卓を囲む人々はコクリと頷いた。
「どうやら我々は見解の一致を得たようだ。長谷川千雨の周囲の監視は出来うる限り続行。また各国に秘密裏に通達『長谷川千雨の〝所持〟を禁ず』。反した場合は経済制裁を即座に行なう。混乱の芽は早めに摘み取らねばならない」
議長たる人間の言葉は、緩慢な拍手を持って迎えられる。拍手とは裏腹に、円卓を囲む彼らの心は別の意味で一致していた。核を越える絶対的な抑止力の存在は、銃弾が紙幣に移り変わった現代の経済戦争に置いても有効だ。
警鐘を鳴らし、平和を叫びながらも、彼らは自らの益を優先するだろう。
こうして長谷川千雨は世界の敵に為ったのだった。
◆
近衛近右衛門は背もたれに体を沈めた。
ここ数ヶ月の疲労が、体から染み出てくる様だ。
「そろそろ引退かのぉ……」
そんな言葉が出るものの、未だ近右衛門の後を継げる人材は見つからない。
魔法などのオカルトが正式に世界に情報公開され、ついこの間の『麻帆良紛争』を機に、この地は世界中の注目の的となっている。
迂闊な行動は出来ず、慎重さが求められる。禍根は根強く、今はまだ若手に国主などと言う重責を背負わす訳にもいかない。いずれ近右衛門はそれらを持って現役を退くつもりだ。
おもむろに机に載った書類に手を伸ばした。
「ふむ……」
そこに書かれているのは、先日の『麻帆良紛争』についての調査チームの報告書だった。
あの紛争は魔法だけでは無い、オカルトに科学、様々な人間や兵器が混ざり合った異質な戦いであった。
そのため、事件の経過や原因を調査するためには、様々な専門家達が集まらなくてはならなかった。一ヶ月に及ぶ調査の結果、導き出された答えがこの書類に書かれている。
「やはりか」
そこに書かれているのは、あの事件の主犯が吉良であり、吉良が何かしらの方法で世界樹を操ってたという旨の報告だ。
その方法に確証は無いものの、スタンド能力によるか、もしくは二十年前の世界樹活性化時に何かがあったのではないか、と書かれていた。
幾つかの資料を洗い出していくと、どうやら二十年前の世界樹活性化の折、吉良は世界樹広場に来ているらしい。だからといって、あの当時に何かをやったとも思えないが、幾つかの推論を並べる事が出来た。
吉良に関する事以外にも、様々な勢力が介入してしまった状況についても書かれていた。それらには総じて何かしらの不可思議な起点があったとの事。
超の残したデータにも、世界樹のスタンドに関する推論が残っており、それらの内容と合致する旨もある。
書類に書かれている内容は、今となっては目新しさも無く、近右衛門にとっては既知の事柄ばかりであった。
「まぁ、こんなものかの」
パサリと書類を机に置いた時、一枚の紙が冊子から飛び出した。
「ん?」
それはどうやら調査チームの一人が紛れ込ませた書類の様だ。
生物学者であるその人間は、他の調査員とは異なる主張をした様だが、それはチーム内で受け入れられなかったらしい。
彼はその調査による推論を、近右衛門への書類に紛れ込ませたのだ。
「どれ」
近右衛門はその書類に目を走らせた。
生物学者による推論とは、事件の主犯は吉良では無く世界樹である、というものであった。
その概要はこうあった。
――『世界樹の生物としての防衛本能』により、麻帆良に存在する魔法使いや、《学園都市》などの潜在的に敵対する組織などを害と見なされ、己の生存を優先するためにそれらを排除しようとした行為。
それがこの事件である、と。
つまり彼は世界樹こそが真犯人だと言っているのだ。
本来植物には意識や知性が無いと考えられていたが、近年は植物が周囲の状況を認識して様々な行動を移す事は既知の事柄であった。
一部の食虫植物は明らかに記憶を有する動きをするという。もっとも記憶とてほんの数秒から数分しか持たず、すぐに上書きされる些細なものらしいが。
森の木の一本が害虫に襲われた際、木々が化学物質を分泌させながら、森の他の木に危機を知らせ、害虫から身を守る行動を取っている事も報告されている。
植物は社会性すら持つ生命なのだ。決してシステマチックな機械の様な生命体では無い。
また、生物であるが故、種の生存に敏感なのは頷けた。
「ぬぅ」
読み進めながらも、近右衛門はその推論が最初は信じられなかった。
仮に世界樹に知性があろうとも、あの事件には確かに計画性があった。そこには人の知性も感じられる。
世界樹という巨木は、人々の長い信仰の果てに神格化していたと言っても過言ではない。
八百万の神を信仰する日本人の視点からすれば、世界樹に神が宿っているという考えはあった。
しかし、ここ一世紀ばかりに限れば、世界樹に意思がある様な兆候は見つけられない。
強力な霊力者や、自然信仰をしている巫女など、様々な人が世界樹と接触を取ったが、まったくといっていい程反応が無いのだ。
ただ、世界樹は二十二年に一度、魔力を定期的に大量に放出するだけである。
では意思が無いと過程した場合、一体どうやってあれ程の事件を起こしたのか。
生物学者は、それが吉良にあるというのだ。
つまり、世界樹は防衛本能の末端として、吉良の思考の誘導を行なっていたというものである。吉良は知らず『世界樹のため』になる様な行動を考え、それを躊躇無く実行する。
吉良は自分自身の事を考えている様に思っていながら、その実は世界樹による洗脳だった。
近右衛門はその推論を読みながら、心の底でどこか納得していた。
「……世界樹伝説」
世界樹には人の願望に対し、強い暗示をかける現象が確認されている。それとて二十二年に一度の活性期に限るのだが。世界樹伝説と呼ばれ、世界樹の下での告白は成功する、と言われるこの麻帆良の都市伝説の一つだ。
だが、吉良は二十年前の活性期に世界樹と接触を持っている、その時に何かしらの暗示をかけられていたら。
どうやら吉良吉影という人物は、認識阻害の魔法のために、周りから浮いた幼少期を過ごしたらしい。そのため、彼は自分の個性を隠し、集団に埋没しようとする傾向があったとの事。
そこから考えられるのは、吉良の心には孤独があった。心に隙間があるものには、容易に暗示が滑り込むのだ。
そうして吉良は世界樹を守るための末端に仕上げられ、世界樹と、世界樹があるこの土地――麻帆良への執着を強くしていく。
そして、麻帆良紛争が起こるまでの二ヶ月間、様々な事件が麻帆良を襲った。それこそ世界樹が危機を覚えるほどに――。
「いや、しかし」
その一つ、『スタンド・ウィルス』事件は遠因ながらも吉良が起こした事件のはずだ。
ふと思う。あの時にもう世界樹の防衛本能は、強まっていたのでは無いかと。
「近年、麻帆良外延部での小競り合いが増えていたのぉ」
近右衛門の孫娘であり、現在中学二年生である近衛木乃香がいる。
彼女は本来、関西呪術協会と呼ばれる組織の娘である。その身に巨大な魔力を秘めていたため、組織の一部からは期待の眼差しで見られていた。
だが、木乃香の父と、木乃香の祖父――近右衛門――はその存在に危惧を抱いたのだ。木乃香のためを思い、二人は彼女を関西から離す事を決意させる。
されとて、木乃香をかくまえる場所など限られ、この麻帆良へとやって来たのだ。
それからだろうか、関西呪術協会との間に小競り合いが生まれたのは。ここ数十年、麻帆良近辺での戦闘など無かったのだが、木乃香がやって来た時期から、麻帆良の結界近辺での魔法使い同士の小競り合いが増えた。
かたや麻帆良の防衛、かたや木乃香の救出という、お互いの正義をかけての戦いであった。
近右衛門は書類を読み進めながら、その出来事こそ、世界樹を刺激してしまったのでは、と想像する。
「『スタンド・ウィルス』事件そのものが……」
『スタンド・ウィルス』事件。あれは吉良のスタンドに囚われた音石明が、麻帆良の魔法使いを排除しようとした事件だ。
この事件も世界樹によるものだったのでは――。
「いかんのぉ。これでは」
この推論に、近右衛門は強く納得する。自分の中で収まり悪かったピースが、しっかりはまった感触があった。
しかし、この推論は余りにも危険であった。
『麻帆良紛争』では、規模の割りに死傷者は少ない。それでも少なくない人間が命を失っている。そんな中で、事件の原因が『植物による防衛本能』などという理由では駄目なのだ。あれは災害であった、では済まされない。
人類にとっての戦争とは、人の手で始まり、人の手で裁き、人そのものが裁かれねばならぬのだ。
それに――。
「木乃香……」
関東魔法協会の会長としてでは無く、ましてや魔法研究市国『麻帆良』の代表としてでも無い、孫娘を持つ一人の老爺の顔がそこにあった。
この推論が表ざたになれば、その遠因に辿り着く人物がいるはずである。矛先は木乃香に向くかもしれない。
あれ程の紛争の原因を、何も知らない孫娘に擦り付けるなど出来ない。
近右衛門は生物学者の推論、それが書かれている紙を空中に放り投げ、魔法で燃やした。一瞬で消し炭になった紙は、学園長室の床を汚す。
「調査チームではこの推論に賛同はされなかった。それでいい、それでいいのじゃ……」
調査チームの行なった調査結果は、推論に過ぎない。
吉良と世界樹の関係。当事者たる吉良吉影は消え、世界樹は破壊されていた。もはや真実を知るものはいなく、残された人々はそれを推測するしかない。
「犯人は吉良吉影。世界樹は、吉良のスタンドにより操られていた」
近右衛門は呟く。口の中に苦味が走る、それでもやらねばならなかった。
机の上にある電話で、ある人物を呼んだ。
「瀬流彦君、至急学園長室に来てくれ。至急じゃ」
調査チームの一員、生物学者への対処を考えた。
瀬流彦には申し訳無いと思いつつ、彼に汚れ仕事を頼まなくてはいけない。
殺すわけではもちろん無い。しかし、生物学者の記憶に誘導をかけ、あの推論が世間に漏れるのを防がなくてはならない。
近右衛門は立ち上がり、窓から外を眺めた。
麻帆良の復旧は進んでいる。ただそこに世界樹の姿は無い。世界樹広場には巨大な魔方陣の設置と共に、その効果を補助する施設の建築が始まっていた。
部屋にドアをノックする音が響いた。
「瀬流彦です」
「うむ、入りたまえ」
――こうして、『麻帆良紛争』は吉良吉影の仕掛けた大規模オカルトテロとして、歴史に名を残す事となる。
◆
『麻帆良紛争』から半年程経った日、関東上空を低気圧が覆い、十二月にも関わらず、珍しく麻帆良に雪がぱらぱらと降り始めていた。
雪が降る夜闇の中を麻帆良の国境付近に向けて歩く二人の人影があった。
動きやすそうなハーフコートに身を包みながら、キャリーバッグを引く長身の少女。尾の様に垂れたポニーテールの先は、半年前より幾分長くなっている。大河内アキラだ。
その隣を歩く少女は小さな体躯をダッフルコートで包み、ネックウォーマーで口元まで隠している。手にはトランクケース。長かったはずの髪を肩口でバッサリ切っている綾瀬夕映だった。
アキラは白い息を吐いた後、空を見上げた。夜なのに降り散る雪の姿がはっきり見えるのは、上空にある黄金の光の粒子のせいだった。
そのお陰で雪もどこか金色掛かり、ホワイトスノーとは言えなくなっている。
「綺麗だね、夕映」
「そうデスね」
冷気が二人の肌をチクチクと刺した。
その後は無言で歩き続ける。二人は半年も待ったのだ、飛び出したくなる衝動を抑え、半年も。
やがて国境が見えて来る。なぜかその場所には多くの人が待ち構えていた。
「みんな……」
石畳の終わり、そこから一歩先を行けば隣の市、つまり日本だ。もう『麻帆良』の保護が無くなる、そんな境界線。
その境界線の付近には夜でありながら沢山の人が並んでいた。
2-Aの生徒達、『麻帆良紛争』後に転校していった面子もいる。トリエラ、ドクター・イースター、麻帆良所属の魔法使い達もいた。
「どうしているの?」
アキラの戸惑う呟きに、明石裕奈が近づき肩に腕を回した。
「なーに水臭い事してるんだよ、アキラ。今日は二人が長谷川の事探しに行く旅立ちの日なんだろ。だったら盛大に見送らないと。なぁ!」
裕奈の呼びかけに、一斉に唱和が返って来る。
「ゆえゆえ。気を付けてね。何か欲しいものがあったら連絡してね。送るから」
「危ない事には気を付けなさいよ。幾らちんちくりんな身なりしてても女なんだから。それに夕映みたいなのが趣味な変態も……ゲフッ!」
「千雨ちゃん見つけたら、戻ってきてみんなでパーティーしような、夕映」
のどか、ハルナ、木乃香らに言葉を貰い、夕映は涙ぐんだ。
「のどか、木乃香。ありがとうございます。きっとまた皆で戻ってきます」
「ちょ、ちょっと私は。ねぇ、私は!」
夕映に殴られた頭を擦りながら、ハルナが必死に訴えている。
そんなやり取りを眺めながら、アキラはクスクスと笑った。
「はぁ~。やっぱり行っちゃうんだ。すごいね、アキラは」
「明日菜」
神楽坂明日菜が溜息を吐きながら近づいてき、そっと何かを差し出した。
「はいこれ」
「え、何これ」
差し出されたものは何かの券だった。
「これ麻帆良に新しく出来たカラオケの割引券。有効期限が来年一杯だから、早く帰ってきてね。そうしたら千雨ちゃんと皆で行こう」
そう言われ、アキラは割引券をしっかりと握った。
「うん、そうだね。行こう、皆で」
そっと顔を見回せば、クラスメイトの面々が笑っている。アキラも笑みを零した。
「アキラ!」
「くーちゃん」
古菲が突き出した拳に、アキラもそっと拳を添えた。
「アキラも夕映も、この半年間頑張ったアル。筋も中々良かったネ!」
「でもくーちゃん、いや師匠のお陰です。ありがとうございました」
アキラと夕映が頭を下げた。古菲が照れている。
アキラ達はこの半年、麻帆良内の様々な人間を師とし、色々な技術を磨いていた。
その一つに気の扱いがあり、麻帆良でも有数の気の使い手となった古菲に、二人は師事を仰いだのだ。
「や、二人とも。昨日のうちに説明はしたと思うが、あちゃくらのモジュールの調子とか大丈夫かい?」
ドクター・イースターがトリエラと並んで近づいてくる。
「はい問題はありません。馬鹿みたいに好調デス。馬鹿ですけど」
「もう何を言うんですかマスターは!」
プンプンとしながら、夕映のネックウォーマーから飛び出したのは、十センチ程の体躯のアサクラだ。
そんな姿にドクターは笑みを浮かべる。
「はは、あちゃくらは元気そうだね。……アキラ君、ウフコックの事頼むよ」
「はい、分かりました」
その時「あ~う~」と夕映の唸り声が聞こえた。
見ると、トリエラによって夕映が頭をゴシゴシと撫でられている。
「痛いデス、痛いデス。止めてください、お姉ちゃん!」
「この、この。当分会えなくなるんだから、これくらいさせなさいよ」
トリエラが笑う、夕映は憮然としながらも頬は緩んでいた。
「もう、マスターったら照れ屋さんなんだから」
「いい加減うるさいデス。この馬鹿AI!」
夕映があちゃくらに制裁している中、トリエラはそっと遠くを見つめた。
「照れ屋か……」
遠くに連なる麻帆良の建物。その一つの屋根に、外套をはためかせる小さな人影を見つけられたのは、トリエラの視力故だろう。
「うちのマスターも何だかんだで照れ屋なのよね」
そっとトリエラは苦笑いを浮かべた。
「夕映、しっかりとやりなさいよ。困ったことがあったら電話しなさい。いいわね」
「はい、お姉ちゃん! 行ってきます!」
アキラと夕映は、人々に送られながら境界線に進んでいく。
そして境界線にはアキラ達の元担任であった高畑が待ち構えていた。
「やっぱり行くのかい?」
高畑の問いかけに、二人はまるで示し合わせたかの様に、同時に答える。
「はい!」
「そうか。なら――」
高畑が体を沈めた。
「元担任として、力ずくでも止めよう!」
瞬動。
高畑の姿が視界から消え、すぐさま目前に現れる。
アキラの顔に向けて放たれる拳打。
しかし、それは不可視のガードに反らされる。
「ふッ!」
呼気一つ。アキラは即座に『フォクシー・レディ』を出し、スタンドの腕に気を纏わせ、その攻撃を防いだのだ。
体勢を捻りながら、がら空きの高畑の腹部へ向けて、アキラの肘撃ちが入る。
「――ッ!」
強固な気に覆われた高畑には、僅かなダメージしか浸透しない。しかし――。
「こちらの勝ちデス。引いてください、高畑先生」
夕映の手にはルーン文字の刻まれた『ピノッキオのナイフ』が握られ、高畑の首元に添えられていた。
高畑は降参とばかりに両手を挙げた。
「これは敵わないな。僕は君らを捕らえるのに失敗。取り逃がしてしまったわけだ」
そのわざとらしい言葉を機に、高畑の戦意が霧散する。
夕映の持っていたナイフが空中でしゅるりと回転し、一匹のネズミに変わった。
金色の毛を持つネズミが、アキラの肩に飛び乗る。
「ねぇねぇアキラどうだった。ぼくの反転(ターン)は?」
「うん、ちゃんと出来てたね。偉いよ、ヤング」
「えへへ」
ヤング・ウフコックこと、通称ヤングだ。
かつていたウフコックを救うため、肉体の若返りと共に、精神も若返ってしまったのだ。半年前までは言葉もろくに話せなかったため、口調にはどこか幼さが残っている。
ドクターが言うには、かつてのウフコックの記憶が残っている可能性はあるらしいが、現在は思い出す兆候は一切無い。それどころか完全にかつてのウフコックとは違う人格形成が見られる、との事だ。
「それで、君達に彼女を見つける当てはあるのかい?」
「当ては……ありません」
高畑の問いに、アキラは首を振って答える。
この半年、多くの国家が千雨を探し、見つけられないでいる。むしろ大多数の人間が長谷川千雨の存在が消滅している、と結論付けたくらいだ。
「でも、千雨ちゃんはいる。それが私には……私達には分かるんです」
アキラの背後に立つ『フォクシー・レディ』の姿を、この場で見る事の出来るのは、本体たるアキラと夕映しかいない。
本来夕映は千雨というターミナルを介してスタンドを見ていたが、現在はアキラの持つ能力『スタンド・ウィルス』のキャリアとなり、スタンドの視認を可能としていた。
そのアキラの『スタンド・ウィルス』のキャリア数には限りがある。狐に似た姿の『フォクシー・レディ』には五本の尾があり、その尾の数だけ感染者を出すことが出来るのだ。
そして感染者の数に合わせ、尾は硬直して動かなくなる。
現在の硬直している尾の数は二本。一本は夕映、もう一本は――。
「私の『スタンド・ウィルス』はまだ生きています。つまり千雨ちゃんも死んでいないはずなんです」
かつて夕映を狙った暗殺者、ジョンガリ・Aに感染させた時、ジョンガリの死亡と共に『スタンド・ウィルス』は解除された。
千雨は肉体的には死んでいたはずだった。それでもあの世界樹広場の最後の激闘の中、彼女は〝生きていた〟のだ。それは今を持って続いている。
「場所は分かりません。でも生きているなら会いに行きたいんです。だって私達は――」
――約束したのだから。
『待っている』と言って消えた千雨の姿は、今も持ってして鮮明に覚えている。
高畑は呆れた様に息を吐いた。
「でもいいのかい。君らは長谷川君に親しい人物として狙われている。ここはまだ麻帆良だから保護出来るが、ここを出れば僕達はもう助けられない」
「分かっています」
両親にも止められたが、それでもアキラの意志は堅かった。夕映と二人並んで歩き、国境線を一歩出た。
振り返る事もしない。
ただ一歩外に出たまま、腕時計を確認する。
「夕映、どう?」
「あと三十秒です」
その発言に、見送りに来ていた人物は疑問符を浮かべた。
やがて遠くに羽音の様な音が聞こえ始める。低く唸る何かの駆動音。
「来ました!」
夕映の言葉に合わせ、アキラは獣の姿の『フォクシー・レディ』を出し、尾の先で二人分の荷物を掴む。
二人でその背に乗り、スタンドの四肢に気を込める。
「行って! 『フォクシー・レディ』ッ!」
石畳に亀裂を走らせながら、『フォクシー・レディ』は真上に向かって爆発的な跳躍を見せた。
「あれは……」
そんな空中の二人に近づいてくる機影。見覚えのある姿にドクターは思わず声を上げる。
麻帆良の境界線ギリギリを飛ぶ二つの機影は、かつて《学園都市》で千雨達を救った、小型飛行機フラップターだ。
黄金の光に照らされながら、宙に投げだされた様な状態のアキラ達を、フラップターはすり抜けながらキャッチする。
「ふはははは! 久しぶりだね、アキラとユエ!」
「はい。ありがとうございます、ドーラさん」
フラップターに乗り込んだアキラ達を迎えたのは、ゴーグル姿で勇ましく操縦する老婆、ドーラだった。
ゴーグル越しにギラついた目を覗かせながらも、どこかその視線には優しさが込められている。
「なんだか面白そうな事になってるじゃないか。世界中がいま血眼になってチサメを探している。それを横から掻っ攫うとなれば、賊冥利に尽きるってもんさね!」
カカカ、と快活に笑うドーラ。
「そうだよなママ! 千雨さんを他の輩なんかに渡せない。俺達が迎えに行かないと!」
隣で並走するのはチョビひげのルイだ。ちなみにドーラのフラップターにはアキラと夕映が、ルイのにはアキラ達の荷物が乗っている。
「良く言ったよ馬鹿息子! 嫁さんにしたけりゃ、世界中敵に回したって奪い取りな!」
「あぁ、俺はやるぜママ!」
そんなやり取りを、アキラ達は苦笑いしながら聞いている。
「いいかいアキラにユエ。私ら一味に入るからには、しっかりと働いてもらう。ビシバシ鍛えてやるから、そのつもりでいな!」
「はいッ!」
「いーい返事だ。それじゃ新調したタイガーモス号まで突っ切るよ。なにせこっちは領空侵犯中だからね!」
フラップターは舞い落ちる雪を切り裂いていく。
遠くの夜闇に消えたその姿を、最後まで見ていたエヴァンジェリンは小さく呟いた。
「ふん、ガキどもが。生き急ぎ追って」
新設された時計塔のてっ辺は、麻帆良上空を覆う黄金の粒子と近い。光を纏った雪を見上げながら、エヴァンジェリンは笑った。
「まぁ、貴様は面白い奴だと、最初から私は知っていたがな」
時計塔の先端に立ちながら、エヴァンジェリンは二ヶ月前の屋上の出来事を思い出していた。千雨が転校してきた初日、二人はあそこで初めて会話をしたのだ。
あの日から、久しく停滞していたエヴァンジェリンの世界が、けたたましく廻り始めた。
「貴様がいないと退屈で敵わん。さっさと戻って来い、千雨」
呟きは誰に聞かれる事も無く、遠く空の彼方へ消えていく。
第三章 side B 〈ビューティフル・ドリーマー《雛》編〉 終
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「やぁ」
たゆたう意識の中、目の前の男性の声だけははっきり聞こえた。
男性――本当に男なのだろうか、声は確かに男の様だし、服装とて男性の服装をしている。
しかし、顔は奇妙な面で隠されていた。面――これも面なのだろうか、男の顔の正面には不思議なマークが浮いているのだ。笑顔の子供、そんなモチーフを青いラインでシンプルに意匠化したマークだ。
「君を探すのに手間取ったよ。お陰でこんなに時間がかかってしまった」
周囲は光の海。果てしない空間の波間に意識は浮かんでいた。なのに、男の声は狭い室内で聞く様に反響している。
「あいにく、全部は見つけられなかった。でもこれぐらいあれば目覚める事はできるだろう」
奇妙な男はそう言うと、足元から姿を消していく。
声を出すことは出来ない。だが、力を振り絞り相手に意志を伝えようとした。
――あなたは、誰?
男が笑ったような気がした。面のマークは今まで通り笑い続けているが、その面の奥の素顔が笑った気がしたのだ。
「君とはまた会える様な気がするね。同郷のよしみだ、通り名だけ教えてあげよう。まぁ、通り名と言っても碌なもんじゃないけど」
男は指先で円を描いた。その指の先端からアルファベットが次々と現れ、くるくると円に沿って回り始める。
アルファベットを視線で追いながら、ゆっっくりと読み始める。
「またね」
アルファベットの円だけを残して、男は空間から姿を消した。
男が消えてなお、文字を見つめ続ける。
――The Laughing Man。
言葉を刻み込む。
すると、意識が浮かび始めた。波は沈みかえり、光がゆっくりと消えてゆく。
遠くで誰かの声が聞こえた気がする。
――誰だろう、懐かしい。
◆
目覚めて最初に感じたのは倦怠感だった。体中のいたる所が鈍い。軽く腕を動かすと、なにか機械音が聞こえた気がする。
いや、それは間違ってない。体に人工物がある。もしかしたら体そのものが人工物で出来ているのかもしれない。
うまく判別できないが、それを〝感じる〟力はある様だ。
〝彼女〟にはそれが分かった。
(ナゼ、分かるの)
違和感。
彼女の中に残る常識が、その力の持つ違和感を明確に意識させる。
目を開ければ、薄暗い闇が広がっていた。
彼女が寝ていたのはベッドの上。幾何学的なデザインのベッドで、体には薄いシーツが一枚をかけられている。
上半身を起こすと、白い肌の上をシーツが滑る。裸身。滑らか過ぎる肌だった。
「お目覚めかね」
中年の男の声が耳朶に響く。
彼女にとっては、この体で初めて聞く〝声〟であった。
「ワタシは誰?」
「おやおや、第一声がそれか。状況にも、周囲の対象にも警戒を抱かず、自己の存在を真っ先に他者に尋ねるのか」
男は楽しそうに語る。
「――」
彼女は無言。ただ男の返答を待ち続けた。
「君はそうだね……赤子だ。我らが望んだ悲願を成しえた赤子」
「悲願?」
「そう! 悲願だよ。我々は研究に心血を注ぎながら、様々な発見をしていった。その中で我らが目指す〝モノ〟を越える働きをしたものもある。だが、そのどれもが目指した〝モノ〟そのものには至らなかった」
男の声には悔しさがあった。
「だが、君は成ったのだ。数々の状況が味方したものの、我らが目指す悲願を単身で成し遂げた。偉大なる成果だ、故に君をここに招待したのだ」
薄闇の室内の輪郭がゆっくりと網膜に浮かび上がった。直方体の部屋には、幾つかのテーブルやインテリアはあるが、人影は見つからない。
男の声が聞こえるのは、正面の小さなテーブルの上だ。そこには〝鳥かご〟の様なものしかない。
「君はね、《マホウ》を使ったのだよ」
「マホウ?」
声は〝鳥かご〟の中から聞こえる。
「我らは便宜的にそう呼んでいる。魔力を使った神々の神秘《魔法》に対し、人の手により創り産み出された《マホウ》。君はその第一人者だ」
声は興奮している。
「私達にとって魔法とは不可思議な対象だったのだよ。知っているかい、魔力さえあれば魔法は真空にさえ火を灯す事が出来る。この世に作られたあまねく物理法則を壊してしまう、絶対的なアウトロー。私達は羨望し、嫉妬した。だからこそ〝ここ〟を創り上げたのだ。そして君が産まれてくれた。この半年、どれほど私が君に会う事を楽しみにしてたか、分かるかね?」
彼女は首を振った。
「――分からない」
言葉は少ない。だが、声を出すたびに、彼女自身が自分の声に違和感を感じ続けている。声色がおかしいのだ、まるで自分の物では無い様な――。
「そうだろうね。いや、すまない。余りに待ち遠しすぎて、年も考えずにはしゃぎ過ぎた様だ」
少女はじっと〝鳥かご〟を見つめた。やがて〝鳥かご〟の柵の中に、シルエットが浮かび始める。
「ワタシは、誰?」
彼女は言葉を繰り返した。
「ははは、すまない。すっかり君の質問を忘れていたよ。状況も説明せねばなるまいな」
男の声と共に、小さな機械音が聞こえた。
〝鳥かご〟の載ったテーブルの向こう――壁の一面がゆっくりとせり上がっていく。壁の向こうにはガラスの様な照り返しが見えた。そして同時に室内にも明りが灯り始める。
「おめでとう。君は産まれたばかりの《雛》だ」
明りと共に、鳥かごが鮮明に見える。〝鳥かご〟の中には老人の生首があった。だが死んではいない。瞬きをし、口も軽やかに動き続けている。その生首は生きていた。
「私はプロフェッサー・フェイスマン。こんな姿で失礼するよ、バロット」
「バロット?」
聞きなれぬ言葉に、彼女は言葉を返す。
「そうバロット(雛)。君の名だ、ルーン・バロット」
彼女――バロットはその名を刻み込む。
「ルーン・バロット……」
その間に壁は上がりきった。フェイスマンの背後には、透明なガラスを通して星々が煌めいている。そして――。
「きれい」
視界の半分を青い星が占めていた。ゆっくりと回転するその天体の名前を『地球』と言う。
バロットは立ち上がり、その巨大な窓へと近づいた。ガラスが彼女の姿を反射する。
真っ白な肌に、真っ黒な髪。髪は肩口で切られている。顔は精緻に出来ておりながら、どこか人形の様で生気に欠けていた。体はスレンダーだが艶かしさが漂っている。
バロットは自分の姿に違和感を感じながらも、眼下に見える宇宙から目を離せない。
背後にいるフェイスマンはにやりと笑い、言葉を紡いだ。地上を追われ、衛星軌道上へと隔離された研究プラントの名前を。
「ようこそ、《楽園》へ」
《殻》は破れ、《雛》に至る。
これは少女の生まれる物語。
千雨の世界 完