学園都市の片隅にその施設はある。
半地下にある入り口をくぐると、中は蟻の巣の様に広がっている。幾何学的なデザインが先進性と冷たさを感じさせた。
元は『死体安置所(モルグ)』と呼ばれていたが、その実は学園都市内によくある人体実験場だった場所である。
今、その施設には一人しか人間はいない。電子眼鏡(テク・グラス)を掛け、髪はまだら色、継ぎはぎの白衣を着た痩せ型の男だ。
薄暗い研究室の中で、彼がキーボードを叩く音だけが響く。
ポーン、とメールの着信音が響いた。彼の目の前にある端末からではない。研究室の中央にある小型サーバーからである。
そのサーバーは奇妙だった。外部のネットワークへ一切繋がっていないスタンドアロン。なのにそのセキュリティは厳重で五重六重に守られている。されとて重要なデータは入ってないのだ。男が知る限り、このサーバーにメールを送れる人間は一人しかいない――。
男は嬉々としてサーバーを弄り、メールを開く。
「ありゃあ、本当に宣言通りにこなしちゃうのか」
男は苦笑いをしつつ、腕を組む。メールに添付されたファイルを開けば、魔法に関するレポートが表示される。魔法の基本的な情報から、その技術理論。検証例は少ないものの魔力に関する観測結果などがつらつらと書かれている。
「ははは、さすがだね。僕の用意してたものとほとんど同じじゃないか」
男は自らが〝作っておいたレポート〟を取り出す。形式や細部は違えど、ほぼ同じものだ。裁判の物証としてはお互い使えるだろう。
一週間前の事を思い出す。
『いいか! 一週間だ! わたしと先生であればこんな依頼あっという間にこなしてやる。メシとかちゃんと食えよ、ほっとくと何も食わねんだからな』
そんな事を言いながら出て行った彼女だったが、その優秀さには困ったものである。
「――せっかくの計画が台無しだよ」
男は、ここ学園都市から彼女を引き離したかったのだ。そのために〝楽園経由で〟千雨に対して法外な治療費を請求し、学園都市の取り込みを退けていた。学園都市側も、男自身はともかくとして、楽園と通ずるのは対外的に危険なのである。
二十年前の大戦の時、楽園で開発された技術は〝人〟の多くを超越した。魔法使いも超能力者も、なにもかもをだ。もちろん例外はある。だが一人当たり三十万ドルという格安の値段で改造された兵士達は、眠ることもせず、食べることもせず、おおよそ人の生理現象から開放された存在として猛威を振るった。
その大戦を、地球の表面に住む多くの人々は知らない。しかし、大戦を知るものは楽園の解体を望んだ。何回かの協議の末、楽園は本当の意味で〝楽園〟になった。衛星軌道上に浮かぶ巨大プラントは、完全に閉ざされた世界だ。そこでは昔も今も変わらず、知恵の実を食べるものがいないまま、そこに在り続ける。科学の結晶『楽園』として。
男は無造作に電話を取り出し、かける。何度もコール音を聞かずに繋がったようだ。
「ドクターか、どうしたんだい?」
「クライアント、吉報だよ。うちの子猫ちゃんは早速仕事をこなしたようだ」
「ほう、さすがだね長谷川君は」
「えぇ、困ったもんだよ。御剣検事、悪いけど以前渡した資料をこれから送るのと交換しておいてくれ。内容はさして変わってない。ただ作成者の欄が違うだけでね」
「了解した。報酬の方は――」
「こちらが頼んだことなんだ、気にしないでいいよ検事。むしろ法務局(ブロイラーハウス)に世話になったら便宜をはかってほしいね」
「善処しよう」
そういうと男は電話を切った。
ブロイラーハウスと呼ばれる場所がある。一般公開されぬ司法の場であり、人の命が日本でもっとも安い場所だ。その場所を人々は揶揄を込めてブロイラーハウス(鶏小屋)と呼んでいる。
先ほどの電話の男は御剣怜侍。新進気鋭の若手検事だが、まだ駆け出しのため、裏のこととなると資料請求の権利が満たされないのだ。
今回の事件は企業側による魔法によっての要人の殺害。そのため秘匿されている魔法の資料開示を御剣は法務局(ブロイラーハウス)側に要求したものの、それは御剣の立場の低さ故に開示拒否されたのだ。そうなると御剣自身が資料を見つけねばならず、男の元へと依頼がやってきたのだ。
実は男自身、魔法に関する資料は持っていたのだが、依頼にかこつけて、学園都市を欺くように仕向けた。
学園都市側も丁度いい麻帆良への牽制だと思い、彼女の麻帆良への転校はスムーズに成功した。
男はこの時期を使い、彼女を縛る鎖を断ち切ろうとしていたのだ。だが、それも彼女自身の拙速な行動によりご破算である。
「僕は、何をすべきかはわかるけど、どうしたら良いかはわからない……」
そう呟きつつ、彼女――長谷川千雨の笑顔を思い出す。ふと十数年前に別れた妻と娘を思い出した。
この半年の生活は本当に楽しかった。だが、それは傷の舐めあい、家族ごっこだったのだろうか。
「――らしくないね。そんな事を考えるのはメロドラマのライターだけで十分だ」
男は自嘲めいた笑顔を作る。楽しさにわざわざ罪悪感のスパイスを加えるなんて、両面焼き(ターンオーバー)のカリカリの目玉焼きにシロップをかけるようなものだ。つまりは冒涜だ。
男の名はドクター・イースター。地上に残った楽園の落とし子であり、千雨の治療医であり、そして保護者である。
ドクターの電子眼鏡(テク・グラス)に明りが灯り、数々の数値やグラフがその表面を彩る。
キーボードを叩く音だけが死体安置場(モルグ)に響いた。
◆
かすかな鳴き声が聞こえる。
水泳部の部活帰り、少し湿った髪をなびかせながら、アキラは寮への帰り道を歩いていた。どんよりした雲、一雨来そうな雰囲気に足も早くなる。そんな折に声が聞こえたのだ。
麻帆良には自然が多い。数々の欧風建築の合間には、必ずといっていいほど緑が配置されている。視界の中には常に木々なり林なりが飛び込んでくるのだ。
そんな木の一本、根元に小さな影が横たわっている。小鳥だ。
アキラは近づき、そっと手で救い上げる。
「かわいそうに……」
見上げれば頭上に巣がある。小鳥がそこから落ちたのは容易に想像できた。
落ちてから長いのだろう、アキラの手の中で小鳥は震えるばかり、かすかな鳴き声しか発せられないようだ。
「お医者さんに連れて行かなきゃ」
すっくと立ち上がり、走ろうとする。だが――。
「ピギィィ!」
「えぇっ?!」
虫の息だった小鳥が奇声を発する。見れば小鳥の足先に黒いもやがかっていた。そのもやは小鳥を飲み込むように、少しづつ覆っていく。じわりじわりと黒い染みが羽に広がり、その度に小鳥は奇声を発しながら悶えた。
「あぁ……あぁ、あぁぁぁぁ――」
目の前の出来事にアキラは声が出なかった。命が削られていく。
やがて小鳥はガクガクと痙攣した後、泡を吹きながら動かなくなった。アキラは怖くなり目を瞑った。目の前の死も怖かったが、得体のしれないもやがアキラをすくませる。
アキラは目を瞑ってて気付かなかったが、人影がすぅっとアキラの後ろに立っていた。
二メートルもの長身をしており、頭があり、手足がある。シルエットだけ見れば背が高い人間と言った風だが、細部は違った。背中からは尻尾のようなものが五本ゆらゆらと動いている。毛はなく、硬質そうな表面を持ち、一本一本が成人男性の腕を越える太さだ。体は女性のようなラインを持ちつつ、服を着ていない。何か異質な材質で出来たパーツが部分部分に張り付いている。そして顔。まるで狐を模した被り物をしてるようだった。目じりが鋭くつり上がり、眼光が異彩を放つ。
守護霊のようにピタリとアキラに貼りつくも、本人は気付かない。やがて、その姿は霞に消えた。
アキラは恐る恐る目を開ける。やはり小鳥は死んでいた。だが、先ほどまであった黒いもやや染みは綺麗に消えている。小鳥の死に悲しみつつ、内心安堵もしていた。
木の根元に腰を下ろし、素手で穴を掘り、小鳥の死体を埋めた。
近くの水道で手を洗い、アキラは家路を急いだ。
アキラの足跡に、微かな火花が散る。歓喜の火花であった。
第4話「接触」
さかのぼる事、三日前。
頭から足先まで白一色に身を包んだ長身の男、空条承太郎は学園長室にて、この部屋の主と対面していた。
後頭部が突き出るように伸びた老人、麻帆良学園学園長の近衛近右衛門だ。
「――ふむ、《弓と矢》のぉ」
近右衛門は手元にあった写真と書類の束を机に置く。
「はい。この場所にある〝確証〟は無いですが、〝可能性〟は高いと思われます」
承太郎が丁寧に答える。彼をよく知る仲間達が見れば、彼のらしくない態度に笑い転げていただろう。
「〝可能性〟とは、この写真のことかの」
「はい、そうです」
近右衛門が持つ写真には、麻帆良の中央にそびえる世界樹と、おぼろげで焦点が合わない矢のようなものが写っている。
「それは祖父、ジョセフ・ジョースターが『スタンド』で念写したものです」
「ほう、『スタンド』とはそんなこともできるのか」
近右衛門は多少おおげさに驚いている。
それもまた仕方ない事だった。魔法使いに対し、超能力者は少ない。だがそれにも増してスタンド使いは少ないのだ。
スタンド使いとは、人が持つ精神、それを具現化したものである。学園都市が研究する『超能力』の原型だ。
学園都市を良く知るものだったら、その誕生過程にスタンドの名を見ることができる。元々はスタンドを模倣するために学園都市は作られたのだ。
スタンド使いになる方法は二つしか発見されていない。生まれつきスタンド使いであることか、もしくは――。
そのため近右衛門はスタンドの名を聞いたことはあれど、能力の程度や方向性、その力の大きさすらも詳しくは知らなかった。
「矢がここにある限り、スタンド使いが生まれ続ける。そしてこのままでは街に危険がおよぶ。ましてや魔法使いがいるこの場所だったらなおの事です。早急に手を打つべきでしょう」
「だがのぉ」
承太郎には確信があった。それはこの街に来た時の空気である。いつか誰かに聞いた言葉を思い出す。
――『スタンド使いは惹かれあう』。
おそらく放っておいてもあちらからやってくるだろう。だが、それでは遅いのだ。
「こちらとしては、ぜひ空条君には調査をお願いしたい。またできる限りの報酬も便宜も計ろう。支援も行う。だが――」
「だが?」
「だが、魔法使いは、こちらの人員は貸せない。いや動かせない」
現在、麻帆良と学園都市の間には静かな対立があった。お互いの頭にその気は無くとも、下にはそのような風潮があるのだ。
そこへ来てこのスタンド事件だ。安易に魔法使い達を動かせば、いらぬ火種になる事は明白である。
スタンドには秘匿義務がない。なのに一般的な認知は皆無であり、裏の者も知る人は少ない。そして知らないという事が問題なのだ。多くのものが学園都市の攻撃や陰謀を疑う。そこに学園長の説明が入ろうと、種はくすぶり続ける。
「本当にすまない」
ゴツリと近右衛門の頭が机を叩いた。
「いや、構いません。スタンド使いにはスタンド使いでしか対応は出来ないでしょう」
「――そうなのか?」
顔を上げつつ、長い眉に隠れた目が、剣呑な輝きを放つ。
「あなたには『コレ』が見えますか?」
ユラリ、と承太郎の後ろに精神の具現化たるスタンドが立ち上がる。だが、それは不可視。本来、スタンド使い同士でしか見えない代物だ。
「いや、何も見えぬの。だが、確かに〝何か〟は感じおる」
「――さすがは『魔法使い』と言った所か」
承太郎は聞こえないように呟いた。
「スタンドはスタンド使いでなければ見えません。またそれぞれが特殊な能力を有している。例えば――」
承太郎は手に写真を持っている。
「このように」
「なっ!!」
今しがたまで、確かに近右衛門が握っていた写真が、瞬きもしない間に承太郎の手元に移っていた。近右衛門は魔力も一切感じない、異常な現象に驚く。
学園長としての席を持ち長いが、元々は第一線で活躍した戦士だ。今でも魔法使いとして一流である。その近右衛門が一切認識できず、警鐘すら感じなかった出来事に驚きを隠せなかった。
「い、今のはなんじゃ?」
「もうしわけ無いがそれは言えません。ただ、スタンドは容易に物理法則をねじ曲げます。聞くところによれば、魔法は魔力というものを用いて、様々な現象を引き起こすとか。おそらくそこには何かしらの技術限界があるでしょう。ですが、スタンドは意思の強さ次第で限界すらもたやすく――ブチ破ります」
承太郎は十年前を思い出す。母を救うためのエジプトへの旅。その間に会った数々のスタンドの姿を。
「人員に関しては、我がスピードワゴン財団から呼ぶ事の許可をお願いします。また、この敷地内での調査に伴う権利、私自身の怪しまれない身分も頂きたい」
「う、うむ。許可しよう。セキュリティパスも発行する。空条君は確か海洋生物学の博士号を持っていたね。麻帆良大の非常勤講師の枠を作ろう。なに、週に一、二度講義をするだけでかまわん。これでどうだね?」
「助かります」
承太郎は机に近づき、先ほどの写真とともに、一枚の紙を置いた。
「携帯の番号と連絡先です。近場にホテルを取っています」
その後、幾つかの打ち合わせをし、承太郎は部屋を去った。
「厄年かのぉ」
◆
承太郎は麻帆良市内のホテルを拠点として、《矢》の捜索を行っていた。
学園長との会談から三日が経ったが、いまだに何も掴めないでいる。しかし、それは仕方の無い事である。麻帆良は巨大であった。そこを一人で歩き続けて得られるものはたがが知れている。
財団への報告を行い、調査員の派遣を要求するも、まだ人員は到着していない。彼個人としても数年前に知り合ったスタンド使いを呼んだ。彼のスタンドは必要になるだろう、と思い連絡をとり、承諾を貰ったものの、相手は多忙な漫画家だ。速筆とは言え、いつ来れるかは知れなかった。
「やれやれだぜ」
今日は日曜という事もあり、麻帆良学園の喧騒は幾分和らいでいる。数々の本格的欧風建築が日本にいる事を忘れさせていた。
十年前に写された《弓と矢》の写真を取り出し、見つめる。この小さな《矢》一本を、巨大な街から探し出す事を考えると、心が重くなる。
考え事をしながら歩いていたせいか、承太郎は人とぶつかってしまう。
「おっと、すまねえ」
「い、いえ。こちらこそ」
相手は女子中学生だった。制服を着ていて辛うじて判断できたが、高校生と言っても十分通用する体躯である。承太郎の風貌を見て、少し驚いているようだ、
ふと、承太郎は手元にあった写真が無くなっている事に気付く。
「あ、写真落としましたよ」
少女は長身を屈め、写真を拾う。長い〝ポニーテール〟が揺れた。
「あれ、これって――」
少女は写真を見て、少し考えている。
「すまないが、知っているのか?」
「え、あ……はい。たぶん」
「――ッ! 教えてくれ、どこで見た!」
承太郎の態度に、少女は口を詰まらせた。
「えぇっと、学園の歴史資料室に落ちていました……」
「歴史資料室だな。ありがとう、恩に着る」
会話を打ち切り、承太郎は急ぎ足で資料室に向かった。三日経ってのやっとの糸口に、承太郎はある言葉を忘れていた。
――『スタンド使いは惹かれあう』。
少女は多少いぶかしんだものの、女子寮へと足を向ける。邂逅は刹那だった。
◆
「あぁ、あの鏃(やじり)ですか。裏の事務室に保管してありますよ」
学園をさ迷い、やっと見つけた関係者に聞き、承太郎は歴史資料室にたどり着いた。そこで厳つい風貌の警備員に《矢》の写真を見せたのだ。
男は関係者以外禁止のドアをくぐり、その先の通路へ承太郎を呼び寄せる。
「二、三日前ここに来ていた学生が拾ったんですよ。最初はここの展示物だと思ったんですが、リストにも無く、困っていたんです。リストに無いものを保管室に置いたら怒られるのはコッチですからね。だからと言ってぞんざいにあつかうような品にも見えないし……って事で事務所に保管しておきました」
「それは助かる。貴重なものでね、うちの財団も盗難にあってから随分探したんだ」
「はは、それにしたって持ち主が出てきて良かった」
厳ついながらも温和な表情で男は答えた。やがて部屋が見えてくる
「ここです。中は少し汚いですが、ご勘弁ください」
男が先導して部屋に入る。承太郎に悪寒が走った。
ドアを開けた先には事務室が広がっている。多少荒れていた。
「うわ、誰だよ。汚いなー、片して置かないと怒られるのは俺なんだぞ~」
警備員の男はブツブツ言いながら、部屋をかきわけて入る。承太郎は入り口で固まったまま、部屋を観察していた。
「おっかしいな~、この箱に入れたはずなのに。すいませんね、今ちょっと探しますんで」
空き箱を机の上に置き、ガサゴソと棚を漁り始める。
「新入りもいないし、どうなってやがるんだ……うん?」
男の頬になにか当たる。ふと雨漏りを連想したが、ここは三階建ての二階。漏るとしたら水道管だ、などと思いつつ、男は頬に拭った。
拭った手は赤かった。
血。
「ひぃぃ」
男は叫び声を上げ、天井を見上げた。
天井から血が滴っていた。肉片がへばりついている。
「おい、離れろ!」
承太郎は部屋に飛び込み、男を通路まで引きずり出した。
スタンド――『スター・プラチナ』――を出し、周囲を警戒する。だが、スタンドにある独特の気配は遠く消えている。
スタンドを消し、事務室の天井を見つめた。
人の体であろうものが、天井に貼り付いていた。そこで不思議な事に気付く。人にしては体の〝パーツ〟が少ないのだ。顔や内臓と言ったものがごっそり無くなり、まるで魚の開きのような状態である。
(なんだ、こいつは)
張り付いた肉片の影に、警備員の服が見える。
服を着たまま、体を開き、内臓を抉り出し、わざわざ天井に貼り付けたのか。いや違う、これは――
(まるで、〝内側から爆発した〟ように――)
そう考えた瞬間、再び承太郎の背筋に警鐘が走る。間髪いれずにスタンドを出し、その方向に拳を振るった。
「オラァ!」
事務所の壁に穴が穿たれ、バチバチと火花が散った。どうやら電圧ケーブルを傷つけたようである。
(チッ、気のせいか?)
「ひぃぃぃぃぃ!!」
後ろでは男が悲鳴をあげている。同僚の死体を見つけた後、今度は急に壁が崩れたのだ。情けない格好をしながら念仏を唱え始めている。
「――やれやれだぜ」
麻帆良に来て何度目かの呟きをしつつ、承太郎は学園長へと連絡を取った。
その後の調査で判った事は少ない。死んだ人間はここの警備員である近藤某、二十五歳の一般男性である。また、部屋から《矢》が消えた以外、盗難の一切が見つからなかった。
◆
「うぐぐぐぐ」
千雨はくぐもったうめき声が発した。目の前には自習用のプリントが置いてある。
月曜の一時間目は、急遽職員会議があるとの事で自習となっていた。
先生が不在という事で、そこかしこで話し声が聞こえる。だがそれはいつもの明るい話題では無い。
昨日発表された『男子学生変死事件』の噂で持ちきりであった。テレビのニュースなどでも報道されたが、メディア上では事件規模に対しての扱いは小さめであった。もちろんそこには麻帆良独特の理由があったりするが、それは割愛。
とは言え、学生達にとって見ればすぐ近くで起きた事件である。当面の部活動禁止も言い渡され、事件をより身近に感じた。
だがそこにあるのは恐怖などと言ったものではなく、興味や関心といったものだった。いくら身近で起きようと、そこに自分達が直接関わるとは微塵も思っていないのである。
「こわいよねー」、「死因は何なの?」、「誰が死んだの」、「大会が近いのに~」、などと言った言葉が教室内を往復していた。そんな中、報道部の朝倉和美は大活躍だった。水を得た魚と言わんばかりに、現在判っている情報を語っている。
そんな教室内を聞き流しながら、千雨は目の前のプリントと戦っていた。一次関数の問題である。
麻帆良は基本的には中高一貫のエスカレーターなので、学業進度が他よりも速い。一般的な公立校が二学期でやる一次関数の単元も、麻帆良学園中等部では一学期の五月には入っていた。
千雨にとっては「たかが一次関数」といった程度の問題である。だが、何を思ったのか千雨は、視覚情報を暗号アルゴリズムで変換したり戻したりを三往復させてから、脳の思考野に持ってくるというくだらない事をし、さも一次関数が出来ないかのように振舞っていた。その実情を知っていたら、他人からは嫌味としか見えないだろう。
本来なら一本の直線であるはずのそれが、今の千雨には複雑怪奇なパズルに見えるのだ。うんうんと唸りながら、遅々の速度で解いていく。
「あ、千雨さん、そこはこうじゃないデスか」
「お、そうだな。すまねえ夕映」
横から夕映の手が伸び、千雨のミスを指摘する。夕映はクラスの中でも成績は悪い方から数えて五位以内に入っており、「バカレンジャー」の異名を持っていた。だが、元来は頭の回転が良く、多少真面目に取り組めば、今の千雨よりもはるかにマシな頭脳を持っている。
クラスメイト達が談笑をし、ろくにプリントに手をつけない中、千雨と夕映は三十分程でプリントを解いた。
「お、終わったー」
「お疲れ様デス」
手を伸ばし、ベタリと机にへばり付いた千雨に、夕映のねぎらいの声がかけられた。
「あー、一昨日と言い、昨日といい、わたしはもうバテバテだよ」
「一昨日はともかく、昨日、デスか?」
一昨日は千雨と夕映が図書館島から帰宅した日である。
「まぁね、色々とあるんだよ」
「色々……そうデスね」
夕映は魔法や超能力の事だと当たりをつける。夕映は千雨がどうやら超能力者だと思っているようだが、千雨はそれを肯定する気も否定する気も無かった。
千雨も、”一応”は学園都市で超能力者として登録されている。ちなみにレベル3の強能力者だ。関係者から見れば、もっとまともな嘘をつけ、と言われるだろう内容である。
ちなみに千雨は土曜の朝に図書館島から帰宅してから、丸一日以上かけて魔法の分析を行い、突貫でレポートを作成したのだ。気付けば日曜の午前、そのまま死んだように眠り、さらに気付いたら教室に座っていたというのが実状である。
「ん?」
夕映の方を向いたとき、その奥の空席が目に入った。アキラの席だ。
(大河内、休みなのか)
朝のホームルーム時に裕奈が言っていたのを思い出す。あの時は眠すぎて、完全に意識から遠ざかっていた。なんだか風邪とか何とか言っていたと思う。
千雨にとってアキラは落ち着く存在だった。先週転校してから様々なクラスメイトに絡まれているが、そのほとんどが振り切れんばかりのテンションなのだ。
そんな中、そっと近づき、落ち着いて物事を考えて、話す。そういうアキラを千雨は好ましく思っているのだ。
ふと、『信じてくれる人を探す』という夕映の先日の言葉が思い出される。
(そういやケガもしていたな)
資料室を裕奈達と行った時、指にケガをしていたはずだ。その上、風邪を引いているらしい。
(世話になっているからな見舞いにでも行くかー)
そんな事を考えていると、教室のドアが開き、高畑がやってくる。
「みんな、遅れてすまないね。ちょっと会議が長引いちゃったよ」
いつもの苦笑いをしつつ入ってくるものの、どこか表情は硬い。
「それでみんなに連絡だ。とりあえず今日の授業はここまでで、臨時休校となる」
やったー、という歓声が教室中から沸き、それを委員長である雪広あやかの怒声が戒める。
「こらこら、遊びじゃないんだぞ。それに続き今週の学校は全て休校となった。だが、もちろん課題はたくさん出してあるぞ。来週にはしっかりと提出して貰うから覚悟しておくように」
今度は逆に、えー、という悲鳴が響き渡る。
高畑はゴホンとせきを一つし、表情を引き締めた。
「みんなももう聞いているだろうが、昨日我が学園の生徒の変死体が見つかった。集団自殺だろうという警察の見解だが、いくつかの不審点があるそうで、まだ言い切れる段階ではないらしい。僕らは君達を親御さん達から預かってる身だからね。用心をして越した事はない。なので、とりあえず速やかに寮に戻る事、もちろん部活も禁止だ。またできるだけ外出をしないように、するにしても二人以上で昼間だけだ。夜の外出は原則禁止。いいね? 守らなかったら課題を三倍にするからね」
はーい、という声が一斉に上がる。
「うん、それじゃ以上。号令」
日直の帰りの挨拶が済むと、高畑は急ぎ足で教室を出て行く。
〈何かあるな〉
(だろうなぁ……とは言ってもこちとらお役御免だろ)
レポートを送った後、ドクターからの返事は『現状維持』のままだった。おそらく手続きか何かに手間取っているのだと、千雨は思っている。
ウフコックは千雨の考えも、ドクターの真意も分かっていたが何も言わないでおく事にした。
〈そういえば千雨、お見舞いにいくのだろう? 何か買っていくのか〉
(そうだなー。あんまり遠くに行くわけにはいかないだろ。とりあえず寮内の売店見て、果物でも持ってくかな)
千雨はカバンを持ちつつ、席を立つ。
「あ、千雨さん。一緒に帰りませんか?」
夕映が千雨に声をかける。傍らには夕映のルームメイトであるのどかとハルナの姿がある。
「あー、悪いな。ちょっと、その、な……」
本来、このまま寮へと直帰せねばならないはずである。一緒に帰れない理由をとっさにでっち上げる事ができず、千雨は言葉を濁した。
「そ、そうアレだ。アレ」
わけのわからない事言いつつ、手首をプラプラさせ、教室を出る千雨。
「じゃあな夕映、宮崎、早乙女」
一斉に帰宅する女生徒の波に紛れ、千雨は消えた。
「あーらら、フラレちゃったわね夕映」
「べ、別にそんなんじゃないデスよ」
そんな事を言いながら頬をプーッと膨らます夕映。制服の下のネックレスがジャラリと鳴る。
(ゆえゆえ、可愛い)
のどかはその可愛さに内心悶えた。
◆
教室を出た千雨は、女子寮への最短ルートを外れ、少し遠回りをしつつ向かっていた。木や建造物を見る度にそれに触る。
(先生)
〈了解だ〉
亜空間にある材料を使い、使用者のイメージに合わせて物質を構成する。ウフコックが万能兵器と呼ばれる由縁だった。
ウフコックと共に、麻帆良の各所に兵器なりトラップなりを仕掛けているのだ。
(まったく面倒だよな)
土日にかけて、魔法についての情報を分析して、千雨は愕然としたのだ。書面上どれほど正しいのか分からないが、魔法の戦闘面の汎用性の高さにびっくりしたのだ。
障壁魔法なるバリアーがあり、物質的衝撃やら魔法やらを無効化するなぞ、一体どこの漫画だ、と千雨はグチりまくったいたのだ。もちろんそれらにも限界があるらしいし、魔法の属性などによっても容易く破れると書いてはあったものの、千雨にはその属性とやらが無いのだ。
残すはドクターが待つ死体安置場(モルグ)に帰宅するだけなのだが、用心深い――ビビリとも言う――千雨は保険をかけておくために、こうやっていそいそと、兵器を麻帆良に散布していた。
空が落ちてきそうだった。曇天は薄暗く、まだ晴れ間は見えない。
つづく。
(2010/12/30 あとがき削除)