■interlude
姫神秋沙(ひめがみあいさ)の手が虚空の扉に触れた。
生と死の境界がゆっくりと解け始め、曖昧なモノへなっていく。
それを見て、笑みを深めるのは天ヶ崎千草だ。
この《学園都市》という場所を使い行なわれる術式。
壁の中に満ちた『科学的な』AIM拡散力場を、『魔術的な』モノへと変換させていく。
それは姫神の特性を利用したものであった。
幾つかの不安要素さえも、〝学園都市側〟のネットワークトラブルにより解決している。
麻帆良と同じ様な電力を使った『科学的な結界』も、今は一時的に失われていた。
都市を一望できるビルの屋上。風力発電を行なう風車すらも見下ろす高所に、彼女達はいた。
遠くに見えるは『世界樹』と呼ばれる大樹だ。
「やっと、やっとや」
千草の心に渦巻くものは、悲願か悔恨か。
■interlude end
第28話「前を向いて」
スーツをピシリときめたプロシュートは、歩きながら懐の拳銃を取り出す。
彼を止める人間はいない。いや、止めようにも止められなかった。
プロシュートのスタンド能力『ザ・グレイトフル・デッド』。
霧を介して周囲の人間の老化を早めるという能力だ。その対象は敵味方関係無い。
だが、体温が低いほどその老化のスピードは遅くなる。ホルマジオが氷を口にしている理由がソレだった。
『身内の仇は二の次だ。だろ、ペッシ』
『アイテム』との追撃の最中、釣り竿型のスタンドを持つペッシはその命を失っている。
リゾットも自分達を標的まで辿り着かせるために、身を張って囮になったのだ。
殺意も悪意も無い。ただあるがまま引き金を引く。
ワインを飲むときに空気を含ませるように、プロシュートにとってその程度の日常の延長だった。
アキラはどうにかスタンドを出そうとするも、未だ意識が朦朧とし、能力が発動できない。また老化が精神力をも衰えさせていた。
ドーラも助手席で、うなだれる様にして気を失っている。
そんな中、ドクターとルイがお互い肩を支えつつ、スピンした車から辛うじて這い出で来た。
「老化を早める力……いけない、この能力はウフコックに危険すぎる」
老人と化したドクターが、力無く焦りの言葉を吐いた。
「んな事はみんなわーってると思うぜ、ドクターさんよ」
ルイの言葉に、ドクターが首を横に振る。
「そういう事じゃ無いんだ。そういう事じゃ」
見れば、夕映に向かい銃口を突きつけ様としたプロシュートの動きが止まった。
『――?』
視線の先、夕映の胸元に黄色い塊があり、それがピクピクと痙攣していた。
プロシュートは嫌な予感を感じ、素早く処理してしまおうと、銃口を向け引き金を引いた。
「夕映!」
アキラのかすれた悲鳴。
放たれた弾丸は三発、いずれもが夕映の頭部への必中コースだ。
しかし。
「ガァァァァァァァァァァ!!」
激痛に歪む雄たけび。それは夕映の声では無く、もちろんプロシュートの声でもない。
夕映の胸元から現れたピンク色の〝肉塊〟の声だった。
先ほどまでピンポン玉程度の小ささだったそれが、一瞬で数十倍の大きさにまで膨れ上がる。黄色い毛皮――ウフコックそのものが破裂し、桃色の肉塊が彼の内側から風船の様に飛び出した。
比喩でも無く『肉の壁』そのものになったウフコックは、夕映に向けられた弾丸を浴び、周囲に自らの血の雨を降らせた。
これを予期していたドクターは歯噛みする。
隣ではヨボヨボの姿のルイが、目を見開いた。
「な、なんだい、ありゃぁ。千雨さんの肩に乗ってるタダのネズミかと思ってたのに……」
「あれがウフコックさ。自らの体を分割し、多次元に貯蔵する事が出来るネズミ型万能兵器。莫大な質量さえ他次元へ収納し、瞬時に取り出す。また複数の体を持つことにより、外傷などによる死はまずない。彼は科学的なアプローチでの不死に近い成功例だ。ただ――」
「ただ?」
ドクターの言葉を、ルイは急かせた。
「ウフコックは不老では無い。彼の体を構成する莫大な質量は、加速度的に成長して、いずれ彼自身を押しつぶす。今のウフコックはその未来を体現してるんだ」
ウフコックの体は益々大きくなっていく。肉塊の隙間から鋼材や機械群が飛び出し、血と共に周囲を破壊する。
ウフコックの意志なのだろうか。夕映を守るかのようにその体は、プロシュートの方にしか肥大していない。プロシュートも抵抗はするものの、巨大な質量の前に拳銃では歯が立たなかった。
『クソッ! はじき飛ばせ『グレイトフル・デッド』ォ!』
プロシュートの前に二本足の奇妙な姿のスタンドが現れ、ウフコックに蹴りを放った。常人を大きく越えるスタンドのパワーながら、その程度では肉塊はビクともしなかった。
しかし、その蹴りの反動でプロシュートは背後に飛ぶことが出来た。ウフコックのプレスを回避したプロシュートは体勢を整え反撃に移ろうとする、が。
『ガッ……グァ……ッ』
肉塊の隙間から飛び出た鋼材が、プロシュートの眼球を通り、頭蓋を貫いた。顔の半分を抉られたプロシュートはそのまま倒れる。
『プロシュートォォーーーーー!』
ホルマジオがスタンドを飛ばし、プロシュートを回収しようとする。
だが、瀕死のプロシュートはまだ動いていた。右手に持った拳銃を握り締め、未だにその照準を合わせている。
『俺たち、は、『栄光』を、掴む、んだ。この程度で、離すかよォ!』
脳を失いながらも、プロシュートの〝漆黒の意志〟は未だ体から失われていなかった。
指に力を込めるが、もう引き金すら引く力は残っていない。
『やれーーッ、ホルマジオ!』
プロシュートが命を振り絞り叫ぶ。もはや打算では無かった。ただ〝殺す〟、その誓いに突き動かされ、ホルマジオはスタンドを舞わせた。
肉塊を迂回するように飛んだホルマジオのスタンド『リトル・フィート』の狙いは、夕映の首だけだ。
意識も無く、スタンドも見えないウフコックは、ただ周囲に物質を飛び散らせる。
されど、その物質の量は凄まじい。ホルマジオに小さな鉄片が散弾の様に突き刺さり、後方へと転がってしまった。スタンドもその影響を受けてしまう。
その時、肉塊が弾け消えた。
『しまったッ!』
消えた肉塊の元には、小さな黄色いネズミ。それが示すところはスタンド能力の解除――プロシュートの死だった。
血溜まりに沈んだプロシュートの瞳に、もう光は無い。
『まだだ、このチャンス、逃せるか!』
未だに夕映は起き上がらない。ホルマジオは小さな少女の元へ走った。
そして――。
「――――ッ」
ホルマジオの〝下半身のみ〟が地べたへと落ちる。
その背後には、立ち上がった麦野沈利の姿があった。鼻や口から荒々しく息を吐き、目は血走り怒りに満ちている。
手には超能力『原子崩し(メルトダウナー)』の光の残滓が、未だなお残っていた。
「このイタリア野郎がァァァ! きたねェケツの穴をコッチに向けやがってェー!」
麦野の口がガパリと開き、雄たけびの様な罵倒が響いた。
怒りを外に吐き出した麦野は、プロシュートの体をも光で塵に返し、落ち着きを取り戻した。
「コイツら殺したと思ったのに……そうか、あの男の迷彩能力? 偽装? チッ! 滝壺を出し惜しみなんてするんじゃなかった」
麦野は爪を噛みつつ、事態の推移を確認していた。
未だ動けない者も多いが、体が無事だった『猟犬部隊』の面々もポツポツと立ち上がり始める。
ドーラを含め、ドーラ一家の面々は軽装だったり意識を失っていた事が災いし、老化による体の弱体化の怪我はほとんど無かった。
されど、事態は好転していない。
アキラはよろよろとしながら膝立ちをするも、車の横転のダメージが残っていた。
夕映も絹旗と老化のダメージで、意識がありながら四肢が動かなかった。
「ウフコック、さん」
目先にはピクピクと痙攣するウフコックの姿がある。夕映は手を伸ばすも、一メートル程届かなかった。
そこへ。
「ふーん、このネズミ……なるほどね。あんたらの武器の倉庫代わりって事か」
周囲にはウフコックが吐き出した機械群に混じり、銃器なども落ちている。
麦野は昨日、千雨が何も無い所から武器を取り出したのを思い出していた。
(空間干渉系の能力者かと思ったが、滝壺は力場を感じないと言っていた。タネはこれって事か)
麦野はチラリと木原を見る。やはり彼の狙いはコッチの様だ。
(まぁ、いい)
麦野は爪先でウフコックを二度三度突いてから、興味を無くした様に視線を動かした。
夕映を見て、片側の口角を吊り上げる。
「ガァァーッ!」
夕映の伸ばした左手が、麦野のヒールに踏み抜かれた。
外傷の痛みは少しの時間を置けば消える義体だが、この様な形での攻撃の痛みは消えない。夕映の体に激痛が走り抜けた。
「どいつも! こいつも! 私の邪魔ばかりしてくれて! さぁさ、お人形さんは私と一緒に帰りましょうねぇ~」
グリグリと夕映の左手がすり潰される。抗おうとしても、知らず涙が溢れた。
木原数多はその光景を目の端で捉えながら、持っていた端末の警報に目を落とした。
「あぁッ! なんだぁ、こいつは」
その情報を見てギョっとした。木原の手がワナワナと震える。
「アレイスターの野郎ォォォ!」
今現在、この場所以外でも学園都市は混乱のるつぼにあった。『猟犬部隊』のスケジュールもいつの間にか引っ切り無しに入り、この案件の始末がついたら、すぐに次の戦場へと赴くはずだった。
にも関わらず、まだ彼らはここに居る。
更に、隊員達の装甲服にはバイタルセンサーが付いており、交戦可能かどうかの判断が出来るのだ。先ほどの数分間、スタンド攻撃を受けた彼らのバイタルサインは『交戦不可』。
そして、アレイスターは一つの決断をしたのだ。
「『六枚羽』を使うだとぉ! ハハハハッ! お笑い種だぜ!」
怒りに嘲笑を混ぜ合わせ、木原は叫んだ。
HsAFH-11、通称『六枚羽』。本来、《学園都市》の壁からの侵入者を迎撃する、最新鋭の無人戦闘ヘリの名前だ。
今、その兵器の用途は変更された。
木原が耳を澄ますと、遠くからけたたましいローター音が聞こえる。
「イカれてやがる! だったらコッチもさっさと始末をつけねぇとなぁ!」
木原は通信機を通じ、『シスターズ』に指令を出した。
彼女らは研究用途のため制限かけられており、さすがに学園都市の防衛システムにまでは干渉できない。交通システムへのアクセスでさえ、かなりのグレーゾーンなのだ。もう少し時間があれば、その制限すら解除出来ていたはずだった。
そのタイミングの悪さに、木原は苛立ちを募らせた。
そんな中、多くの人に置き捨てられる形で、ボロボロの千雨は倒れている。
その時、空から小さな光の粒が、風に流されるように飛んできた。それはまるで吸い込まれる様に、千雨の体に落ち、消えた。
◆
千雨の中に記憶が溢れた。
幼少の頃の麻帆良での日々。
人間不信に陥りそうになった記憶。
アキラとの出会い。
ある程度の割り切りが持て、広がった世界。
転校した先での学校生活。
それらの時間の中で共通したものがあった。千雨の両親の姿だ。
千雨の両親は、麻帆良での千雨の境遇を理解は出来なかったものの、理解しようと試みはした。
小学生の時の転校も、そんな千雨への気遣いもあったのだ。
中学生になり、思春期を迎えた千雨は、両親との間に多少の溝を作っていた。
決して嫌いでは無かったが、麻帆良での乖離が未だに尾を引き、千雨の中でふつふつとした不満が残っていたのだ。
「あぁ」とか「ふーん」などと、両親の言葉にそっけない返答するのがいつもの事である。
雪が降っている日だった。
両親と共に乗った車は事故に遭う。炎上した車に炙られ、千雨は重傷を負った。両親も小さくない傷を負いつつ、千雨を抱えて車から逃げ出した。
だが、千雨達は事故に〝遭遇した〟のではない。〝殺されそう〟になったのだ。
そして、未だ凶刃は輝いていた。
死に体の千雨達の前に現れた男は、千雨の父親に拳銃を撃ち放った。
即死を免れた父だったが、男はまた拳銃を突きつける。
痛みにもがきながらも、千雨の父は母と娘を守るように、男に立ち塞がった。
千雨は朦朧とした意識の中、その姿をぼんやりと覚えている。
母親も普段のキリリとした双眸を崩しつつも、千雨をギュっと抱きしめ、千雨を守るために男に立ち向かった。
千雨の記憶はそこで途切れる。
次に気付いた時、千雨の両親は亡くなっていた。
意識を取り戻すまで二週間ほどかかり、千雨は両親の遺骸に会う事すら叶わず、別れた。
再会したのは小さな二つの骨壷だった。
あの日、千雨達を襲った人間は、どうやら逃亡中の殺人犯だったらしい。
千雨達は用事のため、長野県のとある道を走っていた。人通りも建物も少ない山沿いの道だ。
そこで男は通りがかりの車を奪おうとした。されど、対象の車を止めようとしたら事故を起こし炎上。
口封じのために千雨達を殺そうとしたのだ。
元々暴力団関係者らしく、数日前に暴力団同士の抗争である人物を殺害。
運良く捜査網を掻い潜り、長野まで逃げ延びたものの、車が故障し強盗に至ったのだ。
日常にありふれた凶刃に千雨は両親を奪われた。
幸か不幸か、千雨は本来助からない重体患者のため、逆に生き延びる事が出来た。
《学園都市》内では、特例を起こし《楽園》の科学者を保護していた。だが、それらの扱いは国連法に則り、厳重に定められている。
されど、その技術力のサンプルケースは否が応にも欲しかった。
その実施のために、科学者が解答したサンプルの推奨基準を知り、秘密裏にその基準に会うサンプルを探した。
学園都市内、そして周囲の都市の学生などを基準にし、身体検査を通してサンプルを選定していき、リストを作った。
仮にこのリスト内の人物が重傷を負った場合、即座に国連法の特例が申請され、《学園都市》に運び入れられる予定だった。
一万人に近いリストの中で、千雨のランクは百五位。
事故に遭った千雨は、即座に学園都市に運ばれ、治療された。もちろんモルモットとしてだ。
その後、千雨はウフコックとドクターの協力の元、両親の仇となる男を殺害しているが、別の話しだ。
千雨にとって、両親との別れは悔いの残りすぎる別れだった。
世の中に悔いの無い別れなど少ない。されど千雨は両親を看取ることも、言葉をかける事も、何も与えず、むしろ奪うような形で別れてしまった。
心の中の憤りが胸を詰まらせる。
千雨は人との距離が分からなくなってしまった、
だが、千雨は奪われる事だけは許せなかった。そして、その事に無性に怯えてもいた。
混濁する意識の中で、両親の幻影を見た気がした。
栗色の髪のなよっとした父親。欧米系の血が少し入ってるという、キリリとした目つきの母親。
半年前まで、確かに一緒にいたのだ。
(あぁ、夢でも嬉しいな)
千雨の頬を、涙が伝った。
両親の手が、千雨の頬に触れた。温かさが伝わり、千雨は幸せな気分になる。
「お父さん、お母さん」
最近、口に出さなくなった言葉だ。かみ締める様に呟く。
「ごめん。ごめん、わたし、何も出来なかった」
炎上する車を背景に、男に立ち向かう父の背中を覚えている。涙を溜めながら、必死に千雨を抱きしめる母の感触は体に染み込んでいた。
ぼろぼろと泣きじゃくる千雨を、両親はそっと抱きしめた。
「このまま……このまま、わたしは」
温もりの揺り篭に、千雨の意識は浮遊した。
だが――。
ペチン、と千雨の頬が音をたてた。
目の前には母親の厳しい目がある。振り抜いた平手もそのまま。
(懐かしいな)
母親が千雨を叱る時に浮かべる表情だった。
千雨に似たキリリと釣りあがった瞳は、えも言われぬ凄みがある。
両親の口が動く。言葉は発せられずとも、千雨には伝わった。
「――ああ。分かってる。これが現実じゃないって、だけども」
父親が千雨の頭を撫ぜた。そこに慈しみが満ちていた。
――すまない、そしてごめんな。
父の言葉に、千雨は言い返そうとするも、背中がパンッと叩かれ言葉が詰まった。
見れば、母が歯をむき出しに、ニヤっと笑っている。
――いつでも、あなたを見守っている。
千雨の中から何かが溢れそうだった。だが、それらは言葉にならず、ただ涙となって地面へ落ちた。
両親に背中を押された。
千雨は子供だ。だが、立ち向かうべきモノがあった。譲れないモノがあった。
だから――。
「ありがとう、お父さん、お母さん」
両親の幻影に背を向け、走り出した。
意識の奥底から、水面の境界を飛び出すように浮上する。
まるで空すらも突き抜けるように。
千雨の後姿を両親は見送った。
母がクスリと笑い、父に向かって言った。
――あなたにそっくりね。
◆
夕映の髪を掴み、そのまま引きずる麦野は、絹旗に対して指示を出した。
「絹旗、そこのイモガキをさっさと処理しておきな」
「超メンドイですが、了解です」
絹旗が、老化から回復した体のコリをほぐす様に、関節をブラブラとさせた。
そのまま倒れた千雨の方へ歩いていく。
「ちょーっと待ったぁぁぁ!」
絹旗の前に立ちふさがったのは、チョビヒゲのルイだった。
老化の影響か、未だ息を荒げつつ、所々に戦闘の傷も残している。
「お嬢ちゃん、悪いがここは通行止めだ。引き下がってくれるかな」
余裕綽々で言い放つルイだが。
絹旗は近くに転がっていた車の一台に蹴りを放った。車は放物線を描きつつ、近くのビルの二階へ突き刺さる。
ルイはそれを見て、目をギョっと剥きだした。
「なにか言いましたか、『無能力者(レベル0)』? 何も無いなら超即座にそこをどいてください」
ルイは無手だ。武器の一つすらなく、絹旗に抗う術は無い。
カタカタと足が震えた。
ルイは長年の経験から、目の前の小柄な少女の実力を正確に測っていた。
(敵わない)
ドーラ一家の判断に合わせれば、即座に〝逃げろ〟と言われる輩だ。今までもそれで何とかやって来ていた。
ルイの脳内も、それを是としてる。
されど――。
「それは聞けねぇ相談だぜ、お嬢ちゃん。惚れた女を見捨てたとあったらママに殺されちまう。だったらここで引く選択なんて存在しないね」
顔はピクピクと痙攣し、恐怖を表情がものがたっていた。
「それはご立派です。なら、遠慮なくやらせて貰いましょう」
絹旗は軽くステップを踏んだ。その一歩がアスファルトを割り、粉塵を周囲に舞わせる。
引いた右手を、真っ直ぐルイに放った。
ゴォン、という地響きの様な音が鳴る。
「え?」
絹旗の右手に奇妙な感触が残った。本来、その一撃で相手は吹き飛び、ビルの壁面にでも当たって潰れてる筈だ。
違和感に眉をしかめたが、粉塵が晴れた先を見てそれは驚愕に変わった。
「へぇぇ~」
麦野が珍しい光景に感嘆の声を上げた。
粉塵の晴れた先には、両腕を交差させ前のめりになりながら、絹旗のパンチに耐えたルイの姿があった。
絹旗のいる位置から大分引きずられ、アスファルトには摩擦で溶けたルイの靴跡が線となって残っている。
スーツの上半身はボロ布の様になり、髪はまるで爆発した様に乱れていた。両鼻からは鼻血も噴出している。
突き出した両腕は紫になり、二倍以上に腫れ上がっていた。
「クハ、クハハハハハ!」
ボロボロになりながら、未だ立っているルイが笑い声を上げた。
「どうしたお嬢ちゃん。俺が無事で不思議か? あんたは俺に何の力も無いと思ったんだろう。だが、違う。俺には力がある!」
絹旗はその言葉に、更に驚愕を深めた。
「何なんですか、私の『窒素装甲(オフェンスアーマー)』を防ぐなんて……」
ルイはにやけたまま顔を上げた。焦点が合わないのか、瞳がクルクルと回っていた。
「『愛』だ! 『愛の力』だッ!!!」
絹旗を含め、周囲で事態を静観していた人間達が、呆然とした顔を向ける。
「そんな馬鹿げた――」
「馬鹿げた? お嬢さんの車を蹴り飛ばす程の力を受けても、俺はここに立っているんだぞ。それ以上の証拠があるのか! 超能力だか何だか知らないがな、俺の『愛の力』すら砕けない、あんたらに勝機は無いぜ!」
ルイの体がふらついた、そこへ声がかかる。
「ルイ! 男なら前のめりだ。間違っても後ろに倒れるんじゃないよ!」
車体の残骸からふらつきながら出てきて、ドーラが叫ぶ。
「……了解だぜ、ママ」
ルイは絹旗の方向、前のめりに倒れた。
そのままガクガクと痙攣しつつ、ルイは呟く。
「千雨さん、後はお願いします」
ルイの後方に、立ち上がる人影があった。
メガネは割れ、体はボロボロ。背中を強打し、指一つ動かしただけで痛みが走った。
見れば夕映は『原子崩し』に掴まり、アキラもかろうじて体を起こしている状況だ。
いつも傍にいたウフコックも今は無く、負傷して倒れている。
――頼るべき味方は傷ついていた――
レベル5は不敵な笑みを浮かべる。
『猟犬部隊』は数は減れど、その手にライフルを持ち、立ち上がった。
遠くからヘリのローター音が響く。
周囲の空間やネットワークを『シスターズ』が制圧していた。
空に奇妙な紋様が浮かび、白と黒の光の粒が《学園都市》を覆っている。
――倒すべき敵は健在だった――
だが、微かな輝きが、炎の様に燃え上がる。
為すべき信念が芯となり、背中を支えた。
手にいつもの銃の感触は無い。されど失っていないモノもあった。
かつて誰かが言った『黄金の精神』。
受け継がれるべき精神の息吹が、そこに確かに息づいていた。
握りこぶしを作り、歯を食いしばって立ち上がる。
「まかせろ」
長谷川千雨は爛々と輝く瞳をまっすぐ前に向けて、そう言い放った。
つづく。