失った左腕が突き破るように生えた。
それは人のものではなく、神のもの。
闇の中でも一際黒い色をしていた。
そして、左腕以外も変色していく。侵食されているかのようであった。
やがて全身が黒に染まる。皮膚はもちろん爪も歯も瞳もすべて黒に染まった。
折れた骨が音を立てて自動的に修復され、こぼれた内臓がひとりでに戻っていく。肉と皮膚が繋ぎ合わされ、負傷はもうなくなった。
「――」
その光景を見ていた高音は、これが人ではないとわかった。腰が抜けて地面にぺたりと座り込んでしまう。
藤堂だったものはそんな彼女を見向きもせず、再び鬼神へと飛んでいった。
殴り、蹴り、喰らいつく。
魔法で切り刻み、額を割り、着実にダメージを与えていく。その姿は頼もしくはある。強靭な存在に生まれ変わっていた。ただ、あれは人ではない。
高音は胸をたたき、詰まったものを無理やりはずし、神取に問うた。
「神取さん。ペルソナの暴走といいましたが、最後にはどうなるんですか。あなたはどうなったんですか」
「言ってどうにかなるものではないと思うが」
「いいから教えてください!」
高音が叫んだ。悲痛な声だった。
神取は暴虐を尽くす藤堂だったものを見やり、答えを言った。
「簡潔に言えば、悪魔になる」
今日の天気は晴れだと言うように、彼の言葉にはなんの感慨もなかった。
*
悪魔、そういわれたら、しっくりきた。いまの藤堂の姿はまさにそれだったのだ。
暴虐を尽くし、蹂躙する。
召喚された鬼神とどう違うのか。
違わない。
もはや、あれは人ではない。藤堂和也という人物はいなくなっているのだ。
湖で起こっているのは鬼と悪魔、人外二つのぶつかりあい。
石化から復活した西のものたちもあまりにあまりの戦いに手を出せなくなっていた。高音たちもそれは同様。岸で、眺めているだけ。
困惑が彼女たちの心を占めている。
戦いが始まってから数分後、エヴァと茶々丸が高音たちに合流した。高音はすぐさま事情を教えた。
「ペルソナの暴走か。まったく、危ういものを使っているんだな」
エヴァの手には仮契約カードの複製が握られていた。カモの能力で作り出されたものだ。
「孤立したペルソナ。藤堂尚也か。私には藤堂和也と名乗っていたが、やはりこれがあいつの本質だということなのか? 高音、お前も知っているんだろ。あいつが本当はどういう存在なのか」
「ええ」
高音がぎゅっと拳を握り締めた。ちらりと神取を一瞥するが、その彼は藤堂から視線をはずさなかった。
相坂がたずねる。
『あの、どういうことなんですか? 和也さんが本当はどういう存在だったって言うんですか?』
「……そうか。お前は知らなかったな」
エヴァはため息をついて語った。
「藤堂尚也という人物がいた。そいつは過去の事故で大きなトラウマを抱え、己を責めるようになった。年数が過ぎるにつれてそんなこともなくなっていったのだが、ある事件のさなか、そのトラウマがもとになった己に己に向けられた悪意が肉体を持ってそいつの前に現れた。それが、あいつ、藤堂和也だ」
『じゃあ、えっと、この孤立したペルソナっていうのは、』
「あいつ自身のことだ。おそらく、そのヴィシュヌとやらもこの尚也が使っていたペルソナなのだろう。それに、食われたのだな。あいつは」
言い終わったところで、黒くなった藤堂が彼女らの上空をかっとんでいった。理性が消し飛んでいるのだろう。またしても殴られたのだ。
空の上で藤堂は折れた骨を修復し、血を滴らせながらも戦意を失わず、破壊を行使するべく鬼神へと向かう。ブレーキがなくなった暴走車のようである。
相坂がエヴァにきいた。
『なんとか、和也さんを正気に戻らせることはできないんですか?』
「そうだな。私も早乙女にあいつのことを頼まれているからどうにかせんとな。まったく手のかかる居候だ。とはいえ、私にはあんなやつをこっちに引き戻す術はない。そこでだ。陳腐にもほどがあるが、相坂、お前がやれ」
『は、はい。でも、なにをですか?』
「説得」
「ちょ、ちょちょっとエヴァンジェリンさん! 待ってください!」
高音が抗議する。
「なんだ?」
「説得といいましても、いまのあの方に声が届きますか? むしろ近づいていったら戦闘の余波に巻き込まれて、相坂さんの魂がなくなってしまいますわよ」
「そこらへんは考えている。お前の言うとおり、いくら声をかけてもあいつには届かないだろう。だから、あいつの中に入り込んでやるしかない。あるだろ。そういう魔法が」
「――夢見の術、その応用ですか」
「正解」
エヴァは、思ったとおりの答えを出してくれた生徒に満足する教師のような顔をした。
「さっきここに来る前に犬にボーヤを呼びにいかせた。戦闘に次ぐ戦闘で疲労がたまっているだろうが、それぐらいはできるだろう」
「わかりました。ですが、それではあの鬼神はどうなります?」
「私がいるだろうが」
ふふんと、腕を組んで目を尖らせた。
「あとどれくらいだ。茶々丸」
「一分を切りました」
こんなときに時間をいう。
それは、結界の終了。
「そういうことだ。ま、和也が戦いの余波に巻き込まれないように、お前や西のものたちには手伝ってもらわなければならんがな」
「引き付けろということですか。あの藤堂さんを」
いまの藤堂は、鬼神と戦っている。優勢ではなく明らかな劣勢であるものの、着実に損害を与え、見事に押さえ込んでいる。それだけのものを相手にひきつけるなどということができるかどうか――
高音はつばを飲んだ。不可能、そんな言葉が脳裏をよぎる。不安。恐怖。
「なんだ。できないのか?」
だが、そのエヴァの人を小ばかにした表情で、焚きつけられた。
「やりますわ。大体、あれは私の従者です。なんとかしてみせます」
「上等だ。茶々丸、カウントダウン」
茶々丸がその無機質な声で秒数を教えた。
「十、九、八、七――――」
六、五、四、三、
エヴァが最後をかわる。
「二、一、」
――――零。
結界が消える。
エヴァを長年苦しめていたそれが、消失する。
「――ハ、ハハ、」
エヴァは堪え切れないのか、笑っていた。
静かに笑っていた。
*
高音は激しい鼓動と荒い息を落ち着かせることができなかった。首筋には大量の汗が流れており、非常に不快だったがそんなもの気にもならなかった。
鬼神、暴走状態の藤堂、そのどれをも凌駕する力が目の前の幼い少女からあふれていた。プレッシャー、自分という矮小な存在が塵と化してしまいそうなほどの圧迫感。
エヴァは無邪気にも見える笑みを浮かべ、高音を見上げる。
「どうした。そんなに恐ろしいか」
「――そうですわね。まったく、反則級ですわ」
「お褒めの言葉をありがとう。お、どうやら、ボーヤも来たようだ」
合図の変わりに氷の矢を上空に打ち込んだ。そうすると杖に乗ったネギが舞い降りてくる。
「そこそこだが回復したようだな」
「はい。なんとか、ですけど」
そういうネギの表情は冴えない。戦闘の後遺症はいまだに残っている。だが、空を飛んできたことから魔力は少しばかりあるのは間違いない。
「よし。ボーヤ、念話で伝えたが、これから相坂を和也の心の中に送れ」
「……それ、本当に大丈夫なんですか?」
ネギの問いにエヴァは頭を振った。
「そんなわけがなかろう。心を食われているやつの中に入っていくんだ。ともに食われる可能性はあるな」
「だったら、僕が行きます。相坂さんはここに残って――」
残ってください、という前にエヴァが彼を殴った。
ちゃんと手加減をしているが、彼女は怒っていた。相坂もネギを非難めいた眼で見ている。
「あのな、ボーヤ。お前が向かって、それでどうする。まったく意味がないぞ」
「で、でも、だって相坂さんは僕の生徒ですよ。危ない目にはあわせられません!」
エヴァは深々とため息を吐いた。
「あのな、あいつを助けるのはお前には不可能だ。できるのは相坂しかいない。そして、本気で助けたいと、命にかえても助けたいと思っているのもこいつだけだ。このままでいれば、確実に藤堂和也は、死なないまでも悪魔となってその一生を終えるだろう。仮にそうなったとき、私や爺たちは単なる敵として殺害する。ま、年がいってるというのもあるが、そこまであいつを大事に思っていないのさ。しかし、相坂は違う。相坂にとっては恩人で、惚れた男だからな。幽霊にそういうのはおかしなことだが、命を懸けたっておかしくない。こいつなら、和也を人間に戻ってこさせるかもしれない。ボーヤがいったところであいつのペルソナに食われるのがオチだ」
「で、でも、」
尚も食い下がろうとするネギに、相坂が柳眉を逆立てて言った。
『いいから! 私を送ってください!』
彼女も怒っていた。そして急いている。
戸惑っているネギにエヴァが言った。
「あのな、ボーヤにはまだわからんだろうが、そいつは本気で惚れているんだ。六十余年、一人ぼっちだったそいつを救ってやったという恩もある。大事な大事な妹とも会わせてくれた。もし、和也がいなくなれば、今度こそそいつは、この世からいなくなるかもしれん。送れ。ここに残しておくほうがよっぽど残酷だ」
「……」
それでもネギはうんとは言わない。相坂は涙を堪えながら懇願した。震える声だった。顔を上げることができないでいる。
『あそこで好きな人が、苦しんでいるんです。好きな人がどこかへいっちゃいそうなんです。いかせてください。お願いします――』
お願いします、お願いします、
相坂の言葉は重たい呪詛のようなものだった。ネギの心に、深くしみこんでいった。
もう、断ることなどできない。彼だって男だ。泣く女には勝てないと決まっている。
「わかりました。相坂さん」