16日午後7時。 リマ王国首都リマを、キメラアントの軍団が疾風の如く襲った。 この情報を軍部が受け取ったのは、キメラアント来襲のわずか15分前であり、国防長官セロの散々の罵声のなか、最高司令官であるポドロフ了解のもと、軍幹部たちを急場に召集し、対策会議が設けられた。 その直後である。 軍幹部たちが集まる司令部に、数体のキメラアントが突如としてなだれ込んだ。 最悪のタイミング。この奇襲で指揮系統は一時的に麻痺し、軍部は混乱。さまざまな情報が錯綜する。 某国の襲来だ。いや、極秘の生物兵器の暴走だ。いや、生物兵器だが、我が国のものではなく、某国のものだ。 その間にも首都リマの各所で炎が悲鳴が上がる。 さまざまなデマが市民にパニックを引き起こし、一部が暴徒化した。「ついに始まった! 我々の時代が!」 ガルシア小佐は、炎の上がる軍司令部を見やりながら歓喜を爆発させた。 34歳の彼は長い間鬱屈のなかに居た。英雄と呼ばれたポドロフ将軍とその与党に占められた高位の席を羨望のまなざしで見つめながら、手柄の立てようのないこの国の平和と、いつまでも老人のまま、変わらず生き続ける彼らを憎悪し続けていた。 だが、そんな日々もこれで終わりである。 この未曽有の災厄でポドロフ将軍以下老害どもは軒並みくたばり、自分たちが新しい英雄になるのだ!「マルコス隊、カラヤ隊、続け! 将軍たちをお助けするのだ!」 内心、くたばっていろ、と呪いの言葉を吐きながら、ガルシア少佐は因果を含めた部下たちを選抜して自ら軍司令部へ突入していった。 受付は血にまみれていた。 ガラスが四散し、無数の弾痕が刻まれている。 ――戦争だ。まさしくこれは戦争だ! わき上がる歓喜を押し殺しながら、ガルシアは奥へ向けて駆けた。 彼の率いる部下たちの装備する銃には致死毒を仕込んだ銃弾が込められている。 いかに凶悪な魔獣であろうと当たれば殺さずにはいられない、そんな猛毒だ。奴らの言う化物――キメラアントでも、毒の弾幕相手では歯が立つまい。 戦いの予感に心躍らせながら、ガルシアは軍高官たちの詰める会議室へとひた走った。 心の内では、死んでいろ、死んでいろとつぶやき続けている。 つぶやきがふいに途切れたのは、会議室の前でだった。 観音開きの扉は壊れている。なかは薄暗く、様子を確認できないが、赤いじゅうたんを汚すシミのようなものが確かに見えた。 だが、ガルシアの思考を止めたのは、そんなものではない。 薄暗い闇の奥、確かに存在する人の影を、彼は見いだしたのだ。 ふいに火が灯った。 ライターの火だ。朱の光に照らされ、円卓に腰をかける存在が明らかになった。「セロ国防長官……モラレス幕僚長……」 驚愕のあまり、ガルシアはそれだけしか言えなかった。「よう、お若いの。ここに何の用かね」 葉巻を吹かしながら、モスグリーンの軍服をぴしりと着こなした白ひげの老人が、シワだらけの口の端を引き上げた。「モラレス幕僚長……は、その……」「おいおいお若いの。一人前の軍人ですとおっしゃりたい(・・・・・・・)のなら、まずはその馬鹿みたいに開けた口をどうにかしてはどうかね?」 とんとんと、モラレス幕僚長は円卓をたたいて葉巻の灰を落とす。白い灰が絨毯に落ちた。「たるんどる!」 雷鳴のような声に、ガルシア少佐以下兵士たち全員、竦みあがった。 老齢にもかかわらず成人男性二人分ほどの量感のある巨体。軍服の上からでもわかる引き締まった筋肉。シワこそ刻んでいるものの、なめし皮のようにつややかな肌。戦で光を失ったのか、片眼には眼帯をしている。「セロ国防長官閣下!」 彼に敵意しか持っていないはずのガルシア少佐が、思わず背筋を伸ばした。「司令部が炎上して駆けつけるまで5分もかかるとは何事か! しかもこのような取るに足らん獣の奇襲を許すだと? 普段の心がけが足らん証拠じゃわ!」「そういじめてやるなよセロ? ――よう、小僧。このあとはどんな手はずになっておるのかね?」「はっ?」「とぼけんじゃねぇよ。エディの鼻ったれが吐いたぜ? まあ、思ったより根性がなかったせいで全部聞く間は無かったがな」 そう言うと、モラレス幕僚長は歯を剥き出しにして哂った。 ガルシアはガタガタ震えている。すべてを見透かされるような、幕僚長の切れ長の瞳がたまらなく恐ろしい。「お前さんはあの哀れなエディよりも丈夫かね?」 闇に慣れてきたガルシア少佐は、やっと気付いた。 部屋の隅、キメラアントのものと思しき残骸に混じって、ぼろ雑巾のように転がされている、彼の同志の、惨たらしい死体に。「うわああああああっ!!」 恐怖が、ガルシアに銃を撃たせた。 触発され、最前線の兵士も銃を乱射する。 狂騒にも似た衝動とともに、地を打つ薬莢の音が止まった時、ガルシアは見た。ふたりの老人が、まったく無傷でいるのを。「き、強化ガラス……」「おいおいお若いの。わしらがなぜこんな暗い部屋にいたと思いかね」 呆然自失するガルシアに、幕僚長は滑稽な寸劇でも見たような表情。「まったく……たるんどる!」 その不注意が腹立たしいとばかり、怒鳴りつける国防長官。 ふいに部屋の両隅の天井が開き。そして銃弾の雨がガルシア達に降り注いだ。「……まったく。体に一発の銃弾も埋まっとらんヒヨコがわしらを出しぬけるとでも思ったのかね?」 つまらないものでも見るように、モラレス幕僚長は死屍累々たる様を見下ろす。「たるんどる! そんなザマだから老骨ひとつ墓場に送れんのだ――と、始末してよかったのかよ、モラレス。作戦を聞き出すんじゃなかったのか?」「なに、こうなれば大枠は見えたさ。なにか一大事を起してわしら一か所に集め、一網打尽。ついでに通信を麻痺させ、返す刀で化け物どもを葬ってわしらになり替わろうって寸法だろう。それに関しては問題ない。あっという間に収めて見せるさ」 首をかしげる国防長官をよそに、幕僚長は慣れた手で携帯式の無線機を操る。「ああスハルトか? 俺だ。ポドロフの大将はいるかい?」「――ここだ。いま国営放送に情報を渡したところだ。そちらはどんな様子だ?」「なに、若造どものいたずらだ。たいした事はない」 同時に建物が揺れた。断続的な炸裂音が鳴り響く。 ベレーの上に落ちた埃を払いながら、モラレスはにやりと笑う。「問題は、若造どもが火消しの準備もせずに火遊びをしやがったってところだ。こいつぁちょいとばかりやっかいだぜ」「……手間をかけるな。モラレス。セロ」「なに、久しぶりのピクニックだ。楽しみでウキウキしているところさ」 モラレスは笑いながら、集まってきた部隊に、手振りだけで迎撃の指示をした。 リマ王国首都リマに駐在する軍隊は、当然のことながら、外敵から都市および司令部、そして国王を守る事を想定して配置されている。 ミサイルやタンク、対空砲など、揃えられた数々の装備は、そのほとんどが外敵に備えたもので、内部に侵入したモンスターを相手にすることなど想定していない。「なに、ほんの40年ほど前に戻っただけのことさ」 幕僚長モラレスは笑いながら、通信施設の死守を命じた。 ここをやられると、林立するビルのブッシュに潜む敵を相手にする羽目になる。 敵のほうが個体戦闘能力に優れている以上、ゲリラ戦をやられてはかなわない。部隊を有機的に運用するためにも高度な情報把握が必要だった。「なら、老兵(ジジイ)どもの出番だな」 セロ長官の言うとおりだった。 混乱と熱気に引きずられ、浮足立つ若年の兵を抑えたのは退役間近の老兵たちだった。 普段彼らの武勇伝を聞きあきていた若手将校たちも、この時ばかりは彼らの存在に感謝するばかりだ。 彼ら老兵に助けられた各部隊と、それらを有機的に運用するモラレスの手腕。 そして皮肉にも、クーデターを企てたガルシア少佐が用意させた、対キメラアント用の弾丸により、彼らは多大な犠牲を出しながら、キメラアントたちにも無視できない損害を与えていた。 首都リマに侵入したキメラアント、その数およそ90。 うち首都北西にある軍司令部に侵入した3体は、早々に始末されていた。 司令部から展開された部隊は、徐々に中央に勢力を伸ばしつつあり、また北部にある王宮も、近衛部隊の存在と、なにより駆けつけたポドロフ将軍の存在により、何者にも侵されていなかった。 だが、街の随所ではいまだ悲鳴と絶叫は絶えない。 たった90の猛獣の暴走は、人々に恐怖と絶望を与えずにはいられなかった。 細切れにされた男がいた。頭から喰われた女性がいた。丸のみにされた子供がいた。 人を襲い、人を食う。この野獣を恐れぬものがあろうか。 いかな指令の下か、キメラアントたちは都内各地に散らばって阿鼻叫喚を撒き散らしていく。 首都南寄りの住宅地。 そこで血の海を作っていたヤモリ型のキメラアントは、突然飛んできた念弾に驚きたたらを踏んだ。 素早く視線を飛ばした先には、あきらかに通常とは違うオーラを持つ人間たち。「きゃ? レアモノきゃ?」 ヤモリはむしろ喜び勇んで彼らに襲いかかった。 だが。「止まれっ!」 先頭に立つ軍服の男の一言。 それを耳にしただけで、ヤモリの足が止まる。 驚き焦るヤモリの前に、悲鳴を上げながら飛び出してきた銀髪黒装束の男が、刀を振りかぶり、躍りかかって来る。「うわあああっ! 鏖(みなごろ)せっ――人間無骨!」 刀が、十文字の槍へと変化する。 しかし一直線に突きかかって来るその動きは鈍重極まりない。「止まれっ!」 避けようとしたヤモリに、また軍服の男の声が飛んだ。ヤモリの体が硬直する。 動けぬまま、ヤモリは槍に心臓を射抜かれた。 むろんそれだけでキメラアントが即死するはずもない。 しかし反撃に移ろうとするヤモリの動きは、軍服の男にまた止められた。 怒りと屈辱のなか、ヤモリは普通なら防御せずとも跳ね返せる程度の弱い念弾で、擂り潰すようにして殺された。「……よし、つぎに行くぜ」 軍服の男が命ずると、悲鳴と罵声が上がった。 飛び出した銀髪黒装束の男は、涙と鼻水が混じったものを垂らしながら呻いている。怪我はなく、純粋に恐怖と気あたりによるものだ。 隊伍が整うのを待つ間に、逃げ散っていた人々がおっかなびっくり集まって来る。「あ、ありがとうございます。あなた方は?」 腰が引けながら、それでも頭を下げた初老の男に、軍服の男――ダークはにやりと笑い、そして言った。「俺様たちは――“ソルの部隊”だ。忘れんなよ?」 ダークの命令一下、念能力者たちは悲鳴を恨みの言葉を吐きながら、キメラアントとの戦いに身を投じていった。 午後八時、“ソルの部隊”参戦。 しかし首都リマの命運は、いまだ揺蕩っている。 青赤の光を散りばめた闇の空間に、光がさした。 締め切っていた扉が開けられたのだ。開いたのはソル。街灯の光を背負って金髪がまばゆくきらめく。 それとは対極の、闇色の髪を持つこの空間の主は、碁盤を前にして眉一つ動かさない。「ミホシ」「……来ましたね、ソル。予想より早い。流石です」 言葉を紡ぎながら、ミホシは白石を盤面に打つ。 中央に飛び込んだ石と、眼形をつなぐ必生の一石。「ミホシ、ダークたちは」 ソルが気ぜわしく尋ねる。 焦りを抑えきれない様子だ。 ゆえにミホシは明快に答えた。「キメラアントを倒しに、首都リマへ。全員が、です」 そうか、と、ソルは呟いた。 その表情は、悲しみに満ちている。 一連の事件がダークらの画策によるものだと、すでに気づいているのだ。 ミホシは表情を揺るがさない。ただ碁笥より石を取りだす、その手がわずかに震えた。「なんのために、こんなことを」「あなたに……英雄になって欲しいからです」 ミホシは言った。 それだけで、ソルには通じている。「バカなことを」 悲しい声で、ソルはかぶりを振った。 それにたいし、ミホシの表情がわずかに厭の色を帯びる。「バカなことですか」 ミホシは問う。「すぐ近くに、ぼろぼろになっても、罵られても、他人のために頑張ってる人がいて、その人に、行いにふさわしい報いを受けてほしいと願うのは、そんなにバカなことですか?」「ミホシ……」 ソルが目を伏せた。 この時初めて、ソルはダークらの愚行の意味を、正確に理解したと言っていい。 だが、それでも、ソルはかぶりを振ることしかできない。「思いは、うれしい。でも、そのために多くの人が巻き込まれ死ぬのなら、やっぱりボクは許容できない」「……そう言うと思ってました」 悲しげな顔の青年に、ミホシは虚ろな笑みを向ける。「だからあなたは英雄になる。あなたは王都へ皆を救いに行くでしょう。行かざるを得ない。そんなことは、計算のうちなんですよ」 投げかけた言葉は震えている。 深い苦悩の色を残して、ソルはミホシに背を向けた。 ――わたしはソルを傷つけた。 それがミホシには痛いほどよくわかっている。 ――この上、どうして顔を会わせられましょう。 傷心とともに、彼のもとを去る覚悟を決めて、ミホシはソルの背に声をかける。「ひとつだけ、忠告があります。新しく起した棋譜が、明らかにおかしい。誰かがわたしたちを裏切ります。くれぐれも、気をつけてください」 ソルは止まらない。 宵闇の中に男の姿が消えていく。「……ソル。お慕いしておりました」 涙の粒が、碁盤を濡らした。