闇のなか、光で描かれた格子模様。 交点に浮かぶ赤青二色の星々は、ゆっくりとその模様を変えている。 星の明滅を見つめながら、ミホシは碁笥(ごけ)から黒石を握り取った。 ほっそりとした指は、闇の中、まばゆいまでに白く映える。榧(かや)の碁盤に乾いた音が鳴った。置かれたのは白石。 盤面下辺の戦いは、それで終わった。 左下隅、敵陣深く打ち込まれた白石は、一石も捨てられることなく下辺の眼形とつながり、さらに黒の大石を呑みこんで堂々たる勢力を成している。逆に黒石は隅から追いやられ、小さく生かされたにすぎない。ここの攻防は白の完勝である。「王が逝った、か。にわかには信じ難い卦だな。まさかの展開だ」 碁盤を見やりながら、レフがつぶやいた。 闇に溶け込むような黒ずくめの美男子であり、Greed Island Online 利用者達のコミュニティーのリーダー、ソルの片腕とも呼べる人物だ。 言葉には、ごく少量だが苦いものが含まれている。「“九星陣(テンゲン)”が示すのは、あくまでその時々の情勢ですから。囲碁のルール通りには、なかなかいきませんよ。だから、見るべきはあくまで現状。それを鑑みて、作戦は修正していけばいいのです」 ミホシは、静かに答えた。「たしかに、その通りだ……といっても、下辺から浮かされて孤立した黒一団。これは逃げたキメラアントだろう?」「おそらくは。ですので、予定に大幅な変更は必要ありません」「なら、我々が打つべき手は」 ミホシは無言で黒石を打ち、追いたてられる黒石を助けた。「――だな。その黒石になれそうなのは……やはり私か。ミホシ、ここの事はダークに任せておく。あとは頼んだぞ」 そう言って、黒髪の青年は星に彩られた空間から去る。 その背に、ミホシはつぶやくように声をかけた。「あなたも、気をつけてください。キメラアントは、決して仲間ではありません。敵味方、黒白はこちらが勝手に色分けしているだけなのですから」 6月13日、ユウたちはNGLを出る。 次の日の深夜から翌未明にかけて、逃亡したキメラアントの一団と、これを迎え撃つハンターたちとの戦闘が、NGL国境付近で行われた。 結果は散々なものだった。 第三者の介入によって布陣が崩され、泥沼の戦いののち、両者とも生き残りはほとんどないというありさま。さらに戦ったキメラアントたち自体が囮であり、相当数のキメラアントが出国していたことまで判明した。 ユウはこの知らせを同日早朝ドーリ市で受けた。 ともにNGLを出たふたり、虹色髪の少女、ラインヒルデ・ザ・レインボーと、深緑の甲殻を持つ元同胞のキメラアント、ジョーは、正規出国組と合流するため、この時すでにイニング市に向かっている NGLでの戦いで壊した携帯電話ほかもろもろを買いなおすのに時間がかかったため、かえって早く知ることができたのだ。 ――面倒なことになったな。 ハンター協会の不手際にいらだちを感じながら、ユウは頭を悩ませた。 情報によれば、相当数のキメラアントが国外に逃げおおせている。 それぞれ王を目指す彼らが、侵略に適した条件を持つ同胞の街カピトリーノに向かう可能性は、低くない。 ユウはまず買い換えたばかりの携帯でNGL正規出国組の仲間に一報を入れ、イニング市で合流することを決め、それから世話になった神医ヘンジャクとレオリオに別れを告げるため、市内の総合病院を訪ねた。「行く前に耳長の嬢ちゃんを看ていかないか。もうすぐ目を覚ますころあいだ」 寝癖も直さないまま白衣姿でうろついていたヘンジャクにそう言われ、寝顔だけでも見ていくつもりで、ユウは王との戦いで瀕死の傷を負ったエルフの少女、マツリの病室に立ち寄った。 こん睡状態にあった彼女が目を覚ましたのは、ユウが部屋に入った直後だった。「ここ、は?」「NGLの外だ。ロカリオ共和国ドーリ市の総合病院」 かすんだ瞳で戸惑いを見せるマツリに苦笑して、ユウは経過を説明してやった。「……ツンデレさんは助かって、王が死んで、このヤドカリ触手がマトさんで?」 朦朧として思考が追い付いていないのだろう。言葉を繰り返しながら、マツリは首をひねっている。 ユウは苦笑して話を切り、今からカピトリーノに向かうつもりだと告げた。「キメラアントの残党を相手にすることになるが、まあ、王や護衛軍に比べたら楽なもんさ」 ユウの認識は、この時点ではこの程度だった。 だから。マツリが当然のように言った言葉に、ユウは横っ面を張られたような衝撃を受けた。「でも気をつけてね(・・・・・・・・)。ソルたちも(・・・・・)、なにか仕掛けてくるかもしれないから(・・・・・・・・・・・・・・・・・)」 ユウは動かなかった。 しばらくしてからマツリに詳しく問いただし。怒りのあまり蒼白となった顔で病室を出ていこうとする。「ごめん、なさい! 知らなかったこと、知らなかったから――落ち、着いて!」 青ざめ息を切らしながら必死でなだめるマツリの声も耳に入らない。 ひと声、吼えるように怒りを爆発させると火の玉のようになって病室から飛び出していった。「ユウさん、待って!」 マツリの声はすでに届かない。 5分後、病室に来たレオリオが、地面に這いつくばって倒れている彼女の姿を発見する。「電話を……ブラボーさんたちに、連絡、はやく」 安静にしてろと言うレオリオの言葉も聞かず、マツリはうわごとのようにそれだけをつぶやき続けた。 15日午前10時、マツリからの報をキャプテン・ブラボーが受ける。 NGL出国半日、ようやく来た定期バスに乗り込んだ矢先のことだった。「なんということだ」 話を聞いてブラボーは慨嘆した。 ユウからの知らせがあったのは、ほんの一時間ほど前のことだ。 その時の声音からは想像もつかないような、突然の激発だった。 彼の様子を見て、仲間の何人かが不安げに、あるいは心配そうにようすを窺う。 直接的に尋ねたのは、そのうちの一人、ユウの親友であるツンツン頭の金髪少年、シュウだった。「ブラボー、ユウか?」「……そうだ。あの事実を知ったらしい」 シュウの問いに応える声は、重いものだった。 あの事実、とは、マツリについての問題だ。 これまで彼女はたびたび、暴走としか思えない行動を繰り返してきた。 薬を洩ってユウたちを攫うようにしてNGLに連れて行ったことが、その最たるものだが、ほかにもユウを助けるため、仲間を助けるため、何度か無謀な行動に出ている。 キメラアント討伐の最終作戦においても、彼女は暴走を起した。 仲間を助けるためにネテロたちと同行することを申し出、それが断られると無謀な実力行使に及んだのだ。 むろんすぐに取り押さえられたが、この時シュウがマツリの行動に違和感を覚え、彼女を調べた。 結果、驚くべき事実が発覚した。 マツリの暴走は、他者の念能力により仕組まれていたこと。 そして、残留していた念の質が、同胞であり、たがいに協力を約束していたグループのメンバー、レフのものと一致すること。 つまり彼らは何らかの意図を以ってマツリを操り、ブラボーたちをNGLへと誘導していたのだ。 当時キメラアントたちとの対決中であり、ひとまず後回しにされていた問題だったが。「それで、飛び出したか……あのばかちんが」「俺の迂闊だ。ユウが知れば、こうなることは予想できたはずだ」 ブラボーは己を責めた。 ユウは身内に甘い人間である。 それだけでなく、身内に危害を加えるものに対しては、排除する傾向にある。 NGLでのキメラアント始末が終わった直後にでもブラボーが柔らかく伝えておけば、突然こんな行動に出ることもなかったはずなのだ。 ユウの目的は、おそらくはマツリを使って策を巡らせた人間すべての排除だ。 ブラボーはこれに加担できない。 最大の敵は倒したといっても、いまだキメラアント禍は収まっていない。 彼らの真意を質すのは当然のこととして、カピトリーノを守るためには敵を二方面に向かえる愚など避けたいのだ。「オレが行くよ。一人でな」 ブラボーの思考を読んだように、シュウが告げた。「シュウ」「お前らと、ライと、ジョーだったか? あのキメラアント。それから向こうにいるカミトたちを合わせたら、敵を迎え撃つには十分な戦力になるだろ? ユウのほうは、オレが何とかするさ」 シュウはユウの親友で、ブラボーたちと出会うはるか以前から行動を共にしていた仲間だ。この提案は、おそらく正しい。 にもかかわらず、ブラボーはしばらく無言でいた。「なんだ、不服か?」「いや。同士・シュウ、ユウを頼んだ」 応じるようにブラボーは頭を下げた。 声音には、切実なものが混じっている。 かつて、ブラボーは仲間を裏切った。 念能力で操られた結果である。仕方のないことだと、他人は言うかもしれない。 だが、ほかならぬブラボー自身が、自分の裏切りを許していない。許されてはいけないと、誰よりも強く思っている。 だからだろう。 ブラボーのことを決して許さない。そんなユウの態度に、ブラボーは救われていた。「言われるまでもないよ」 シュウの微笑には、複雑なものが混じっていた。 一般的に、ユウは周りから、身内に甘い人間だと認識されている。 正しい判断だ。ユウは身内に甘すぎるほど甘い。そのために、命をかけられる程度には。 だが、ユウも最初からこのような人間だったわけではない。 最初、ユウはただ甘いだけの人間だった。 当然だろう。現代日本に生きていたユウである。いかに殺し屋の記憶経験を得たとしても、それほど急に変われるはずがない。 それが、故郷に帰るための限られた牌(パイ)の奪い合いの中で。 助けて、助けられて、協力して。 騙されて、奪われて、殺し合って、変わっていった。 現在のユウを律するルールはきわめてシンプルだ。 身内は助ける。 それを害する者はどんな手を使っても排除する。 この理の元、敵を排除するために、いまユウは動かんとしていた。「防弾、防刃装備は手に入れた。ナイフも急場で手に入れたもんにしちゃ上等だ。その他もろもろ、オールおっけー」 ザックを背負ってユウが立ち上がる。「さて、殺すか」「こ、の、ばかちんがぁーっ!!」 頭をはたかれ、つんのめったユウは、とっさに振りかえった姿勢のまま固まった。 そこには、すでにイニング市で飛行船を待っているはずの親友が、額に青筋立てて立っていたのだ。「し、シュウ?」「なにがさて殺すかだ! 勝手にテンパるなっての!」「いや、だって」「だってじゃない! つーか先走るな! 連絡くらいしろ! オレがなんで怒ってると思ってやがる!」 その言葉に、ユウは目を見開き、それからふっと表情を緩めた。「すまん。お前にだけは言っとくべきだったな」「そうだよ」 言って二人はたがいに笑った。 ひとしきり笑ってから、ユウは急に真顔になってシュウを見据え、言った。「ぶっ潰してやる。奴らのもくろみ、何もかも。手伝ってくれ、シュウ」「……ま、そんな事だろうと思ったよ」 シュウはため息を落とした。 ユウの一番の理解者である。説得など不可能と知っているのだろう。 だからシュウはむしろ乗ってきた。「具体的にどうすっか――つーか、奴らの狙いすらわかってねー癖に」「決めつけるな――いや、わかってないけど……シュウはわかるの?」「NGL出てからそんなに早く調べられっかよ、と言いたいところだけど、ほら」 言いながら、シュウがとりだしたのは書類の束だった。「奴らに関する資料だ。カミトが調べといてくれたよ。ここに来るまでに目を通しておいたが、まあ八割がた狙いは読めた。奴らはキメラを自国に引き入れるつもりだ。それで――」「いや、いい」 と、ユウはそれ以上の説明を止めた。「なぜ、とか、それでどうするつもりだ、とか、そういうのはいいんだ。要するに――」 ――逃げたキメラアントを全部ぶっ潰せば、奴らの計画はご破算ってことだろう? そう言うユウの目は笑っていない。ぞっとするほど冷たい表情だった。 ロカリオ共和国南部。 NGL国境にほど近い小さな街を、ユウたちはまず訪ねた。 ソルの敷いたキメラアント警戒網の南端、NGLに最も接近している地点だ。 それを素早く調べ上げたシュウは、情報と逃げたキメラアントの位置を吐かせるため、彼らの観測所を急襲した。 しかし。「居ない?」 観測所はもぬけの殻だった。 街の西端にある、粗末なコンクリート二階建て、昼間とはいえ明かりもない。 本棚に山と積まれた雑誌、食洗機に並べられた一人分の食器と、二人分のカップ。見張りに使われたと思しき、西側小部屋の望遠鏡と通信機。さまざまな生活のあとを残しながら、人の姿だけがない。 いや。 入口に面した広間まで戻ってきたユウは鼻をひくつかせる。 かすかながら、真新しい血の匂いが残っている。なにか変事があったのかもしれない。「つってもくわしく調べてる時間が惜しい。敵を見張ってた機材になんか残ってないかだけ見て、無かったらもすこし北の観測所当たろう」「ああ。早いとこ奴らの企みをぶっ潰さないと、気が収まらない」 シュウの言葉に、ユウが拳を手のひらに打ち当てながら同意した、その時。「――それは、俺が困る」 唐突に、声が飛んできた。「誰だ」 ユウは素早く気配をさぐった。 声の主がいたのは戸口。想像よりはるかに近い位置だ。 黒いローブで全身くまなく覆い隠しているため、性別は確認できないが、声は男性のものだ。 ほとんど同時に、目の前に何かが飛んできた。 ユウはそれをとっさに指で挟み取った。それから横目で飛来物を確認する。 ――カードだ。 そう認識した、瞬間。 カードを受け取った二人の姿は、広間から掻き消えるようにして無くなっていた。「――だから、少し飛んでもらおうか」 ほの暗い広間に、男のつぶやきのみが残された。