ロカリオ共和国ドーリ市。 NGL国境にほど近いこの地の中心部に、総合病院がある。 ユウが飛ばされたのはその一角。ネテロと旧知の女医ヘンジャクと、その弟子レオリオが仮寓している診察室だった。「改めて。ヘンジャクだ」「ユウです。よろしく」 なんとか落ち着きを取り戻したユウは、差し出された手を握りかえした。「レオリオだ。よろしくな」「よ、よろしく」 レオリオとも握手を交わす。 締まりのない笑顔である。真面目なときのレオリオが好きなユウにとっては、あまり見たい姿ではない。 彼を意図的に視界から外すと、ユウはヘンジャクに向き直った。 ろくに梳かしてもいないぼさぼさの髪をかきあげて、ヘンジャクは白い歯を見せる。「おまえさんがなぜ、こっちに来たかってのは、まあ、背中のそれを見りゃわかるか。 ちょっと、さきにかたさなきゃならん用があるんでな。すこしだけ、待ってもらおうか」 彼女の視線は続きの間に向けられた。 そこは手術室だった。 中央に据えてある台に乗せられているのは、頭部がつぶれたキメラアント。「さっき眼鏡の――ノヴが持って来たもんだ」 ヘンジャクはそう説明した。 集落に来るまでにネテロたちがキメラアントに遭遇したとは考えにくいので、おそらくはユウの仲間たちが倒した死体を回収したのだろう。 キメラアントはヘンジャクの手によって組み立て前のプラモデルのようにばらばらにされた。 臭気がすさまじい。片隅で見ているユウですら、鼻を押さえている。 助手を務めていたレオリオが、嘔吐感に堪えかねたように体を“く”の字にした。額には玉の汗が浮かんでいる。「吐いてもいい。だが、医者なら手だけは止めるな」 手を休めず、ヘンジャクはレオリオを一瞥した。 医者も人である。臭気に嘔吐を覚えても、それはしかたない。 だが、そのせいでやるべき作業をこなせないのなら、そいつは医者ではない。 厳しい口調で言う彼女の額にも、汗はにじんでいる。 レオリオは蒼い顔で立ちあがった。 ヘンジャクの言っていることなど、彼もとうに承知しているのだろう。 叱責の名を借りた、それはヘンジャクの励ましだった。 作業は一時間とかからなかった。 個体サンプルを取り、採取した毒腺から毒を抜き取る。それを別所に送って、ヘンジャクは作業の終了を告げた。 とたんに外に飛び出したレオリオの背に苦笑を送りながら、インスタントコーヒーを淹れた。 それを一気に干すと、ヘンジャクは口の端を釣り上げた。「さて、そっちの作業に入るか」「いや、休まなくてもいいんですか?」「そんなにヤワじゃないよ。まあ、不肖の弟子はちょっと休ませないといかんがね」 そう言って苦笑を浮かべる彼女を、ユウは可愛いと思った。「さて、ちょっと上着を脱いで見せてくれないか?」 言われて、ユウは上着を脱いだ。 下着はつけていないので胸をさらすことになる。 ヘンジャクはためらうことなく、ほっそりとした指でユウの胸を掴んだ。「ちょ、なにするんですか」「冗談だよ。背中を見せてくれ」「オレも手伝うぜ!」 レオリオがすごい勢いで扉を開けて入ってきた。 膿盆が、その額を直撃する。 レオリオはそのままあおむけに倒れた。 タイミングが悪いのか、それとも狙ってやっているのか。「ふむ、ふむ」 納得するような声を、ユウは背中越しに聞いた。 手術台にうつぶせにされているため、表情は見えない。不安だった。「接合部は、と」 言いながら、ヘンジャクが顔をのぞかせた。 指がユウの肌と、フジツボのような寄生体を隔てようとした、瞬間。 触手が暴れだし、ユウの意思に反してヘンジャクに襲いかかった。 ユウは血の気が引いた。 だが、ヘンジャクはそれをあっさりとさばいた。 それどころかメスとカンシで八本の触手すべてを手術台に縫いとめてしまった。「患部が医者に逆らうな」 ヘンジャクは平然と言った。 ユウの前にレントゲンが差し出された。 光に透かすと、触手が肉を噛んで心臓部と繋がっているさまがわかる。「結論を述べると、だな。このキメラアントはあんたの心臓部に癒着するかたちで寄生している」 コーヒーをすすりながら、ヘンジャクは説明する。「意のままに動くのは、共有している血液、その中に含まれる物質から宿主の感情や状態、意志を解析しているからだな。 寄生体自体には知性というものは、ほとんどないようだな。防衛本能はあるようだがな。ま、あんたにとっては、事実上手が増えただけと考えてもいいだろう」「体に害は」「ない、とは言い切れないな。血中に感情に関係する物質を逆に流し込んで、ある程度気持ちを操作している形跡もある。意志までは動かせないが、あまり気持ちのいいものではあるまい。わたしなら切除もできるが」 ユウはその言葉を受け止め、咀嚼した。 そのうえで、出した答えは。「まだ。まだしばらくは、つけたままでいたいです」 この触手の持つ治癒能力を、現状手放すわけにはいかない。 だから、ユウは多少のリスクは見過ごすことにした。「取りたくなったらいつでも来たまえ」 ヘンジャクは苦笑を浮かべた。 そこへ、唐突に電子音が鳴った。備え付けの電話である。 レオリオが出た。 しばし話を聞いて、レオリオはユウに受話器を寄越した。 不審に思いながら、ユウは受話器に耳を当てる。「……はじめまして、わたしパームと言いますうふふふふふ」 ものすごく切りたくなった。 パーム。 その名をユウは知っている。ノヴの弟子である。 現時点では、と、ユウが記憶を照合すれば、ちょうどモラウの弟子を倒すためにゴンやキルアを鍛えようとしているころである。 用件はまさにそれだった。 ある人物を鍛える。そのために選んだ人間のサポートをしてほしい。 占いにそう出たのだからぜひそうしてほしいいやそうすべき、ということだった。 断る勇気は、ユウにはない。 それに、キメラアント側が強化されているいま、ゴンたちの強化はユウたちにとっても理のあることだと、ユウは考えた。 結局、ユウはパームの依頼を受けることにしたのだが。 用件を聞いてきたレオリオに、うっかりゴンとキルアの名を漏らしてしまった。「頼む! オレも連れて行ってくれ!」 頭を下げるレオリオに、ユウは困惑した。「だけど、君にもやるべきことがあるんじゃないか?」「ばっきゃろー! 友達が問題抱えてるってのに、そんなの構ってられっかよ!」「行っても、なにもできないかもしれないのに?」「――それでもだ!」 迷いない言葉に、横で聞いていたヘンジャクが苦笑した。「ユウ。そいつも連れて行ってやってはくれないか」「いいんですか? ひとりでも手が欲しいんじゃ」「いっぱしの男が、そんな面して啖呵切ったんだ。止められるかよ」 なぜか男っぽい表情を浮かべて、ヘンジャクは笑った。 クゥエン市のバス停で、パームは待ち構えていた。 ざんばら髪の、すさまじい負のオーラをまとった女である。 その姿を見て、レオリオはドン引きしている。ユウも思いきり及び腰で挨拶した。 パームに引きずられるようにして連れて行かれた宿のなかに、見知った顔が並んでいる。 ゴンに、キルア。 加えてもうひとり。ゴシック趣味なドレスをまとった美少女がいた。 ビスケである。とんでもなく若づくりな、ゴンたちの師匠である。 修行中だった。 ゴンとキルアは“練”を維持する訓練をしている。 ビスケはベッドに腰をかけ、女性向きの十八禁指定なグラビア誌を見ながらふたりを監督していた。 三人の目が、いっせいにユウに向けられた。 そのユウの後ろから、レオリオが顔をのぞかせる。「よっ!」「レオリオ!?」 少年ふたりが驚きの声を上げた。「びっくりした! レオリオ、なんでこんなとこに?」「ガッコ行ってないってことは……浪人?」「ばっきゃろー! ちゃんと受かったっての! こっちにゃ師匠に連れてこられたんだよ! ――にしてもひさしぶりだなお前ら。背、伸びたな!」 旧交を温める三人。 修行の手は止めていない。一秒たりとて立ち止まれない理由が、彼らにはある。レオリオもそれを察しているようだった。「貴方が修行をサポートしてくれるハンターね」 ビスケが笑顔で近づいてきた。微妙に猫を被っている。 ユウは微妙な笑顔を返した。この人形のような美少女がゴリラマッチョになってしまうと考えれば、素直な目では見られない。 それにしても本当に幼く見える。 ――ほんとに57歳には見えないな。 ユウがそんなことを考えた瞬間、すさまじい視線で睨まれた。おそろしい勘である。「私はビスケット・クルーガー。よろしくね。さっそくだけど、貴方、なにができるの?」 尋ねてきたビスケに、ユウは背に負う触手が持つ治癒粘液のことを話した。 修行に求められているものはそれだと、ユウは察している。「なるほど、思い切り痛めつけていいってわけね」 なにやら恐ろしいことを口走るビスケ。 耳の端で聞いていたのか、キルアの顔色が変わった。 つぎの日の朝、レオリオはドーリ市へ戻っていった。「あいつら見てるとな、オレもやんなきゃなって思わされるぜ」 そう苦笑していた。 この修行で、レオリオが協力できることはない。 だが、当たっている問題はおなじく、キメラアントについてだ。 なら、レオリオはレオリオなりに、これに当たることこそ、結果的にふたりを助けることになる。 カイトの話を聞いてレオリオが出した、それが彼なりの答えなのだろう。 ――仲間っていいな。 ユウはしみじみと思う。 ふと、シュウのことが気になった。 NGL中央を占める森林地帯。 中央から南部にかけてがキメラアントの主たる勢力範囲である。 ネテロたちは東部から侵入し、“巣”に近づいている。 その背面を守るように、ブラボーたちは敵に備えている。警備の網にかかった数体のキメラアントを、すでに屠っていた。 ユウが外に出たことを知った当初、シュウは飛び出しそうになった。 かろうじて思いとどまったのは、彼女が医者に診てもらっていると知ったからである。ただ、日が経つにつれ、次第に焦れてきている。 ユウがゴンやキルアの修行につきあっていることなど、彼らが知る由もない。 巣では、キメラアントたちが着々と念を習得していた。 原作との差異はひとつ。ポックルがつかまっていない。それゆえ、彼から修行方法を訊きだすことができていない。 それを補ったのは白虎のキメラアント、パイフルだった。 彼は生前の知識として、断片的ではあったが水見式などの念能力系統判定法や修行法を心得ていた。 パイフルは諸事に忙殺されている。 唯一の上司である軍団長ネフェルピトーは職務をほぼ丸投げしにてふらふらしている。 同僚のひとり、深緑のキメラアントは自分の区画に引きこもって出てこなくなった。 キツネの存在も、パイフルの頭痛の種である。 深緑のキメラアントを巻き込んだ一件以来、キツネもまた、自分の子飼いを引き連れ、中枢から離れたエリアに篭っている。 情報が伝わってこないので、詳細はパイフルにとって謎だった。 実はキツネは部下たちに念能力を習得させていた。 キメラアント全体で行っているそれより、はるかにきめ細やかに。 四大行を修業させ、水見式で各個に見合った系統の能力を習得させようとしていた。 キツネもまた、生前の記憶からそれを知っていたのだ。 某日、キツネはおのれの念能力を部下に見せた。 いくら念を修業しようと敵わない。おのれの力を見せつけるためである。 自儘なキメラアントたちをカタに嵌めることが、キツネの急務だった。 キツネの“発”――除念空間が巨大な球状に広がった瞬間、。 パタリコと、だれかが倒れる音がした。「いたたた――はっ!?」 人間の女だった。 キメラアントたちはあっけにとられた。 真っ先に我にかえったのはキツネである。 気配を隠蔽し、姿を隠す類の念能力。こんなところまで斥候が入り込んでいたのだ。「テメエら! 捕まえろ!」 キツネは号令を下した。「うわわわっ!?」 女が算を乱して逃げる。 キメラアントたちがそれを追った。 キツネが自ら向かわなかったのが、この際失策である。 どのような能力を使ったのか、女はまんまと逃げおおせてしまった。 女は銀髪で、メイドとシスターの融合体のような奇天烈な姿をしていた