マツリは息をのんだ。 白き大虎の前に命を投げだし、いままたマツリの命を救ってくれた、ユウ。 この暗殺者少女の背に、異物を見出したからである。 ユウの背には、無数の触手が生えていた。 ユウは、絶句するマツリに気づかない。 視線は一点に向けられていた。吹き飛んだ深緑のキメラアントにではない。彼女が見ていたのは、数十メートル先、シュウとアズマが倒れているあたりだ。 木々に目隠しされて見えない。だが、親しいオーラを感じたのだろう。 ユウのオーラが、静かに広がった。 抱えられたマツリは、一瞬、浮遊感にも似たものを感じ。 気付けば、足元にアズマが倒れていた。 ――"背後の悪魔(ハイドインハイド)”。 マツリは知っていた。敵の死角から死角へと瞬間移動する、ユウの念能力だ。「アズマ……シュウ」 足元と、右手に転がされたふたりの姿。それを見て、少女の表情に厳しいものが加わる。 ユウが、手を一振りした。 従うように、触手がふるわれた。触手はオーラを帯びている。それがねっとりとした透明な液体となって触手をさきまで伝い、シュウとアズマの、それぞれの負傷部位にぬとり(・・・)と落ちた。 服が溶けた。「ユウさん!?」 マツリが悲鳴をあげた。 粘液は服を溶かし、素肌を伝って広がっていく。 ユウはそのさまを静かに見ている。 見る間に、ふたりの上半身は素裸に近い状態になった。 顔を赤らめながら、マツリは見た。 深緑のキメラアントの拳を喰らったアズマの、腹部のうっ血が徐々に引いていく。 傷を癒す念能力。 だと、マツリは気づいた。 とたん、放り出された。 こぼれた粘液に尻を濡らしてしまい、さすがに抗議の声を上げようとして、マツリは止まった。 ユウをはさんだ森の奥に、深緑のキメラアントがいた。 真紅の複眼から発しているのは強い――怒り。「ふたりを頼む」 ユウが背を向けた。 マツリは触手の正体を知った。 甲殻を持つイソギンチャクか、それに類する動物。 それが、ユウの背中に張り付いていた。 その意味を、マツリが理解するより早く、戦闘ははじまった。 ――“錬”。 ユウのオーラが、爆発的に膨れ上がる マツリは眼を見張った。以前のユウとは段違いのオーラ量だ。 敵が身構えた。 それをさせるだけの威圧を、この黒い少女は持っている。 少女の背から広がる触手は縦横に八つ。子供の腕ほどもあるそれは、うなりながらユウの隙を補っている。 敵が先に動いた。 深緑の暴風となったそれは、一直線にユウの急所を貫かんと疾り。 応じるユウの視線は、その神速の拳を、たしかにとらえている。 拳と腕が噛み合った。 唐突に。 キツネは思い出した。自分が何者であるかを。 とたん、匕首のごとき白虎の爪が、ほほを掠った。 激闘のさなかである。些細な心の揺れも、致命傷を生む。 キツネは苦いものをかみしめながら考えた。 いま、この状況で、この白虎などと戦っている暇はない。 ――馬鹿らしい。 キツネは、ついさきほどまで腹の底から望んできたことの虚しさを知った。 この大虎を殺してキメラアントを掌握したところで、その天下は半月と続かない。それを、人であったころの記憶が教えていた。 だが、引くに引けない。 背を向ければ、白虎の爪牙がキツネの命を攫っていくことは明白だった。 神経を削る、しかし無益な戦いのなか、キツネは別のことに気づいた。 さきほどからいくら呼びかけても答えなかった“あいつ”――パイフルを倒すためにわざわざ口説いた“最古の三人”最後の一体が、よそで戦っていることに。 キツネは舌打ちした。“最古の三人”最強の実力を持つ代償とでも言うように、彼の頭の中には、戦うことと食うことしかない。いまも、敵を見つけて考え無しに飛び出した結果に違いなかった。 敵にも味方にもしたくない、それが理由である。 だが、だからこそ。 キツネは彼を捨て石にすることを躊躇わなかった。 奇跡のような攻防を、マツリは見ていた。 暗殺者少女、ユウと、深緑のキメラアントの戦いは、五分で進んでいる。 互角ではない。 ユウの攻撃は、敵にたいした打撃を与えていない。 オーラ量の差と、鎧のごとき甲殻の前では、ユウの攻撃など所詮紙の槍にすぎない。 だが、ユウは紙の槍で、敵の足を止めた。 四本の手足と八本の触手。合わせて十二本による速射砲。圧倒的な連射が、敵を釘づけにしていた。 魂をすり減らすような攻防でも、ユウは敵にダメージを与えられない。 だが、ユウの目は死んでいない。マツリたちを逃がす様子もない。確たる勝利を、彼女の黒い瞳は見据えている。「あ」 マツリは気づいた。 この攻防で、ユウは横にしか動いていない。 念能力を使っていない。"硬”や“凝”。オーラを集中させる行為を行っていない。 それこそがユウの勝負手への布石。 ユウが飛んだ。 いきなりの縦の動きに、敵の複眼も姿を追いきれない。 そのあいだに、触手がユウの体を敵の死角へと運んでいる。 ――"背後の悪魔(ハイドインハイド)”。 死角に跳躍したユウが、指先にオーラを集め。 そこへ、ふたりの暴君が乱入した。 狐の特徴を持つキメラアント、キツネ。 白き大虎のキメラアント、パイフル。ともに“最古の三人”の一角。 ふたつの暴風は、側面からユウたちの戦いを蹴散らした。 入り乱れる四つの影の動きが、ほんの一瞬、止まる。 かけらの躊躇もなく動いたのはキツネだった。「あとは任せたぜ!」 それだけ言い残して、狐のキメラアントは逃げた。 白い大虎――パイフルがこれを追わんとしたとき、深緑のキメラアントがこれを止めた。 この戦闘狂のキメラアントは、キツネの言葉を正確に理解していた。 白き暴虎と深緑の暴風の争いが始まった。「逃げるぞ」 ユウがマツリにささやいた。 深緑のキメラアントの標的は完全に白虎に移っていた。 だが、マツリは。「おねがい。彼を――パイフルを助けて」 腹から血を滲ませて戦う白虎の背に、涙した。 ユウが差し伸べた手が止まる。 彼女はパイフルの名を知っているのだ。 女王を倒すため、NGLに赴き、そして帰ってこなかった仲間として。 だが、他ならぬパイフルこそ、ユウ自身の仇。 ゆえにマツリは窮して泣き。 それがわかるからこそ、ユウも揺れた。 深緑と白の暴風が吹き荒れている。 ユウの目が惑う。 掌風に、拳圧で、木々がきしむ。 ユウが目を見開いた。 触手が飛ぶ。 真紅の複眼は確実にそれを捉え。 一瞬の逡巡が均衡を破った。 パイフルの念を乗せた掌打が、深緑のキメラアントを厳しく打ち震わせた。 糸の切れた操り人形のように、暴獣は力を失い倒れた。 白き大虎の、金色の瞳が、ユウに向いた。「お前は」 声にはあわい驚きが含まれている。 以前は捕食者と被捕食者にすぎなかった。 いまは、複雑な縁が絡みついている。「貴様らの目的はなんだ」「同胞の救出」 答えるユウの声に、迷いはない。 パイフルのしなやかな尾がゆっくりと持ちあがり、落ちた。「ならば、仲間を連れて早く去れ。何人たりとも、女王に手出しさせぬ」 声に揺れはない。 纏うオーラが、静かに覚悟を主張していた。 呑まれそうになりながら、しかし、ユウが浮かべたのは苦笑だった。「あいにくと……こっちが助けたい仲間には、あんたも含まれてるらしくてな」 マツリは震える息を呑みこんだ。 感謝を言葉にすることすら、できなかった。「マツリが助けるべきパイフルは、すでに死んでいる。これが答えだ」 白き大虎が断ずるように言った。 揺るぎなく、そして明白な、訣別の言葉。 それを残して、パイフルは自ら背を見せた。倒れた深緑のキメラアントを抱え、ともに森の奥に消えていく。「パイフル!」 後ろ姿に、マツリは縋るような声をかけた。「マツリ。敵には――ならないでくれ」 白虎の足は止まらない。静かな声だけが返ってきた。 マツリはその背をずっと見つめ続けた。 キメラアントたちの姿が消えた。 しばらくして、森に生気が戻ってくる。「こちらも戻ろう。帰りがてら、そっちがどうなってたのかも聞きたい」 ようやく、ユウが声をかけた。 マツリはなお、パイフルの消えた森を見据えて。「ええ。わたしも知りたい。あなたが、どうなって、いまここに居るのか」 大事なものをしまいそこなったような、そんな表情で、ユウの触手を見た。「ああ。じゃあ、俺から話そう。あれから――」 泥と糞で練り固められた醜怪な城に、静かに飛来したものがあった。 コルト、ラモット。 ともに鳥類の特徴を色濃く受け継いだキメラアントだ。 ラモットは城に入るや否や、血を吐いて呪詛を吐いた。 被捕食者であるはずのちっぽけな人間が、ラモットに七転八倒するような苦しみを与えている。 コルトは見た。小柄なコルトよりさらに小さい人間たちが操った、そしてそれを見守る長身の男が身にまとった、オーラ。 キメラアントのうちでも“最古の三人”にしか備わっていない力を、彼らは自在に操っていた。 驚嘆に値する出来事だ。「コルト、戻ってきたか!」「ペギー、何事だ」 待ちかねたように走ってきたキメラアント軍団の参謀役に、コルトは難しい顔を向けた。 コルトは師団長である。野生より理性が強く、女王への忠誠はなお強い。それを買われて、コルトはペギーからよく相談を受けていた。 暴れるラモットの声に顔をしかめ、二体は場所を移す。 そしてペギーはコルト不在中の出来事を説明した。 キツネ――“最古の三人”の一角であり、軍団を統帥する立場にある彼が、戻ってくるなり自分の師団構成員を集め、ひそかに何かをやらせていること。 しばらく姿を見せなかった、おなじく“最古の三人”である白い大虎のキメラアント、パイフルが、倒れた同僚――深緑のキメラアントを抱えて戻ってきたこと。 そのパイフルが現在、全軍を統率し、食料調達部隊から人数を割いて女王を守る体制を敷いていること。 ペギーの困惑を深く理解し。 でありながらコルトに迷いはない。「なにが起こっているのかわからん。だが、オレが従うとすれば白虎だ。あのかたの、女王への忠誠は確かだ」 数日のち、一体のキメラアントが生まれた。 女王直属護衛軍。キメラアントヒエラルキーにおいて女王直下に立つ統率者として。 この個体は女王によってネフェルピトーと名付けられた。