唐突にあらわれた、ひとりの幼い少女。 彼女の髪は、瞳は虹の色彩を帯びて、月光に怪しく照り映えている。 その魔的な妖しさに、エルフの少女、マツリの身が凍った。 姿かたちは間違いなく人のものでありながら、とても人とは思えなかった。 目が逢う。 動けぬマツリに、幼い少女が向けたのは――やさしい笑顔だった。「すまない。手間取っちまった。ミコさんの止血を」 少女はそう言ってミコの体をそっと横たえた。 マツリは魅入られたように動けずにいる。「それと、これ」 幼い少女はかまわず、逆の手に抱えていたものを放り投げてきた。 キメラアントの死体だった。「ツンデレさんを狙撃したキメラだ。解毒剤、そろえてたろ? 頼む」 ごく自然に、少女は仲間たちの名を呼ぶ。 マツリは知らない。 この一度でも見れば忘れようのない異色の美少女が、マツリたちを知る、その理由を。 彼女が何者なのかを。「あなた、誰?」 だから、エルフの少女の質問は当然で。 しかし、幼い少女にとってはすこぶる不思議なことだったのだろう、きょとんと首をかしげてしまった。 しばらくして、彼女の瞳に理解の色が浮かぶ。「おれはライだ」 それで説明義務を果たしたというように、幼い少女――ライは向こうを向いてしまった。 彼女の視線のさきには、一匹のキメラアントがある。 触れるだけで呪殺されそうな禍々しいオーラをまき散らしながら、うめく、狐の姿を持つ、キメラアントの将。 腕にはめられたリングを押さえる獣の瞳は、怒りに染まっている。「てめえ、何しやがった」「教えてやんねー」 怖気のするような低い声を、虹色の少女は、こともなげに笑い飛ばした。 手には、リングが黄金の光を放っている。キツネの腕にはまっているそれの、倍ほどの大きさだ。「あんたの相手は、おれがしてやるよ」「貴様あっ!!」 オーラが、膨れ上がった。 人の域を超えた、暴力的な量のオーラだ。 ライのそれも、マツリなどからみれば、十分大きい。だが、それでもこのキメラアントとは比較にもならなかった。 咆哮が森を震わせる。 キツネが動いた。 彼我の距離をひと蹴りで無にし、振るう右腕は轟音を従える。 マツリの目では追うだけで精一杯のこの一撃を。 ライは受けた。 驚きの声を上げたのはキツネだった。 一抱えもある巨木すら抵抗なく打ち割るであろう攻撃を、ライは真正面から止めたのだ。 その理由を、マツリは理解した。 キツネの右腕には、オーラが篭っていなかったのだ。 いや、それは正確ではない。 右腕から立ち昇るオーラのすべてが、呑みこまれているのだ。ライがキツネに嵌めた、黄金の色彩を放つリングに。 ライの念能力は具現化系に属する。 具現化物は“リング”。嵌めた周囲のオーラを吸い取り、衝撃に変えて送り返す性質が付与されている。“錬”で拮抗させねば、リングからの不可避の衝撃を食らうことのなる。装着した者のオーラが強ければ強いほど、衝撃は強くなるのだ。 キツネが、悲鳴を上げた。 左の腕に、リングが嵌っていた。 わけもわからず、痛みにのたうつしかないキメラアントの将。 その様子を、ライは虹色の瞳に映している。「知ってるか?」 ライの小さな口が、笑みの形に広げられる。「念能力者同士の戦いで、もっとも重要なもの、それは――相性だ。 いくら馬鹿デカいオーラでも、垂れ流すしか能のないお前とおれの相性は……最悪だよ」 両手を封じられていながら、敵はなお、彼女のはるか高みにある。 それでも、ライはこのキメラアントを見下した。 己が上であると、貴様が下であると、言葉をぶつけた。 それも戦いのうち。肉体でなく心を攻める手段だと、キツネは気づいていない。 嫌と言うほど人間を捕えていても、それは戦いではない。 キメラアントに、決定的に足りない、戦いのキャリア。はじめて人間の“敵”に遭ったキツネは、その自覚すらなく、心を侵略されていた。 虹色の少女は、またひとつ、リングを具現化する。 月の光を鈍く受け止めるそれを、彼女はまっすぐキツネに向けた。 リングの外周に触れるライの指先に、オーラが集中する。“硬” 高圧のオーラが、衝撃と化して奔る。 うめき声をあげ、のけぞるキツネの首に。 直後飛来したリングが、嵌った。 キツネが、ひときわ大きな悲鳴を上げた。 ライが走った。 キツネの頭部はいま、オーラで守られていない。 いくら頑強なキメラアントといえど、オーラを込めた打撃には対抗できない。「畜生」 だが、ライの必殺の打撃よりも。「ちぃっくしょおおおおっ!!」 怒りの爆発のほうが速かった。 オーラが、爆発した。 そう思えるほど高速で広がったオーラがライの体をすり抜けたとき。 彼女が纏う、すべてのオーラが消えた。 それだけではない。 キツネの四肢に嵌められたリングも、きれいに消え失せている。 ――除念、しかも一瞬!? 見ていたマツリも、その危険性を理解した。 最悪の念能力だ。 相性も何も関係ない。純粋な地力がものをいう念能力。そして地力でキメラアントに敵うものなど、いるはずがない。 キツネも、それを理解したはずである。 だが、この凶暴なキメラアントがつぎにとった選択は――逃走だった。 ライがキツネの心に与えた手傷が、攻めるべき局面でためらいを生じさせたのだ。 とはいえ、キツネは初期の目的を果たしている。完全な敗走とは言えない。 その目的とは、“最古の三人”の一体にして彼が敵と見定める白虎のキメラアント、パイフルに対抗する力を得ることである。「ライさん」 キツネに続き、ほかのキメラアントたちが引いていく気配を感じながら、マツリは幼い虹色の少女に声をかけた。 ツンデレは、解毒剤が効いているのだろう。すでに呼吸は正常に戻っている。ミコの傷も、とりあえずは止血できていた。「ライさんって、あのライさん?」 疑問は当然だった。 さきほど名乗ったとき、ライは明らかにその含みを持たせていた。 カピトリーノの丘に現れた、ブラボーの紹介で来たという、オールバックの巨漢と、虹の髪と瞳を持つ、幼い美少女。 マツリにはそのふたつが、どうしてもイコールで結べない。「ああ」 と、ライが言った。 つぎの瞬間、ライの体が、彼女の念で具現化されたリングに覆われる。 見る間にそれが顔の、鋼のごとき肉体の形になっていく。 あらわれたのは、オールバックの巨漢の姿だった。「こんな感じだったろ?」 変装を解いて、ライが笑ってみせる。「“鉄の処女(アイゼルネ・ユングフラウ)”。リングが放つ衝撃を、常に“錬”で跳ね返し続ける。これは本来修行用の念能力なんだ。 この姿じゃまともに人前に出られないし、やっぱり敵がキメラだったからね。ぎりぎりまでオーラを高めたかったんだ」 平然と彼女は言ったが、それがどれほどすさまじいことかはマツリにも理解できた。「声は?」 ふと、気になってマツリが尋ねると、ライは携帯だ、と答えた。 最近の機種では、打ち込めば機械音声で再生する機能がついているものがあるのだ。 しゃべる時、いつもカタカタ鳴っていたのはそのためだった。 得心して、マツリはふっと表情を緩めた。「ライさん……ありがとう」 あらためて頭を下げると、ライの表情も緩む。「つぎからは相談するんだね。おれは賛成してたぜ」 極上の微笑だった。「にしても、すげーな。応急としては、手当て完璧っぽい」 ライが感心したように言った。 ミコの傷跡を見てのことだ。 彼女と、キメラアントの毒を受けたツンデレは、家の中に運び込んでベットに寝かせてある。 呼吸は確かだ。処置が速く、出血が少なかったおかげだろう、命に別条はなかった。「セツナくんたちが、よく怪我してたから。でも急場はしのげても、ちゃんとしたとこで手当はしないと、傷跡も残っちゃうだろうし」「回復系の念能力者がいればよかったんだけどな。おれも具現化系だから出来ないし」「系統的にはツンデレさんが近いんだろうけど、こんな状態だしね」「ごめんね……なんとかできたらいいんだけど」 ツンデレが億劫な様子で言った。解毒剤は効いているが、まだ動けるほどには回復していない。 思案していると、不意にマツリは不意に肩を叩かれた。 振り向くと、金色の髪の毛がそこにあった。 ロリ姫だ。彼女がツンデレの髪を操ったのだ。「縫うだけならば、妾も出来る。やってみよう」 言うや、髪がばらけ散り、ミコを覆った。 髪が肉に刺さり、抵抗なく抜けて傷跡を縫っていく。 一瞬にして。 傷口は完璧に縫合され、ほとんど線でしか確認できなくなった。 縫合に使うには髪の毛は多少太いが、応急としては上出来だった。 こつこつと、ドアをたたく音がしたのは、それからしばらく後のことだった。 人の気配はない。だが、音は鳴り続ける。 不審に思ったライが扉に隙間を作り、様子をうかがおうとした、瞬間。 そこから、小さいものが飛び込んできた。「これ、ひょっとして、ツンデレさんのボタン?」 ツンデレの上に落ちた小さなボタンを拾い上げて、マツリが首をかしげた。 そのとき、半分開いた扉が、こつこつと鳴った。 視線が扉に集まる。 扉が大きく開く。 アズマ、ブラボー、シュウの三人が、そこにいた。 彼ら三人を、マツリたちのもとに導いたのは、アズマの念能力だった。“送り屋(センドバッカー)”。持ち主のもとへ物を送る能力だ。 これのおかげで、一行はほとんど最短時間で合流を果たすことができたのだ。 その中に、海馬瀬戸はいなかった。 彼はNGLに入国していない。決闘盤とカードを手放すことができなかったのだ。それはけっして念能力に必要だからという理由だけではなかった。 それでなくても、海馬は休みなしに青眼の白竜を飛ばし、消耗しきっている。 体を休めるためにも、彼は国境にとどまっていた。 結果、森の中の小さな集落に集まった同胞は、七人だった。 乾いた音が屋根に響いた。 ブラボーが、マツリのほほを張ったのだ。 マツリがみなを助けにいくと言った、その結果である。 マツリの軽挙の結果、いまの惨状がある。 それは変えようのない、取り戻しようのない、事実だった。 マツリ自身、それは悲しいほどに自覚している。だからこそ、オーラもろくに回復していない病み上がりのような身で、それを言ったのだ。 惨状を起こしたことにではなく――そのことが、ブラボーを怒らせている。「楽をしようとするな。償う道は、もっと厳しいものだ」 ブラボーがマツリに言い聞かせる。 言葉の矛先は、半ば自身に向けられていた。「もし」 ブラボーに諭され、うつむくエルフの少女に、シュウが言った。「もし、ユウが死んでたら、オレはお前を許さない」 シュウの目は据わっている。 もし、ここで、マツリが自己弁護などしていれば、シュウはためらうことなく彼女を殴り殺していただろう。 だがマツリは、はっきりとうなずいた。「ええ。絶対に許さないで」 表情は真剣そのものだ。 その気迫に、むしろシュウが目を見張った。 マツリの脳裏には、気を失う前に、たしかに聞いたパイフルの言葉がある。「とどめを刺す前に、あの少女は奪われた」 死んでいない。どこかで生きている。マツリはその言葉を信じている。