ハンドルネーム“ユウ”が、その書き込みに気づいたのは、ひと月後のことだった。 Greed Island Online の公式ホームページ。βテスト開始以降は、管理人サイドもほとんど書き込んだ形跡のない、半ば放置されたような掲示板に書き込まれたごく短い一文は、多くの者にとっては意味のわからないものであり。 ユウにとって、いや、Greed Island Online を介してあちらの世界に飛ばされたものにとっては、これ以上ないくらい意味の通る言葉だった。“わたしはゲームマスター。わたしはあなたを排除した。わたしは誰?” その一文とともに貼られたURLには、ZIP形式の圧縮ファイルが置いてあった。 ユウはディスプレイの前で、しばらく固まったままだった。 むこうの世界での出来事を、忘れていたわけではない。 ともに命をかけて戦った同志たち。そして志半ばで倒れた仲間たちのことは、現実に戻って平凡な日常を送っているユウが、忘れてはならないものだった。 だが、時間とともに実感は薄れていく。頭では覚えていても、肌が感覚を忘れていく。 それが、この書き込みを見て、一度に蘇ったのだ。 しばらくして。ユウはようやく動き出した。 マウスに置いた手のひらにじっとりと汗をにじませながら、ダウンロードパスに“レイザー”と入力し、ファイルをダウンロードする。 圧縮ファイルを解凍すると、中に入っていたのはテキストファイルだった。 偽装されたウィルスファイルでないことを確認してから、ユウはテキストファイルを開いた。 そこに、ユウは懐かしい名を見つけた。「カミト……」 声が、震えた。 それはむこうの世界で仲間だった少年の名だった。 さらに文面を読み進めていき、最後まで読み終えたユウは、言葉を失った。 彼女があちらの世界に残っていたこと。 ユウにとって仇と言っていい彼と行動を共にしていること。 あちらでは一年以上の時間が流れていること。 そして、カミトたちが置かれている状況の一切と、助けを求めるメッセージ。 ユウは迷った。 書かれている内容を信じるなら、カミトはまさに死地に飛び込もうとしている。そんなカミトを、ユウは見捨てることなどできない。 だが。 ユウがいまこの現実で平穏に暮していられるのは、死んだ仲間たちあってのことだ。 ヒョウにD、エース。彼らは消えゆく命を振り絞って、ユウたちに希望を託して死んでいった。 ユウがあちらの世界に戻ることは、彼らの努力をも無にすることではないか。 その思いが、ユウを躊躇わせていた。 椅子の背もたれに体重を預けて、長い間、ユウは天井を見ていた。「……あいつらなら、どう言うかな」 つぶやいて。頭に浮かべたのは、ともに戦った仲間たちの姿。 レット氏。三下属性を持つヘタレヒーローな彼なら「とんでもないっス! とんでもないっス! 無理、無理っスから!」などと高速で首を横に振るだろう。 ミコなら。子供っぽい正義感を持つ、あのかわいいお嬢様なら「迷うまでもありませんわ! カミトさんたちがピンチなら、助けに行かなくては!」と、突貫しているだろう。 シュウなら? あの王道好きのひねくれ者なら、どうするだろう。「ほっとけ。他人助けるのにクソでかいリスク背負う必要ねぇよ」 とでも言うだろうか。 それとも。「お前が行きたいなら、行けよ。仕方ねえからついて行ってやるよ」 と、口をへの字に曲げながら言ってくれるだろうか。 そこまで考えて、ユウは苦笑した。 自分があちらに行くことを主張する前提で考えていることに気づいたのだ。 そう、結局のところ。 ユウは助けに行きたいのだ。カミトを、一緒に苦難に立ち向かったかつての仲間を。「――情けないぞ、俺。だったらみんなを言い訳に使ってんじゃねぇよ」 ユウは腹を決めた。 ふたたび渦中に飛び込むことに、もはや迷いはなかった 。 数分のち。 ユウの部屋を訪れた少女は、起動したまま放置されたパソコンの画面を見て、低くつぶやいた。「馬鹿兄ぃ……あのお人好し」 一瞬の浮遊感ののち。気がつけばユウはシソの木の前にいた。 姿が一変している。 肩口で切りそろえた黒髪に、切れ長の瞳。すらりと伸びた手足を、ゆったりとした黒い上下が覆っている。 ユウにとっては見慣れた、だが、懐かしい姿だった。「また来たか」 不意に声をかけられ、ユウは気づいた。 シソの木の根元に、腰をおろしている男がいたのだ。 巨漢だ。体格に見合った鋼のごとき筋肉と、そこに張り付いたような、ピッチリとした服。 レイザー。グリードアイランドのゲームマスターが、そこにいた。「レイザー」「お前で四人目だ」 レイザーは口を開いた。笑い顔ながら、不機嫌がにじみ出ている。「事情はカミトから聞いている。 だが、オレの仕事はあくまでグリードアイランドの管理だ。こう何度も行き来されてはな。こちらとしても対応を考えざるを得ん」“排除(エリミネイト)”のカードを取り出しながら、笑い顔のまま。 レイザーはぞっとするような表情を浮かべた。「つぎは、まともに通してもらえると思うなよ……それじゃあな」 凍りついたユウに、“排除(エリミネイト)”が発動される。 そのまま、ユウの体は光に包まれ、消えた。「つぎに会う時が楽しみだな」 彼方に向けられたレイザーの言葉は、どこか楽しげな響きがあった。 気がつくと、ユウは森の中に立っていた。“排除(エリミネイト)”の効果で、アイジエン大陸のどこかに飛ばされたのだ。「なんだか、すっごい地雷ふんじゃった気がするけど……ええい、あとだあと」 レイザーの表情を記憶から振り払って、ユウは気を取り直した。 彼との対峙はもっと後の話なのだ。「にしても、慣れないな。方向感覚が目茶苦茶だ」 不満を漏らしながら、ユウは懐に手をやり、携帯電話を探る。 その手が、はたと止まった。 体に壮絶な違和感を感じたのだ。 ユウは首をかしげた。“ユウ”の――女の体なのだから、違和感があって当然なのかもしれない。だが、以前はそのあたりの違和感を、まるで感じていなかったのだ。 そこで、ふと気づく。「ユウも男になってたからか」 ユウと“ユウ”の人格が、混じったまま現実に戻っていたのだ。 両者が男の感覚に慣れた状態で女の体に入れば、違和感があってもおかしくはない。「ま、そのうち慣れるか」 ユウはあっさり割りきった。そのあたり頓着しないのは、彼女らしい。 再び懐を探って携帯を取り出すと、ユウはGPS機能で場所を確認した。 アイジエン大陸中央部、カキン国の奥地。 耳覚えのある国名だったが、ユウはそれだけ確認すると、カミトの番号をコールした。「――もしもし?」 数コールの後。聞こえてきたのは、カミトの懐かしい声だった。「もしもし? 俺だよ」「……ユウちゃんね? オレオレ詐欺じゃないんだから名前くらい言いなさい」 苦笑交じりの声が聞こえてくる。 ユウは泣き笑いの表情になった。「カミト、久し振り」「ひさしぶりね、ユウちゃん。ありがとう。来てくれたのね」「あたりまえだろ?」 ユウは、笑って言った。 カミトが、あらためて謝した。その声に、ほんのすこし涙がまじっていた。「――とにかく、まずは合流しましょう。ユウちゃん、いまどのあたり?」「アイジエン大陸のど真ん中だ。カキン国のあたり。カミトは?」「わたしはいまアイジエン大陸でも東岸のほうにいるんだけど……ちょっと動けないんだけど、来れる?」「正確な場所をメールしといて。それで確認して行くから」「わかったわ。すぐに送るわ」 落ち合う場所をきめて、それから、すこしだけ話して。ユウはカミトとの通話を切った。 別れ際の言葉が、否応なしにユウの気を引き締めた。「気をつけてね、ユウちゃん。今度の相手は――キメラアントなんだから」