襲い来るキメラアントの指揮者、師団長カマーロを倒したツンデレたちは、森をなでつけるように南へと移動した。 目標があるわけではない。風下を選びながら進んだ結果である。 体に付着した体液の臭いが、キメラアントを呼び寄せることを嫌ったのだ。 薄暗い木々を縫いながら、一時間ほどは歩いただろうか。 ツンデレは集落を発見した。 人はいない。 深夜だから、ではない。木造家屋のあちこちに、ハンマーで打ち壊したような破砕痕がある。そのうえ、かすかに血臭が匂っている。 キメラアントに襲われたあとだった。 付近にキメラアントの気配はない。生き残りを探し、家捜ししていると、ちょうどサイズの合う服を見つけた。 手織りのものだろう。服には、所有者の名が縫いとってある。 おそらくその名の主が袖を通すことは、二度とないだろう。心中手を合わせながら、ツンデレは服を借りることにした。 返り血を浴びた服はかまどの灰をたっぷりまぶして埋めた。ほうっておくと、敵を呼び寄せかねない。 冷たいベッドに昏睡するエルフの少女、マツリを寝かせ、見張りをロリ姫にまかせて。自信も眠りについたのは、五月六日の夕方であり。 その夜更け、凶暴な獣が、この地を襲来した。“最古の三人”と呼ばれる、狐の姿を持つキメラアントだった。 キツネは狐の姿を持つ“最古の三人”の一体だ。 彼と、白虎のキメラアント、パイフル、そしてもう一体は、女王がこの地に来て最初に生まれたキメラアントだ。“最古の三人”と呼ばれる、それが所以である。 おそらく、直前に摂食した人間たちの特徴を映してのことだろう、“最初の三人”には、ほかのキメラアントにはない、特殊な力が生まれつき備わっていた。 念、と、人が呼ぶ能力だ。 その能力と高い知能ゆえ、キツネとパイフルは、師団長の上、軍団全体を指揮する立場に置かれた。 もし、女王のもと、三体がそれぞれ配下を統率していれば、たがいに牽制が効いて、うまく釣り合いがとれたかもしれない。 だがもう一体は、その癖の強さゆえ、縦割りからは外れてしまった。 それゆえだろう。キツネはただひとりのライバルに、強い対抗意識をいだいていた。 だが、女王大事のパイフルは、それ以外の瑣末事にはこだわらない。 それが余計にキツネに憎悪を抱かせる原因となった。 投げ与えられた座をを喜んで受け入れられるほど、キツネの腹は練れていない。 人としての性質を受け継ぎ、複雑な思索もできる彼だが、なんといっても生まれて一か月少々でしかないのだ。感情をのみこむすべを、彼は持っていなかった。 だから、キツネはパイフルを憎んだ。 陰で、この寡黙な白虎を追い落とす機会を、ずっと窺っていたのだ。 パイフル負傷の報告を部下から受けたとき、キツネは好機と見た。 それは、白虎が人と接触し、友好的なそぶりさえ見せたとき、確信に変わった。 だが、目論見は、もろくも崩れ去った。 どんな詐術を使ったのか、パイフルは強くなっていた。満身創痍のはずが、対峙しただけで死を確信させられるほどに。 屈辱だった。 つい先日まで肩を並べていたのだから、なおさらだ。 苦渋の選択として、第三者の――それも自分と同格である、“最古の三人”最後の一人の手を借りることすら、考えた。 ――だが、まて。 キツネは、しかし、思いとどまった。 彼とキツネが手を組めば、たしかにパイフルを倒すための最強戦力がそろう。 しかしそれでも、パイフルが見せたあのオーラの前には、成すすべもないのではないか。 たとえ手を借りても、結局はパイフルの前に這いずることになるのではないか。そんな予感がある。 キツネは苦悩した。 パイフルが己より上である。その事実を受け入れられないことが、苦悩を深めていく。 ――あいつが強くなったのは、人を食ったからじゃないか? カマーロに兵を貸したあと、天啓のように閃いたのは、常にその苦悩がキツネを支配していたからだろう。 無論ただの人ではない。カマーロの部隊を蹴散らすような、特異な人間。もっと言えば、オーラを操る人間だ。 ――パイフルにあれほどの手傷を与えたのも、おそらくその手の人間だ。 キツネはそう確信している。 カマーロ死亡を耳にして、キツネは確信を深めた。 あらたに手駒を呼び寄せ、一帯を捜索するうち、キツネは目標を発見した。 時間がかかったのは仕方がなかった。一度襲った村である。そこに残ったキメラアントの臭気にごまかされていたのだ。 だが、キツネの目には、はっきりと見える。 民家の一つから、静かな、それでいて力強いオーラがあった。 ツンデレは飛び起きた。 明かりとりから入る、おぼろな月の光。音の波ひとつ立たぬ静寂。 安らぎに包まれた環境で、生存本能だけが、あらん限りの声を振り絞って悲鳴を上げている。 ツンデレだけではない。隣で寝ていたお嬢様、ミコも目を覚ましていた。「ツンデレさん」「ツンデレはやめてね」 小声で忠告しながら、ツンデレは立ちあがり、睡眠に鈍った体から堕気を追い払う。「どうやら、化け物に見つかっちゃったらしいわね」 ほほを伝う冷や汗を感じながら、ツンデレは口元を引き絞った。 感じる気配は猛烈。 さきに出会った白虎のキメラアントは、まだそれを鞘に納めていた。いま感じているそれは、まるで抜き身の妖刀だ。「強い、な。呑まれるで無いぞ」 ツインテールをニ、三度跳ね上げながら、ロリ姫が言った。 ツンデレはうなずいて、外への扉を開いた。 ミコがそれに続く。脇にエルフの少女、マツリを抱えている。 彼女を置いてはいけなかった。木造の民家など、壁の役にも立たない。 静寂が耳を打った。 ツンデレは静かに、気配を探る。それを待たず、闇の中から敵が姿を現した。 キメラアントだ。数は十に満たない。 だが、その中央に立つ、キツネの姿を持つキメラアント。そこから発せられる獰猛なオーラに、ツンデレは腰が砕けそうになった。 ――キメラたちが念を覚えれば、兵隊長クラスでもヤバイ。 キメラアントたちと戦う中で、ツンデレはそう実感している。 いま彼女の前にいるキツネ型のキメラは、確実に師団長かそれ以上。 だからといって、逃げることはできない。 正面以外の三方にも、敵が配備されている。 ツンデレは、敏感にその気配を感じ取っていた。 念を知らないとはいえ、迎撃するにも手間取った相手である。待ち構えている敵の中に突っ込めば、どんな罠があるかわからない。「う……ここは」 そんなとき、思わぬ声が上がった。 マツリの声だ。 回復のための深い眠りから、強制的に目を覚まさせたのは、やはりキツネのオーラだろう。 しきりに目をこすりながら、キツネと目が合った瞬間、マツリの瞳に光が戻った。「まだ、地獄、なわけですね」 全快にはほど遠い顔色で、それでもエルフの少女は不敵に笑ってみせた。「ほう? 貴様はあいつと一緒にいた……てめえは別に役に立ってもらうぜ」 言ったキツネの瞳が、ツンデレに向いた。「てめえらは俺の餌だ」 声が、圧するように発せられた。 鋭く釣り上った目は、紅の三日月のよう。 金色の瞳に見射られ、ツンデレは心臓を鷲づかみにされたような錯覚を覚えた。 さきの、白虎のキメラアントは、ツンデレたちに敵意を抱いていなかった。 だが、この獣は別。確実におのれの命を奪う。 死。 が、目の前にある。 それをまっすぐに見据えながら、ツンデレは前に出た。 この絶対的な強者に対抗しうるのは、自分しかない。ツンデレには、それがわかっている。 ――アズマがいないところで、死んでたまるもんですか。 硬く硬く手を握りこんで、ツンデレはゆっくりと歩を進める。 その足が、急に止まった。 横から延びてきた竹簡が、ツンデレの行く手をさえぎったのだ。 マツリの念能力、“千人列伝(サウザンドライブス)”が具現化する、無現再生能力を持つ竹簡、“太史”だった。「マツリさん」「わたしの命には、別件で用があるみたい。わたしが足止めする。だから逃げて」 その声は、平素より一段低い。 目と腹の据えようが尋常ではなかった。 つづいて横合いから、ミコも歩み出てくる。「わたくしも、戦います。もう、自分が知らないところで仲間が死ぬなんて、いやだから」 声がふるえていた。 ツンデレは知らない。 ともに戦った仲間の、実に半数近くを、ミコが失っていることを。その中には妹のように感じていた少女がいたことを。 その死すら看取れなかった後悔が、ミコの背を押していることを。 だが、不思議と気持ちは通じた。 ツンデレも、長い旅の中で仲間を失っているのだ。「勘違いしないで」 ツンデレは言った。「あいつと正面から戦れるとしたら、わたしだけ。だから、わたしが戦る。ほかのはふたりに任せたから」 あえて笑って見せて、ツンデレはキツネに向かった。 迎えるキツネが、ほくそ笑みながら腕を振り上げる。 力、スピード、オーラ量、どれをとっても、ツンデレはキツネに、圧倒的に及ばない。 だが、念能力者同士の戦闘では、“その外”があるのだ。 暴風のごときキツネの左腕は、しかし、ツンデレの細腕の前でぴたりと静止した。「なにぃ!?」 キツネに浮かぶ驚愕の色。 ツンデレは余裕をもって笑う。 そのツインテールが、脇に控える甲虫型のキメラアントを粉砕した。 と見るや、鎧のごとき甲殻が瞬時に変形する。 土よりもはるかに、鋭く、固いドリルがツインテールの先端に屹立した。「喰らえぃっ!」 ロリ姫が、必殺の気勢を上げる。 だが。 ドリルがキツネを貫くことはなかった。 二本のドリルは、ツインテールの先を掴まれてむなしく唸りを上げている。「なるほどなぁ、こんな芸もあるのか」 キツネの口元が釣りあがる。 ツンデレはぞっとして身を引く。 が、ツインテールを押さえられ、動けない。「おらっ!」 体ごと引っこ抜かれ、ツンデレは宙に舞った。 そのまま振り回され、天地を失った状態で、地面に叩きつけられる。 かろうじて受身が間に合い、衝撃を腕に流して集めたオーラで相殺する。 殺しきれず、体に流れた衝撃が、内臓を揺らす。 わずかに息を吐いてそれを堪え、ツンデレは即座に立ちあがった。 一部始終を観察する、キツネの冷たい眼をツンデレはたしかに感じていた。「面白れえ。おい、お前ら、退がれ」 キツネが左右のキメラアントに命じた。 ツンデレたちの手により、すでに三体、数を減らされている。「手を出すなよ? 差しでやってやるぜ」 言って、キツネが手を離す。 ツンデレは跳び退り、構えなおした。「ツンデレさん」「向こうがそう言ってくれるなら、好都合じゃないの」 駆け寄るミコに、ツンデレは、そう言って口の端を釣り上げた。 一対一でも、圧倒的な不利は変わらない。 だが、それでも。 敵に総出で掛かられるよりは、ほんのわずか、勝ちの目が出る。 なにより、敵をひとりに限定し、それに集中できれば、キツネほどの攻撃速度でも相殺しきる自信が、ツンデレにはあった。「――さあ、戦りましょう」 ツンデレは静かに、キツネとの間合いを詰めた。 神経は最大限まで研ぎ澄まされている。 それは、すべて、キツネに集中していた。 だから。 横合いから飛来した一本の毒針を、避けることなどできなかった。「あ」 脇腹近くに毒針を食らって、ツンデレはくたりと崩れ落ちる。「な!? 一対一じゃありませんでしたの!?」「ああ、言ったぜ? 嘘だがな」 怒声を上げるミコに、キツネが当然といったように答えた。「こんな手に引っ掛かるなんざ、てめえら馬鹿じゃねえのか?」 ミコの顔が怒りに紅潮するさまを。 マツリが歯を食いしばるさまを。 ツンデレはぼやけた思考の中で眺めていた。 失敗は致命的だった。 ミコやマツリの念能力では、キツネに対抗するすべはない。完全に積んでいた。 ミコがキツネの爪を避けきれず、肩口から脇腹まで切り裂かれる光景を目の当たりにしながら、ツンデレは涙を流した。体をめぐる毒に、歯ぎしりもできない。 ――ごめん、アズマ、もう会えない。 ぐったりとなったミコの体を、キツネが持ち上げる。 鋭くとがった歯が、ミコのやわらかい体につき立てられる、まさに寸前。 キツネが悲鳴を上げた。 その手には、いつの間にか黄金の輪がはめられている。 「なっ? なんだこりゃぁっ!?」 悲鳴を上げるキツネの手から、ミコが落ちた。 それを拾ったのは、マツリではない。むろん、動けぬツンデレでもない。 虹色の、幼い少女だった。