マツリたちは啼いた。 満腔からの悲しみの発露だった。 それが敵を呼び寄せるかもしれないと分かっていても、彼女たちは泣かずにはいられなかった。 そして、必然の結果として、当然の如く、敵は現れた。 キメラアントの一隊だった。 それぞれが別種と思えるほど特異な特徴を持っている。得手とするところも、個体によって違う。 それが、十体。 マツリたちにとって、それは脅威と呼ぶに足る。 数を利して押し包まれては、すべての攻撃を避けることなど不可能だ。 キメラアントは毒を持っている。 一撃でも喰らえば、そこで終わるのである。 だが。 そんな苛烈な窮地をこそ、マツリは望んでいた。 ユウを死なせてしまった自責が、のうのうと生きるおのれを許さなかった。「レットさん、いきます」 静かに、マツリは“千人列伝(サウザントライブズ)”を具現化した。 左手に流し開くは“太史”。高速復元能力を持つ、念で編まれた竹簡。 それが大蛇のように伸び、敵に襲いかかった。 獲物はクワガタムシを巨大化させたような姿をしていた。 頭部から延びる長大な鋏は、しかし竹簡を切断できなかった。 復元速度が速すぎて、刃が通る端から再生していくのだ。 なすすべもなく拘束されたクワガタムシは、釣り上げられ、宙を飛ぶ。 外骨格の接合部に、マツリの右腕が撃ち込まれた。 右手に在るは“董狐”。折れず、曲がらず、敵を穿つ、最も堅き筆。 それはキメラアントの神経束を容赦なくえぐり抜く。 筆に塗り込めた、毒は、はや、敵の動きを奪い。 つぎの瞬間、クワガタムシの頭部は彼方へもぎ飛ばされた。 信じられるものを見たかのように、キメラたちの動きがほんの一瞬、止まった。 それが、彼らにとって致命的だった。 瞳に闘志を燃やすレットが、委細かまわず突っ込んでいったのだ。 彼の狙いはただ一点、部隊長のみ。 軌道上にいたキメラアントの一体、その頭部を一撃で粉砕し、おのれのアドバンテージ――オーラを収束させた蹴りで、カンガルーにも似た部隊長の胸から上を爆裂させた。 あとは、虐殺だった。 あまりの事態に生まれて初めて恐怖を覚えたキメラアントたちはもろくも崩れ、各個撃破されていった。 一分後には、あたりに動くものはいなくなっていた。 マツリもレットも、全身に返り血を浴びた、凄惨な有様だった。 キメラアントの頭部を徹底的に粉砕した結果である。 この苛烈な行為の根底には、自衛よりもまず、怒りがあった。 ユウを殺した白虎のキメラへの怒り。ユウを死なせてしまった無力な、あるいは愚かな自分への怒り。 それらがすべて、キメラアントへの殺意となって発露されたのだ。「ユウさん」 血まみれで、天を仰いだレットが、呆けたようにつぶやいた。 殺戮を終えたいま、彼の瞳にあるのは深い悲しみだった。 マツリはそれを見て、視線を落とす。 レットとユウは、旧来の仲間だ。 それを失った悲しみは、マツリのそれよりも数段深いに違いなかった。 ――たとえば、自分にとってのジョーたちのように。 そう思うと、マツリは胸が締め付けられた。 いつも憎まれ口を叩いていた、それでいて町の開発にひたむきだったジョー。 若年者ばかりがあつまる仲間たちの中で、ただひとりの老年、それゆえ交渉事で重きを成していたマト。 口が重く、修道的だが、どこか横領が悪く、フラットタイガー相手にいつも苦戦していたパイフル。 ともに笑い、ともに汗を流した、かけがえのない仲間だ。 そんな人間が、死んだ。 死体もない。白虎が女王の餌とすべく持ち帰ったに違いなかった。 マツリの心に、重いものが圧し掛かっている。 マツリにとって初めての経験である。 彼女はこれまでずっと、責任を負う立場になかった。 グループの中でも、町の開発でも、「黒幕」や「助言者」の位置に好んで立ち、乞われても主導的な位置に立つことはなかった。 おのれの分際をわきまえていたとも言えるが、結局、責任から賢く逃れていたにすぎない。 だが、今回のことに関しては、責任を他のだれに帰すこともできない。 まぎれもない、マツリ自身の責任なのだ。 幸いにして、と言うべきかどうか。マツリにおのれを責める時間はなかった。 まき散らされた味方の血臭に誘われたのか、ふたたびキメラアントの群れが現れたのだ。 数は、さきほどの部隊の数倍。師団クラスの規模だ。 師団長の姿はなかった。 カンガルーの部隊との戦闘を見て、警戒しているのかもしれない。 遠くから観ているのか、それとも近くに身を隠しているのか。いずれにせよマツリたちの手の届かないところから指揮しているに違いなかった。 高度に統率のとれたキメラアントの群れに、マツリたちは容赦なく押し包まれた。 乱戦になった。 高速再生する竹簡、“太史”の防御がなければ、あるいはユウが調達した防刃ジャケットがなければ、マツリは数度も死んでいただろう。 数の波に押し流され、いつしかレットとも離ればなれになっていた。 日が傾き、森は静寂に包まれた。 気がつけば、マツリは独りだった。 敵は去ったのか、それとも息をひそめて狙っているのか、それとも、レットが師団長を倒したのかもしれない。 マツリは考えたが、それは間違いだった。 乱戦の末、マツリが最後に倒した、栗鼠のキメラアント。それこそが、師団長だった。 気づかなかったのは、師団長さえ苦も無く倒せるほどに、マツリがレベルアップしていたためである。 短期間の、しかし熾烈な戦いは、実戦経験に乏しいマツリの実力を、そこまで引き上げていたのだ。 激しい頭痛が、マツリを襲っている。 オーラと肉体を、限界まで酷使した結果だった。 疲労の極限まで達しながら、マツリは睡魔に身をゆだねることができなかった。 意識が途切れる時が、死ぬ時になりかねないのだ。 マツリは背が隠れるほどの大樹に身を預け、息を吐いた。 おのれの足音すら消えた静寂の中に、マツリはふと、水音を聞いた気がした。 耳を澄ますと、まちがいない。水の流れる音が、右手のほうから聞こえてきた。 ――返り血を、洗い流そう。 のどの渇きを癒すことより、マツリはまず、それを考えた。 血の匂いは、否応なく敵を呼び寄せるのだ。 身を引きずるようにして水源に向かったマツリは、しかし途中で足を止めた。 暗い森の木々を縫うようにして、点々と落ちた血痕を見つけたのだ。 深手を負った何者かが、歩いたあとだった。 ――レットさん? マツリはまず、それを考えたが、確証が持てない。 だが、彼だという可能性に思い至ったとたん、抗いがたい感情がマツリを支配した。 ――レットさんを、助けなきゃ。 マツリは疲労を押して、血痕をたどった。 日が沈むころ、マツリはそこにたどり着いた。 泉だった。 小さな沢から流れ込んだ水が、森の中に小さな泉を造っていた。 そこで、マツリは見た。 泉のほとりに座り込む、巨大な影。 それは白虎の形をしていた。 かっとなったマツリは、飛び出したくなる衝動を、かろうじて制した。 白虎の様子が、おかしい。 オーラが、感じられない。 腹から血がにじみだしている。 ――傷を癒している。 マツリは、涙が出るのをこらえた。 ユウが残した傷に違いなかった。 深手だ。 だからこそ、白虎は“絶”を使って回復に努めているのだろう。 マツリの心に、怒りが沸き起こった。 ユウを殺した白虎への怒り――というよりも、そうさせた自分への怒りが、白虎を見て蘇ったのかもしれない。 その区別は、マツリにはつかない。 ――殺る。 マツリは即断した。 幸い、返り血の匂いは白虎の血臭に紛れているらしい。向こうが気づく様子はない。 マツリは静かに、腰に仕込んだ薬の筒から、致死性の毒の入ったものを確認した。“絶”で気配を殺しながら、マツリは木陰を縫って獲物に近づいていく。 十メートルほどの距離に近づいたとき、不意に白虎が声を出した。「出て来い」 抑揚の利いた、静かな声だった。 マツリは失敗を悟った。 それでいて、彼女の中に逃げるという選択はなかった。 気づかれていようが関係ない。毒を仕込んだ筆が傷跡にかすりさえすれば、白虎を殺すことがでいるのだ。 そしてそれは、命を度外視さえすれば簡単な作業だった。 マツリは、静かに、木の蔭から出た。 覚悟は、疲労しきったマツリの体を、小動もさせなかった。 だが、白虎は言った。「マ、ツ、リ?」 声には、驚きの色が含まれていた。 マツリは茫然と立ち尽くした。 それが言える者を、彼女はひとりしか知らなかった。「パイフル……なの?」 落としそうになった筆をかろうじて支えながら、マツリは尋ねた。「パイ、フ、ル……白(パイ)虎児(フル)……そうだ。私の名は、パイフル」 自分に言い聞かすように、白虎のキメラアント――パイフルはつぶやいた。 深手なのだろう。呼吸は浅く、短い。 マツリは唇を引き結んだ。 パイフルは、マツリの仲間だった。 中華剣士の装いの、銀髪の美丈夫である。 ともに汗を流してカピトリーノを開拓した仲間であり、趣味が似ていたことから、なんとなく好感を抱いてもいた。 だが、マツリにとってパイフルは、けっして許してはいけない存在となっていた。「マツリ?」 素早く毒を浸した筆を構えたエルフの少女に、白虎は眼を見開いた。「なぜ、ユウさんを殺したの?」 マツリの青い瞳は、冷たく、澄んでいる。「ユウとは、あの少女か――マツリ」 パイフルの声は、唐突に止まった。 猫科特有の、縦に割れた瞳孔が大きく開く。 視線のさきは、木々に隠された闇の深奥。そこから、不意に声が聞こえてきた。「おやおや。軍団一女王様に忠実なアンタが、ニンゲンなんかと仲良くお話とはなぁ」 語尾を高く跳ね上げる、その声色に、マツリは本能的に不吉を感じた。 ややあって、音もなく姿を現したのは、狐の姿を残したキメラアントだった。 背は金色、腹側は純白の体毛。耳は尾の如く長く後ろに伸び、太い尾が、乱暴に地をなでている。「嘆かわしいぜぇ、おなじ“最古の三人”としてぇ」 狂相からは、悪意がありありとみて取れる。 オーラもそれに相応しく、禍々しいまでに強い。「戦う気か」 パイフルが静かに問いかけた。 けだるげなその声は、負傷の重さゆえか。 対するキツネ型の声は、どこか楽しげだ。「いいや、違うね。これは処刑だぜ。ニンゲンなんかと仲良くしてる裏切り者に対するよぅ」「よく言う。さきほどから隠れて、様子を窺っていただろう。最初から私を狙っていたのだろう?」「ああ。オレは端っからてめぇが気に入らなかったんだよ!」 敵意は明らかだった。 パイフルが、立ち上がって前に出た。 マツリをかばう、その位置取りから、彼の意図は明らかだった。 無茶だ、と、マツリは思った。 手傷を負っているパイフルは、ややもすればマツリでも殺せるかと思えるほどに消耗している。 おそらくはパイフルと伍する実力を持つであろうキツネに敵うわけがなかった。「パイフル!」 マツリは、さきほどまでの敵意を忘れて、叫んだ。 だが、白虎が見せたのは笑顔。白く巨大な牙がむき出しになった。「悪いな。いまの私は、お前よりはるかに強い」 パイフルのオーラが、爆発的に膨れ上がった。 マツリはたたらを踏んだ。 強烈な圧力が、そうさせたのだ。 パイフルの“錬”は、相対するキツネを押しつぶさんばかりに広がる。「な、なんなんだよ、それはぁ」 じりじりと、狐が後じさりした。 獣毛の上から、汗がにじんでいる。 つい先日まで互角だったであろう相手の力が、いきなり数段も上になっていたのだ。それもいたしかたない。「くっ」 痛恨の表情を残して、狐は闇の中へ消えていった。 それをしばらく見送ってから、白虎のキメラは地に沈み込んだ。 体に負担をかけたせいだろう。腹から新たに血がにじみ出ている。 マツリは筆を握った。 感情は千々に乱れ、自分がどうすればいいのか、わからなくなっていた。「マツリ、さきほどの質問に答えよう」 静かに、だが決然と、パイフルが口を開いた。「私はあの少女――ユウを」 マツリの筆が、地に落ちた。 息を切らしながら、キツネ型のキメラアントは逃げていた。 キツネの内面では、屈辱と怒りが渦巻いている。 ――あいつ、ぶっ殺す。 明確な意思を以って、キツネは決心していた。 だが、それは、キツネ独力ではもはや不可能になっている。 どんな魔術を使ってか、あの白虎のオーラ――キツネたち“最古の三人”しか持ち得ない力は格段に大きくなっていた。 ――手が要る。オレの師団だけじゃ足りねぇ。 だから。「奴の手を借りるしかねぇな。いけ好かねぇが」 キツネは舌打ちしながら、目的の場所へと走った。 同日、夕刻。 ツンデレ一行がNGLにたどり着く。予定よりもはるかに速い、到着だった。