二メートル半ばの巨躯である。 獣毛は白銀。走る縞は鉄の様。腕回りはユウの胴より太い。 ずんぐりとしたと手のひらの先からは、鋭くとがった爪が伸びている。 大蛇のごとき尾。虎にはありえない節足。 他を圧せずにはおれない、圧倒的な存在感を持つキメラアントだった。 視線ひとつ。ただそれだけで、ユウたちは凍りついた。体中をめぐる恐怖が固化したようだった。 なにより衝撃を受けたのは、大虎の白い巨体が纏う、桁はずれのオーラ。 ユウはおのれの誤算を悟った。 この時期、念能力を持つキメラアントが存在するとは、思いもよらなかった。 甘い観測だったと言わざるを得ない。 原作にない、ユウたち異邦人の干渉。それが最悪の形で出ていたのだ。「お前は」 粘りつく喉を押し広げ、ユウは声を発した。 名を聞いたのは一縷の望み。この大虎が元同胞であり、記憶を保有しているわずかな可能性をたしかめるため。「名などない」 白虎が応える。獣性で包まれた、人の色が見えぬ声だ。「女王の手足にして下僕。それだけの存在だ」 ユウはおのれの、最後の希望が破れたことを知った。 同胞ではない。たとえそうであったとしても、記憶などかけらもない。だが、オーラだけは、たしかに保有している。 この状況から犠牲なしには逃げられない。 ユウは冷静に計算し、背後に声をかけた。「レット氏、マツリ。俺がどうにかして敵を引きつける。逃げてくれ」 この状況で、敵を足止めしておけるのは自分だけだと、ユウは知っている。 実力の差ではない。この大虎の前には、ユウもレットも変わらない。相性の差だ。 それでも、ふたりが逃げ切れるだけの時間を稼ぐには、命を的にしなければ不可能である。「ユウさん」「たのむ。急いでくれ。俺ひとりなら、どうとでも逃げられる」 体を震わせながらも心配するレットに、ユウは嘘をついた。このキメラアントが相手では、ユウが逃げに専念しても、逃げ切れる可能性は、おそらく五分以下だ。 だが、それを言って彼らを躊躇わせていては、犬死になりかねない。「うまく逃げろよ」 背中にそう投げかけ、ユウは前に出た。「わかったっス。合流点で待ってるっス」 レットが、恐怖で竦んでいるマツリを抱え、走る、その足音を背中越しに聞いて、ユウは笑った。「いくぞ、虎公」 ユウの声に、大虎の咆哮が応えた。 たがいの戦気にあおられ、オーラが立ち上る。 敵に比べて、ユウのオーラは、悲しいまでに小さい。 だが、ユウは生を諦めていなかった。 白き暴虎が腕を振るう。 そのさまは、まさに暴風。 ユウがフェイントを、オーラを駆使しても、回避は紙一重。防刃繊維で編まれたはずのジャケットが、そのたび切り裂かれる。 鋭利極まりない痕跡だ。 ユウはタイミングを計っていた。 ユウの念能力、“背後の悪魔(ハイドインハイド)”は、死角から死角への瞬間移動。初見ではまず知覚し得ない。 たった一度のチャンスである。 一度知られれば、敵はまず、二度目を許さないだろう。 敵の攻撃を避けながら、ユウは巧みに木陰に回った。 大虎の腕で、楯とした大木がなぎ倒されるさまを見ながら、念能力を発動する。 ユウは敵の後方やや上に出た。降り立っては、敵の首には届かない。 ナイフに“硬”。ユウの保有する、最強の攻撃。 それが。 兵隊長クラスのキメラアントの、首すら断ち切る鋭利な刃が、大虎の首筋にあたって、異様な手ごたえとともに――滑った。 ユウは、即座におのれの失敗を悟った。 体毛はもともと体を保護するためにあるものだ。目の詰まった体毛の上から刃を入れるのは、通常でもかなり難しい。 ましてやキメラアントの念能力者なのだ。細心の注意をしてしかるべきだった。 さきほどの、熊型のキメラアント。その首を断ったイメージが残っていたが故の、失敗だった。 間をとって、ユウは刃先を見た。 やすりで削ったように、刃がつぶれている。使い物にならなくなっていた。 獣が怒りに吠えた。 なにがしかのダメージがあったのだろう。だが、その代償は重すぎる。 ユウのオーラを纏うほどに馴染んだナイフ、その最後の一本を、失ってしまったのだ。 それはすなわち、眼前の敵に対する有効な攻撃手段を喪失したことに他ならない。 攻防は数秒。 仲間を逃がすには、あまりに短い。 大虎が突進してくる。 巨躯を裏切る速さ。 振るう巨腕に大気が震える。 すんでのところで、ユウはのけぞった。 対刃のジャケットが切れていた。中から、血がにじみ出てきた。 ――この獣相手に、あと数分。 笑いがこみ上げてきた。 絶望が裏返ったのだ。 ――下手に、生き延びることに色気を出さずにすむ。 ユウは生き延びることをあきらめた。 いや、おのれの命を消費して仲間を逃がす。その覚悟が、腹の底から定まったのだ。「おおおおっ!!」 ユウは吠えた。獣のように。その気迫が、大虎を撃った。 単純にして暴力的なキメラアントの攻撃を、最短の軌跡で避ける。一歩間違えば致命傷。安全マージンのない、自殺的な特攻。 背中から血を吹き出しながら懐に入り込んだユウは、渾身のオーラを拳に込めて撃ち出した。 大虎の巨体が飛んだ。 音もなく着地して、大虎がうなった。 瞳が、爛々と輝いている。 それほど効いていない。だが、ユウに対して執着させるには、十分な打撃だった。 ユウは、虎の脳内から逃げたレットたちのことが、きれいに消えていることを見てとり、にやりと笑った。「来いよ虎公」 ユウは手招きした。 大虎が吠えた。 そこからの攻防は、凄惨で一方的だった。 避けながら、逸らしながら、あるいはフェイントで幻惑させて、反射を利用した不可避の殺し手を使って、ユウが文字通り身を削って与える打撃は、敵を引きつける用しか為さない。 大虎の攻撃は空を切りながらも、確実にユウの体を削っていく。 一分も経たずして、ユウは血だるまになっていた。 直撃は受けていない。また受けていれば即座に終わっていただろう。 それでも命に届く傷を与えられ続ける理不尽。 ユウは従容としてそれを受け入れていた。 ――仲間を、助ける。そのために一秒でも長く、このクソ虎を引き付ける。 ユウの頭には、そのことしかない。 損得は、すでに捨てていた。 ユウをそんな心理状態にさせたのは、彼女の過去の体験からだろう。 ユウは覚えている。 命を賭してユウたちを助けた、仲間たちのことを。 希望をユウたちに託した、仲間たちのことを。 だからこそ、命を粗末にできない――ではない。 彼らに救われた命だからこそ、仲間を見捨てない。 それがユウだった。 ユウは気づいていない。 その覚悟が、彼女のオーラを高めていることに。 それは、命の危機に瀕した人間の防衛本能が起こす、オーラの過剰放出現象――いわゆる“火事場のクソ力”とあいまって、ユウのオーラを際限なく増加させていた。 だが、それでも危機は変わらない。 ユウに引きずられるように、大虎の業も、見る間に磨かれていく。 それは戦闘経験の浅いもの特有の異常進化。「オオオオオォーッ!!」 歓喜の声をあげて、大虎が咆えた。「おおおおおぉーっ!!」 命を絞りながら、ユウが吼えた。 なおも攻防は続いた。 吹きあがるオーラは、もはや等しく、だが、攻防も等しい。 大虎の爪は、ユウの肉を次第に深くえぐりだし、ユウの手刀は大虎の獣毛を血で滲ませ始めていた。 しかし、終わりは唐突に訪れた。 命を抵当に絞り出していた、ユウのオーラが尽きたのだ。 倒れて動けなくなったユウに、大虎が歩み寄る。「賞賛する。お前は女王の餌にふさわしい」 人の声で、大虎はつぶやき。爪を振り下ろした。 重い音。地面が揺れた。「ここまでくれば、とりあえず安心っス」 森の端まで駆けて、レットは言った。 マツリはまだ震えている。 あの強大なキメラアントの存在は、マツリの楽観を、心ごと折ってしまったようだった。 そんなマツリに、レットは笑って言った。「じゃあ、エルフさんは合流点に向かってくださいっス」「あなたは」 マツリが、口の端におびえをにじませながら問いかける。「あなたは行かないの?」「オレは戻るっス」 レットは答えた。言葉の端が震えていた。「なぜ」 と、マツリが問うた。 ユウは、命がけで、ふたりが逃げる時間を稼いでくれた。 いまさら戻るなど、ユウの好意を無にしかねない愚行だ。 それは、レットも重々承知なのだろう。それでも、震えながら、レットは逃げてきた森をふり返る。「……ちっさいころから、オレ、ヒーローに憧れてたんスよ」 背中越しに、レットは語り始めた。「お約束みたいだけど、将来の夢にナントカレンジャーとか書いてて。 でも、現実のオレは根性無しで、他人が喧嘩してるとこに出くわしたら、怖くて眼を逸らしながら通り過ぎるようなヘタレなんス」 でも、とレットは言う。「レットは違う。レットは、オレがヒーローだったらって妄想の、具現化なんス。理想のオレなんスよ。 ここでユウさんを見捨てるレットなんか、ヒーローじゃない。オレは、自分の理想まで偽物にしたくないんスよ」 声を震わせながら、レットは言った。 理ではない。すでに感情であり、信念だった。 そんな彼の様子に、マツリの顔色が蒼白になった。「……わたしだって。ここに来たのは仲間を助けるため。仲間を見捨てるためじゃ、ない」 震える足を踏み出して、マツリがレットと肩を並べる。「エルフさん」「仲間を助けなきゃ。助けなきゃ。助けなきゃ……」 なにかに憑かれたように、マツリは鬼気迫る表情でつぶやく。 カピトリーノを出る時もこんな感じだったことを思い出しながら、レットはマツリを止めることをあきらめた。 彼女を止める言葉を、レットは持っていなかったし、なにより。 守るものがある時のほうが、レットは強くなれるのである。「ユウさん――無事でいてくださいよ!」 レットは駆けだした。マツリも、憑かれたように疾走した。 だが、ふたりの切なる願いはかなわない。 戻ってきたふたりは見た。 数十メートルにわたって飛び散った血痕。なぎ倒された樹木の群れ。 中心付近の地面は陥没していた。小規模なクレーターにさえ見える。その中央に、血だまりがある。 水をよく含む土壌にあってなお、それは残っていた。 マツリは“千人列伝(サウザントライブズ)”を具現化し、ユウの記録を見た。 経歴の最後にこう書いてあった。“白虎型のキメラアントと戦闘。敗北。心肺停止” 最後まで読むことなく、マツリは“千人列伝(サウザントライブズ)”を地面に叩きつけた。 ふたりは声をあげて泣いた。 その声が、敵を呼び寄せるかもしれない。それがわかっていても、感情をあらわにせずにはいられなかった。