『有り得ないなんて事は有り得ない』
昔、何処かでそんな言葉を見た気がする。
世界は私なんかが考えているより、もっとずっと大きくて広い、…少なくとも私はそう思っていた。
だから私は原作のキャラクターと関わる事になる日が来るなんて、考えてもいなかった。
◇ ◇ ◇
先生が連れてきた二人の《客》――白髪の老人と私と同年代の少年――、少年の方はともかく老人はどこかで会った事のあるような印象を受ける。
私がその感覚に答えを出せないまま彼らを見ていると、先生が話し出した。
「紹介するわね。こちらがゼノさんで隣の子は孫のミルキくんよ。
ゾルディックって知ってる? かなりの有名所なんだけど。仲良くしてあげてね?」
先生の無邪気な声が私の焦燥感を煽った。
……有名所っていうか、悪名ですよね、ソレ。
「……御主相変わらずじゃのうお主は。まぁ一晩世話になるが、あまり気を使わんでくれ。ほれ、お前も挨拶せんか」
「え、あ、よろしくお願いします」
ミルキと呼ばれた少年はゼノの言葉で慌てたように言った。なぜか太ってはいない。
おかしい、確かミルキは子供のころから肥満という設定だった筈。
……えっと、自意識過剰かもしれないがなんだかさっきからずっと彼に視られてる気がする。
べ、別におかしな格好なんかしてないよね? 何処にでもあるパーカーとジーンズだし。
都会っ子の様なオシャレを私に期待しないでほしい。ああいうのはなんというか柄じゃない。なにより似合わないし。
「ほら、貴方達も挨拶なさい」
そう先生が私の隣にいるシンクとアリアに話しかける。
先生、二人の様子も気にしないでそんな事を言ってのける貴方の精神の太さが羨ましいです。
明らかに警戒しきってるじゃないですか。
――普通、真新しい血の匂いをさせてる人達とは関わりたくないだろうしなぁ。気持ちはよく分かる。
勿論、今って仕事帰りですか?なんて聞けなかった。私だって空気くらい読む。
「……初めまして、私はエリスと言います。そっちのがシンクとアリアです」
このままでは埒があかないと思ったので、私が二人の事を紹介した。名前だけだけど。
人間不信のシンクと、対人恐怖症のアリアに社交性を期待してもらっては困る。まぁ逆に私に求められたとしても困るけど。
シンク、その嫌そうな顔を何とかしろ。
アリア、頼むから泣かないでくれ。
先生、実は楽しんでるだろう。
ゼノさん、興味津々な眼で見ないでください。
ミルキ(仮)さん、なんでこっちをガン見なんでしょうか。
言いたいことは山ほどあったが、この場でそれを言えるほどの度胸は私にはなかった。小心者なんです。
◇ ◇ ◇
その後一緒に食事という事になったが、楽しそうに談笑しているのは年配の二人だけで私達少年組は始終居心地の悪さを味わった。
もともと私達はあまり食事中に会話をする方ではなかったし、先生達も一向にこちらに話を振ってくる事もなかったので、話すきっかけすら掴めない。
いや、別に話したかったとかそんなんじゃないけれど。知らない人と意思疎通抜きで同じ空間に居るのはそれなりに辛いものがある。私、コミュ障だし。
食事が終わるとアリアは逃げ出すようにしてリビングを後にした。
そんな彼女を見てシンクは溜息を吐きながら彼女を追いかけていった。彼も中々面倒見がいい奴である。
まぁアリアの方が年上なんだけどね。
シンクが追っていったので、アリアの事は心配いらないだろう。シンクの愚痴もあとで聞いておこう。
でも食事が終わるまで他の人と一緒に居ることが出来たなんて、アリアしては我慢した方だと思う。後でケーキを持って行ってあげよう。
本当は私だって部屋に戻りたかったが、今日の食事当番は私なので片付けを終えるまでここに残らなくてはいけない。
居間で楽しそうに話している先生達に聞こえないように、小さく溜め息を吐いた。
◇ ◇ ◇
食器を洗い終わって部屋に戻ろうとしたら、ほろ酔い加減の先生に呼び止められた。
「あら、エリス。戻るなら空き部屋に彼を案内してあげて」
先生の言葉に目を向けると、そこには何となく疲れた様子のミルキがいた。
まぁ彼にとっても話し相手が居ないこの空間は苦痛だったろう。気持ちはよくわかる。
私は肯定の意で頷いて、彼に目配せした。
……えっと確か奥の二部屋が空いていたはず。
私と彼は始終無言のまま、薄暗がりの廊下を歩いていった。
さっきからこちらをチラチラ伺ってくるのが気になって仕方がない、何なんだ一体。
いくら相手が『ミルキ』であろうと、彼は腐ってもゾルディックの一員だ。友達が欲しいってわけでもないだろう。
でも、なんだか原作とは様子が違うようだし、警戒するに越したことはない。はず。
真横を歩いている彼を警戒しつつ、目的の部屋の前まで歩いていった。
確か前回掃除したのが三日前だったから埃などはまだ平気だろう。
「ここの部屋、好きに使っていいから。ゆっくりして」
「あ、うん」
彼は何だか私に言いたい事が有りそうな顔をしていたが、私は言いたいことだけ言うと部屋の前を後にしようとした。
シンク達にも釘を刺されたばかりだし、わざわざ聞いてあげるほど私は優しい人間ではない。
「――《伊織》さん」
だが、背を向けた私に投げ掛けられた言葉は、足を止めるのには充分な威力があった。
頭が真っ白になる。思考が上手く働かない。
何故、
――――何故彼が『伊織』を知っている?
咄嗟に振り向いてしまった私は、きっと驚愕の表情をしていただろう。
「何?」
声が震えなかったのは奇跡だと思う。それほどまでに今起こった事が理解できずにいた。
彼の目的が分からないかぎり、滅多な事は口に出来ない。
だから《今何か言った?》《伊織である事の肯定》という両方の意味にとれる返答をした。それが今の私に唯一出来た善後策だ。
些か緊張した面持ちでこちらを見ていた彼は、安心したように微笑んだ。
「やっぱり、伊織さんなんだ」
……きっと私はその時、《そんな奴は知らない》と言い張るべきだったのだと思う。
これから先も『エリス』として生きていくとあの日病院で決意したのだから。
だけど彼の心底嬉しそうな声を聞いてしまい、なんだか否定してはいけないような気分になった。
「あっ、そうだよな。伊織さんは俺が何言ってんのか分かんないよね。ごめん、つい嬉しくて」
はにかんだように笑いながら彼は言った、……少なくとも彼の表情には敵意は見られない。
意味が分からない、何考えている?
確かにエリスの容姿は比較的伊織に似ている。だが同一人物と断定するには程遠いはずだ。
そもそも彼は本当にミルキなのか?
―――まさか私と同じ? それ以外に伊織(私)の事を知っている事に説明がつかない。
「……君は、――――誰?」
素直に答えるとは思っていないが、一応聞いておく事が得策だろう。
こちらの警戒心バリバリの様子すら気にしてない風に、彼は口を開いた。
「俺は、水守上総(みなもり かずさ)。……貴方はたぶん覚えてないだろうけどね。一応伊織さんとは知り合いだったよ」
水守上総? …私の記憶が正しければ、確か高校3年生の時のクラスメイトだ。
友人というほどでもなかったが、時折話すくらいの関係だったと思う。共通点といえば、お互いにクラスで少し浮いていた事くらいだ。
それよりも、彼の話が事実だとするならば、彼は私と同じ転生者なのだろうか。
――では、何故私が『伊織』だと解ったんだ?
「覚えてるよ。高校のクラスメイトでしょう?」
「……そっか、覚えててくれたんだ」
そう言って俯いてしまった彼の表情は伺えないが、やはり敵意は感じられない。
「なんで私が伊織だと思ったの?」
「見れば分かるよ。昔と全然変わってないし、顔の造作程度の差異なんか問題にならないよ」
「…そういうもの?」
「うん。ひと目で分かったよ。――少なくとも俺には」
……そんなに分かり易いのかなぁ、私って。
昔と全然変わらないくらいに目つきが悪いって事なの?ねぇそうなの?
……精神は肉体に引きずられるって言うけれどその逆もあるのかもしれない。今の私がいい例なんだろうなぁ。
彼の言葉に若干へこみつつも、質問を続けた。
「水守はなんでこの世界に『いる』のかわかる?」
「……分からない。僕自身の自我が現れたのは『ミルキ』が5歳の時に、キキョウさんが訓練の手加減を間違えた事が原因だ。その時に入れ替わった事しか分からない」
概ね私の時のパターンと一緒か。だけど水守の方が大変な目に遭っているみたいだが、そこは触れないようにしよう。きっとそれは地雷だ。
どうにかして暗い方向から話を逸らそうとして考えた結果、強制的に他の話題を話す事に決めた。別に他の話題を考えつかなかったわけじゃない。本当です。
「そう。……じゃあ水守の事はなんて呼べばいい?」
いつまでもお前とか代名詞で呼ぶわけにはいかない、それに彼は『どっち』として生きているつもりなのだろうか?
その答え次第で、彼の呼び名が決まる。
「……今の俺は、『ミルキ』だから。できたらそう呼んでほしいな」
「わかった。私の事も『伊織』じゃなく『エリス』と呼んでほしい。それが、ここでの名前だから」
ちょっとカッコつけていってみたが、正直伊織と呼ばれて気恥ずかしいというのが主な理由だった。
昔の友人達にも滅多に下の名前でなんて呼ばれなかったし。名前で呼ぶのなんて、それこそ先輩くらいだった。
あだ名? 何のことかな?
「わかった。その、――エリス」
どことなく赤い顔をしながら、彼が言った。
うーん、この様子を見ていると原作の『ブタくん』が嘘みたいだ。
彼もあんなのが将来の姿だなんて嫌だったのだろうな……。是非今のままの痩せ型体系をキープしてほしいところだ。
「あの、ハンターハンターって漫画知ってる?」
水守、いや、ミルキが唐突にそう切り出した。
「……知ってるよ。それがこの世界の事だってことも」
嫌というほど知っている。
念まで覚えさせられたんだ、今更ハンターワールドじゃ無いなんて思えるわけもない。
「それなら話が早いな。えっと、俺の家の事とか色々知ってるだろ? それでなんだけど……」
「…………………」
え、これってまさかの死亡フラグ……!?
《内情を知っている奴は口封じ》とかそんな感じ?
内心焦りつつも、彼の言葉が終わるのを待つ私は、大概お人好しだと思う。
――自分と同じ境遇の人に会えるなんて思っていなかった。しかもそれが前世の知り合いと来てる。ただの感傷かもしれないけど、それでも無条件に信頼してみたっていいじゃないか。
まぁ、勿論もしもの時は脱兎で逃げるけど。
じりっ、と逃走の準備をしながらも、彼の言葉に耳をかたむける。
だが私の予想に反してミルキの口から出たのは意外すぎる内容だった。
「――俺と、友達になってください」
……………………………………………え?
えっと、言いたかった事ってそんな事なの?
なんだ、これじゃあ私がバカみたいじゃないか。殺されるだなんて深読みしすぎだ。
なんだか肩透かしを食らった私は、「此方こそ宜しく」と快く返事を返した。
もともと『友人未満』のような関係だった訳だし、同じ体験をしている彼は私にとっても心強い存在だ。
時折あの過去の記憶は、幼い自分の作り出した妄想なんじゃないかと思う時があった。でも、そうじゃなかった。
ちゃんと伊織は存在したし、記憶だって間違っていなかった。それを肯定できただけで、彼との出会いは私にとっても重要なものとなった。
私の返答に安心したのかミルキが安堵の溜め息を吐いた。
「良かった……、断られるかと思った。……俺の家、特殊だし」
「……私は、君と友達になれてうれしいよ?」
確かに私は『人殺し』は好きではない。
だがこの世界は以前の平和ボケした世界ではなく、何時だって死が隣り合わせの危険な世界だ。
たとえ私が望まなくとも、いつか誰かを殺さなくてはならない様な場面に遭遇するだろう。
殺す事が最善の選択だというのならば、私はきっと人としての禁忌を簡単に踏み越えられる。
――私は理由があれば人を殺せる人間だ。
そんな私が彼の事を責めたり嫌悪したりするだなんてあるはずがない。
奇麗事だけで人は生きてはいけないのだから。
ゾルディックという家に生まれてしまった彼ならばなおの事だろう。
「――うん。ありがとう」
ニッコリと擬音が付きそうなほどの笑顔で礼を言われたが、何となくばつの悪い気分になった。
私はお礼を言われるほどいい言葉を言った訳ではない、寧ろ自己弁護に近かったと思う。
それなのにこうも純粋に喜ばれると心が痛む、私の心が汚れているだけなのかもしれない。
その後もチクチクと胸を苛む良心と折り合いをつけながら、昔話に花を咲かせた。
私は基本的に聞き役だったけれど。
◇ ◇ ◇
ゾルディック家の二人は、朝早くに家を後にした。
折角だから朝ごはんくらい食べていけば良かったのにと思ったが、今朝の朝食当番はシンクだったので、たぶん彼らの分は作らないだろうと思い直した。
帰り際にゼノさんに意味深な目線を向けられたが気が付かないふりをした。
なんだか嫌な予感がしたからだ。こういう嫌な勘はよく当たるから嫌なんだ……。今回ばかりは外れてほしいな。
ていうか超怖いよあの爺さん。きっと私程度の能力者なんか片手で一捻りだよ。絶対関わりたくない。
因みにその後ミルキとはホームコードとメルアドを交換した。
こういうのって友達っぽくていいよね。何ていうかこういうやり取りはかなり懐かしい感じがする。
正直、この時の私は《この世界》での初めての友達に浮かれていたんだと思う。
彼は転生者とはいえ原作のキャラクターだ、その彼と関わりがあるという事はいくら否定しようとも《流れ》に引き込まれる事になる。
そんな可能性に私は気づけないでいた。――気づかないふりをした。
◇ ◇ ◇
『水守上総』が『ミルキ=ゾルディック』になったのは『ミルキ』が五歳の時だった。
――文字通り身を引き裂く程の激痛の中、上総は目覚めた。
その後言葉を発する暇など与えられず、ただひたすら《訓練》という名の拷問を受け続けた。状況が理解できないままに与えられた苦痛は筆舌に尽くしがたい。今でもその時の痛みと恐怖が忘れられないでいる。
俺が自分の立場と、今いる世界の事を理解した頃にはすっかり体が動かなくなっていた。
そんな俺を見てのんきに「あら、どうしましょう」で済ませる母親を俺は心底気持ち悪く思った。
でもそんなのはまだまだ軽い方で、ゾルディックという家の中で『水守上総』の持っていた常識なんて紙くずのようなものだった。人殺しが仕事なんてまったくもって理解に苦しむ。
それでも今まで精神を病まずに生きてこられたのは、本当に奇跡なんじゃないかと思う。
―――転生。
そんな事が現実にあるなんて思ってもいなかった。
『上総』が死んだあの日、俺は大学から帰る途中で懐かしい人を見かけた。
―――岸谷伊織。高校の時の同級生だ。
高校3年生の夏という中途半端な時期に転校してきて、中々クラスに馴染めないでいた俺に話しかけてくれたのが彼女だった。
あの学校での彼女の存在は、とても特殊なものだった。政府のエージェントやら裏社会の権力者だとか色々な憶測が飛び交い、生徒達にとっては畏怖と興味の的だった。
そんな事あるわけがないと思っていたが、彼女を間近で見た途端その噂が本当じゃないかとも思ってしまった。
途方も無い噂を信じさせるだけの《存在感》というものが彼女にはあったのだ。
だから転校したての俺にとってですら、雲の上の存在だった彼女が、俺なんかに話しかけてくるなんて思ってもみなかった。
教室で話し相手も無く一人寂しく本を読んでいた俺に、何を思ったのか彼女は話しかけてくれたんだ。
特に友人と胸を張って言えるほどは親しくなかったし、時折教室で話すくらいの関係だった。
―――俺のような何の取り得も無い一般人で、彼女と関わりがあるのはきっと俺だけだ。
そう思うと何だか嬉しかった。
彼女と時折話すようになってから、クラスメイト達からも話しかけられるようになった。
大抵は彼女に関しての質問や会話の内容などだったけれど、そんな事を繰り返しているうちにだんだんと俺はクラスに馴染んでいった。
彼女にはいくら感謝してもしたりない。彼女の些細な行動に俺は救われたのだから。
―――俺が彼女に恋心を抱いたのは、もはや当然の結果だと思う。
でも俺は今のささやかな関係を壊すのが怖くて、自分の気持ちを言い出せずにいた。
彼女からの拒絶は俺にとって最も恐ろしいものだったから。
そもそも彼女の周りには、個性豊かな才能あふれる人たちがいつも側にいたし、そうじゃない時も近づいて話しかけるなんて勇気は俺には無かった。
結局、半年という短い期間はあっという間にすぎ、行動一つ起こせないまま俺たちの進路は別れた。……気軽に学校で会える関係ではなくなってしまったのだ。
だから大学の帰り道で彼女を見つけた時、俺は思わず走り出してしまった。
何を話すかなんて考えていなかった、ただ彼女と些細な事でいいから話がしたかった。
そんな俺の思いを裏切るかのように俺と彼女の横からトラックが突っ込んできたのだから、まさに不運としか言いようがない。
―――でもトラックがぶつかる瞬間、彼女の澄んだ黒の瞳と視線が交わった気がした。
それが、上総としての最後の記憶だ。
……でも、不思議と耳に残っている声がある。
あれは幼い女の子の声だった。死にかけの意識の狭間で、はっきりと聞こえた。
一言一句覚えている。今となっては死に際の幻聴だろうと思うが、それでもこの状況との関連性は捨てきれない。
『あーあ、可哀想。巻き込まれちゃったんだ。――可哀想だから、役柄をあげる。精々塀から落ちないようにね?』
その声はそう言っていた。――あれはいったいなんだったんだろう?
日々の拷問や殺しの訓練に耐えながら、俺はずっと彼女の事を考えていた。
―――俺がこの世界にいるんだから同じ事故にあった彼女がこの世界にいてもいいのではないか? むしろそうであってほしい。そうでなきゃ嫌だ。
そうでも思わなければ、精神が壊れてしまいそうだった。
それから時が流れて、俺は人を殺す事になんの感慨も抱けなくなっていた。
……昔は罪悪感に潰れて夜も眠れなかったというのに、人の順応性には驚くべきものがある。
慣れてしまったのか、どうでもよくなってしまったのかはわからない。でも、昔の俺ではなくなってしまった事だけは分かった。
そんな風に考えて俺は自嘲した。――それはあまりにも乾いた笑いだった。
◇ ◇ ◇
俺がミルキとして過して10年が過ぎた頃、祖父から外出の誘いがあった。
もちろん仕事も含まれていたが、主の目的は知人の家を訪ねる事だそうだ。
どうやらその知人の家には俺と同年代の子供がいるらしく、あの兄貴よりも社交性が乏しい俺を心配した祖父の企みらしい。
―――余計なお世話だ。
俺をこんな風に教育したのはゾルディックの家なんだし、今更フォローなんかされても迷惑なだけだ。
そう思ったが、別に祖父の事が嫌いという訳ではないので良い孫らしく笑顔で頷いておいた。
『嘘』の表情を作る事なんて、いつもの事だったから。
そんな俺の演技なんてとうにわかっている筈なのに、何も言ってこない祖父に苛々した。
結局この人も仕事の為に俺の人格をさらに矯正したいだけで、俺の心配をしている訳じゃないんだ。アルカへの対応を考えたらそんな事すぐにわかるだろ。
何を期待してたんだ俺は。……『家族』に愛されているだなんて、馬鹿みたいだ。
あーあ。――伊織さんに会いたいなぁ。
たとえ無理だと分っていても、そう考えてしまう。そんな自分に俺は苦笑した。
◇ ◇ ◇
祖父の知人の家で『彼女』を見たとき、初めて神という存在に感謝した。
―――俺が求めてやまなかった存在、『岸谷伊織』がそこに居たのだ。
姿形は変わっていたが、俺が彼女の事を間違えるだなんてある訳がない。
その後の食事の味なんて全然わからなかった。ただ彼女の事しか頭に入って来なかった。
そして時間はあっという間に過ぎ、俺は寝室に案内されることになった。
気まずい雰囲気の食事会の後、俺は彼女に案内されて今日泊まる部屋の前へ歩いて行った。
―――何を、話せばいいのだろう?
言いたい事は山ほどあるのに、口から言葉が出てこない。
あっという間に奥にあった部屋の前について、彼女は俺の事なんか眼をくれず元の道に引き返そうとした。
嫌だ。
――このまま終わってしまうなんて、絶対に嫌だ。
「―――《伊織》さん」
気が付いたらそう声に出していた。
俺の言葉に彼女は観察をするかのような目で、何?と聞いてきた。
「やっぱり、伊織さんなんだ」
嬉しくて泣いてしまいそうだった。
感情が表に出さないように訓練されていたというのに、なんて無様。だけどこんなにも心が震えたのはいつ以来だろう。もうそれすら思い出せないというのに。
……またこんな風に感情が揺さぶられるときが来るなんて思っても居なかった。
ああ、そうだ。今彼女にとって『伊織』の事を知っている俺は、きっと不審人物に映っているんだと思う。早く誤解を解かなくては。
「俺は、水守上総。……貴方はたぶん覚えてないだろうけどね。一応伊織さんとは知り合いだったよ」
自分で言って少し悲しくなったが、俺の事なんて伊織さんにとっては大した存在じゃなかったろう。
それに10年以上経っているのに、端役にすぎなかった俺の事を覚えていてほしいだなんて、傲慢にも程がある。
「覚えてるよ。高校のクラスメイトでしょう?」
だからそう彼女が言ってくれた時、もう何も言葉に出来なかった。
情けない顔を見せたくなくて俯いてしまったけれど、彼女が不審に思わなければいいと思う。
今の彼女も、昔の彼女も、肝心な所は何一つ変わっていなかった。
そこに佇んでいるだけで感じ取れる確かなまでの強力な《存在感》、俺が見間違う筈が無い。
ずっと、貴方に会いたかった。会いたいと願っていた。
――いつかきっと会う事が出来ると信じていたかった。そうでもしなければ、俺は生きてこれなかったから。
だからこそ俺が貴方の事を見誤るなんて、ある訳ないのに。
伊織さんが俺に転生の理由を知らないかと聞いたけれど、俺にもさっぱり分からなかった。
気が付いたら拷問中だったし、事故後の記憶も曖昧だ。
「そうか。……じゃあ水守の事はなんて呼べばいい?」
言外に「いつまでも前世の呼び名を使うわけにはいかない」という彼女の意思を感じ取り、俺は『ミルキ』と呼んでほしいと答えた。
それが今の俺の名前だから。
「わかった。私の事も『伊織』じゃなく『エリス』と呼んでほしい。それが、ここでの名前だから」
彼女――エリス――の凛とした言葉に俺は頷いた。
俺にとって彼女の言葉は絶対だ。
俺は、彼女に会えたら言おうと思っていた事がある。
告白だなんてそんな大それたものではない、ただ俺は彼女の近くに居たいだけだ。
彼女は『ハンターハンター』の存在を知っている。ゾルディックが何をしているのかも分かっているはずだ。それでも彼女の瞳からは嫌悪も焦燥も浮かんでいない。
なら、俺だって彼女と友人になることくらい許されてもいいんじゃないか?
暗殺者に友達は必要ないと兄さんは言うけど、それでも俺は一人は寂しいと思う。もしも、……隣にいてくれるのが彼女なら、それより嬉しい事なんてきっと他にはない。
「――俺と、友達になってください」
心臓の音が聞こえそうな程の静寂の後、エリスは綺麗な笑顔で「此方こそ宜しく」と言ってくれた。
「私は、君と友達になれてうれしいよ」
――それは俺の方だ。
――――俺の方がずっと君に救われている。
「……うん。ありがとう」
――俺と出会ってくれて、ありがとう。
その後、色んな事をエリスと話した。
―――これがもしも夢だと言うのならば永遠に覚めなければいい。
そんな事を思ってしまうくらいに、幸せなひと時だった。
窓から差し込む朝日がこれが現実だと表していて、俺はこれがようやく自分の妄想じゃないと納得する事が出来た。
……神様。こんなにも途方もない奇跡が俺なんかに起こってもいいのだろうか。後で罰が当たったりするんじゃないかな。
ああでも、罰が当たってもいいと思えるくらいには幸せだなぁ。
別れる前にホームーコードとアドレスを交換して、とても名残惜しかったけど俺と祖父は家に帰る事になった。
――今ならあまり好きではなかったゾルディック家の事を愛せる気がする。そんな事を思った。
後書き
ずっとミルキ(偽)のターン!!
ミルキ(水守)くんは転生者で主人公の知り合いです。ある意味常識人枠。
メタ視点での通称は『ハンプティ・ダンプティ』巻き込まれちゃった子です。